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No.286 私の神癒伝道事始め 2007.6.24

私の神癒伝道事始め

 それは、1955年のことだったと思う。私はどこで手に入れたか覚えていないが、T・L・オズボーン著「キリストによる癒し」という粗末な本を手に入れた。「癒し」という言葉に魅力があった。私は読み始めた。その内容に魅せられた。私は熱中して毎週の礼拝でこの本の宣伝と講釈を始めた。
「皆さん、確かにイエス様は私たちの病気を癒して下さる方です。この本を読んでください。聖書に書いてあるとおりです。ぜひ読んでください。」

 その頃、私は大分市の中心にあった町村会館というビルの一室を借りて毎週日曜日の礼拝をしていた。会衆は15名、時には30名ほど集まる程度でした。
 その「キリストによる癒し」を信徒諸君に勧めているうちに、ある日、Nという老人があたふたと私のもとにやってきた。
「先生、奇蹟です。私のおなかの痛いのが治ったんです。」

 様子を聞くとこうだ。聞けば可笑しい、おなかが痛くなったので、ふと毎週先生の言う「キリストによる癒し」のことを思い出した。それで、やってみようと思って、あの本をおなかの上に置いて寝た。そして寝入ってしまったが、目がさめると腹痛が治っていた。と、こう言うのです。
 なんだか、偶像宗教の「おふだ」をお腹に貼っていたら病気が引いたという感じだから、吹き出しそうになった、しかし、ご当人が真剣だから笑うに笑えず、真面目な顔をして、他の信者さんたちに神癒のあらたかさを吹聴した。すると皆さんは真面目に聞いた。
           *
 ところで、次の週、その夜が祈祷会の日だった。皆さんが集まって祈祷会の準備中だった。そこへ、例のN老人の奥さんのオバアチャンが急きこんで部屋に入ってきた。私の家の6畳の間だった。
「先生、先生、神経痛が治った。おったまげた。わし、イエス様、信じます。」

 今までご主人のお腹の痛みが治ったのをせせら笑っていたオバアチャンが言うのである。
 郊外の田圃の畦道を歩いていたそうだ。突然、全身に痛みが走って倒れそうになった。神経痛だ。彼女は必死になって叫んだ。
「釘宮先生の信じるイエス・キリストの神様。この神経痛を治してください。」

 すると、左か、右か、ともかく半身がずばりと治った、しかし、残る半分が痛い。彼女はもう一度、叫んだそうだ。
「釘宮先生の信じるイエス・キリストの神様。半分だけでなく、全身をポーンと治してください。」

 そうすると、いっぺんに全身からスッキリ痛みがなくなったそうだ。
「先生、わしゃもうジイチャンを笑いません。私もイエス様を信じます。」

 と、おいおい泣くのです。その夜の祈祷会はいっぺんに燃え上がったのです。
           *
 その後、しばらくしてある女性、30代の奥さんが来て、「先生、盲腸炎ですが、キリスト様の力で治るでしょうか。」と言う。私はドキッとしたが、無理に落ち着いて「大丈夫、なおりますよ」と言った。
 くわしく聞くと、下腹部に痛みが始まって病院に行くと、2人のお医者が3べん見て、「手術をせねばいかん」という。しかし、お金がありません。(当時はまだ国民健康保険の無い頃です。手術が怖いから神様のお癒しというのではない。入院費が無いから神様のお癒しがほしいという時代です。)
 私がそのご家庭に行って見ると、奥さんは布団をしいて寝ている。枕もとに化膿どめの薬がおいてある。お腹のほうには氷嚢をあてている。その奥さんのそばに行って家族の見守る中で、まず薬と氷嚢を棄てさせた。そして私は下手な祈りをした。私はそういう時の霊的処置というか、祈り方というか、全く知らなかった。祈りの大家の祈りの現場を見たことが無かった。
 私は祈り終わると、冷や汗をかいて、そそくさと逃げるように、その場を辞して我が家へ急いだ。あのままで大丈夫だろうか。あの奥さんが死んだら、私は多分、「偽牧師、患者を殺す」とでも新聞記事になって叩かれるだろうなあ、と不安で一杯だった。私は今でもその時、恐れつつ帰った道の様子を覚えている。
 それから3日して、日曜日がきた。いつもの町村会館で礼拝をしていると、あの奥さんが飛び込んできた。そして、叫んだ。
「先生、盲腸炎が治った。一向に痛くありません。熱も無いです。日直のお医者に見てもらったら、盲腸炎は無くなっている!って言うんです。」

 さあ、礼拝の場は大騒動。私は驚喜して叫ぶ。
「みなさん、どうです。神様のお力は凄い。皆さん、病人をどんどん教会に連れてきなさい。」

 さっそく次の日に、ある信者さんが乳癌の女性を連れて来た。未信者です。私はまた、顔色を無くした。「なんで、もっと軽い風邪か、腹痛の人でも連れて来ないんだい?」
 信仰のない牧師の私は慌てます。しかし、その乳癌の女性もまた、1週間で癒されます。私はますます上気しました。
           *
 ところが、今度は私の家族です。様子が違う。ちょうど年が変わって新年になりました。「今年は神癒の年だ」とはばからず、公言していたが、なんとその正月から妻や子どもが次々に猩紅熱とか、幼女の唇がただれて溶けて行くとか、難病、奇病の連続です。
 そして今度は、これらの病気が一気には治らない。信じて忍耐して、待っているだけです。そうしているうちに、しかし次第に治って行く。
 その頃、私は既に医師も医薬品も一切拒否。だから小さい傷にも、メンソレータム一つ塗らない。風邪をひいても売薬一包も飲まない。じっと待っているだけです。人に言わせれば、まことに狂信的です。(今はそれほどではありませんが)。
 多分、自然治癒力でなおるのだろう、と理屈をつける批評家もいます。ともあれ、そういう我慢のなかで、病気は一切治って行く。そのうちに、私の家庭では病気というものは放っておけば、治るものだということになってしまいました。
 その後も、ある信者の方、足に出来たコブのために祈ると、見ている間にジュジュと音を立ててコブが消え、後に皮膚が皺になって残っていた。
 あるいは、ある未信者さんの家庭からは、「家出をしたお父さんを捜してくれないか」などと、占いの霊媒にでも持って行きそうな依頼が舞いこんだことがある。でも、祈ってあげると、お父さんがその祈った時刻にちょうど北九州の駅に行っていて、そこで心が変わって家に帰ってきた。そんな例が続々と生まれてきました。
 こうして、次第に私の内に強い信仰が固まってきました。小さかった信仰、無邪気な可愛い信仰が、積み重ねられていって、いつの間にか、しっかりした確かな信仰に固まってくるのです。
 小さい信仰でも気にせずに積み重ねてゆくうちに、強い、大きい信仰に成長していく。そこに信仰確立の法則があるようだと私は気づき始めました。
 ただ恐れるのは、そうした信仰を頂くと、傲慢になりやすいことです。働かれるのは主イエス様です。私たちは主の僕に過ぎません。私は特に小さい器です。諸先生がたの末尾に伏すものです。ただ、主様だけに栄光をささげます。
           *
 以上は、2005年8月21日の日岡だよりに載せた旧稿です。「キリストによる癒し」という冊子に触れて、私のような小さな器が次第に恐れ気もなく、神癒伝道者として自分を世にさらけだしてゆく、そのきっかけを書いたものです。
 私はまだ33歳のしろうと伝道者で、神学校も出ていない、どこの伝道団体からも援助を受けていない、風来坊みたいな男でした。特に一燈園の影響を受けていましたから、身なりも坊主あたまに古びたズボン、上着は関西で言うひっぱり、古いかすりを紺に染めて茶羽織風に着ていましたね。
  こういう土壇場に座った覚悟でいると、神様以外に怖いものは何も無くなるものです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-06-26 12:36 | 日岡だより

No.285 私の神学 2007.6.17

私の神学

 これは「私の神学」である。わざわざ「私の……」というのは、いわゆる「神学」と言えるほどのものではないからである。私が多少の本に学び、また先輩がたから受け、あるいは私自身、聖霊様の啓示を受けて(と思うのだが)、その結果、私のうちに醸成されてきた、私の小さな「神学」なのである。人様にお見せするほどの価値はありはしないが、とにかく自分のために一応文章化してみた。以下のとおりである。
           *
 キリスト教の神学として、だれでもそうだろうが私の最も気になるのは「三位一体論」と「神の予定(選び)」の神学である。これは要するに人間の論理的頭脳では、とうてい万人が納得する結論の出るものではない。だからと言って自分なりに納得できるよう、まとめてみたいのが人間の心理である。今回は「三位一体論」に限って書いてみたい。
 さて「三位一体論」だが、ベニー・ヒンの本に、こんな風に書いてあったと記憶する。簡単に書けば、「(1)父なる神が計画し、命令されたことを、(2)子なる神が実行し、(3)聖霊なる神が、それを私たちに教え、かつ当てはめてくださるのである」と。これはなかなかうまい。
 子なる神のお仕事の第一は天地の創造であった。第二の大いなるお仕事は人類の罪の贖いである。第三はご再臨と新天地の恵与である。これを計画され、命令されるのは父なる神であり、これを実行されるのは子なる神、キリスト様である。この偉大なる御業を私たちに悟らしめ信じせしめ、特に罪の赦しと贖いの結果を私たちの人格に事実として当てはめてくださるのは、実に聖霊様である。
 ところで、私が多少ベニー・ヒン師と違うのは、私はベニー・ヒン師ほど父と子と聖霊さまの三者を個体的に区別しないことである。父も子も聖霊も、個別にお三方とも体を持っておられるような形でベニー・ヒン師が語ったことがあるのを私は覚えているが、私にはそうは思えない。
 元々、「三位一体論」というが、英語では「トリニティ」で「三論」である。日本語では「三位一体論」と訳しているが、その「一体」というのは、「夫と妻は一体である」という聖書の言葉のように一体なのだと説明する。しかし、多くの方の言う「三位一体論」の実質は、実は「三体一位論」と言うべきなのではないか。
 「夫と妻」が一体であるというのは、その精神的一致をさすものであって、それぞれ夫と妻はまったく別の固体である。そういう風に父なる神と子なる神とは別の存在であるが、(心や感情や意志や霊性において)一致するという状態で「一体」であるという説明には私は同意出来ない。聖霊様が父なる神や御子と全く別個の存在として存在され、(そして心や感情や意志や霊性において)一致するというような説明は一種の循環論法的矛盾である、と私には思えるのだ。
 私はこう思う。父なる神様はこの物質的宇宙と霊的宇宙を含めて、そのすべての全体が父なる神様の体であると言えるのではないか。それをしかも内包して唯一の全き存在者、つまり「在りて有る者」であられるお方が父なる神であると私は思う。
 聖書は言う、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:8)と。その中に万物も私たちもいるのである。だからこそ「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17:28)とも聖書は言うのである。
           *
 さて御子なる神は、かつてマリヤをとおして地上に生まれてユダヤにお住みになったイエス様である。現在、イエス様は天に帰られて、そこで父なる神の中心部に居られる。中心部とは位置ではなく、神様のご意志のことである。聖書で、ステパノが「イエス様が父の右に立って居られる」光景を見たというのはそのことだと思う。
 旧約聖書にヤハゥエ(文語訳・エホバ、口語訳・主)として人の目に見えるように現れて下さる神は、しばしば新約以前のキリストなのだと私は思っている。これを先在のキリストと言おう。旧約聖書に書かれているヤハゥエの神がすべてがキリストというのではないが、アブラハムに現れたように、まざまざと目に拝見でき、かつ互いに語り、料理さえも食べてくださるヤハゥエの神様は、ガリラヤ湖のほとりで弟子たちと相語りパンや魚を食べてくださったイエス様と同じ方であったと私は思っている。
 ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とある。この「言は神と共にあった」と訳してある所は、原文に即せば「言は神に向かって(相対して)居られた」と訳したほうが適訳だろうと思う。大抵の翻訳は「共に」英語では "with" と訳してあるが、本当は英語で言うなら "for" と訳したほうが良いのではないかと私は思っている。
 つまり、御子なるキリストは真に最初(万物創造の初めの、それ以前)から父なる神と共におられ、互いに語り合って来られた言(コトバ)なる方である。その様相に最も似た存在様式が人間の霊に対する魂の関係である。「人間は神の似姿として造られている」という御言の一切の照明がここにある。
 人間の意識を内省すると、霊性ともいうべき深い意識と、外なる心とがあって、この二つが「互いに訴え弁明し合う」(ローマ2:15)関係にある。人間の意識は二重構造になっており、かつ互いに言葉をもって語り合う仲である。これが他の動物とまったく違うところである。(この人間の中心なる霊が神に背き霊的自由と高貴さを失い、愛と正義に従う意志と能力を失ったことがアダムとエバ以来の遺伝的罪の結果であり、それが真に霊の「死」である。この霊を新生させ得る方こそイエス・キリストであり、この方を信じる以外に天下に救いはない。)。
           *
 このように神様は、その内がわにおいて父としての御心と御子とが語りあっている御存在である。「語る」という機能こそ、最も人格らしい機能である。その語り合う言葉の結果、御父と御子の全く一致した思想や情緒や意志が現われ、動き始める。そこに人格としての聖霊様が在るのである。聖霊様は元来、ご自分の存在を隠すご性質があって、その存在様式や個別性をはっきりさせないところがある。それが聖霊様の謙遜なる個性である。聖霊を単なる神の感化力、影響力であるとする異端的解釈にも、同情して言えば無理のないところがある。
 以上、私の述べたところは、単一の神が三つの顕現様態を持っているとする(たとえば、「水は液体の水と固体の氷と気体の水蒸気とに姿を変えるが実体としての H₂O は一つである」と言う)のとは違う。それかと言って、三つの神に分かれてはいるが、夫と妻が一体であるというように一体である、というのでもないのである。
 とは言え、神学は己が信仰の整理のために自己形成してみるだけのことであって、神学が厳密に己が信仰を規制するものではない。他の人と互いの神学が違うからと言って、無用の論争をしたり、まして仲違いするために神学形成を試みるのではない。却ってイエス様をキリストとし、その御贖罪のわざを信じる信仰において必ず一致できるはずである。
 「いざ、父なる神を賛美せよ。子なる神を信ぜよ。聖霊の神に心を開け」。
   (1996年6月23日週報掲載 《く》)

〔あとがき〕
今回の本文は11年前のものです。「私の神学」などと大上段ふりかぶったような標題で、恥ずかしいですが、思ったままの私の信仰告白と言えるでしょうか。11年たっても、私の信仰は少しも変わっていないということの証しでもあります。当然のことながら有り難いと思います。すべては主様のご恩寵であります。▼吉田一行兄から大量の郵便切手のご献納がありました。すべて郵政省発行の記念切手でして、景色のよいもの、国際交流もの、アニメもの等、多彩であります。元郵便局員だった同兄のお得意の選別でありまして、今後の当教会よりの発送郵便物に貼付されると思いますので、お楽しみに。▼かつて私は「信仰を築き、成長させる10則」の6番に「信仰の良書を読みましょう」と書きましたが、事実、信仰の良書を読むことは大いに大切です。そこで図書の閲覧をお薦めする意図もあって、私の信仰図書はほとんど教会の図書室や閲覧台に持って来ました。しかし、「本は借りて読めばよいのだ」という安易なことにならないよう、注意して下さい。なるべく自分の本を持ちましょう。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-06-19 13:51 | 日岡だより

No.284 私の鈍感力? 2007.6.10

私の鈍感力?

 先週の大分地方の地震は、大分に住む人々はもとより、県外の方々、特に遠地の方々にも大変ご心配をおかけしたようで、心苦しかったです。
 私は特に鈍感なのか、「ほら、今揺れているでしょ」と言われるまで、もちろん余震の時だが、私は一向に感じなかったのです。
 最初の時は、ちょうど夜半の12時ごろだったが、私は椅子に腰かけて居眠りしていた。そこへ娘のせつこが来て、「お父さん、地震ですよ」と言われた時も、「へえ……?」と言うばかり。
 今回の地震は余震が何度もあるので、市民や県民の皆さんに心配をかけたらしい。私は平気というより、感じなかったのです。
 せつこに言わせれば、「お父さんは耳が遠いから、家がミシミシ音を立てるのが聞こえないので、感じないのよ」という解釈だったが、私はこれには感心した。
           *
 なるほど、周りから入ってくる雑音は恐怖感を与えることが多いということです。世間では無駄な親切心や批評も多くて、それが無用な恐怖感を与えることも多いようです。
 私も青年時代には、親族から、近所の人から、教会の信徒の皆さんからも、ご忠告があって、迷ったこと、不安になったことが幾多もありました。
 神癒伝道を始めた時など、大変でした。実は、当方も内心で恐れている初心の頃ですから、おびえてしまいます。
 そういう時には、神様のふところに飛び込むほかはありません。イエス様がおっしゃるとおり、戸を閉じて隠れたところにはいり、祈って神様のお言葉をじかに聞くまでは平安はきません。《く》


震源地を確かめよ

 ともあれ、大分は案外地震の多いところです。私が少年時代から住んでいた家は、古い信者さんは知っていますが、軒は低くて大黒柱などドッシリした古びた家でした。大正年間に父が買ったのです。
 父が土地の人から聞いた話では、100年ほど前に大きな地震があって、その直後に建てた家なので、地震に備えて、大きな材木を使い、2階などは背をかがめて歩かねばならないほど天井も低く作ってあったのでした。
 私が小学校のころ、何度か地震を経験しました。向かいの家がユッサユッサと横に揺れるのを見た覚えがあります。その時は、一家全員そろって裏にあったトタン葺きの作業小屋に寝たものです。
           *
 今回の地震は震源地は大分県中部、深さは10キロ下だとありました。大分県中部というのは誤解しやすい気象台の用語で、実は大分市、別府市などを大分県中部というのです。
 ちょうど、一年ほど前、昨年の6月11日に同じような地震が起こりました。その時は震源地は庄内町平石とあります。当教会の信徒の中尾姉のお宅の近所です。今回は、そこまで震源地を特定していませんが、注意したいのは、その時の震源地の深さは140キロでした。今回の地震の深さはわずか10キロです。
 昨年の大分地震の特徴は震度は今回よりやや強い程度ですが、その地震の範囲は遠く岡山や四国の今治あたりまで及んでいたということす。
 今回の地震はわずか大分市、別府市にとどまっています。これは、もちろん震源地の深さによるのでしょう。震源地は140キロにもなれば、その震動は中国、四国に及ぶ。震源地が僅か10キロだと、揺れたのは大分市と別府市だけ、ということです。
           *
 さて、御言葉を開きます。エペソ人への手紙第4章23、24節です。
  「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とを
  そなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」
 この翻訳は口語文のほうですが、「心の深みまで」という個所を、新改訳では「心の霊において」と訳しています。これは新改訳のほうが正確です。
 私はしばしば人の内部構造を同心円の3層図に描いて、外側から「肉、心(魂)、霊」と言うように説明します(第一テサロニケ5:23参照)。その意味でも「心の深み」という表現は適切だと思います。
 多くの場合、人の罪は肉で行われます。この場合、肉という言葉は「体」を指し、「肉性」をも指します。体と肉性をつなぐものが「言葉」です。
 人の魂の奥において、罪をいだく場合は、まだ感性的であって、意識化されていません。意識化されると、それは言葉になります。
 心の中で「あいつを殺してやろう」と思いが言葉として明確化されると、それは次の計画や行動決心を呼び起こします。そしてついに罪の思いが現実化するのです。
 この罪を起こす震源地こそ、深い深い、キリスト教の教理で言えば、原罪です。人間の始祖が神の前に犯した罪、つまりアダムが神のお言葉に背いた罪、その罪の性質が遺伝的に、その後の人類一般に染みついている。それから逃れ得る者は一人も無いのです。
 まことに人間の側からみれば、「それは不条理です」と言いたくもなるが、また人間の真実な自覚として承認せざるを得ない実感がある。
 つまり、太宰治でないが「生まれてきてすみません」というやつだ。
           *
 この人間の罪の震源地に突っ込んで、この罪の原点を爆破しようとする方がキリストです。
 最近、新聞で戦争中の魚雷艇の解説記事を読んだ。これは飛行機によるカミカゼ特攻の水中版である。魚雷という戦艦に向かって発射するスクリューつきの爆弾がある。その魚雷に人間が乗って人間魚雷となって敵艦に突き込む、戦死必至の兵器である。
 こうした兵器を日本人ならやるだろうと、大正のころには既にドイツあたりでは、大衆雑誌のキワもの記事になっていたこともあったそうだ。
 この人間魚雷、戦争の当時、「回天」と呼んだそうだが、この人間魚雷に志願した若者たちの記事が最近の「産経」に連載されていた。
 故国を守るために、一身の命を献げて、この作戦に参加しよう。まったくの愛国の犠牲精神であるが、こうした犠牲精神は人間だけのものであろう。動物でも子を守ろうとして身を投じる親は時に無いことは無いが、しかし人間のようにこれは犠牲だとの意識を持って死地に赴くものはいない。人間は本能的に死を恐れないのではない。意志的に死を恐れず、身を献げるのである。
 こういう犠牲精神は人間特有である。そして、これこそ神の形に造られた人間の持って生まれた特有の精神である。キリストの精神である。
 人間は恐怖心、自己保存本能、いろんなものに災いされて、この自己犠牲本能はしばしば薄れやすいし、また砕かれ、喪失しやすい。しかし又、この性質の顕現を美わしく思い、尊敬し、これを称えます。
 これを物語として聞くだけなら、涙を流して感動する。この該当者になることは決して好きではないが、しかし、祖国のため、また同族のため、いや実は自分の信じる信仰のためには喜んで死ぬ。そういう殉教者は歴代のキリスト教史に数多く、現れています。
 そして、何よりもイエス様ご自身、人類の罪のあがないのため、犠牲の死を十字架上で遂げられたのである。
 愛する御子を十字架上に見殺しにする神様の愛こそ、この最大の犠牲の原点である。霊的宇宙のすべての基本土台はこの神様の愛である。この父なる神の愛を褒めたたえましょう。《く》

〔あとがき〕
最近、いささか体得した実践的信仰の秘訣の一つは「反復告白」です。あなたの獲得したい目標を簡単な言葉にまとめ、それを連呼するのです。世の中の人でも、たとえば全国最高納税者の銀座の斎藤ひとりさん、なんでも千返、言葉にして口で言いなさい、必ず、獲得できると言われる。「千返?」とびっくりなさる方に、早速手に持ってカチカチと数を数える、あの数取り機を買って来て実行なさるようお勧めします。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-06-12 11:13 | 日岡だより

No.283 真の平和主義者 2007.6.3

真の平和主義者

 先週6月1日の大分合同新聞の3頁に「同盟の旋律」という意味不明の標題の連載記事があった。最近は「改憲プログラム第一部」という副題もついているが、その日の記事の初めのほうにちょっとしたエピソードが載っていた。こうだ……、
 元法相の左藤恵さんが自分の父親のことを言っている。父親というのは、かつての防衛庁長官の左藤義詮であるが、
「おやじは寺の住職で、平和主義者だった。戦争に行ったけど、爆撃機(飛行機のこと)に驚いて逃げるような人だった」と。
 この新聞の記事を読んで、私は思わず笑い出してしまった。戦争に行って爆撃機のプロペラの音に驚いて逃げ出すような人を平和主義者とは言わない。チャンチャラ可笑しい。
 卑怯者とは言わないまでも、臆病者である。真の平和主義者は鉄砲の前でも、恐れない。素手で鉄砲の前に出てゆける人である。
           *
 ガンジーは非暴力無抵抗主義を標榜した人だったが、こう言っている。
「私は祖国に侵入する敵軍の前で、卑怯の故に銃を取って迎えることの出来ないような者であるよりは、敢然として銃を取って大軍の前に撃って出るような勇気のある者でありたい」と。
 そうした気概を持っているにもかかわらず、同胞の人々から「卑怯者、非国民」と罵られながらも、銃を捨てて白旗を掲げて敵の軍勢に入って行き、平和交渉をしようとする真の勇気を持つ者、そういう人になりたいと思う者は居ないか。
 ガンジーはそれを問うのである。それこそ本当の愛国者、本当の勇気ある人だと言うのである。《く》


大分市福祉事業の神話時代

 次頁に載せた塔鼻さんの大分合同新聞「灯」欄の寄稿は、よく簡単に整って書かれていて有り難い。塔鼻さんは私の聾学校時代の同僚で、いつまでも私を親しく思ってくれる畏友である。
 先日お訪ねくださったので、私の過去のことをいろいろ話していたら、興味を持たれて、手際良く書いてくださった。
 私は戦争中、兵役法違反で福岡刑務所に入獄し、昭和20年1月に出所した。近所の人たちは好奇の眼で私を迎えた。そのことに母は気を使ったが、私は平気だった。先年の11月に聖霊による回心をしていた私は世間の目が気にならなかった。職業のほうは、徴用に引っ張られぬよう日本通運に就職できた。これは親替わりの従兄・内藤利兵衛と日本通運大分支店長安藤さんのお蔭だった。
 この日本通運にいたお陰で、私は大分駅の構内に出入りするのは自由だった。戦争が終わり、その翌年、昭和21年の夏の頃になると、戦災孤児が大分駅周辺に集まって来始めた。私は駅に出入りが簡単なので孤児たちと親しくなるのが、早かった。
 当時の孤児の諸君は野武士みたいなもので、生活力旺盛、屈託もないし、元気だった。食うべきメシは駅の待合室で旅客の間を縫ってまわって「オッチャン、メシ頂戴」と貰ってまわる。もっとも、そういう実態を私は最初知らないから、母にお握りを作ってもらって持って行った。
 当時はお米は配給制だったから、そのお米でお握りを作って戦災孤児に食べさせれば、私たちの方は食べるものが無くなってしまう。母は、「お前、私たちの食いぶちはどうするんだい」と言うわけだ。私は簡単に、「母ちゃん、僕らは餓え死にしよう」と言った。
 「え、餓え死?」。私は答えた。「マッカーサーの言うことでは、今の日本国内の食料事情では、百万人は餓死するだろうって。今、日本のクリスチャンは100万人いる。この100万人餓死必至の食料事情の中では、ちょうどよい。日本中のクリスチャンが先にたって餓え死にすれば良い。神様は僕らに無駄死はさせないよ、日本に必ずリバイバルが来る。そこで、まず魁より始めよだ。僕んとこが、親子で死のう、母ちゃん」。
 母は、「やれ、やれ。またこの息子はタイヘンな事を言う。ともあれ、お握りを作ってやるか」。母は戦争中に一人息子を刑務所にやって、無慈悲な世間に堪えた人だ、そんな息子の乱暴な言い分にもへこたれない、神様がなんとか守ってくれることを信じていた。
               *
 さて母に作って貰った、言わば命がけのお握りなのだが、孤児たちは喜んだ。あれこれとお裾分けで駅の待ち合い客から貰ったご飯もおいしいが、この兄ちゃんから貰う重箱入りのお握りには嬉しかったらしい。自分たちの今は亡き母親たちから作ってもらった運動会や遠足の弁当を思い出すのであろう。
 実は、そこでいつも毎日残飯を貰いにいっていた進駐軍のキャンプの炊事軍曹から、その翌日聞かれた。「昨日、どうして来なかったのか」「うん、ある兄ちゃんがおいしい日本の握り飯を持って来てくれたので、それを食べた。ひさしぶりでおいしかった」「それは、どこの青年か」「うん、大分の町の中だよ。お母さんと二人だけらしい」。
 どうして私の家のことを彼らが知っているのか、不思議だったが、それはともかく。その炊事軍曹、手もとのアメリカ軍のぜいたくな食糧を取って、子どもたちにやった。「これをその青年親子に持ってゆけ」。
 その日の10時ごろ、子どもたちが私の家の前に来た。「センセーイ、センセーイ」。私は初めての先生呼ばわりにビックリして外を見ると、そのパンや肉の揚げたのを持っている子どもたち、「センセイ、これ、進駐軍のヘイタイさんから」という。
 こうして、一度は餓死する覚悟だった私たちは、アメリカ軍の食糧と子どもたちの運搬で養われることになる。この食糧は豊富だったので、世話になった人たちにもお裾分けも出来た。
 そして後で思ったことだ、もしこの時、最初の覚悟を忘れずに、本当に餓死しておれば、日本に早くもあの時、リバイバルが来たはずだったのに、という後悔だった。少々、思い上がりかなあ。とにかく、奇蹟的な食糧危機脱出に、餓死の覚悟そっちのけで、喜んでしまった愚かさを悔やんだ、ずっと後日のことであったが。
 こうして、この孤児たちと防空壕などで共同生活が始まる。しばしば母親は家の方にほったらかしであった。
 これが大分市における戦災孤児救済事業の始まりで、今の言葉で言えば全くのボランティア、市や県の記録には何も載っていない神話時代である。
 その頃、大分市の厚生課の清水さんだったか、私の噂を聞いて私に連絡をとろうと苦心していたことを後で聞いた。私が役所の助けの必要を考え始めたのは秋が来て、冬の寒さをしのぐために、やはり家がほしいなあ、と気が着いたからである。
 大分市の木下市長や立木課長の手配で上野寮、僕らの愛称ではリトル&メリー・ハウスが出来たのは、間もなくであった。
               *
 そして、私はぼつぼつ次の段階は専門の社会事業家に譲ろう。私はいよいよ伝道戦線だと、思いをひそめ始めていた。赤い羽運動が起こり、福祉事業に意欲を持つ人々も好機至れりと思う時代になっていた。ボランティアと言えば、格好いいが、好き勝手に気ままにやってきた私には、気づまりを感じる時代になりそうであった。《く》

【新聞記事】灯
「日岡の牧師」塔鼻勝人
大分市日岡に「キリストの福音大分教会」という単立の教会がある。壁にはこの教会の系譜と個性を物語るかのように、無教会主義者・内村鑑三の「禁酒非戦」という額がかけてある。
牧師は釘宮義人氏。私とは五十年来の知己である。先日、牧師の伯父・釘宮徳太郎氏が出版していた、月刊雑誌・復活を送っていただいた。
発行所は大分市大道町峠。昭和八年十月に発行された第百七十九号は、キリスト教関係の出版物で、内務省検閲により発行禁止処分となった第一号であった。
父親もプロテスタント。牧師は戦時中、徴兵令に反抗、裁判にかけられ兵役法違反等で懲役刑に服した。稀有なことである。
この時、無教会派の信仰者だった弁護士・加藤虎之丞氏が弁護をしてくれた。当時の苦悩は大きかったが、内村鑑三の「世の風潮が正しくないと思ったら、それに抗して生きよ!」という教えを実践した。
敗戦直後は大分駅周辺にいた戦災孤児に食物を提供。食料がない時は、農家の便所掃除をしながらもらい歩き、子供たちに与えた。
やがて、木下都大分市長、立木勝課長に直訴、戦災孤児施設上野寮(メリーハウス)を開設。その後も遍歴を重ね、昭和五十年秋から伝道に専念した。
釘宮牧師には聖と俗、土着性と普遍性が複雑に同居。しかし、頭頂から体幹にかけて、キリストの教えが、まるで鉄串(くし)のように突き刺さっている。今年八十五歳。老牧師は青年のように魂をふるわせながら、神の愛を説き続けている。
新約聖書の「ガラテヤ人への手紙」のある一節が最も好きだという。
(団体役員・大分市)




〔あとがき〕
私は毎朝、散歩に出る。その前に早天祈祷の時間が、たいてい1時間半である。早く起きると、時には祈祷も3時間に及ぶが、残念ながら滅多にはそうはならない。散歩は長い間、1時間で済ませていたが、最近は同じコースが45分で済むようになった。足早になったのであろう。▼散歩は祈りの訓練に良いので、皆さんにもお薦めしたい。永井先生は歩行祈祷として長い間実行しておられる。私も実は永井先生に倣って、この祈りの散歩を始めたのである。早天祈祷に引き続き、すぐ散歩に出るわけだから、必然的に祈祷の心の状態でそのまま外に出られる。▼祈祷と言っても、冥想に近いだろうと思う。決してヨガ行者が行うような冥想ではないが、一種の「空」の状態になることが多い。日本人の好きな般若心経ではないが、「一切皆空」という感じである。▼賛美歌355番の「主を仰ぎ見れば古きわれは、うつし世と共に速(と)く去りゆき、我ならぬわれのあらわれきて、見ずや天地(あめつち)のあらたまれる」という境地と言えようか。▼昔からウツ病の人が毎朝の散歩で癒されることは、お医者さんの中でも知られていた。理屈抜きの経験智であるが、私は私なりのしろうと理論を持っている。それはともあれ、みなさん、信仰の成長のためにも、散歩祈祷をお薦めします。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-06-05 13:59 | 日岡だより