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No.277 スピリチュアルな健康について 2007.4.22

スピリチュアルな健康について

 先々週の本紙の最後の(あとがき)で、大分ゆふみ病院々長の山岡憲夫先生の講演にちょっとふれました。非常に綿密な講演でしたので、私も大いに教えられるところがありました。
 特に「スピリチュアルな健康」というテーマがかなり繰り返し語られましたので、牧師としての私は避けがたい関心を抱かされたのでした。
 最近、「スピリチュアル」というタイトルが、時おり新聞に出版広告がでます。世間でも関心が持たれているようです。
 また、多少とも危険を感じます。カルト的宗教の影響も推察できますし、興味本位で近づく人たちの安全を考えて警告を発したくなるのでもあります。
 「スピリチュアルな健康」とは、どんなことでしょうか。これは本当の健康とは何かということを考えるのに、非常によい取りかかり拠点であります。
           *
 さて私のことを書きます。私は今、非常に健康です。私は毎朝、一時間の散歩をしていますが、「先生、それ、先生の健康法ですか」と聞かれることもあります。私はそういう質問に必ず答えます。
「いいえ、違います。健康法ではありません。私は健康だからこそ、喜んで一時間、毎朝歩けるのですよ。これは実は、歩行祈祷でしてね、祈りながら歩いているのですよ。」
「へえ、先生。歩きながらでも、お祈り出来るんですか。」
「そうですね。歩きながら祈るのは、その付近のご家庭、一軒一軒、ご祝福を祈り、町や部落の安全、平和、神様のご祝福を祈って廻る趣旨でもありますが。また私自身のための祈りの訓練でもあります。」
「わあ、歩きながら祈るなんて、祈りにくいでしょうに、それが祈りの訓練になるのですか。」
「まさに、そうです。祈りの訓練なのです。人間はしょっちゅう、何かしておらねばなりません。祈るためにただ座っているというだけでは、地上で生きて働いている一般の社会の人々のためには、よい見本になりません。私は体を動かし、働いている人間として、ほら、働くという漢字は動くという字に人偏でしょ。そのように動いて働いている人々が日中働いている姿のままで、祈ることが出来るし、それが非常に恵みなのだということを立証したいのですよ。私に、それが完全に出来ているとは夢にも思いませんが、その願いをもって歩行祈祷の自己訓練しているわけなのです。」
           *
 人間が肉体行動をしながら、何かを考え、冥想し、祈るなどということでは、実は歩く姿勢が一番好都合なのです。ただ座って沈思黙考するというよりは、歩きながらのほうが精神的に能率的であることは、多くの哲学者が身をもって体得しています。京都の「哲学の小道」など良い例です。
 こうして、次第に「肉体行動をしつつ祈る」ことを覚える。この営みが、日常生活において、どんな時にも祈れる人になる、その準備の訓練として歩行祈祷が最適だと、私は思っているのです。
 そして、初心者においては、座臥祈祷よりも歩行祈祷のほうが、祈祷の深い境地に入りやすい。そんなことから歩行祈祷を実行しているのですが、その深い祈りとは、意識が魂より更に深い深層意識に入って行き、私の用語に従えば、更に深い神層意識に降りて行くということです。そこが神様とのコンタクトを取れるチャンネルでもあります。
 そのあたりから湧き上がってくる「いのちの泉」、それこそキリストの血潮であります。それこそ人間の元気の元であります。健康の元であります。これをスピリチュアルな健康と言いましょうか。
 最近、スピリチュアルな健康という言葉が医学界でも言われ始めていますのは冒頭の山岡先生の例で分かりますが、WHO(世界保健機構)でも取り上げているそうであります。《く》


油断することなくあなたの心を守れ

  「油断することなく、あなたの心を守れ、
   命の泉は、これから流れ出るからである。」(旧約聖書箴言第4章23節)

 以上の項に書きました「スピリチュアルな健康」という言葉ですが、医師の方々によれば、スピリチュアルという言葉は「精神的な、心の、宗教的な、信仰で与えられる、来世を目ざした」というように説明されるようであります。
 それで悪いとは言いませんが、牧師としては、やや物足りません。私どもに言わせてほしいところを叙上に書いたのでありますが、それに更につけ加えて以下のように書き足したいと思います。
 肝心なことは「心」という言葉の理解にあります。心は聖書的に言えば意識の表面的な場所にあります。先の文章の最後のほうで、「意識が魂より更に深い深層意識に入って行き、更に深い神層意識に降りて行き」などと書いてあるところです。
 これは私なりのしろうと用語であります。聖書では霊と魂を区別していますが、私はそれ以上に魂と心を区別します。
 心が言わゆる表面意識であり、魂が心理学でいう潜在意識であるとします。私は、潜在意識を更に掘り下げて深層意識、深層意識を更にもっと掘り下げて神層意識と言っているのであります。
 これは今の学会で認められている名称ではありませんから、世間的な権威はありません。私だけの私の説です。ご了承ください。
 前に述べた「いのちの泉」は、私の説に従えば、神層意識から湧きあがってきます。そして深層意識と潜在意識、この2つをまとめて、これが聖書で言う「魂」であると私は説明していますが、この深層意識、潜在意識を上昇して行くと、心に達します。
 この心から、いのちの泉が溢れ出るのです。それがこの項の最初に引用した箴言4章23節の聖句です。
           *
 命の泉、これこそスピリチュアルな健康の泉であります。このスピリチュアルな泉の溢れ出る出口が心でありまして、しかもそれは言葉を道具として溢れ出て行くのです。
 主イエス様のお言葉に、「心からあふれることを、口が語るものである」(マタイ12:34、ほか)とある、それです。
 だから、心を清めないと、その汚れた心が命の泉に流れ込んでくるのです。谷川のきれいな水に、泥の水が混じり込むようなものです。
 一旦、泥水の入った流れにも、もし新しい大きな河の水が流れ込んでくるならば、水は一変します。清い川に変わります。
 しかし、キリストの御血潮はもっと根底的に人の悲しむべき汚れた心を変えます。化学薬品で液体の色も性質をも変えてしまう実験がありますように。
 これを劇的に体験させて下さるのが、ペンコステの聖霊体験です。イエス様の十字架を信じて義とされる義認の信仰に更に増し加えて、ペンテコステの信仰をすべてのクリスチャンに期待したいのです。

〔あとがき〕
最近、スピリチュアリティという言葉は一つの流行語のようですね。それがキリスト教界にも逆輸入されている感じです。超ペンテコステ派的な雑誌「ちから」誌の5月号に、今回は「特集」と表紙に銘を打って、「ペンテコステ、キリスト教のスピリチュアリティ」とありましたよ。▼私はテレビを殆ど見ない。ところが、この文章を書いている今、テレビでちょうど美輪ナントカ女史と江原ナントカ先生とのそれこそスピリチュアリティ対談。「ああ、これかい」、と私はヒザをたたいたが、テレビ・オンチで世間知らずの私は今更のように気がついた次第。▼先の「ちから」誌では、「世界にはばたくペンテコステ教会」という奥山実先生の主軸論文も載っていました。世界的に驚異的に成長している教会はペンテコステ派の教会だけだという嬉しい報告でありました。皆さんにぜひ読んで頂きたいです。▼スピリチュアリティの本家はキリスト教会である。その開花はペンテコステ事件であった。このペンテコステこそ、世界のちまたのスピリチュアリティを席巻する。▼私どもの教会も、あらためてペンテコステの霊的経験を振り返りましょう。この経験が軟化していないか。ペラペラ口慣れてしまって異言らしきもので、自分をごまかしていないか。▼燃えあがる力ある異言を語ろう。更に異言を解く賜物をも主に求めよう。私たちは火を求めよう。ワッハッハハと笑ってばかりいないで、火を求めよう。▼かくて、我ら、人格転換、能力百倍、品性純化、家庭天国、教会軍隊、日本は楽園、天皇様は世界一のクリスチャンに! 祈ろう! 《く》
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by hioka-wahaha | 2007-04-24 11:57 | 日岡だより

No.276 100倍の収穫を求めよ 2007.4.15

100倍の収穫を求めよ

 先週、永井先生と、同行して拡大宣教学院の谷後先生も見えられた。さっそく、12日の木曜祈祷会にご同席願って、ご奨励をいただいたが、そこでまず立たれたのが谷後先生。
 私は思ってもいなかったが、谷後先生が案外にユーモラスで長口舌。しかも、その前にハーモニカを口にあてて、なんと昔の流行歌を数曲演奏された。
 そこで、私も「ワッハッハ」と笑って、しゃしゃり出た。先生からもう一つハーモニカを借りて、私なりに先生の曲に合わせた。驚いたことに私のハーモニカがどうにか唄に合っているのだ。
 少年時代、私もよくハーモニカを吹いたが、しかしもう70年以上、口にあてていない。出来るかしらと、こわごわやってみたら、どうにか音が出るのだ、驚いた。雀百まで踊りを忘れず、というが、幼い時に覚えたことは忘れない。
 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と聖書にあるとおりだ(伝道の書12:1)。子どもは幼い時から教会の礼拝に連れて来なさい。「牧師の難しい説教も、子どもは耳で聞かず、毛穴で聞いているよ」と、昔は私もよく言ったものだ。
           *
 さて続くは、永井先生のメッセージ。テキストは創世記26章12節、「イサクはその地に種をまいて、その年に100倍の収穫を得た」。
 私はこの聖句個所は好きなところではあるが、先生のお話を聞いているうちに、私はびっくりしてしまった。私は牧師としてよく知っている個所であり、何度か説教もしてきた。しかし、永井先生のお話には唖然としたのである。
 私はいつも、ここの記事をこういう話で始める。「皆さん、ユダヤや、近くの中近東の農業は粗放農業です。ですからイエス様の喩話では『農夫が種を撒くと、ある種は道に、ある種は茨の中に、ある種は石地に落ちた』とあるでしょう。
 ミレーの種まきの絵もそのように見えますが、随分乱暴です。種がどこに落ちるか、一向気にしていない。日本の農業はそうではない。麦などは条撒きですが、稲に至っては、まず苗しろを造り、それを糸をはったりして並んでキチンと苗を植えます。
 そこで、『米という文字を分解すれば八十八となるだろ? そこで稲には八十八粒のお米ができるのだ。つまり八十八倍の実だよ』などと私たちは昔の小学校では習って来たものです。
 だからイエス様の種まきの教えでは、「一粒の種は30十倍、60倍、100倍の実を結ぶ」、とおっしゃって、伝道の大切さをお教えくださったのです。
 ところで実は、その頃の粗放農業では30倍か、よく出来て60倍がやっとだったのでしょう。ところでイエス様はあなたがたの伝道の実は30倍などではないよ、60倍どころか100倍にもなるんだよと、お教え下さったのだと私は説明したものです。
           *
 私はだからイサクの100倍収穫も、この比喩の倍率で話していました。ところが永井先生は本当に普段の平均作の100倍の収穫があったよ、とおっしゃるのです。私にはそれが奇抜な説明に思えて本当にビックリしました。
 そのうちに永井先生の説話はどんどん拡大します。それこそ拡大宣教学院! 「みなさん、100倍の収穫を求めましょう。みなさんのお仕事でも、伝道でも、何事にも、100倍の収穫を求めましょう。」
 私は呆然としましたね。実は私の事務室の机上には私の告白メモが飾られています。去年、書いたものです。「10年して2016年には、キリストの福音大分教会の信徒は千名になる」と。私は少々大げさだと思って、どこか恥ずかしい思いでそのメモを見ていましたが、この永井先生のお勧めに従えば、そうです。「信徒の数は3千名」とすべきでした。
 私はさすがに、肝をつぶしたとは言いませんが、まさに驚嘆しましたね。私は永井先生が次々と開拓され、あるいは拡大宣教学院の建設や、今回の鳥栖の新会堂取得等、こうしたところに見られる先生の100倍収穫意識が分かるような気がしてきました。
           *
 今、私は日本宣教の夢を心に抱いています。ある先生に、私は手束先生の言われる日本民族総福音化についての破天荒なアイデアを持っています、などと気を持たせて、まだその内容は公開していませんが、決して、私がそれを出来るとは言えません。
 しかし、どなたかがやってくれたら必ず成功する破天荒なアイデアです、と言っていますが、ともかく試算して見ました。現在の日本のクリスチャン人口は100万です。これは実は恥ずかしい数字でして、戦前から日本のクリスチャン人口は100万でした。
 それが、あの戦後のキリスト教伝道最好機をとおりぬけ、今日のこのナンデモ宣伝は気楽にできる自由化時代になっても日本のクリスチャン人口は相変わらず100万人です。ああ、なんという悲惨な数字。
 しかし、嘆いて自らを幾ら罵倒しても、何も生まれません。祈りましょう。100万の信者を拡大して、100倍にしたら、幾らになりますか。一億です。日本の総人口なんですよ、思っただけで、痛快です。
 いのちのことば社の福音雑誌、なんとそのネーミングが「百万人の福音」、かつて私は気の小さい名前だなあと、けなしたこともありましたが、今は撤回。「百万人の福音」でよろしい、これを100倍にするのだ。イサクの収穫。今こそ、日本に実れ。
           *
(以下新聞記事抜粋)
県立歴史博物館で「大友宗麟とペトロ岐部の生涯を紹介」する企画展が始まるという内容の記事より
「・・・・・・ペトロ岐部のコーナーでは、その生涯を紹介。岐部は国見の生まれ。江戸幕府の禁教令を受け海を渡る。ローマで司祭となりイエズス会の入会が許されるが、キリスト教弾圧が強まる日本に戻る。布教活動を続けたが仙台領で捕らえられ、拷問の末に殉教した。・・・・・・」

           *
 前頁の新聞記事は昨日の大分合同新聞からですが、特にペテロ岐部神父の遠大なる宣教姿勢はどうです。今日の礼拝説教題は「向こう岸へ渡ろう」ですが、向こう岸も、向こう岸。当時の江戸幕府の禁教令を物ともせず、万里の波頭を乗り越えてローマに渡り、更に殉教覚悟で日本に帰ってくるなど、並の意志力ではありません。
 これこそ聖霊様に励まされ、100倍の困難をも踏破した宣教師魂です。私たちも真似しましょう。《く》

〔あとがき〕
昨日(4月14日)、コンパル・ホールで「大分・生と死を考える会」例会があり、会長の山岡憲夫先生の講演を聞かせて頂いた。山岡憲夫先生は大分ゆふみ病院の院長さんである。大分ゆふみ病院と言えば、故・原田光子姉が入院していた病院である。▼この病院に初めて伺った時の印象は忘れられない。院内の雰囲気がまったく平安、清楚。外廻りに庭園に温かい草花、嬉しい曲線を描く小道、心が静められるのに驚いたことであった。▼昨日の例会では、私もちょっとカウンセリングのご加勢を山岡先生からご指示受けたが、まったく不調和で大変申し訳なかった。私は教会内部の信者向けの圧倒的カウンセリングに慣れていて、一般の方々に対する、じっと聞いてあげる親切なカウンセリングを知らなかったことに気づかせて頂いた。▼昨日、教会の会堂内部では床貼りの工事等、あわただしく、来合わせた兄弟たちの片付け奉仕で、やっと完了。感謝です。一泊聖会も近い。ご恩寵を祈ります。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-04-17 16:19 | 日岡だより

No.275 キリスト者の愛国心 2007.4.8

キリスト者の愛国心

 キリスト教は外国の宗教である。だからキリスト信徒は外国かぶれである。彼らには愛国心なんか、あるはずはない、などと思っている人もあるかもしれない。
 もっとも敗戦後の日本では、自らの祖国を見下げて、これをバカにするのがカッコよいと思っている人たちもいるかもしれないが、本当のクリスチャンはそうではない。クリスチャンこそ、本当の自分の国を愛するのである。
 日本のクリスチャンで有名な愛国者をあげると、世間で知っているのは、まず新渡戸稲造だろう。彼が「武士道」という本を書いて、アメリカのルーズベルト大統領を感激させたのは有名である。「私はアメリカと日本を結ぶ太平洋の橋になりたい」と言ったのも彼であった。
 内村鑑三こそ、またその一人である。彼は二つのJと言った。第一は Jesus 、その第二は Japan であった。二つともJの字をもって始まる、この二つの名のために命を献げたいと内村先生は念願した。
           *
 こうしたことは、明治のキリスト者(敢えてクリスチャンと言わない)たちの特長であった。同志社を作った新島譲にしろ、日本基督教会の初期の大立て者、植村正久にしろ、彼らは皆、明治維新以後の大変革期の日本を救うものはキリスト教以外にないと信じたのである。
 内村先生は言う。「私どもは日本を棄てて、ひとり自分だけが救われようとは思いません。パウロも言うとおり、『わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない』(ローマ9:3)のです」と。
 私も声を大にして言いたい。
「わが母なる国、日本を愛す」と。《く》


絶対非戦主義の提唱

 私が「絶対非戦主義」を提唱するのは、私が本当に日本の国を愛するからである。私は衷心から、わが母国日本を愛する。だから、私のキリスト教的倫理水準に従って、日本の国を戦争という罪に堕落させたくないのである。
 旧約聖書時代のヘブル人たちは異邦人国家にたいしては無類の武者ぶりを発揮して戦争した。しかし、同胞内においては、ずいぶんとお人よしであった。つまり金を貸しても利子を取らなかった。蒲団を質物に取っても、夜には寒いだろうと返してやった。
 麦を刈っても、落ち穂はないかと振り返ってみなかった。貧しい人たちのために残しておいたのです。葡萄の実でも、いちじくの実でも、そうした。
 イエス様は仰せられた。「あなたがたは、人にしてほしいことを、人にしてあげなさい」。孔子の「人にしてほしくないことを人に向かってしてはいけない」という言葉以上の言葉である。
 それにしても孔子の言葉は正しい。外国から冷たくされたくないのなら、こちらから冷たくはしないのです。そして外国から仲よくされたいなら、イエス様のおっしゃるとおり、まず自分の国のほうから友好の態度を以って、交流や貿易など相手国に有利な条件を用意して、こちらから出かけてゆくのです。
 「絶対非戦主義って、敵国が攻め込んで来たら、何もせず、無抵抗に攻撃され、破壊され、殺されるんですか、そんなの絶対イヤです」という人たちは多いでしょう。私だってイヤです。ですから、
 私も言うのです。攻撃されるなんて私も絶対イヤですよ。だから、攻撃されそうな気配が起こる前に、友好的態度で対話を求めるのです。対話ということでは私は創価学会の池田さんに学ぶこと、大です。
 池田さんは言います。対話の時、「小異を捨てて大同につく」というのではなく、「小異を残して大同につくのですと」。これには私も感心しました。
 とは言え、「大異が残ったらどうしますか」という疑問が起こります。その時には、止むを得ません。大譲歩しましょう。これが私の思い切った意見です。
 「領土をよこせ」と言われれば領土をあげます。軍隊を進駐させると言えば、「さあどうぞ」と軍隊を国内に迎え入れます。まるで敗戦、悲惨の極。ここで、皆さんはギョッとして言うでしょう。
 「そんなこと、あんまりです。極論です。非常識です。それでよいのですか。国内に反乱が起こりませんか。クーデターが起こらないのですか」と。
 「ハイ、そうです。クーデターを起こすような武器も戦闘意欲も国民にないからです」。
           *
 「えっ。そんな腰抜けな国民になっているのですか。いや、そうでしょうね。非戦主義で一番心配なのは、国中がみんなそんな腰抜けになってしまうということ、それが必定だからです」。こういう反応が多く出ると思います。
 しかし、違うのです。トルストイの「イワンの馬鹿」に出てくるような、大のお人よしの国民たちとも違います。もっと剛毅な平和主義の人民たちです。
 もしも通常でしたら、政府が最初、「領土はどうぞ、進駐も良いですよ。日本銀行もお宅で管理してください。JRもテレビも、労働組合の管理もお宅に任せます」。そんなことを言い出した時から、とっくに政府攻撃、ストライキ、棍棒を持ってでもクーデターが起こるでしょう。
 ところが違うのです。その時の国民諸君は徹底した友好姿勢と善意で、相手国の出先や幹部級の人々に接します。そういう一般国民の必然的平和的態度は相手国には情報収集で前々からよく分かっています。
 彼らもこれに対しては、どうもやりにくいのです。最初の会議の時から、すでに相手国はこの国民の友好的雰囲気というか、民衆の平和意識は却って手強いぞという一種の不安感を抱いていますから。
 実は、国と国の戦いというものは、最後には武器や戦力や金や産業力では決着つかない。その文化的、倫理的民度が力の差になるのです。
 ソ連の兵隊がドイツに進駐した時、ドイツの文化、科学の力に目を見はりました。また彼らが多分あなどっていたであろう満州の日本軍や日本人市民に接した時、下級軍人や一般市民さえ持っている腕時計にびっくりし、そして強奪したりしました。しかし、強奪したもののソ連の兵隊のほうが、負けている日本人に心では位負けしていたはずです。
 敗戦後の日本に来たソ連の人たちが、関門トンネルを見て、「これはアメリカ人が作ったんだろう」と言いました。「いいえ、日本人が作ったのです」、こう答えた時、ソ連の人たちは声を失いました。
 過去の歴史上、中国はいつも負けて勝ちました。侵入してくる外敵に対しては常に負けていましたが、勝ち誇って入ってきた敵民族は、いつしか中国の土地と民衆になじんでしまい、最後にはみんな中国人に同化してしまうのです。
 どんな時にも剛毅な平和心を持って迎えるならば、私たちは世界のいかなる勢力にもおびえることはないのです。キリストの平和をもって万事に勝つことが出来ます。
 日本の政府がもしも、前記のような徹底的な平和対応の協議ができるのは、それに同意し、応援するバックの民意があるからです。決して負け犬根性で気の弱い外交をしているのではないのです。
 もし、その同意により、たとえば相手国の軍隊や行政マンが、押しつけがましく、横暴に入って来たとしても、それに応対するすべての日本人民の応対姿勢、その心が全くキリストに捉えられて完全なキリスト者になっているとすれば、かつて世界が経験しなかった不思議な平和社会が現出される筈です。
 さあ、そこで言います。この日本の全国民に、全きキリスト者の完全を期待して、主の福音を伝えましょう。聖化の達成を、まず私ども自身のために、主に求めましょう。
 以上は外交論でも政策論でもありません。実は伝道実践と聖化論の提唱なのでした。《く》

〔あとがき〕
上記は正に空想的非戦論に感じられるでしょうが、しかし、かつての「真の現実的非戦論」と題したエッセーの再論です。これを叩き台にして、皆さんのご反論や賛成論、修正論を頂きたいものです。▼去る4月5日、滝元明先生がチャペル・ノアに来られ、熱烈、感動、かつ分かりやすいご説教をなさって下さいました。皆さんにお知らせする時間的余裕がなくて残念でした。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-04-10 14:39 | 日岡だより

No.274 (旧作)神兵演歌 2007.4.1

(旧作)神兵演歌

(一)おいらのイノチは神のイノチ
   神のイノチが躍動すれば
   ちっちゃな人生ひっくりかえり
   悪魔けちらし再発進

  (補)なりはやくざにやつしていても
     月よ見てくれ血潮のにしき
     生まれかわって天与の水に
     生きる男の晴姿
        (勘太郎月夜唄模作)
(二)人を愛せば命を捨てろ
   国を愛せば家をも捨てろ
   金も名誉も友さえいらぬ
   神と一つに生きる道

(三)前進前進一歩も引くな
   神の兵卒くじけちゃならぬ
   御霊のほのおに焼きつくされて
   神の御国の成る日まで

 これは1970(昭和45)年の秋、宮崎旅行の帰途、バスの中で作詞した演歌風の賛美歌です。ちょうど、ある団体で新賛美歌の募集があったので、さっそく応募してみましたが、案の定ボツになりました。私がつけた下手な曲もありますが、冗談に昔の流行歌の勘太郎月夜唄で歌ってみることもあります。どなたか、よい曲をつけてくれませんか。
 今回、古いファイルを開いて見たら、この神兵演歌と次頁に載せた小文が見つかりました。同じく1970年に書いた日記風の一文です。お読みくだされば幸いです。《く》


キリストの生命

 〔1970(昭和45)年8月17日〕
 昨日の日曜礼拝、何という情けない説教であったろう。こんなフの抜けた説教をしていては、一人として心を動かすことはあるまい。
 さはあれ、思いなおす。今日よりの私は、生き返りたるものの如く生きよう。私がどのような者であれ、私をこえて私自身でありたもうキリストの実存に生かされ、はばたいて頂こう。

   「私の内に活きて下さるキリストさま
    私以上に、より私でありたもう方!
    私の内にあって、私ならぬ私自身
    私をして私ならしめ、私を活かし、
    私を発動させるキリストの実存!」

 故に昨日まで失敗しつづけて来た、この私に心を残す必要はない。欠けの多い弱いこの私に気を使うことは一つもない。私は、我がうちにある新しい、日毎に新しいキリストの生命に、目を見開いて驚きと賛仰と従順を以って心を寄せる。
 だから古い私、これまでの私の抜けがらに心をとめない。私は信仰を以って私の内にあるキリストの生命を拝する。
 大いなるかな、この我! 信仰を以って結びつき、生命を溢れさせて頂く、この新しい生命よ。
「キリスト、我が内にありて活くるなり」。
 古い抜けがらが、どれほどボロボロであろうと、腐っていようと、構わない。
 毎日ボロボロ剥がされ、恥をかき、みにくい汚れを落ち葉のように我が身の周りにまきちらそうとも、私は内にあるキリストの生命に眼を向ける。私の視線は私の外に行かない。私の内に向く。パウロは言う。
 「外なるものは崩れども、内なるものは日々に新しい」と。その「日に新たなる内なる生命」を我は信じるのだ。一切を革新し、一切に新生命を与えるキリストの生命であるのだ。《く》

 
「口ぐせ」の力

 佐藤富雄という学者さんがいる。医学博士や理学博士、農学博士の博士号をお持ちである。と、言っても硬苦しい方ではない。面白い方である。
 よく本を書いている。「積極人間は早死にする」などいう変わった本もある。何か分かるような気がする。積極思考を学ばれる人たちは、ご参考に。
 皆さんに紹介したいのは、この方の「あなたが変わる『口ぐせ』の魔術」という本である。私はこの本を先年、四国に渡る船の中で読んだが、正に面白くて、為になる。時間のたつのを忘れた。
 さて、話変わって、最近「ツキを呼ぶ魔法の言葉」と称する、五日市剛さんという方の提唱が有名になってきた。ユダヤのおばあちゃんから教えられたという「ありがとう」、「感謝します」という2つの言葉を適切につかうアイデアである。
 この言葉で幸運が舞い込んできた体験談、キリスト教会で言えば「証し」だが、それが五日市さんの所に山のように送られてくるらしい。私としては、なんともうらやましい。残念である。どうしてこういう「証し」が教会に起こらないのかなあ。
 考えてみると、これこそ「口ぐせ」の効果である。そして私たちクリスチャンこそ、良い口癖を持たねばならないと思ったのである。
 とは言え、しばしば聞くクリスチャンの口癖は一般の人たちに嫌われることも多いのである。何かにつけ、「神様のお恵みでございます」とか、「祈りが聞かれました」などというたぐいの言葉は、クリスチャンでない人々にとっては、取ってつけたような、言わば偽善めいた臭みを感じることがある。
 この臭味を消すのには短い「口ぐせ」の言葉の方が良いだろうと思う。これは私の提案である。
           *
 短い言葉を間投詞のように使うのである。「楽しいですね」とか、「わあ、凄い」とか、「良かった、良かった」とか、こういう短い言葉を適当に会話のなかに挟んでみるのである。
 各フレーズの合間に、時おり入れてみるとよい。長いフレーズの口癖というものは、「ああ、又あの話?」と嫌われかねない危険がある。「いつものご自慢ね」というたぐいである。
 しかし、間投詞のような投げ込み言葉は嫌味でない。飽かれない。却って会話のはずみになる。テンポを造る。ひとくぎりのお話しの前に、その途中で、最後に、ちょっとつけ加える。「嬉しかった」。「聞いたわよ、良いお話し」。「可愛いわね」。
 こういうのでいい。もちろん、「そう、そう」とか、「うん、うん」という相槌は誰でも知っている便利な言葉。(うなずくだけでも良いのです。相手のしぐさに同調する、このことだけを強調している本もあるくらいだ。)
 良い口癖は、本人自身を明るくする。いいえ、それだけでない。自信を持たせ、強くします。会話だけでなく、自分ひとりで自分を引き立て、明るく陽気にし、強固に健康な気分に、気分だけでない、体を健康にするためにも、自分に言い聞かせる「自己宣言」になります。是非、活用しましょう。《く》

〔あとがき〕
ここにさりげなく書きますが、実は大上段振りかぶって書きたいのです。みなさん、日本を愛しましょう。日本を良い国にしましょう。日本民族を優秀な民族に育てましょう。それは頭脳明晰とか、芸術感覚がすぐれているとか、礼節を重んじるとか、そういうこと以上に、全国民が、神を信じ、イエス様を信じ、聖霊様に満たされた日本人に生まれ変わることです。手束先生のおっしゃる「日本民族総福音化運動」にほかなりません。その熱い祈りを私どもは心を合わせて祈りましょうということです。▼先だって触れましたが、いつぞや東京都知事の石原慎太郎氏が「最近の日本人は劣弱化してしまった。こんな日本人くたばってしまえ」といった調子で、ある新聞で語っていたが、そういう風に日本人を罵ってみても、溜飲を下げても、何も変わらない。それを読む読者たちも「そうだ、そうだ」とうなずいてみても、日本の社会は何も変わらない。私たちは、このやるせない日本人のために祈りましょう、一人一人弱い力でも構わない、祈りましょう、と私がこの「日岡だより」で書いた時から、私の祈りを助けてくれる人々が起こってきた。そして私は言うのだが、「見よ、この頃、日本の新聞から『いじめ』や『いじめられて自殺した』などの記事が姿を消したではないか」。私はノーテンキかも知れないが、「そうだ、祈りは聞かれたんだ」と独りぎめしている。▼それはともかく日本のために祈りましょう。天皇陛下、安倍総理、多くのこの国の指導者の方々、総国民のために祈りましょう。みんな一流のクリスチャンに生まれ変わるように! 《く》
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by hioka-wahaha | 2007-04-03 11:59 | 日岡だより