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No.273 たとえ小さい群れでも 2007.3.25

たとえ小さい群れでも

 一昨日の大分県の地元の新聞に写真が出ていた。5人の少年たちが大きな和太鼓をたたいている。記事を読むと、日出生(ひじゅう)という村の小さな中学校でのことである。斎藤豊という校長先生と生徒さんが5人、全校をあげて太鼓だけの曲を作曲した、その発表の会場だという。
 日出生(ひじゅう)という村は別府の奥のほう、もうちょっとで耶馬渓というところである。その辺りの高原は日出生台(ひじゅうだい)と言って、昔は陸軍の演習地だった。今でも多分、自衛隊が演習地として使っているかと思う。
 この生徒さんたち、新聞に載った自分たちの写真を見て、さぞかし嬉しいだろうなあと思う。人数が少ないことを却って誇らしく思うのではなかろうか。
           *
 私どもの教会も小さい教会です。雑誌「ハーザー」の今月号に、私の書いた原稿を載せてくださっているが、その中に私の教会は礼拝出席20名ちょっとと書いてあった。「わーい、この数字、ハーザーの読者の皆さんに読まれてしまうのか」と、私はちょっと恥ずかしく思ったことであった。
 でもこの時の記事で私は、「現在の日本の嘆かわしい社会状況をただ憤慨し批判するのではなくて、この国の精神的、また霊的回復、祝福のために、たとえ弱い祈りでも私は祈りたい。皆さん、私の祈りを加勢してください」と書いたのです。
 このお願いに答えて読者の方々の中から、この祈りの応援をしてくださる方が出てくださった。その方の勧めに次々に応援の方々が増えていますというご報告があったのです。私は泣きましたね。
 そして、その頃からなんと、日本の新聞紙上を賑わしていた「いじめと、自殺」の記事などが少なくなったようだと、私は喜び感謝している所です。《く》


タダイのエデッサ伝道と景教と空海

 前頁には「たとえ小さい群れでも」と題して短文を書かせて頂きました。今はキリスト教は世界では第一番の宗教です。信徒の数は20億です。しかし、日本では残念ながら僅か100万、人口比で0.1パーセントです。戦前から少しも増えていません。これも残念というよりは、不思議な数字です。
 ところで、イエス様の時代、イエス様につきまとう一般のファンは多かったにしても、本当の弟子は少なかったのです。イエス様は言われました。
 「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12:32)と。
 そうした初期のキリスト教の時代のイエス様の直弟子であるタダイという人、決して傑出したお弟子さんには見えません。しかし、この方によって行われた凄い奇蹟的伝道の記録を以下に旧稿を再掲載します。
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 今回は12弟子の一人、タダイにまつわる伝説について述べたいと思う。伝説と言っても、権威あるキリスト教史家エウセビオスの「教会史」に出ている物語である。ちゃんとした史実であると思って間違いない筈だ。
 タダイはキリストの12弟子の名前の中では10番目か11番目に記されている人で、どちらかと言えば、見栄えのしない人である。しかし一度だけ「主よ、あなたはご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にあらわそうとされないのはなぜですか」(ヨハネ14:22)とイエス様に向かって質問した弟子である。そのことをヨハネがわざわざ書き残したのは意味が深い。この時、イエス様も喜んで重要な発言をお返しになっておられるのです。
 タダイという名前はたぶん愛称です。「母の胸」というアラマイク語らしい。もう一つの名があって別の写本ではレバイと書かれている、その意味は「心」だと言う。弟子仲間で、彼がどのように思われていたか、察することができる。
 このタダイが初代教会の時代、後世に多大の影響をあたえる宣教活動をしていることを、エウセビオスの「教会史」に見るのである。その記事をかいつまんで以下に紹介したい。
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 当時、ユーフラテス河の向うの国エデッサの君候である、アブガルという人が不治の難病にかかっていた。彼はユダヤの国のイエス様の事を聞いて、イエス様に書簡を書いたのです。
 「(挨拶を略す)あなたは薬や薬草を用いずに治療をなさる由です。聞けば、あなたは盲人の目を開き、足なえを歩かせ、ライ病人を潔め、汚れた霊や悪鬼を追い出し、長い患いに苦しむ者を癒し、死人をよみがえらせたそうです。私はこのことを聞いて、あなたはまさしく神様であるのか、あるいは神の子であるのかと考えました。どうぞ、わたしの所へご足労くださいますように。」
 加えて、この君候はユダヤの不穏な様子を知っていることや、こちらは安全です、などという後続文を書いているが、それは省略する。それに対するイエス様のご返事があるのです。
 「私を見ないで、私を信じたあなたは幸いです。『私を見た者が私を信ぜず、見ない者が私を信じ、かつ生きる』と、私について書かれているとおりです。
 さて私は、近く私が遣わされた使命を成就せねばなりません。その使命を成就したら、私を遣わされた方のもとに私は上げられます。私が天に上げられた後、私は私の弟子をあなたのもとに遣わします。そしてあなたの病を癒し、あなたとあなたと共にいる者たちにも生命(ゾーエー)を与えるつもりです。」
 これらはすべてエデッサの古文書保管所にあった。それに以下のシリヤ語の添付書類がある。
 「イエスが天に上げられたのち、弟子の一人タダイが使徒としてアブガルのもとに遣わされた。高官たちが居並んでいた。部屋に入ると、大きな幻が使徒タダイの顔に現れた。みんなは仰天した。
 タダイは言った。「あなたは私を遣わした方を信じていました。だからこそ私はあなたのもとに遣わされたのです。もしあなたがこれからも、その方を信じれば、あなたの願いは聞かれます。主は、御父の御旨を成就されました。そして父のもとに帰られました。」
 アブガルは答えた。「私はその方も、その方の御父も信じます。」
 そこで、タダイは言った。「私はその方の名において、私の手をあなたの上に置きます。」
 彼がそのようにすると、アブガルの病と苦痛はたちまち癒された。
 アブガルは言った。「これは正しく驚くべき神の権能です。お願いします。これらの他のこと、イエス様の到来について、その権能について、その不可思議な御業についてご説明ください。」
 次の日、タダイはアブガルに頼んでエデッサの市民のすべてを集めてもらった。そして語ったのである。
 イエスの到来について。その使命と、父から遣わされた目的について。その権能や御業。その方が語った奥義と、その新しい教え。その謙遜と従順。自らを低くし、ご自分の神性を無きもののごとくして十字架にかかられ、陰府に下り、世の初めから破られることのなかった(死と生の)壁を破って死人を復活させたことについて。そして、ただお一人でこの世にお下りになったが、大勢の者たちと天のみ父のもとに帰って行かれたことについて、語ったのであった。
 つづいて、アブガル王はタダイに金と銀を与えようとしたが、タダイはこれを断った、などということも書いてある。
 これらのことが起ったのはエデッサ暦第340年(AD30年頃?)のことであるという。
               *
 このエデッサの町については平凡社の「世界百科事典」に、こう載っています。
 「この町は北西メソポタミアの古代都市。今日のトルコ南西部のウルファ市、古来交通の要衝。シリア系キリスト教の中心地であり、シリア語訳の聖書のほとんどは、ここで作成され、5世紀の半ば、この地に栄えたネストリウス派のキリスト教は、アジアの大部分に伝播し、中国では景教として唐の大宗の貞観9年(635年)、宮中に迎えられた」と。
 景教というと、空海を思い出さずには居れません。空海が入唐したのは延暦23年(804年)のこと。当時は唐の首都長安で景教は盛んであった。今日、日本・和歌山県高野山にゆくと、大きな石碑のレプリカがある。題して「景教大流行の碑」とある。空海が長安から持って帰ったものかどうか知らないが、とにかく空海が唐に行って、景教の影響を大いに受けたのであろうという証拠の碑でもあります。
 私どもは考える。空海が唐で最も影響を受けたのは景教と呼ばれたキリスト教の異言ではなかったか。異言という宗教現象に似た現象は他の宗教にも無くはないのですが、その著しい例の一つが真言宗の「陀螺尼(だらに)」でしょう。これを空海が日本に持って帰ったに違いないのです。空海の唱えた陀螺尼がコトバとして幾つか残っているようですが、それが定形化して呪文となって流布しています。よく知られているのが「アビラウンケン、ソワカ」などでしょう。
 ともあれ、タダイのエデッサ宣教は大きく東洋、特に日本に影響を与えました。空海もあえて「陀螺尼真言」と言ったのですが、この陀螺尼さえ唱えれば病気も、あらゆる罪障も、悪運も消えると言ったのです。しかし、本当に「真言」を語れるのはイエス様だけです。「私は道である。真理である。命である」と仰せられたイエス様だけが、真の言葉、肉体となられた真の神の言葉なのであります。
 さて、この景教が古代日本の精神世界に如何に大きな影響を与え、霊的資産を残したか、戦前戦後、多くの識者たちが指摘してきたところです。(1987年6月7日週報より再掲載)《く》

〔付記〕
ところで、その景教が古代日本の精神世界に如何に大きな影響を与えたかということは分かるけれど、その後どこへ行ったのか、その姿がさっぱり見えない。たぶんその景教は、かつて山本七平さんが言った「日本教」なるものに吸収されてしまったのであろう。そして相変わらず日本ではキリスト教は戦前も戦後も0.1パーセントの少数派である。日本の霊的風土の著しい問題点です。《く》       (2007年3月28日)
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by hioka-wahaha | 2007-03-27 11:41 | 日岡だより

No.272 「回心」ということ(三) 2007.3.18

「回心」ということ(三)

 前号で「聖霊体験というものは一筋縄には行かない」ものだと書きました。少し茶化して書いたおもむきもあって反省しています。回心という体験だけに限っても一筋縄には行きません。
 前号では義認論的回心と聖化論的回心という対比で説明しました。今回は瞬間的回心と漸進的回心という比較で考えてみましょう。
 大抵の場合、回心と言うと、瞬間的回心のことにきまっている感じもします。前号に紹介した内村先生や石原先生の場合もそうです。くどいようですが、もう一つ、そんな偉い人ではなく平凡な人の場合、私の父のことを例に挙げてみましょう。
           *
 私の父は30歳前後のことだったと思いますが、大正初年の頃、胸部疾患と商売の倒産と、そんなことで妻は実家から取り返され、孤独と怒りと絶望にさいなまれて、もう自殺寸前の心境でした。
 怒りというのは、本家の長兄が長い間、家を放って朝鮮あたりで海賊まがいの生活をしていた間、その弟である父はずいぶん犠牲を払って本家の留守を守ってやった。単なる留守番ではない、大分市一、二を争う問屋店の経営だったのである。老いた父は居たにしても、経営の一切を引受けざるを得なかったのだ。
 そこに長兄が帰って来て、自分の居ない間の店の経営や財産処理について疑いの目を持ったわけだ。本家の財産を弟である父に横領されたかの如く罵り、言いふらし、ついに父は世間から泥棒猫のように見下げられる有様になったのである。
 父は自分の善意がことごとく欲心のごとく誤解され、同じ町内に住むところもないような情けなさである。父の怒りは心頭に達した。神も仏も信じられない。「天道是か非か、神も仏もあるものか」ということで、怒りは神様に向かった。とうとう教会に行って牧師に会った。胸にたまった、その思いをぶちまけたのである。
「牧師さん、神さんが本当にいるのなら、あっしがこんな目に会うはずはない。もし本当に神さんが居るんなら、この目に見せてほしいわ」。
 その時の牧師さんが偉い。「釘宮さんとおっしゃるか。キリスト教の神様は、あなたが本気で祈ったら分かりますよ。お宮やお寺のようにご祈祷料をはらって神主さんやお坊さんに祈って貰うのではありません。あなたが自分で祈れるのです」。
 牧師はこう言って簡単に祈りの仕方を教えた。父は急いで帰った。商品の無くなってしまっている空っぽの納屋にこもって地方の方言丸出しで祈り始めた。
「キリストの神さん、私はあなたを知りません。牧師さんが祈ることを教えてくれましたからお祈りしています。あんたさんが本当に居るんなら、今晩、どうぞ、私の前に出て来て下さい。そうでなければあしたの朝、一番列車に飛び込んで死にます」。
 父は一所懸命祈った。突然、納屋が火事になったかと思ったと言う。驚いて目をあけて見ると、壁も天井も床も金箔をはったように光り輝いているではないか。
 それだけでない、喩えようのない尊いお方がそこに居られるような感じがして、父は震えあがった。一種の畏怖感に襲われた。思わず叫んだ。
 「神様あ、ありがとうございます」。涙がボタボタ落ちた。
 こうして私の父は「キリストの火を見た」のである。一瞬にしてクリスチャンになったのである。神の臨在に触れたのである。この体験は彼の心魂に徹し、彼の生き様をすっかり変えた。
           *
 この父の起死回生の姿を見て、あの彼を罵り迫害してきた長兄が驚いた。それまで、道で会うことがあっても恨みに燃えた目で見据えて、プイと目をそむけていた、そんな彼が「やあ、兄やん」と近よって来る。「これはどうしたことか」。
 聞けば、この頃はキリスト教になって教会に行っているそうである。そこで、彼(つまり私の伯父)は大学時代、下宿の同室の友人から内村鑑三の「聖書之研究」を見せて貰って、キリスト教に興味を持ったことを思い出した。彼は早速、「聖書之研究」を注文した。この時、彼は「聖書之研究」の発行所が分からず、東京市 聖書之研究社御中とかいて手紙を書いたら、早速それで届いたらしく、無事「聖書之研究」が送られて来たそうである。
 こうして、後の無教会の九州の豪の者、事業と政治と伝道に八面六臂の働きをする釘宮徳太郎が生まれるのである。彼はどこか、負けず嫌いであったから、並のキリスト教会に行かないで、無教会に行ってしまったのか、それも分かるような気がする。しかし、その後、私の父とは本当に意気相通ずる仲のよい兄弟になった。子どもの私にもそう見えた。
 この徳太郎伯父がある所で書いている、「私は間違いなくイエス様を信じ、殺されても信仰を捨てることなど微塵も考えたことなどはないが、しかし信仰にあたって幻を見たとか、天使の声を聞いたとか、そういう神秘な経験は少しもない。ただ、無雑にイエス様と神様を信じているだけである。そして生きている間、この尊い信仰をあらゆる人々にむかって知らせたいのである」と。
 彼は小さい集会を日曜ごとに開いた。また「復活」というB5・4頁の市内伝道雑誌を作って、方々に送った。たとえば、彼の商売上に必要な請願書を出さねばならないような県庁の試験場長にも送った。先日、機嫌を害するような意見を申し立てたばかりの、そのお役所に対しても遠慮はなかった。
 そういう彼であったが、信仰は漸進的回心であった。いきなりの瞬間的回心ではなかったのである。


生き甲斐と死に甲斐

 前述の私の父のことですが、私の知っている父はいつも病床勝ちで、よく断食していた。その頃は、喘息には断食に勝る療法は無かったらしい。
 その時の父の日記帖には「断食第3日」など一行書いてあるだけの日があって、それが大抵2週間は続いていた。その途中にポツンと「私は神の愛子である」と書いた日があったりする。その日記に私は泣いた。
 父は45歳で天に召された。その2週間ほど前、父は「主にある肉の兄弟会」を開いてくれと、長兄に頼んだ。すでに長兄をはじめ、他の伯父や伯母たちも信仰にはいっていたのである。
 父はその同信の兄や姉たちと最後の集いをしたかったのであろう。自分の死後のこと、葬儀のことなども相談した。その時の模様を、当の長兄の伯父がこう書いている。「弟はまるでふすまを開けて次の部屋に行くように、死のことを語るので自分たちは泣かされた」と。
  母から聞いたところによれば、父はしばしば喘息の発作で絶息状態で意識不明に陥った。その時、「天国が見える」と言って喜んだそうである。だから発作がひどくなって苦しくなると、どこか絶息するのを待ちわびている様子であったという。父にとっては死は喜びの関門であったのである。
           *
 いつぞや、産経新聞で「生きがいって何?」という相当大きな特集記事を組んであったことがある。
 その中で、「生きがい」という言葉を「生活満足度」という言葉でくくった質問の表があった。「去年と同じように元気であると思うか」とか、「人にくらべて恵まれた人生であると思うか」などとある。これはどうも、本来の「生きがい」とは違うな、と私は思ったことだ。
 神谷美恵子さんが「生き甲斐について」という本を出したのは1966年(昭和41年)である。これは一部の人々には衝撃的な本だったと思う。「生き甲斐」という言葉は日本にしかない、と神谷女史は言うのだった。なるほど、これは日本人らしい人生表現である。生活満足度と言うより、「生存満足度」と言うべきか。
 父は青年時代、明治の若者らしく「末は大将か大臣か」と希望を抱いた。ところが志に反しての長い病床生活である。
 その時、彼は書き残している。「病気こそ我が本業なり。この六尺の布団の上、ここは弾丸が雨あられと降る戦場や、代議士諸君を相手に論戦を戦わす国会議場と同じことだ」と。
 彼にとって、主にあって病気と戦う日々こそ生き甲斐であった。死期を察するや、前述のように同信の兄や姉を招いて、最後の別れをした。2週間ほどして、父は笑みを浮かべて天に帰って行った。父は「生き甲斐」のみか、「死に甲斐」をも味わって行ったのであると、私は信じている。《く》

〔あとがき〕
今回は時間が無かったのか、文章づくりが下手になったのか、なかなか書けなくて、ムラや文意不明のところ、多々あると思うのですが、悪文、ひとえにお許しを乞います。▼なお、小生の家庭では、妻はまだまだ臥床中ですが、先だっての中野渡先生のご祝福以来、しばしばよく笑い、また言葉も聞きとれやすくなりました。介護施設に一泊することがありますが、ニコニコ顔で職員の皆さんに愛されています。先生がた、教友の皆様のご加祷を感謝します。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-03-20 17:49 | 日岡だより

No.271 「回心」ということ(二) 2007.3.11

「回心」ということ(二)

 前号の末尾に内村鑑三先生の回心について書いたのでした。石原先生の「回心記」を読んだ私の記憶によるのですが、内村先生は「その時の記録を君に見せたかった」と石原先生に言い、また「残念だが、その記録は捨ててしまったんだ」とも言っている。
 このことについて、実は内村先生は「その記録は捨ててしまった」と言いながら、「私はだまされていたのだと思ったからだ」と言い添えています。これは重要な「告白」だと私は思っています。
 これは、「あのすばらしかった回心の経験は偽物だった。自分はだまされていた」と一時は思ったということでしょう。それで、先生はその貴重な回心記録を捨ててしまったのです。
 もっと突っ込んで言うと、「回心という経験が、最初はすばらしい完全な聖霊経験だったと信じていたのに、後にそうではなかった。やっぱり自分は相変わらず駄目だった。昔の自分と大して変わっていない自分であるのに失望した。そうだ、こんなもの捨ててしまえ、どっかに行ってしまえ」とそのノートか紙片を捨ててしまったということでしょう。
 ここで大事なことは、今となっては矢張り、その捨てた行為を「惜しかった」と言っていることです。「やはり、あれは本物だったのだ」と思い直しているわけです。
 とは言え、「もう一度、振り返って書きなおすほどのエネルギーは、もう無いよ」、ということでもあります。ここに先生の秘密があります。さすがに、この「回心」という体験、すばらしいものでありましたが、完全ではなかったということです。回心直後には、たしかに天下を取ったような征服感があります。「なんでも来い」、というような完全意識があります。意気揚々たるものがあります。
 尤も、これも個人差がありまして、「あ、これが回心か、まあこんなものか」と冷静に受けとめる態度の人もいるのです。私はただ一人、そういう人を知っています。
 実に誠実温厚な人柄でして、この方の回心経験を疑うことは出来ませんでした。生来の謙遜な性質でして、無理に偉ぶらず謙遜にふるまっているのでもない。ただ、ご自分の素晴らしい経験を淡々と受けとめて素直に語ってくれているだけなのです。そういう人もいるのですね。
          *
 ともあれ、聖霊経験というものも一筋縄では行かないということです。
 まず気がつくことは、大事なことですが、回心と一口に呼んでも、義認論的経験と聖化論的経験とは別だということです。歴史上で、最も有名な人物で対比すると、アウグスチヌスと、ジョン・ウェスレーの場合です。
 ジョン・ウェスレーは、英国の国教会の牧師でした。また「几帳面屋」とあざけられたほどの規則正しい信仰生活を送る真面目なグループのリーダーでもありました。その彼が国教会から派遣されて当時の新大陸アメリカに伝道に行きます。
 渡航する船の中で忘れられない経験をします。突然、激しい暴風雨に襲われるのです。7時間を過ぎても風は収まらず、荒波は甲板を乗り越え、マストは今にも倒れんばかりでした。乗客はみな恐怖で泣き叫び、ウェスレーも泣かないにしても、その一人でした。
 その時、別の部屋から不思議な歌声が聞こえてきました。よく聞くとドイツ語の賛美歌でした。驚いて、その部屋に飛び込んでみると、2、30人の人々、子どもも混じっています、その彼らが目を天にむけて平安な顔で歌っているのです。
 一人の女性に聞きました。「あなたがたは、この嵐が怖くはないのですか」「いいえ、怖くはありません。ここにいる者、みんな神様に守られていますから、少しも怖くはありません」。
 しばらく彼らと一緒にいますと、ウェスレーの心からも恐怖心が次第に無くなって行きました。
 「これはなんだろう?」。ウェスレーはその一行を見回しました。彼らはドイツの田舎からアメリカに向かうモレビアン派の信者たちでした。
 ウェスレーは結局、アメリカでの伝道には失敗し、イギリスに引き上げます。あのモレビアン派の人々の信仰を慕わしく思います。あの死をも怖れぬ信仰、ホンモノの信仰を求め始めるのです。
 ウェスレーは、あるときロンドンのアルダース・ゲートという所にある小さな教会の礼拝に出席して、そこで司会者がマルティン・ルターの聖書講解の序文を読むのを聞いている時、突如、心に激しい火のようなものが燃え上がるのを経験します。そして彼は自分がキリストのものになったことを自覚するのです。1738年5月24日午後9時前15分のことだったと言われます。
 その瞬間をウェスレーは自分の時計を見たのですね! それ以後、彼は政府から教会で説教することを禁じられ、馬に乗って全イギリスを駈け廻り、公園や墓場で伝道します。彼が創立したメソジスト教会は後に世界第一の教派になるのです。彼が言ったことがある「世界は我が教区である」という言葉が、現実的に成就したのでした。
          *
 私(釘宮)が回心したのは1944(昭和19)年11月23日夕刻です。私も時計を持っていたら、その時刻が分かったことでしょう。残念ながら刑務所の中でしたから、時計はそばにありませんよね。
 私は以上の2人、アウグスチヌスと、ジョン・ウェスレーの回心に全くよく似たこの回心を与えられ、世にはなき異常な歓喜を経験したのでした。
 後日、私の導きで回心した第一号のお弟子さん、大石美栄子さんが、後にロンドンのウェスレーゆかりの教会に行き、そこで私の説教を思い出して涙を流して泣いたと、そのロンドンからのはがきを送ってくれました。そのはがきのインクが涙で濡れていたのを見て、私もひどく感動したことでした。
 しかし、こうした感動的回心も信仰の成長の一過程であって、完全なものではない。それが前述の内村先生が、後になって「あれはだまされていたんだ」と言って、回心記録を捨ててしまったという理由でしょう、さすがの内村先生も早まったことをしたものだと私は思います。(回心は何回あっても良い。次の回心を待つべきなのです)。この点、ウェスレーは「几帳面」な人で、しっかり者です。一度、回心したとはいえ、人間の弱さは、相変わらず残されていて、完全にはならないことを見抜きます。
 ここでちょっと説明したいことがあります。アウグスチヌスの回心とジョン・ウェスレーの回心の間に一つの差があります。アウグスチヌスは全くの不信者の立場から回心によって救われ、そしてクリスチャンになりました。ところがジョン・ウェスレーはすでに信仰を持っていました。十字架のあがないを信じて「几帳面」な信仰生活を送っていたのです。その彼が、「義認」の信仰に加えて、更に回心する、神学的に説明すれば「聖化」の信仰を得たことになるのです。
 ところが内村先生はアメリカの大学でアルバイト中に回心した。それは多分、十字架による「義認」の信仰だったと思います。すると、一時は天下を取ったような歓喜の日々を送り得るのですが、しばらくすると、古い人間性の地金が出て来る。すると、「あれッ、こんなはずじゃなかった」と慌てます。がっかりします。一時の信仰の喜びが失せてしまい「あれはだまされていたんだ」と言う始末になるのです。
 しかし、後になって内村先生は気づいたのだと思います。「あれはやはり、確かな信仰体験だった。あれはやはり本当の回心だったのだ」と。
        *
 ここで、ちょっと註をつけましょう。義認の信仰というのは「イエス様の十字架の血潮のあがないによって私たちは神様の目からは最早罪人ではなく義人として認められた」という信仰を与えられることです。聖化の信仰というのは「義人として認められた」というだけはなく、「心の底から清めていただいた」という聖化の信仰を与えられることです。
 義認の信仰を高調するのがルターやカルヴィン以降の正統(?)派と言いましょうか。それだけでなく更に全く清められるという信仰がジョン・ウェスレー以降の聖潔(きよめ)派です。あるいは福音派とも呼んでいます。私どもの教会はこの2つの信仰を踏まえた上で、更に聖霊の働き、賜物の働きを高調するところに特長がありましょう。《く》

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by hioka-wahaha | 2007-03-13 22:57 | 日岡だより

No.270 「回心」ということ 2007.3.4

「回心」ということ

 キリスト信仰において「回心」という言葉は重要度ベストテンに入れてよい大事な言葉だと思うのだが、この言葉は私の持っている限りではキリスト教大辞典という類の本には一向に出て来ない。不思議である。私の書棚を見ると、一冊だけ「異教からの回心」という本があった。だから、使われてないことはないのである。
 しかし、一般むけの辞典である岩波の広辞苑には立派に載っていた。次のとおりである。
【回心】(宗)(conversion)キリスト教などで、過去の罪の意志や生活を悔い改めて神の正しい信仰へ心を向けること。なお、一般に、同様の宗教体験を言う。同義語→回心(えしん)・発心(ほっしん)

 とある。私が説明を添えると、「回心(えしん)・発心(ほっしん)」は仏教用語である。回心(えしん)は、たしか「廻心」とも書くように思う。
 なお「改心」という言葉は一般には悪事を習慣にしている人物が心を入れ替えて善事に励むようになることをさすが、カトリック用語としてはプロテスタントで使う「悔い改め」を差すそうである。
 私が使う回心という言葉は、上記のような一般用語としての改心でもなければ、カトリック用語としての改心でもない。
 キリスト信仰における回心という言葉は私は石原兵永先生の本で知ったのである。この本は私は多分戦前、銀座の教文館で買ったのである。(この時、矢内原忠雄先生の「イエス伝」もいっしょに買った。この本も私に大きな影響を与えた。ひたひたと押し寄せてくる軍国主義の波に抵抗しようとする雄々しい矢内原先生の姿勢に私は圧倒された。そして私なりの覚悟を決めることになる。)
 上記の石原先生の本の題名がずばり「回心記」である。私は教文館の図書売場でこの本の頁をパラパラとめくって、チラリと内村鑑三先生の名前を見たので、すぐに買ったのである。こうして、私は私の生涯に一大転機を与える本に巡り合ったのであった。
 この本は当時、長崎書店から出ていた。戦後、長崎書店の後継社というべき新教出版社から新版として出た。この際、内村先生の小篇「コンポルジョンについて」(たしかこういう題名だった)は削除されていた。これは惜しかった!
 コンポルジョンというのは内村先生流の読み方である。石原先生は当初から現代風にコンバージョンと書いていた。内村先生はアメリカに留学していた方であるから、英語をわざわざ日本のローマ字読みに替えることはあるまい。すると先生の留学されたころのアメリカではコンポルジョンと読んだのか、とも想像する。
 なお余談だが、最近のアメリカ英語に慣れた某宗教家に聞いたら、営業マンなどに説得されてその商品を買う気持に変わった時の心の変化をコンバージョンと言い、宗教的信仰の決意をした時にはコンバーションと言うのだそうだ。

 このことは昨日、私を訪ねてくださった福音歌手上原令子さんが英語に詳しくて、その通りだと言ってくださった、実は昨日の同姉との会話で、この後書きすすめたい「回心」について全く私と同じ意見を語ってくださり、私は驚嘆した。又、嬉しかった。「あなたはただ歌うだけの人かと思ってたらホンモノだったですね」などと失礼なことを言ったものです。

 気をつけて読んでください。ジがシになっている。濁りが取れて純粋になってるのかな、呵々。昔、ある友人が私に言ったことがある。「釘宮さんの名前は義人、これを音で読めばギジンですが、濁りを取り去ると奇人(キジン)になりますね」と。
 石原先生の「回心記」は内村先生と共著と言ってもよい本である。石原先生が内村先生の家に書生のように住み込んで信仰を学ぶ、その時、この回心のことを内村先生から聞き、その回心なるものを求めて苦悶する経緯を書き綴った本である。
 内村先生は言う、「回心の経験がなければ本当の信仰じゃないよ。そう言えば、カトリックの人たちに回心があったとは聞かないねえ」、カトリックの方よ。怒らないでください。
 現代のカトリックの方々がどうか知りませんが、少なくともカトリックの歴史によれば、よく知られた有名な人物をあげることが出来ます。アウグスチヌスとパスカルです。
           *
 アウグスチヌスは逃れがたい好色乱逸の生活に溺れていました、その生活から正に一挙に回心します。彼の「告白禄」のちょうど中ごろから読むことが出来ます。
 非常に簡単です。隣家の子どもの唄うような声で「取って読め。取って読め。」と聞こえたそうです。彼は、これは聖書を読めということだろう、と思ってそばにあった聖書を開いて読みました。ローマ人への手紙の第13章がありました。彼が読んだ個所は、その章の最後です。
「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと嫉みを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。
 彼はこう書いています。「私はそれ以上読もうとは思わず、その必要もありませんでした。この節を読み終わった瞬間、言わば安心の光とでも言ったものが、心の中にそそぎこまれてきて、すべての疑いの闇は消え失せてしまったからです。」
 これがアウグスチヌスの「回心」です。こうして、初代教会最大の教父が生まれるのです。時に西暦386年、彼は32歳でありました。
           *
 パスカルの場合はこうです。彼は17世紀、フランスの人。数学者、物理学者、哲学者、パンセの「人間は弱き葦である」等の言葉で有名。以上のような学者としても、社交的な魅力でも、サロンの人気ものであったが、そういう世俗を脱した聖なる世界を求める。
 ついにある日、聖霊によって変えられる。その日は1654年11月23日です。(幸いな偶然!ですが、私の回心は1944年11月23日なのですよ。)
 彼のその時の「覚え書」が残っています。彼の下着の裏に縫い込んであった羊皮紙のメモが、彼の死後、発見されのだそうです。以下のとおりです。

         火
  アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
  哲学者や学者の神にあらず
  確実、確実、歓喜、平安
  イエス・キリストの神
  Deum meum et Deum vestrum.
             (わが神、即ち汝の神)
  汝の神は私が神なり

  神以外、この世および一切のものの忘却
  神は福音に示されたる道によりてのみ見出さる
  人間の魂の偉大さよ!
  「正しき父よ、げに世は汝を知らず、
            されど我は汝を知れり」
  歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙
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 日本人で同じような経験を、前記の内村先生に見ることにしよう。先生はアメリカのアマースト大学に留学中、アルバイトの石炭運びをしている時、その信仰の経験をしたらしい。
 内村先生は当初、熱心に律法的に信仰を求めて苦慮していた。その日本の留学生の苦悩を見かねたのか、学長のシーリー先生が福音的な信仰のありかたを教える。
 「ウチムラ君、種を土に蒔いて、芽が出たか、どうか、気になる。そこで毎日、毎日、土を掘って、もう芽が出たかな、とやっていたら、その植物は枯れてしまうでしょう。主の言葉を一度受け入れたら、その成長を見ようと毎日ほじくり返さないことです。」
 この言葉で内村先生は翻然と信仰を悟ることになります。先生は歌います。
「あるものの胸に宿りしその日より、輝きわたるあめつちの色」。
 こうして希代の日本人的クリスチャンが生まれるのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-03-06 16:34 | 日岡だより