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No.265 寄り添って下さる方 2007.1.28

寄り添って下さる方

 先日、大分市郊外のゆふみ病院に行く機会があった。そこは、大分県には(たぶん)ただ一つしかないホスピス病院である。ホスピス病院とは、一応回復を望めない末期症状の患者さんたちを迎え入れる病院を言います。
 普通、医師としては健康体に回復させてあげられると思うからこそ、熱情をもって医療活動をつづけられるのであって、ただ死を待つだけの患者のために、お世話をする医療というものは、医師にとって耐えがたいものなのだと聞いたことがあります。それだけに、ここで従事される医師のお仕事は実に尊いのです。
 さて、この病院で院長先生にお聞きした話ですが、この病院に設立以来すでに五年ボランティアとして奉仕に来てくださっている方々がいる。その一人の方に、ある人がインタビューしたそうです。「あなたがたは、こうしたご奉仕にたずさわって、さぞ誇りを持っておられるでしょうね」。
 その答えはこうだったと言います。「とんでもない。私たちには誇りなど少しもありません。ただ、私たちはここの患者さんがたに、そっと寄り添って、そばにいて差し上げているだけなんですよ」。
 私はこのお話を院長さんから聞いて、本当に感動しました。そして、これこそ聖霊様の御働きに似ているなあと思いました。イエス様は、聖霊様について、こう言われました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう」(ヨハネ14:16)と。
 この助け主という言葉を、他の聖書ではよく「慰め主」と訳してあります。たしかに聖霊様は私たちと共にいて、いつも寄り添い、助けてくださる「慰め主」なのです。アーメン、感謝! 《く》


聖霊の治癒力、主の血潮の免疫力

   一、A・シュバイツァーの説明

 ある人々は肉体を癒す力を「自然治癒力」と言う。医術を人間機械の修理技術のように思っている人にくらべ、その人たちを称賛したい。しかし、C・ハーシュバグとM・バリシュという2人のかたは「癌が消えた」という本の中で、その力を「自己治癒力」と書いた。
 「自然……」と「自己……」とでは、たった1字の違いだが、その発想には大きな違いがある。あ、これは凄い! と私は思ったものだ。
 人の体を癒すのは自然に癒してくれる生体系の自動システム、それだけではないのだ。患者自身の生命、その意志に関係がある。
 さて、ノーマン・カズンズ氏が、その「笑いと治癒力」(岩波同時代ライブラリー)の中で、同氏がアフリカのランバレネにノーベル平和賞のアルバート・シュバイツァー博士を訪問したときのことが書いてある。
 カズンズ氏がアフリカの呪術師(拝み屋さん)のことについて揶揄的にシュバイツァー博士に語った時、シュバイツァーは真面目な態度で答えた。「あなたは呪術師のことをどの程度知っているのか」と。
 そしてカズンズ氏を連れ、森の中の呪術師のところにいって、その医療の実際を見せてもらったそうだ。
 呪術師は患者のある一群には薬草をあたえ、ある一群には呪文を語り、残りの一群にはかたわらにいる白人の医師(つまりシュバイツァー)を指さして何か言った。これはシュバイツァーの外科的手術を受けるようにとの指示なのであった。呪術師は患者をよく診察、それぞれ専科的に手分けし、分業体制を確立していたわけだ。
 そして、シュバイツァー博士が言ったそうです。「呪術師が医療に成功するのも、我々が同様に成功するのも、同じ理由によるのだと私は信じている。どの患者も自分の中に自分自身の医者を持っている。私たちがその各人のうちに住んでいる医者たちに働いてもらいさえすれば、首尾よく彼らを癒すことが出来るのです」と。

   二、K兄の癒し

 10月19日の午後、K兄が訪ねてくれました。同兄の所属教会の礼拝で証しをして、その帰途らしい。ご夫婦でいらっしたのである。ニコニコしている。
 奥さんの着ているスーツが私の目にはいったので、「やあ、美しいね、いい服だね」なんて言ってしまった。私が女性の衣服に目がとまるなんて滅多にないことです。
お2人とも喜んでいるし、生き生きとした活力に満ちているので、私も嬉しくて、軽い言葉を出せたのでしょう。
「先生、もう大丈夫です。先生が先だって病院に来て祈ってくださってから、回復メキメキです。こんなに元気になりました」。
 そういって、呵々大笑する。愉快な笑い声、私のお株を奪ったみたいだ。そばにいて奥さんも大いに笑う。
 かつては互いにそっぽをむいているような夫婦であった。何かと、反目、追及、互いに避けている。そんな関係に見えた。今は違う。手に手をとって仲よく寄り添っている。
 K兄は病院の時のことを語った。会社の社長が来た。K兄は自分の癌の癒されたことを確信をもって語った。社長もクリスチャンだから、そういう会話がよく通じる。そばにいた看護婦さんが目を手で蔽うて出て行った。
 あとで聞くと、クリスチャンでもないその看護婦さんだったが、そのお二人の会話を聞いていて感動して涙が止まらず出ていったらしい。
 私は東京に行ったついでに、2度か3度か、このK兄をお茶の水の病院に訪ねたものだ。もちろん、私は祈った。私は病気の人に対しては、特別の場合を除き、必ず祈る。熱意をもって、大胆に祈る。完全に癒されることを信じて祈る。それにしても、これほどみごとに癒されている人を見ると、本当に嬉しい。
 何よりも、この兄弟は肉体が癒されているというだけでなく、霊性が癒されていた。魂が活発に働いている。そばにいる人たちを活性化する火花を散らすような体のしぐさや会話がある。
 この人のうちに、まことの癒し主なるイエス様が住んで居られるからだ。そこから命の光が発散している。周囲のものが元気になる。これこそ復活の英気である。これが本当の癒しである。
 自然治癒力ではない。自己治癒力でさえない。各自のなかに住む「各自のお医者さんだ」とシュバイツァーは言ったのだが、もっとはっきり言えば、それは、私たちの中に住まわれるイエス様ご自身である。
 主の「聖霊の治癒力」が私たちを癒すのである。あるいは「主の血潮の免疫力」と名づけるべきでしょうか。(1997・11・2旧稿)《く》

〔ゆふみ病院にて〕
 昨日、ゆふみ病院に原田光子さんを訪ねた。お瘠せになったし、目もつぶっておられる。弱られたなあ、と思う。
 私が祈っていると、「先生、手や足を叩いて下さい」という。病床にいると手足がだるくなることはよくあることなので、手足を叩いてあげた。
 しばらくしたら「足を上げて下さい」という。ちょうど看護師さんが来たので、足を上げたり、またマッサージするのを教えてもらう。しばらくすると、光子さんが何か言った。声が低くて私の耳には聞こえない。
 ところが同行していたT兄が「先生、姉妹は『悪魔よ、出て行け』と言ってましたよ」という。
 「あれ、手や足を叩いてくれと言ったのは悪魔を叩き出すことであったのか」と、私は恥ずかしく思ったことでした。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-01-30 15:36 | 日岡だより

No.264 あるイメージ祈祷 2007.1.21

あるイメージ祈祷

 昨年の暮れのことです。ある姉妹から、こんな手紙が来ました。
 「釘宮先生、お久しぶりです。お変りありませんか。私のほうは母が2ケ月入院したり、講師の仕事があったりで、ここしばらく忙しかったです。
 母はエアロビクス中に、ころんで足を打ったらしく、タクシーで家まで帰って、それからあまりの痛みに動けなくなって、救急車で病院に運ばれました。お医者さんは手術もあり得るというので、私は神様に祈りました。先生の言っておられたイメージ法です。
 母の股関節を思いうかべて、ひびの所を接着剤でくっつけるイメージを描いて祈りました。するとレントゲンを撮ってみても、ひびが写っていなくて、目には見えないほどのひびで収まりました。手術もしなくてすんで、感謝です。
 それでもしばらくはリハビリをしないといけないので、2ケ月ほどかかりましたが、元気に退院出来ました。神様には最近あまり熱心でなかったのに、私のピンチを助けて下さって、神様のやさしい愛を感じることができました。
 心を入れ替えて、いい子になりたいのですが、なかなかいい子になれません。それでも見捨てずに、愛して下さっている神様は、この世の中でイエス様だけだと思いました。来年は少しでもよい子になって、神様に喜んでもらいたいなと、思っています。
 これからは、私もワッハッハを実践します。来年は先生とお話できたらなと思っています。お体に気をつけておすごしください。」
 嬉しい、ご報告でした。イメージ祈祷というのは慣れれば、簡単です。どなたも試みて下さい。《く》


無能の力

 先週の主日(日曜日)、私ははりきっていました。運動会か、遠足の日の朝の小学生のように、私は飛び起きて床の上で、「さあ、神様あ。やりますでえ」、と声をあげたものです。
 早天祈祷会でも、礼拝が始まる時でも、私は会堂から道をへだてて向うにある牧師館から、駈け足でこちらの玄関にやって来たのです。
 元気一杯でした。今、考えると、多少気負っていましたがね。「元気のいい僕を見てくれ」と言わんばかりです。信徒諸君の前に見栄をはっていた感もあります。
 その後も、月曜、火曜と、元気でした。火曜日には2、3の訪問をして、その帰りにはキリスト教書店のクロスロードに寄って、新刊書を3冊買って帰りました。
 ところが、その翌日、水曜日の午後になって、突然、私は欝状態に落ち入ったのです。どうしようもありません。昼食を食べたあとの食卓の前で茫然としていました。何もできません。日曜日、信徒諸君の前で見栄をはっていたバチがあたったかなあ、などと、牧師からぬ反省をしていました。
 どうにも身の処しようがなかったのですが、やっと昨日買って帰ったばかりの本を開いてみました。リック・ウォレンの「回復への道」は、今の私へのぴったりの題名ですけれど、中の文章が少々くどいので、頁を閉じました。(天下のウォレン先生、ご免なさい)。
 2冊目のヘンリ・ナウエンの「嘆きは踊りに変わる」、これはよい。良いと思ったけれど、やや深すぎるのです。明日か、明後日になって、じっくり読みたい。
 3冊目は、大川従道先生の「イエス様の消しゴム」です。「ヒヤー、ハレルヤ。これにしよう」と、さっそく頁を開いて読みはじめたのです。
 まず、ドカーンとお得意のジョークです。アハハハハーと笑って読み始める。でも、第一頁から順序よく読めないのです。この日の私の精神状態のせいです、パラパラとめくって、ところどころを読む。そして、
 フト、目にはいったのが、赤瀬川原平の「老人力」という個所。「老人はモノワスレがひどい」、とある。然り、その通り。目下の私が「モノワスレひどい症」である。そこで、親近感に誘われる。そして読み進むと「無能力」という言葉が出たのです。
 「ウヘッ」、今現在、私はその「無能力」感で苦しんでいるんじゃないか。ぐっと、当て身をくらった感じで先を読みます。すると、「無能力」が良いのだというのですね。これを「無能リキ」と読ませる。つまり「無能の力」です。
 ここあたり、まさに大川流で、言葉のアソビみたいだが、これが良いのです。赤瀬川原平の「老人力」ならぬ「無能力」を力説。このチカラの使い方を大川先生が教えてくれました。
             *
 私はその時、ずっと食卓の前でボーッと座っていたのですが、そこへ「無能力」という言葉がドンとやってきた。私はどうなったか。私はそのまま、無心祈祷に入れたのです。
 これは、私は慣れています。昨年6月、東京・秋川の赤坂家で朝の祈りをしているうち、いつの間にか無心の祈りに溶け込んで、知らぬ内に1時間過ごしてしまった経験がある。この世界に入るには「無能力」状態はまさに最適、そのままである。その無心の祈祷の世界に入って行った。
 こうして、更にいろいろと「無能の力」を使ってみようと思った。やがて、分かった。「神様にまったく委ねる」などということ、大変むつかしいことのようだが、肩の力を脱いで、神様に「お任せ」すればよい。無能力の応用である。
 「委ねる」こと、これも簡単。だれでも出来そうだ。いやー、分かりました。先日、私はある人のため、祈った。翌朝、目が開いて見えだしたと喜びの電話があった。私はその方の目が見えなかったことなど、何も知らずに、ただ何かの病気で明日手術というだけの情報を聞いてベッドサイドに行ってさしあげただけなのである。
 なるほど、あの祈ったとき、私はなにも考えなかった。無力のまま、普通に祈っただけだったのだが、しかるに神様は不思議なことをなさる。その方の目が見え出したというのである。
 万事、これだな。「無能力」だからこそ、神様を信仰できるのです。もちろん、瞑想もしかり、「無能力」そのもの。無心祈祷である。賛美も、伝道も、会話も、カウンセリングも、仕事も、すべて「無能力」で行こう。
 「えっ? お仕事も? 仕事のやりかたが分からない時、どうするの?」「当然、私は無能力なんだから、頑張らないよ。すぐ、同僚にでも聞くのさ。すぐそばの女の子にだって。課長さんにだって、遠慮無く聞けるよ。無能力を自負している奴には誰だって、さっさと教えてくれるさ、ホンマ」。
             *
 大川先生の本を読んでいたら、以上のような場面が想像できて面白くて仕方なかった。そして気がついた。あのイヤな欝状態が私から去っていた。そして、一夜を過ごして翌日の木曜日の午前は、祈祷会、私は以上の経験を信徒諸君に語ったことである。みんなは興味を持った。
 「先生、先生はどんな時、欝なんですか」。
 「さあね。1年に3回ぐらい来るね」。
 「先生、そんな風に見えませんよ」。
 「本格的欝じゃないんでしょうね。しかし、私は若いとき、
 ひどい吃音だったし、また脅迫観念がひどかった。だから、
 ある程度、共感出来るのです」。
 これは、牧師としてはありがたいことなのです。欝の人が来た時、すこしは話相手になれるんです。まったく経験がないんじゃ、話相手できませんからね。
 ともかく、「無能力」の大事なお話を大川先生に教えていただいて本当に感謝でした。
             *
 最後に大事な聖書のお言葉を学びましょう。まず、マタイによる福音書第18章3、4節です。
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国ではいちばん偉いのである」。
 幼な子はおとなの前で無力です。特に父の前では。しかし父の前で、彼は自分を無邪気に小さいものと認めつつ、楽しげです。そして強い威厳のある、そして自分を愛してくれる父の前で、彼は自信満々です。それが天地の主、父なる神の前における私たちであります。
 次の大事なお言葉は、第一コリント第2章3節です。ここを拝読すると、あの勇気満々たる英雄的使徒に見えるパウロ先生も時には気が「弱く、恐れ、不安であった」ということがわかります。まことに意外ですが、こういう言葉を正直に残して下さっていることに、いつも弱さを覚えている私たちは慰めを受けます。
 第3番目は、第二コリント第12章9、10節です。肉のトゲを与えられて、3度もこれを取り去りたまえと祈るパウロに対して主のお言葉はあまりに無情に見えます。「わが恵み汝に足れり。わが力は弱きうちに全うせらるればなり」と。しかし、パウロは告白します。「さればキリストの力の我を覆わんがために、むしろ大いに喜びて我が弱きを誇らん」。(いずれも懐かしい文語訳の文体を真似て綴ってみました。)
 あの幼な子のように、力あるお父さんの前で、無能の力をさらけだして、大いに喜ぶのですね。
 私は、昨日もちょっと弱っていました。ある介護施設に一泊のショートステイを委ねている妻を訪ねての帰りでした。車の中で私は天と地を造りたまいし父なる神に叫び声を上げて喜びました。
 「天のお父さま、あなたは偉大です。絶大な権威をお持ちです。私を豊かな愛で抱きしめて下さいます。私は嬉しいです。愉快です。元気です。あなたのふところに抱かれた安心、自信満々、何も怖くない。アーメンです。ハレルヤ、バンザイです。神様、全身を込めて感謝します」。
 私は絶叫しました。私は無能な男だからこそ、斯くも喜んでおれるのです。「ワッハッハハ、ワッハッハハ」。ひとしきり呵々大笑して家に帰ったのでした。《く》

〔あとがき〕
本文中、私の買った本は、いずれもご推薦もの。(1)リック・ウォレン著「回復への道」パーパス・ドリブン・ジャパン発行、1600円+税、(2)ヘンリ・ナウエン著「嘆きは踊りに変わる」(有)あめんどう発行、1700円+税、(3)大川従道著「イエス様の消しゴム」いのちのことば社発行、1000円+税。
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by hioka-wahaha | 2007-01-23 14:23 | 日岡だより

No.263 「ミスター・ヌードル」 2007.1.14

「ミスター・ヌードル」

 先日、安藤百福(ももふく)さんという人が亡くなった。90歳を越える高齢であったと覚えている。各社の新聞にかなり大きく載った。みなさんには、ご存じの人だったろうか。本当は多くの方々に縁の深い人だったはずです。この人について、数日前、アメリカのニューヨーク・タイムスの社説(一般記事ではない。社説ですよ!)に載っていたそうです。題して「ミスター・ヌードル」と。
 安藤百福さんって、そも何者? その社説では、こんな風に書かれていたという。
 「世界中の1億人が毎日食べているカップヌードルの開発者、日清食品の会長・安藤百福氏がさる5日に逝去された。日本ではホンダやソニーのような会社組織が生み出した奇蹟は多い。しかし、個人の力で発明し、それを世界の国民食にまで成長させた、これは驚くべき奇蹟的成功の人である。彼は人類の進歩のパンテオン(古代ローマの神々の神殿)に永遠の場を占めるであろう」とさえ誉めあげていたそうです。(それは少々誉め過ぎだよ、と私は思いますが、大衆感覚を重んじるアメリカの新聞らしいですね)。
           *
 低開発国の大衆の間では安くて食べやすい貴重な食品として喜ばれ、先進国の大衆の間でも手軽なおいしい食品として広く愛されたチキンラーメンやカップヌードルの発明者として、我々には縁の深い方だったのです。
 ところで、私たち人類の最大の尊い食物は、神の言葉です。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る、一つ一つの言葉で生きるものである」とイエス様はおっしゃいましたが、またそのイエス様は飢えた五千人の大衆にパンを裂いて与え、これを満腹させられたのでした(マタイ14:20)。
 神様の言葉をおいしく食べやすい食品として、カップ・ヌードルのように、人々を満腹させる適切な伝達方法はないか。私は今の「テレホン聖書」を中身も器(うつわ)も改善して日本中の、また世界中の人々に、み言葉を満腹させたいと、昨日のテレホン聖書で語ったことでした。《く》

 
私の誕生の記録 

 私は1922年1月14日に生まれた。だから、今日は私の誕生日である。1月14日は又、私の尊敬するアルバート・シュバイツァーの誕生日であるので、私はこの偉大な人物と同じ日に生まれたということで、どれほど嬉しく思ったか知れない。
   20歳の頃、私は2階のベランダに出て大きく息を吸いなが
  ら、今吸ったばかりの空気の中にあるいはガンジーやシュバイ
  ツァーの吐いた息がありはしなかったかと思って一人で感激し
  たくらいである。ガンジーやシュバイツァーの吐いた息はある
  いはインドやアフリカから偏西風に乗って極東の日本まで、そ
  の1分子くらいは来てもよさそうなものだと当時の私は思った
  のである。
 ともあれ、私にとり1月14日は誕生日だというだけでなく、特別な日なのである。私の父は釘宮太重(この名前はタジュウと読む。妙な名前だ)という。大分市稙田の下宗方の生まれ、母はツギ、大分県宇佐市上田の生まれ。もっとも今こそ市制をしいているが、当時はいずれも辺鄙な田舎の百姓の出である。
 父は小男で醜男、母は体格もよく美人であった。しかし、気っぷは父の方が雄大で歯切れがよく、母の方は小心でしっこいほうである。母が31歳のとき(父は母より6歳上)、私は生まれた。母にとって私は初産だったので、少々高齢である。そのお産は周囲の者に大変危険視された。
 私が生まれた日は一日中冷たい雨が降っていたそうだ。私が生まれた直後、父は病院(大分県立病院)の産婦人科の科長に呼ばれた。父は何ごとならんと恐る恐る産婦人科の先生のところまで行った。当時の県立病院といえば県下最高の医療機関であって、その頃産婦人科科長は吉川博士、今、大分市中島で開業している吉川先生の祖父にあたられる方だ。さて、その先々代の吉川先生、私の父を呼んでなんと言ったか。
 「釘宮さん、覚悟して聞いてください。今度生まれた赤ちゃんは、うまくお育ちになれるかどうか、大変心配です。というのは、今のところは何でもないようにみえますが、しばらくすると多分血管が凝固する病気が表れてくるでしょう。大体、冬の寒中の雨の降る日に生まれた赤ちゃんによく起る病気です。百万人に一人という病気ですが、そうではないように祈っています。出来る限りの治療の努力はもちろんいたしますが、あなたもクリスチャンですし、ご気性がしっかりなさっておられるようだから、あらかじめお知らせしました。奥さんにはまだしばらく黙っていてください」
 今の医学の病名で言えば何というのだろうか。父が書き残している「光暗録」という遺稿集では、ただ鞏硬病とのみ記してある。
 父は驚いた。そして恐怖した。失神しそうであった。しばらくして持ちなおした。神様を仰いだ。すぐに母のところに行った。そして吉川科長の忠告にかかわらず、すべてを母に告げた。その時、気の弱い母がどんな様子であったか、私は知らない。
 母はよくこの話をしてくれたが、考えてみるとその時の母自身の心理状態について聞いたことはついぞなかつた
             *
    以下は、父の記録である、彼の遺稿集から転載した。(仮名遣いや熟語などは現代用語に代えた)。
 私(父太重のこと、以下同様)は結婚して8年、37歳の今日まで子どもが在りませんでした。大正11年の新春を迎えて、妻は出産をなすべく、大分県立病院に入院しました。
 30歳を越えての出産のこととて、周囲の者一同口に出しかねて心配しておりましたが、14日午前11時から陣痛が始まり、同日午後2時、僅々3時間にて案ずるよりも産むがやすきとて、男子が出生いたしました。産後の経過もたいへん良く母子ともの健全、喜びの声に満たされておりましたところ、果然、17日正午、病院よりの急報あり、病院に産婦人科々長を訪ねたのです。
 あたかも囚人が法廷に宣告を待つかのように、科長さんの口から出る言葉を聞くは恐ろしく、聞かねば落ち着かず、一種異様の心理状態で落ち着けない。躊躇しながら聞けば、嬰児は今は、健康のように見えるが、実は「鞏硬病」とかいう病気で到底、2、3日か、長くて1週間くらいの命だと思うので、取り敢え予告するとのこと。病院としても、万一を期待して十分の手当はしますという。
 どんな凶報かもしれないと予期はしておりましたが、我が子を目前にしてはっきりと死の宣告を受ける時、私は押えがたい驚きと悲しみ、親として子に対する情愛が湧然として起こりました。折角、生まれた子どもです。出来得ることならば、何としてでも命を保たせたい。
 妻には秘密ということでしたが、私は思いきって、妻にもこのことを知らせ、共に祈り、病児の短い生涯の親として、出来る限り彼を愛し力を尽くして、彼を看護し、たとえ死ぬるにしても生きるにしても、熱誠に神にすがり祈ることが一番大事なことなのだと思ったのです。
 病児の顔を見れば、両親の顔も愛も知らず、安らかに眠っている。ああ、可愛いただ一人の我が子よ、汝は今、我らの手よりはなれて、一息一息、天国に近づきつつあり、ああ、幼き魂は天の父のもとに帰りつつある。私はもちろん、天国もその栄えも望みも信じている。しかし、私は彼を死なせたくない。我が子として育てたい。私は泣かずにはおられない。私は祈りました。
 「ああ、主よ、あなたは私に一人の男児を与えたまい、然して又、これを取り給うか。主権者である主よ、私は従順に服従します。すべてを御手に委ねます。ただ御旨のままになし給え。もし、アブラハムがイサクを燔祭に献げたるがごとき試練を我らに試み給うか。願わくば信仰の弱き僕をかえりみ給え。
 ラザロを甦らせたまいし主よ、私ども夫婦にマルタ、マリヤの如き信仰はなくとも、一度与えたまいし幼子を願わくば取り去り給うことなかれ。主よ、かかる祈りは御旨に叶わぬかも知れませんが、出来得るならば、この苦き杯を取り去り給え。御憐れみを豊かならせたまえ。又もし、幼子をこの世より取り給うことが、御心であるならば、その真理のあるところを我らに悟らせ給え。我らの涙をぬぐい給え。主よ、御心をなし給え、アーメン」。
 私はその晩も、翌日も、来る日も、また翌日も、苦しい悲しい時を過ごしまして、ただ「ラザロを甦らせたまいし主よ」と祈りつづけました。
 1月20日、悲痛な思いのうちに「義人」と名づけ、親族や知己へ誕生、命名、病気のことを報じまして、お祈り下さるようお願いしましたところ、熱誠なる同情をもって多くの方々から祈りと慰問の電報や手紙を頂き、拝読するたびごとに皆様のご親切に感泣しました。かくまで、多くの人々がお祈りくださるならば、かならず主は聴き入れ給うならんと堅く信じました。
 21日、病院の報告は「足部のかたまりが取れて、母の乳を飲み、便通もあり、回復の曙光を認めた」とのこと。ああ、主よ。感謝し奉る。死者を甦らせ給う主よ、感謝し奉る。
 翌、22日、胸部、顔面等の患部も平癒し、乳もよく飲み、元気回復、ますます有望とのこと。
 25日に至り、もはや生命に別条なし、大丈夫とのこと、御恵みの主よ、感謝し奉る。
 聖句には、「正しき者の祈りは力あるものなり」と教えられていました。しかし、み恵みの主は、私ごとき不義の僕の祈りをも聴き入れ給い、九死のうちにある幼児を救い出し給い、生の望みを与え給うとは……。
 聖書に「誰か、その子、パンを求めんに石を与えんや。魚を求めんに、蛇を与えんや。然らば汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子に与うるを知る。まして天に在す父は求むるものに善きものを与えざらんや」と主の御言葉がありました。
 ああ、主よ、祈りを聴き給う主よ、御恵みを感謝し奉る。1月29日、母子ともに健康を回復しまして、御祝福を感謝しつつ退院しました。(釘宮太重遺稿「光暗録」より)
          *
 私は母より、このことはよく聞いていた。父は私の7歳の時、天に召された。父は実に信仰の人で、温厚で愛に富み、かつ勇気と決断力に富んでいた、私は子どもながら、父を尊敬していた。
 今回、初めて父の文章を一字一字写し取って行くとき、父の心が手に取るように分かる気がした。泣けて仕方なかった。
 私は神様と、父の愛に活かされたんだなあ。と改めて感じ入ったことです。《く》

〔テレホン聖書について〕
 第1頁の記事の最後のところで、テレホン聖書のことにちょっと触れましたが、しかし最近の小生、本文にも書きましたとおり、今日は85歳の誕生日ですから、まあまあ年ですよねえ、せっかちになりました。だからでしょうか、テレホン聖書の語り口がとちる。口も舌も、うまく廻らない。昨日は、わずか4分そこそこのメッセージを1時間かかっても終わらない。何度も、何度も、やりなおすのです。
 ぼつぼつ、このテレホン聖書も止める時かなあと思うのですが、それも惜しい。時おり、古いものを再使用することがあります。その頻度が増える可能性も強いですが、ご了承ください。
 すぐ止めはしませんが、このテレホン聖書を更に継続できるように、私自身の霊も心も肉体も健康支えられるよう、ご加祷ください。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-01-16 13:19 | 日岡だより

No.262 年頭の励まし 2007.1.7

年頭の励まし

 2007年、この年はどうも素晴らしい主の大事業が始まる年になりそうです。このことを、主がお約束されていると信じています。
 私どもの教会は別府湾の南海岸に面していますが、今は新日鉄の工場があって海は全然見えません。昔は潮干狩りが出来る広い遠浅の海岸でした。
 ところがこの新日鉄の工場を造るために、遠浅の沖合の土砂をポンプで吸い上げて手前に送り返して埋立てたのです。そうすると、沖のほうが突然30メーターほど深くなるという海底の形になってきて、それが大きな利便をもたらすのです。つまり、
 埋め立てられた浅瀬の部分は旧大分市に匹敵するほどの大きな広さ。そして急に海底に深くのめり込む地形は、何万トンの船が来ても安心して横づけできる埠頭に持ってこい。今、新日鉄には海外からくる鉄鉱石の大貨物船が悠々と入港しています。こうして世界一の製鉄工場が大分に出来た訳です。
           *
 昔は潮干狩りのほか、何の使い道もなかった日岡海岸です。昔の人が生きていて、今の様子を見れば、目を廻すことでしょう。この別府湾の背後地に豊かに主の福音を……、と私は祈っています。
 先日、1月5日の朝、大分の橋本牧師先生と、別府の永野牧師先生が突然私を訪ねてくれました。お2人で示し合わせてのお出でだったらしい。私と私の教会のために熱い祈りを献げてくださったのです。私どもの教会で、私が気にしている後継者問題をお察しになって、ご援祷に来てくださったのです。
 私はびっくりしました、そしてこの主にあって励まして下さる先生方の真情に私は心で泣きました。未開拓の遠浅のような当教会の状況を憐れんで、主は先生方を私の前にお遣わしになったのに違いありません。主の尊い御励ましに感謝します。《く》


「主の喜びは私たちの力です」

 この標題は本当は「エホバの喜びは私たちの力です」としたかったのです。ネヘミヤ記8章10節の「主を喜ぶことはあなたがたの力です」というお言葉を下敷きにしたのです。このお言葉はヘブル語原文から直訳すれば、「エホバの喜びはあなたがたの力です」となります。
 エホバという神様のご名称はもともとは言語学的合成語でして、やや問題もあるので、口語訳聖書や新改訳聖書ではこれを「主」と訳しました。
 もっとも本音は「エホバの証人」というまぎらわしい宗教団体の名称を嫌って、これを避けたのであろうと推察できますが、そうだとすれば日本聖書協会あたりの姑息な気の弱さが残念にも思えます。
 古代のヘブル語は子音だけを表記して、母音をつけませんでした。昔のユダヤ人たちには、それで習慣的に読むことが出来たのです。
 日本人でしたら、昔の日本人が和歌などで「なこりつきさる親子の別れ」などとあります時、結構これを「名残り尽きざる親子の別れ」と、濁音にして読むことができました。これに似ています。
 その母音記号のない神名に、主というヘブル語はアドナイですが、このアドナイの母音をヘブル語の神名に機械的にあてはめた、ということではないかと判断して、聖書学者たちが推測した神名が「ヤハウェ」なのです。
 こういうややこしい経緯がありますのと、エホバの証人の皆さんの熱心な伝道に辟易して、エホバという神名を避けたいという気持ちも働いたのでしょうか、明治の文語訳聖書以来の懐かしいエホバという神様のお名前が聖書から消えてしまったという訳です。残念に思います。
           *
 ところで、ネヘミヤ記8章10節の「主を喜ぶことはあなたがたの力です」というお言葉ですが、これはクリスチャンの間では、かなり有名な言葉です。
 ところがヘブル語聖書を開いてみると、言葉の組立てが違うのです、正確に訳すと次のようになるはずです。私はヘブル語はしろうとですから、心配なのですが、こう読めます。
 「エホバの喜びはあなたがたの力です」
 英訳の聖書は私の見る限り、すべてこの私の読み方と同じです。ところが日本語訳の聖書はどういう訳か、すべて「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という訳と同工異曲です。
 明治訳の「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」という文語調が日本人クリスチャンに愛誦されただけに、改訳の先生がたもこれを捨てがたく思ったのかもしれません。
 しかし私は思うのです。「エホバの喜びはあなたがたの力です」という元々の原文は凄い名文だと思います。愛着を覚えますね。日本語訳と大変な相違です。
 とはいえ、先にあげた明治版の元訳の力強さも忘れられない良さがあります。この言葉のDNAが改訳委員会にも働いたのかな、と失礼ながら推察してもみました。
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 私はなんと言っても。この原意を取ります。私たちの力は「エホバの喜びから来る」、喜びの原点は神にあります。しかも、旧約聖書では「主」というよりは、はっきりとエホバ(ヤハウェ)とある。
 私の個人的自分勝手な解釈ですが、旧約聖書でエホバという方が現れるときは、それはまず先在のイエス様と考えてよいのではないかということです。
 キリスト様は新訳の時代には預言者たちの予言した約束の方としてベツレヘムにお生まれになり、ナザレで過ごされ、ついにガリラヤからエルサレムへと福音宣教の活動を広められ、ついにゴルゴタの丘の上で十字架につかれ、ヨセフの墓に葬られ、3日目に甦ってオリブ山から天に帰られる。
 しかし実は、旧約の時代にもキリスト様はしばしばイスラエルの民の中に現れてくださっていた。その際、しばしば(あるいは常に)旧約聖書の記者は。その方をエホバ(ヤハウェ)と書いたのではないか、と私は想像するのです、
 モーセとしばしば顔と顔を合わせて語られたというエホバの神、また士師記のギデオン伝を読むと、エホバの神とギデオンとの対話の活き活きとした描写には興奮させられます。そこには活人劇とも言いたいものがあります。
 そこで、新約のイエス様の姿に目を移しましょう。イエス様が笑ったという記事は聖書にはありません。しかし、72人の弟子たちが伝道旅行から帰って来て、イエス様がその報告をお聞きになって大いに喜ばれたという記事がルカ福音書10章21節にあるのです、言わく「その時、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、云々」と。
 この「喜びあふれて」という言葉は原典のギリシャ語ではアガリアオウとあり、字引をひくと「非常に喜ぶ、狂喜する」などとあります。このアガリアオウは、他の使用例では山上の説教のマタイ5・12の「喜び、よろこべ」とか、イエス様を宿したマリヤを迎えたエリサベツの体内で胎児のヨハネが「喜びおどった」などと使われているのです。
 イエス様の語られた比喩に、主人がタラントを儲けてきて主人に褒められる僕の記事(マタイ25・21)があります。そこで主人は言うのです。「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。
 この最後の「主人と一緒に喜んでくれ」という個所が、原文では「お前の主人の喜びの中へと入れ」とある。
 私たちの主人、イエス様がワッハッハハと手の舞い、足の踏むところも知らないように喜ばれた、そのような「歓喜の中に入ってこいよ」と言われるのでしょうか。
 弟子たちの伝道の報告に狂喜乱舞されるイエス様です。「小さな僅かなことにも忠実であった僕よ」と、私たちもイエス様に喜ばれる者でありたいですね。然り、私たちの小さな小さな働きをイエス様は喜んで下さるはずです。
 そのイエス様の大いなる喜びの中に私たちはもぐり込みたいものです。そのイエス様に抱きついて、私たちも喜ぼうではありませんか。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-01-09 17:38 | 日岡だより

No.261 2006年を送る! 2006.12.31

2006年を送る!

 2006年を送る。この年はいかがでしたか。
 よく、新聞や雑誌に出て来る言葉、「泣いても笑っても、今日で、この年は終わり」なーんて。
 でも、来年がすぐ、次の日にやってくるから、嬉しい。子どもの時は、胸を躍らせて待っていましたね。ところで、
 どの子ども雑誌にも、クリスマスやお正月の景色が全面、「雪やコンコ」式に、雪だるまや竹馬に乗っている子の絵が載って、まことに楽しい。
 ところが、そんな朝を期待して目が覚めて外に出て見ると、ご当地は九州・大分、雪はめったにあるものでない。がっかりしたものです。
           *            
 さて、主のご再臨の朝は、どんなでしょう。旧版の賛美歌21番が好きです。

 「あさ日のごとくに 主よ、来たりませ、
  世界にひかりを  そそがせたまえ。

  うしおのごとくに 主よ、来たりませ、
  入り江に、浅瀬に みなぎりたまえ。

  ながれのごとくに 主よ、来たりませ、
  谷間も、枯れ野も 生き返らせよ」。

 これこそ、本当の新年です。私は小学校2、3年の頃、叔父の無教会の集会によく出ましたが、いつもいつもご再臨の話が出るので、胸がワクワクしました。
 あの頃、内村鑑三先生と中田重次先生が手を組んでの「再臨運動」が盛んだったのです。
 無教会の内村先生と聖潔派の中田先生が連携するのですから、不思議な感じもしますが、時代に敏感なお2人の先生だったなあ、とも思うのです。《く》


主の幸福宣言は絶対である

 イエス様の山上の説教(マタイ第5章~第7章)は、一見して誰でも偉大な教えだと思います。これまで誰も説いたことのない、お釈迦さんも、ソクラテスさんも、語られなかったような高度な、深い、お言葉です。
 ガンジーも、トルストイも、「これは世界第一の教えだ。これこそ我が聖書です」と、言っている。そして、「このイエス様のお言葉どおり行えば、幸福な人生を送れるよ」とも言っているようであります。
 もちろん、そうであろう。これらのイエス様のお言葉をそのまま行えば、誰でも一人残らず、必ず天国に行けるであろう。
 しかし、これは誰一人、行えない教えである。このお言葉どおり、一寸一ミリもはみ出さず。一瞬一秒も漏らさず行えたのは、歴史上ただ一人、イエス様だけであったであろう。
 地球上の人間、すべての者は失格者であるはずであるのに、なぜ、こんなことをイエス様は言われたのであろう。出来もしないことは分かりきっているのに、イエス様はなぜ、こんなことを命じられたのであろう。
             *
 イエス様はある時、言われた。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)と。なるほど、今ここで学んでいる山上の説教の中で、主は言われているのであった、「あなたがたは、世の光である」(マタイ5:14)と。
 よく読んでみると、この山上の説教は群衆を山の麓に残して、弟子たちだけを連れ、山に登られて、そこで座に着かれ、口を開いて教えられたのだとある。やや、重々しい状況である。
 私はイエス様が弟子たちを連れられてと書いたが、実は弟子たちが自分から進んでイエス様のもとに近寄ったのである。
 すでにイエス様に招かれて弟子になっていたペテロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネたちは、当然その中にいたであろうが、私の思うのに、群衆の中からまだ弟子ではなかった何人かの者たちが、イエス様のあとを追って山を登って行ったのではなかったか。
 彼らはまだ弟子でなかったが、その時、彼らは確かにイエス様の弟子になったのだと、私は信じるのである。
 もう五十年も前のことだが、私は手島先生を慕って熊本に滞在していた頃だった。すでに手島先生の筆頭弟子みたいだった桜井信市さんの家に行ったことがある。行ってみると、その門柱に「キリストの弟子 桜井信市」と表札があって、いささか驚かされたのであった。たしかに、桜井先生はイエス様の弟子と言っても当然のような人であった。
 使徒行伝を読むと、初期の信徒はすべて「弟子」と書かれている。終わりのほうになると、「兄弟たち」という表現になる。
 もう一度、イエス様のお言葉を書く。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。これがイエス様の弟子に与えられる特権である。
 「イエス様を信じる」とは言っても、遠く離れてイエス様を望見しつつ、弱々しく「イエス様を信じます、信じます」とつぶやいている程度では「弟子」とは言えまい。そういう人たちのうちに、イエス様の光が宿るとは言えまい。
             *
 とは言え、私は確言したい。前述した「弱々しく『イエス様を信じます、信じます』と言っている」ような弱いクリスチャンでも、私はその人をクリスチャンだと認めます。これは真実です。
 私も長いあいだ、そういう信徒だった。覚えているが、まだ20歳代だった頃。私はしばらく今の日本キリスト教団大分教会に出席していた。牧師は飯泉先生だったが、その教会の青年会で私は会長になっていた。そのころ飯泉先生から勧められて青年会の会誌を作ったことがある。その中に私の信仰エッセーを載せた。題して「罪人われ」というのであった。
 私は「罪から抜け出せない自分の悲しさ、辛さ、厳しさ」をあからさまに書いた。「それでも私はクリスチャンです」という信仰を貫く姿勢をも書いたつもりであったが、多くの若い青年諸君につまずきを与えたことも事実であった。
 この矛盾に富んだ信仰告白を、当時の私は、まだうまく語りえなかったのである。また、私はまだ弟子にはなっていなかったのである。もちろん、イエス様の弟子になりたかった。
 しかし、障碍があった。すでに一切を捨てて戦災孤児との共同生活をしていた時代もある。そうした時代、新聞紙上に称賛の記事を書かれたりもしていた私である。しかし、これでも弟子とは言えなかったのだ。
 障碍とは何だったか、私にはまだキリスト様内在の信仰がなかったのである。私はすでに一九四四年(昭和十九年)にコンバーションを体験していた、だから私は「義認」の信仰はちゃんと握っていた。しかし、私のうちに生きていてくださるイエス様が、まだ分かっていなかった。
 その恵みは1948年3月30日から4月3日のあいだの5日間のあいだに来るのだが、その正確な日時は忘れている。ともあれ、それは私の「我なんじを去らず」体験と称する聖霊体験である。
 そのしばらく後に、私は「ツルサキに行け」という神様の声を聞く。そして当時はまだ大分市郊外であった鶴崎町に伝道を開始するのである。
 誰ひとり知った人のいない鶴崎町に行って、街の電柱に「キリスト伝道開始」の宣言文を貼りつけて、そして名前だけは知っていた鶴崎高等学校の泰平校長を訪ねて挨拶をした。ところが数日して私に急いで学校に来てくれと伝言がある。
 行ってみると、「この学校に事務職員の予算がきた。あんた、この高校の事務職員をしないか」、という。いや、すでにそのように決めてしまったように言う。こうして私はその学校の職員になった。
 恥ずかしく、可笑しいことだが、そうなってみると、私は教員でなくて事務職員であることが不満に感じられたのが正直な感想。まだまだ潔められてはいなかったのである。
 その後、林兄が学校に私を個人的に訪ねてきて「信仰を学びたい」という。そして兄弟の家がこの町の中心街にあることを知り、そのお宅を借りて毎週の日曜日集会が始まる。この林兄はすでに召されて、今は別府背後地の教会墓地にその名が刻まれているのである。
             *
 もともとの標題に戻りたい。「主の幸福宣言は絶対である」ということである。これは山上の説教の冒頭の3節、「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」(文語訳に倣って)を文字のまま、日本流に「心が貧しい者」と読んで、そう言う情けない卑しい心根の人でもイエス様は祝福されると読みたいというのである。
 この「心が貧しい」というのは、当時のユダヤ語圈では「心が謙遜」という意味であったと聖書参考書にはある。私も普段はその解釈に従って、聖書講義をしてきた。
 しかし今回は、このまま読みたい。日本流にみじめな心の貧しい人に対しても、イエス様は「幸福だよ」と言ってくださる。今、悲しんでいる人にも、「幸福だよ」と言ってくださる。これは「イエス様の幸福宣言」なのだ、というのが私の趣意である。
 聖書の原語のユダヤ的本意が分からなくて、「へえ、『心の貧しい奴でもイエス様は幸いだよ』と言うのかい」と、不思議がる人にも、「そうなんです。どんな人にもイエス様は『あなたは幸福な人になるよ』と言ってくれるのです。これは天下のイエス・キリスト様のおっしゃることです。この言葉は絶対です。あなたに対するこの『幸福宣言』は必ず成就するのです」。と、私は言いたいのです。
 イエス様の幸福宣言は絶対である。これが今回の主題です。《く》

〔今年の残したい記事〕
本年9月17日の「日岡だより」246号に載せた「人生の評価」と題した先師手島先生の文章を再掲します。
 人間を評価するのに、現在何かをしでかした、大仕事をやったというようなことは小さい問題です。自分が願うことをまだ十分に成し遂げないまま、とうとう終わってしまう人生があります。
 しかし、神様はそういう人生の歩みをも全て、次の世界においてお用いになる予定のはずです。ですから、現在の、この世だけの成功とか失敗だけを見て、人を評価してはいけないし、自分をさげすんでもなりません。人間の評価と神の評価は違うということです。
 自分の中にある大きな理想、夢、願望、それらが大きければ大きいほど言葉では説明できないし、世の人々には分かりません。人々が無視したところの全て、成し得なかったところの全て、これこそが神の前における価値であるのです。(「生命の光」2006年9月645号より抜粋)
 私はこの手島先生の文章に異常なほどの感銘を覚えました。斯くの如き文章を先生に書かしめたブラウニング(ブラウニングの詩に寄せて手島先生が書かれたのです)は別として、世界にこんなことを言った人は、過去にも、現在にも一人もいないのではないか、と私は思うのです。しばらくして私は気づきました。臆面もなく言えば、私の「降服論的絶対非戦主義」や「日本列島を世界のカントリーに」等の論もほぼ、ここに手島先生がおっしゃる「世の人々に分かって貰えない理想だったんだな」と、思ったことです。多言失礼!《く》
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by hioka-wahaha | 2007-01-02 22:32 | 日岡だより