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No.234 私の背後にいます全能の神 2006.6.25

私の背後にいます全能の神

 本日の説教題は「私たちの信じる神は全能の神」という題にしました。説教題としては、長すぎますが、道端に出す教会の看板には、道をとおる一般の人々に印象づけるために、パッと目を射る題にしたい。そこで「私たちの信じる神は全能の神」としたのです。
「この教会の信者さんたちの信じる神さんは全能の神さんか。ヘエ?!」と言わせたいのです。また、この教会にはいってくる皆さんがたにも、「あ、私たちの信じる神は全能の神なんだ」と印象づけたい。そういう私の狙いもあったのです。
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 ところで、今日の説教の主題聖句は創世記17章1節前半、主がアブラムに現われて言われた言葉です。
  「わたしは全能の神である。
   あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」。
 そこで、想像してみてください。今後アブラムが、その後に神様に名前を変えていただいてアブラハムですが、彼が歩む全生涯の行程において、いつ如何なる時にも、彼の背後に全能の神様がおられる、ということです。
 言わば、神様が彼のうしろにあって輝く時、それはちょうど、後光のように輝くわけです。神の栄光のオーラが常に彼に付きまとうのです。そして彼の為すこと、すべてが神の業となります。
 そこで、「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」という言葉は、神様の命令の言葉というより、神様の約束の言葉、祝福の言葉なのです。《く》


続・愛についての書簡

 前号に引き続き、「愛」についての書簡です。
 愛についての究極的説明は、聖書そのものが最適です。ヨハネの第一の手紙4章7節以降を読みましょう。ここの文章にまさる愛の説明は他にないように思います。
 愛というのは私たちの愛ではなく、神様が私たちを愛してくださった愛だと言うのです。イエス様にある十字架の愛です。この愛に打たれて初めて、私たちは互いに愛し合うことができるのです。
 さて、第一ヨハネの手紙のここでは、「神の愛が私たちのうちに全うされる」とありますが、「私たちのうちに全うされる愛」とは、どんな愛でしょうか。ヨハネの胸を掻き裂いて探ってみたいほどです。 ヨハネが斯く言う信仰の境地は、恥ずかしいですが私にはピッタリと分かりかねて残念です。これは使徒ヨハネの到達した高い愛の境地だと思いますが、ともあれ、ただ分かることは愛ということは、神様に愛されて初めて分かるという事です。
 この辺でパウロの手紙をさぐってみたいと思います。まずエペソ3・17~19です。
 パウロは言います。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって満たされるように祈る」と。これは先にさげたヨハネの「私たちのうちに全うされる神の愛」のことだと、理解して差し支えないでしょうね。
 そして、そのためには、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さを理解する」ことが肝心だと言っているようであります。どうしてそんなことが出来るでしょうか。その秘訣をパウロは17節に明かしているようです。こう言っています。
 「<1>信仰によって、キリストが私たちの心に住み、<2>私たちが愛に根ざし愛を基として生活することにより」、それが出来るとパウロは言っているのだと思います。
 このことは、更にエペソ5・1、2を読むと、理解しやすくなると思います。「こうしてあなたがたは神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい」。
 キリストにある神様の愛を基礎とし、神の愛に根ざし、神の愛に倣って現実の時代に生きて行くという、クリスチャン・ライフの提唱です。
 このように、現実の生活のレールが敷かれなくては、信仰の言葉は空理空論になります。空疎な人生論になります。
 本当に地上で空気を吸い、太陽の光を浴び、朝昼夕の飲食をし、夜の眠りのなかに夢を見さえする生きた人間にとって、聖書の教えは生きるための技術書でもあります。生きる信仰の実技が分からなければ、信仰は生きた信仰になりません。
           *
 そこで第一ヨハネ4・8の「神は愛である」の一句は、愛を語る最高の言葉です。昔のキリスト伝道の会場では、よくこの一句を大きな提灯に黒々と書いて吊り下げ、人々の集まるのを待ったものです。
 「神は愛である」という言葉を比喩的に取らないことです。神の存在そのもの、神の実存そのもの、神のすべてが愛一つである、というように受けとめましょう。そうすると、愛が人格となって、動詞的に人類に迫ってくる、その肉体的実存化がイエス様であるのです。
 そこで、あらためてイエス様のお言葉を思い出すのです。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・12)。「私があなたがたを愛したように」というお言葉には、イエス様の命をかけた気迫が感じられます。
 そこで、この「ように」という言葉を単なる模範とするか、あるいは真似するとか、ということではなく、「イエス様が私の中に住み、私がそのイエス様に根ざし、イエス様の栄養分を吸い上げて、イエス様の命を生きるかのように」と読んでください。
 模範でも真似でもなく、生命源として、それに頼りきって生きるのです。そのイエス様の生命を受けとめる時、イエス様の生命は罪人のために十字架を背負う生命力です。
 先のヨハネ15・12に続いてイエス様は言われます。「人がその友のために自分の命を捨てること。これより大いなる愛はない」と。そこで続けて「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われる。
 この言葉には二重の意味があります。
 <1>あなたがたが、友のために命を捨てるような愛のわざを行うことが出来るということは、イエス様ご自身があなたを友として、あなたのために死んでくださり、イエス様の命があなたの中に生きているからこそ、あなたにはその愛のわざができたのだということです。
 <2>同時に、その時あなたはイエス様の友となっているのです。あなたは正にイエス様の尊い友なのですよ、親友ですよ。
 こうして、第一コリント13章の愛の章の大宣言が主を信じる者に実現する訳です。信仰、希望、愛、そのうち、愛が最高です、とパウロ先生が言われる。
 その最高の徳を頂く秘訣はイエス様の命を頂くことにあります。この命に根ざして、命をかけて、互いに愛し合いましょう。たとえその人が敵であっても、「友よ」と呼んで命を与える人になることができます。
 私はいわゆる「ユダの福音書」を信じません。ユダはイエス様を正に売ったのです。しかしイエス様はご自分を売るために偽って接吻を求めてくる時に、彼に向かって主は言われました。
「友よ、なんのためにきたのか」。
 主は友である彼のためにも死なれたのです。
 彼が木にくびれて死なずに、なぜ十字架のイエス様のところに行って、「主よ、赦してください」とひれ伏さなかったのでしょうか。これがユダの最大の失敗です。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-27 17:05 | 日岡だより

No. 福音の旗を掲げよう 2006.6.18

福音の旗を掲げよう

 近日、星野富弘さんの詩画展が福岡で開かれるらしい。毎日新聞の一頁のほぼ全面を占領して、作品の4、5点をカラー印刷で挿入して、紹介記事を載せていた。
 もう5年か、10年たったと思うが、大分でも星野さんの詩画展が開かれたことがある。それを見に行った中尾閲実さんがプンプン怒りながら帰ってきた。「先生、あの星野さんの絵、気持ちのいい言葉を書いてあるけれども、それだけで、神様のこともイエス様のことも、全然書いていない。腹がたった」
 と言うのであった。今回、上述の毎日新聞の一頁のほぼ全面記事をみて、かつて中尾姉の慨嘆を思い出したことである。
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 星野さんはイエス様を信じるキリスト者ではなかったのか。なぜ、その信仰を表に出さないのか。読んで、「ウン、ウン」と大衆を納得させ、考えさせ、人生を想わせる気分のよい言葉ではある。悪いことではない、たしかに良い言葉だ。
 しかし、なぜ信仰を隠すのか、まさか隠れキリシタンのつもりではあるまい。現代は信仰を語るにはまことに開けっぴろげな有り難い時代である。戦前を覚えている私には、まことに涙が出るほど有り難い時代である。
 いま、何かかっこよい言葉を語って、信仰者の気分を匂わすだけで、伝道ができたと満足してすむ時代ではない。もっと福音の旗を高く掲げよ。遠慮するな、と言いたい。星野さんを責め立てるのは個人的には気の毒だが、多くのキリスト者諸兄姉に警鐘を鳴らしたいのである。《く》


「愛」についての書簡

 某姉より「愛」について、どう考えたらよろしいのかとの、ご質問を頂きました。愛についての説明を始めると、非常に長くなるという見とおしもあって、第一便、また第二便と日を分けて送りたいと、最初にお断わりしたことでした。
 その第一便が私のワープロに残っていますので、そのままを最初の挨拶は除いて以下に掲載します。
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 あなたのお手紙の中で、「愛という言葉に、ふしだらな感じがある」ということに、ふれておられましたが、これについて面白い話があります。
 明治の中ごろでしょうか、外人宣教師が伝道集会で「皆さん、互いに愛し合いましょう」と聖書の言葉を使ってお勧めをしました。ところが聞いていた若い人たちの間でクスクス笑いが起こりました。宣教師さんは、それがなぜか分からず戸惑ったそうです。愛という言葉に「性愛」を意味するところがあることを宣教師さんは知らなかったのです。
 愛という言葉が、キリスト教的な深い清い意味では、まだ滲透していなかった時代のことですね。明治以前の古い時代では、愛という言葉は仏教用語として煩悩を意味する言葉でした。
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 とは言え、愛という言葉が案外にも明治の初期に高度な意味で使われている例があります。
 それは西郷隆盛の有名な「敬天愛人」という言葉です。西郷さんが、どういう経緯でこの「敬天愛人」という言葉を使ったのか、私は残念ながら知りません。しかし、驚くべき言葉だと思います。
 天という言葉も、中国系の用語としては神をさします。それも唯一神をさすことが多いようです。
 イエス様が教えられた、「最高の律法とは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ。また己れのごとく汝の隣り人を愛せよ、この二つである」という言葉と軌を一にします。
 西郷さんがこういう高い境地を、言葉だけでも言い得たということは、なぜでしょうか。彼は一度長崎に行って宣教師に会ったという記録があったように思います。その宣教師さんから聖書の話を聞いたことがあったのかも知れません。
 そうだとすれば、その宣教師は1859年に長崎に来たフルベッキ宣教師だろうと思います。この方は後に東京に行き、明治天皇からも招かれて、宮中で聖書のお話をしたらしいことも分かっています。
 明治天皇は後日あるお局さん(世に言う愛妾です)の一人に「お前の息子はキリスト教の牧師にせよ」と言ったという話があります。事実、そのとおりになって、今、堺市で牧師をしている小林先生がその息子さん(あるいは孫?)だそうです。
 こういうことから、明治天皇もキリスト教を信じたらしいという噂もありますが、それは不確かです。しかし、皇族の中にどこかキリスト教に対する好意があるのは確かなことのように思います。
 天皇家の問題は興味がありますが、それはさておき、西郷さんは聖書の中の愛という言葉を知っていたのかも知れない。これこそ興味ある問題です。
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 ギリシャ語で愛という言葉は5つあるそうです。
 ヨハネ福音書21:15~17の中で「愛する」という言葉の原語はアガペーとフィレオーの2つに分かれています。15、16のイエス様のお言葉はアガペーですが、17に出てくるイエス様の「愛する」という言葉はフィレオーになっています。それに対し、ペテロの答える15、16、17の「愛する」は、すべてフィレオーなのです。
 アガペーは神様やイエス様の愛で、命を捨ててまで罪人を愛してくださる神的な愛です。それに対しフィレオーは人間同士の「親しみの愛」だそうです。これも良い愛ですが、アガペーには劣ります。
 ギリシャ語の愛で、広く知られているのはエロースです。これは性的な愛を示します。世間で言うエロチックのエロの語源です。しかし、ギリシャ古典では真理を求める良い意味でも(プラトンなども?)使われているそうです。
 もう一つは、肉親愛。つまり親子や兄弟、夫婦の間の愛をストルゲンと言います。よく人間の愛の中では、母が子を愛する愛以上に深い愛はないだろうと言われます。アメリカでの実例ですが、ある母親が自分の子供が目の前で自動車にひかれるということがおこった。そのお母さんはいきなり自動車に飛びついて車を引き上げ、子供を助けたそうです。
 ところで、お父さんだってこうです。韓国の釜山での実話。鉄道のレールの上で子供が遊んでいました。そこへ電車がブレーキかけながらも迫って来る。そばにいたお父さんが「危ないッ」と叫びつつ、飛びこんで子供を撥ねとばしたが、そのお父さんは死んでしまったと言います。これが父の愛です。
 これらの親の愛は自分の子供に対する愛だけで、他人の子供に対して発動しません。その点だけ、閉ざされた愛です。
 しかし驚くべきは、先年の東京の中野駅でホームから落ちた人を救った韓国の一青年のことです。この青年がホームから飛び降りて、落ちた人を救い上げ、そして自分は列車に引かれて死んでしまったという忘れがたい事件のことです。
 こうした神様のアガペーの愛にも似たすばらしい愛の行動を起こして下さる人が時には実際に居るということ、本当に驚異、感謝です。
 神様に造られた人間には、すばらしい神様の愛の魂が些かでも残されているらしい、この貴重な、かつての新聞の報道を思い出したことでした。《く》

〔あとがき〕
第一頁の星野さん批判は、温和な星野さんには大変失礼な直言で申し訳ないのですが、この事について6月16日の祈祷会で「はっきり語れ」と題して、メッセージしました。聖句はコロサイ人への手紙4:4にあるパウロの言葉、「語るべき言葉をはっきり語れるように祈ってほしい」を選びました。「何につけても、はっきり語ろう。世間や人に向ける言葉も、神様の前に語る祈りの言葉も、自分自身に向かって語る自己宣言も、はっきり語ろう」と言うことでもありました。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-20 23:38 | 日岡だより

No.232 聖書は神の直伝の書/ダ・ヴィンチ・コードについて 2006.6.11

聖書は神の直伝の書

 ダ・ヴィンチ・コードの評判につられて、聖書の権威を疑わせようとする本が続いて出版されている。「捏造(ねつぞう)された聖書」とか、「イエス・キリスト 失われた物語」とか、そういう類の本である。
 いずれも、イエス様の神性を否認し、キリストも人間であった。だから結婚もしようし、子供も生まれるだろう。聖書は人間が都合よくでっちあげたもので、矛盾や欠陥が沢山ある、といった具合である。
 多くのクリスチャンたちも、こういう本を読むと、かなり動揺するだろうと思う。聖書が現在の形になるまで、何度かの会議を経て、古くからの写本類を取捨選択してきたことを知っている人なら、尚更のことである。
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 しかし、多くの会議を経てこうなったとしても、斯くならしめたのは聖書自身の力なのである、ということを私は強調したい。
 聖書自身の力が、聖書編纂者を突き動かして、斯くならしめたのであると、聖書は語っている。神の霊感が聖書記者をして、このように書かしめたのである(第二テモテ3:16、第二ペテロ1:21参照)と。
 言い替えれば、聖書は神の直伝の書なのである。このことは、聖書自身が聖書を読む私たちに証明する、それが聖書の力である。
 私たちが、聖書を読んで、イエス様を信ぜざるを得なかった。そして私たちの内に人挌の変革が起こった。このことが何よりも、聖書に霊的力があることの証拠である。《く》


ダ・ヴィンチ・コードについて

 多くの日本の民衆にキリスト教に興味を持たせるためには、今回のダ・ヴィンチ・コードの本ほど効果のあった例はない。誰でも読みやすい小説仕立てのようであるから、有り難い。「ようであるから」というのは、私はまだ読んでいないのである。
 残念ながら、さすがの読書好きの私も、最近はとみに読書力が落ちて、特にこういう反キリスト的と分かっている文章に対しては読む気力が起きない。
 ともあれ、前頁に書いたように、次々に類似本が出て来るようで、私は歓迎している。
 このくらいの本で、信仰の危機を感じるクリスチャンは、まだ本当のクリスチャンではないのである。そういう方々は、この機会に真の信仰の再建築をしてほしい。
 キリスト教信仰と言わないで、「教」を除いてキリスト信仰と言ってほしい。私どもの教会の名称を私は「キリストの福音大分教会」とつけたのも、似たところから来ている。
 キリストの福音大分教会と呼んでいただく時、この「の」は所有挌の「の」である。キリストの所有される福音を私たちは信じ、この福音に私たちは属するのである。
 一般にキリスト教会と呼ぶ時、キリスト教の会と誤解される懸念がない訳ではない。断じてそうではない。キリストの教会であって、キリスト教の会ではない。
 クリスチャンのチャンを、まさか「サッチャンはね」のチャンと思っている人はなかろうが、似たようなものかもしれない。このチャンはキリスト「の者」という意味である。
 クリスチャンはキリストの者になりきっていてほしい。イエス様を信じているつもりのクリスチャンでは困る。イエス様を信じるとは、どういうことか。イエス様の朱印が赤々と心臓に打ち込まれている人のことである(エペソ1:13参照)。
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 聖書を読みましょう。聖書は第1頁に書いたように神様直伝の書である。神様が書いた本であるから、書いてあるままを、そのまま信じるのである。
 旧約聖書では、神様は唯一の万物の創造者なる方であると書いてある。そのことを信じましょう。それがクリスチャンである。
 新約聖書ではイエス・キリスト様は真の神であり、また真の人間であると書いてある。そのことを信じましょう。それがクリスチャンである。
 旧約聖書における父なる神様の神髄は、「我は有りて在るものなり」と言われる、そのコトバの発信源そのものの方である。言いつめると、そのコトバそのものである。
 そのコトバこそ、その方がキリストである。キリストが人間として地上に表れる時には、彼は神様が最初に作られたアダム以上に、理想的人間、欠陥なき人間、神様そのままの姿に造られた人間なのである。だから、助け人が不要なのである。つまり妻を必要としない存在である(創世記2:18参照)。
 肉体的父を必要とせず、「人の子」としてお生まれになった方は、ご自分も肉において子をお造りになることはない、霊において子を造られる。
 霊の子らは風のごとくに新しく生まれるとイエス様はニコデモに説明されたとおりである。
 だからイエス様をいわゆる普通の人間並に、妻を必要とし、生殖において子を造らざるを得ない存在として解釈するダ・ヴィンチ・コードのキリスト像は、偽のキリストである。
 キリストは、真の神であって、なおかつ真の人間なのである。
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 このようなイエス・キリストを理解することは、並の人間の理性では不可能である。まして、信じることは出来ない。
 どういう人が、それが出来るか。それは、真の神であり、なおかつ真の人間であるイエス様ご自身が、その人の心に宿る時、それができるのである。
 キリスト信仰とは人間が「信念」をもって神の存在を認め、信じ、イエス・キリストを救い主と認め、これを信じることではない。信仰とは信念のことではない。
 イエス様が私の内にお住みになってくださって、信じるも信じないもない、まさにイエス様が私の内におられることを直感させられている、そういう事実をさす。
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 物が燃える時、火はその物とは全然異質なものであるが、その物に寄って燃える。人は肉なる存在であるが、聖霊の火が燃えると、人は燃える。
 しかも聖霊の油が注がれるので、いつまでも燃える。その内、肉は燃え尽きてしまうが、新生した霊なる私は死ぬことはない。そして天に帰って行く。
 イエス様を信じる信仰が、それを実現させてくださるのである。主を賛美しましょう。《く》

〔あとがき〕
去る6月4日夜、予定どおり東京秋川集会に寄せていただき、小集会を持たせていただいた。赤坂家、相馬姉、瀧澤兄のご愛に感謝します。▼翌日は八王子の野上家を訪問、時間が少なくて残念でしたが、夫妻と主にある交わり、祈りを共にできたことを感謝します。▼5日、6日は、御茶の水のキリスト教学生会館で日本民族総福音化運動の評議委員会に出席しました。総裁が奥山実先生、事務局長が手束正昭先生、大分からは橋本守先生もご出席。その他、全国から20名ほどでしょうか、世間並の表現をすれば多士済々、元気のよいご意見、談論風発、珍しく(?)黙っているのは私だけ、ということでした。▼特筆すべきは手束先生の提案でした。目下、日本における新宗教の間に分裂騒ぎが起こる可能性が強い情勢あり。これら教団から脱出してくる鍛われた信者さんたちを、キリスト教圏に迎え入れる用意が必要だということ。あたかも、先週の本紙に紹介した元創価学会や幸福の科学の幹部を務めて現在鈴木先生のシャローム教会の信徒になっている小沢さんが来席していて、同兄に今後のそうした受入れ体制作りの助言と応援を得ようということも話題になりました。今回、本紙に執筆しました「ダヴィンチ・コードの良き効果」も期待できる現在の時代趨勢の面白さに注目したいと思います。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-13 11:07 | 日岡だより

No.231 愛国心とは何か 2006.6.4

愛国心とは何か

 「愛国心とは何か。それはエゴイズムを国家大にしたものである」、という言葉をある本で読んで、「なるほど」と思ったことがある。まだ、戦前のことだ。
 人間の造る組織や団体は大きくなれば大きくなるほど、人間のお互いの欲心や自己防衛心をモロにむき出して、それが善いことだと思わせる力学がはびこる。この傾向に逆らうことは本当に難しい。
 特に国家が「愛国心」などと言い出す時には、キナくさいものがあたりを覆う。軍備必要論が妖怪のごとく動き始める。そうこうしているうちにハッと気がついた時には、もう「愛国者」たちが鼻をうごめかせ、肩をはって歩き始めている。昭和の一桁の頃がそうだ。上海事変が始まったのである。
           *
 「愛国心」の出所を「愛郷心」になぞらえて、なんだかロマンチックな色彩に染めて語る人がある。これはインチキである。「愛郷心」には母性を恋うるような秘めた感情がある。「愛国心」には外敵を意識する排他精神がある。
 ただし、予想できる外敵にたいして、国民を護ろうとする護民精神は是非無ければならない。外なる敵から最新の核弾頭を打ち込んで来る時、これを頭上にあびる国民をその災害から護ることは果たしてできるのか。やってくる核弾頭を完全に迎撃できる武器は今の日本にもアメリカ軍にもあるようには思えないのだ。
 西本さんのシェルターの輸入販売を応援したい私の思いはそんな所から来る。これこそ、本当の愛国心、いや護民精神である。《く》


創価学会に負けるな

 リバイバル新聞の6月11日号に、小沢さんという方の「日本の宗教と政治」という欄があって、創価学会のことに触れている。この小沢さん、元創価学会の幹部であったらしいし、その後、幸福の科学の理事長にも就任、その後、クリスチャンになったという人物だ。
 このような人には、今のこの日本のキリスト教の沈滞ぶりに対して、ズバリものを言う十分の資格がある。心して聞きたいものである。1950年代から、戸田、池田と続いた折伏大行進の頃、あの爆発的エネルギーはどこからはじき出てきたのか、もともと日蓮系の宗団にはこういう勢いはあるのだが、それにしても創価学会は凄かった。
 先週のこの「日岡だより」で、まず上げたのは、日本の霊的暗部を衝くということであった。そして日本にたいするジェイコブスさんの預言と、天野先生のしるしと不思議の集会であった。
 そこで言いたかったのは、<1>私たちの祖国日本に対する神様による洞察と政策と、<2>聖霊による奇蹟的伝道の必要であった。
 そして、今回言いたいことは、<3>私たち日本の伝道者、クリスチャンがかの創価学会的熱意と行動力をもって日本宣教に乗り出すべきだということです。
 このために、まず何が必要か。第一に信仰の明確さです。全クリスチャンに、はっきりした回心を求めたい。あのパスカルがメモしたような「火の体験」がほしい。

        火
  アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
  哲学者や学者の神にあらず
  確実、確実、感激、歓喜、平安
  イエス・キリストの神
  Deum meum et Deum vestrum.
         (わが神、即ちなんじの神)
  なんじの神はわが神なり
  神以外、この世および一切のものの忘却
  神は福音に示されたる道によりてのみ見出さる
  人間の魂の偉大さよ!
  「正しき父よ、げに世はなんじを知らず、
          されど我はなんじを知れり」
  歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙

  われ神より離れ居りぬ
  わが神よ、我を捨て給うや
  願わくば、われ神より永遠に離れざらんことを


回心について

 尤も、回心と言っても、誰でも同じような激しい回心をするわけではない。
 最近、茂木健一郎さんという人の「ひらめき脳」という本を読んで気がついた。これは宗教体験としての回心について考えさせられる。宗教体験としてと言うのは、キリスト教も含めてのことだが、激しい回心と言えば、使徒行伝に出るパウロのダマスコ途上の回心など良い例だろう。
 私がしばらく属した手島先生の幕屋には、そういう例が多かった。今、西東京で伝道しておられる今橋先生などは、私も親しくしていただいたかの桜井先生の熱い按手祈祷により脊髄カリエスがバリバリ音を立てるようにして癒されたのだが、同時に信仰の回心をされた。
 ちなみに「釘宮先生の回心はどんなでしたか」と今橋先生に聞かれたから、私の獄中回心記を語ったが、「その程度でしたか」とちょっとガッカリしたみたいで申し訳ない気がした。たしかに、私の回心はしっかりした確かな回心ではあったが、それほど外見的に驚かせるほどのものではなかった。
 私は「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」(第二コリント5:14)のお言葉により、「ああ、私もそのすべての人の一人だ。私の古い人はもう死んだのだ。私はもうキリストにある新しい人になった」と一瞬に悟ったのである。それは私にとり、かけがえのない徹底した回心であったが、しかし私の内面に起こったことで、外側では何の変化もない、簡単な事件であった。
 しかし、その日から私は俄然変わったのである。それは福岡刑務所の独房の中で起こったことである。
 だれ一人、私の内面の回心を悟る人はいない。しかし、その日からから、私は明るいきびきびした囚人に変化したのである。まず囚人仲間の雑役から、そして担当看守から、そして中央詰め所にいる看守部長にいたるまで、私の変化に気がついた。「あの902番に何が起こったのか」。私の囚人番号は902番であった。
 それでも今橋先生の回心にくらぶれば、まことにおとなしい回心であった。
 茂木健一郎さんの「ひらめき脳」を読むと、発明家や芸術家が「ひらめき」を覚える一種の心理学に脳生理学をプラスしたような気分変化、このひらめきと称する「気づき」、これには大小あるが、宗教者の回心に似ていることを発見するのである。
 聖書を読んでいて、小さな一句に「ハッ」とひらめく小さな回心から、ジョン・ウェスレーやチャールス・フィンニーなどのような明確な回心にいたるまで、そして私の父・釘宮太重や私の母や、私や、私の妻や、私の初期の信徒の皆さんにいたるまで、大小の差はあっても、それぞれ明確な回心を経てクリスチャンにさせていただいたのである。この恵みを多くの方々に体験して頂きたいと思うのである。《く》

〔あとがき〕
回心を英語でコンバージョンと呼ぶのが普通であるが、ある英語に慣れた人に言わせると、宗教的回心の場合はコンバーションと言うのが正しいそうである。回心については、新教出版社の「回心記」(石原兵永著)が、参考になると思う。少なくとも、私などの体験してきた回心というものを、如実に表現している文章は、この石原先生のものが一番良いように思う。ご講読をお勧めする。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-06-06 18:06 | 日岡だより