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No.213 日本人クリスチャンの品格 2006.1.29

日本人クリスチャンの品格

 昨年11月に出版された藤原正彦さんの「国家の品格」という本、私は東京に出た時、浜松町の店に山積みされているので買った。「これはベストセラーになるな」と思ったが案の定だった。
 拡大宣教学院に行って、マグニファイの高森編集長に見せたら、さっそく「この品格というテーマで2月号に書いてください」という。OKして大分に帰ったのだが、下手な文章の上、長文になってしまった。高森編集長に申し訳ない。しかし、ご返事に言わく、「これ、上下に分けて2か月連載にします」と。
 ともあれ、この連載の(下)になるだろうと思うのだが、私は日本人らしいクリスチャンの、その代表的人物として、内村鑑三、新渡戸稲造、賀川豊彦と3人のお名前をあげた。実はこの3人の方々のほかにまだまだあげたいお名前はいくつもある。救世軍の山室軍平や、「余の尊敬する人物」の矢内原忠雄、「不如帰」の徳富蘆花、鉱害問題で天皇直訴の田中正三、など。
 しかし、私はその前に、庶民出のクリスチャン本間俊平をあげたい。本間俊平先生は小学校しか出ていないと思う。卒業と共に、大工の手伝いに出された。先生は材木の切れ端を燃やす焚火のそばで、板きれに燃え差しの木切れで字を書いて覚えたという。後年、先生の墨蹟は多くの人の垂涎のもとであった。
 先生は山口県秋吉台の大理石掘り出しの事業を営んだが、刑務所を出て来た人たちを迎え入れて、その世話も信仰指導もした。逸話は山ほどある。彼の熱烈信仰と正直無比の商売の仕方は、実業の日本社(?)から出版されて、当時のベストセラーになった。
 府中の刑務所に行って講演した時、壇上にあがって囚人たちの前に立った瞬間、先生は思わず嗚咽した。「諸君、申し訳ない。諸君がここに居るのは、皆このわたし本間俊平が至らなかったからだ」と言ったという。聞く人によれば「思い上がりも甚だしい」と言うだろうが、彼にしてみれば本気なのだ。大分の高等商業学校で講演したとき、壇上で興奮のあまりでんぐり返りをしながらしゃべったというほどだ。感激屋だ。彼の人生、感激の一生!
 玉川学園を作った小原国芳は学生時代から秋吉の大理石工場の集会に毎週出席。後に玉川学園を作ろうとするとき、「先生、どこが良いでしょう」。「ここだな」と今の町田市に指を置いた。「先生、そこは鉄道が来ていません。」「なあに、君が良い学校を作れば、鉄道がそこにくるよ」、そして地図の上にグイと線を引いた。それが今の小田急線である。《く》

 
欝(うつ)から抜け出すには 

 本紙の先週号〔あとがき〕に、標題の「欝(うつ)から抜け出すには」のことを書きました。まことに失敗作だと思って、正直に私の感想を書きました。同じ心の病気でも「統合失調症」のことを知って「欝のことなんか、大した事じゃないよ」と実感したせいもある。でも、欝は欝でご当人には大変なのです。やはり欝についての私の意見も無駄ではないと思いなおして、同冊子より抜粋して以下に転載します。《く》
              *
 欝病という病気がある。人によっては欝病は病気ではないと言う。とにかく、医者にかかっても治りにくい病気である。
 最近、欝病の人が多くなった。気分が重い。いらいらする。何をしようにも、する気が起こらない。何も始められない。ただじっとしているだけで、怠惰な自分を情けなく思うだけだが、それ以上、何も出来ない。そういう人たちが増えてきた感じがする。
 石の中の孫悟空でないが、何やら暗く重い空気の中に閉じ込められたみたいである。「いずれ出口が来ますよ」と、医師は言ってくれるが、「いつになったら、この暗い気分が晴れるのか、見当がつかない」。不安で一杯なのである。
 どうしたら、この不安から解放されるか、エネルギーを全く喪失した感じである。人から「大丈夫だよ」と励まされると、かえってますます無力感に襲われる。そう言って励ましてくれる人がうとましい。
              *
 私は医者ではありません。又、カウンセリングの専門家でもありません。それでも少しづつ分かってきたことは、人間は言葉を持っている存在だということです。これは、他の動物と大いに異なった特徴です。言葉が人間の自意識を作っているのです。
 私は若い時、聾学校の教員をしていました。「耳の聞こえない子どもに、なぜむりやり言葉を教えるのですか?」。この疑問に先輩の教頭先生が教えてくれました。「言葉が無ければ人間らしい思想を持つことが出来ません。正に人間失格になるのですよ。」私はびっくりしたものです。そんなことは考えた事もありませんでした。
 聖書にもあります、「初めに言葉があった。この言葉は神と共にあった。この言葉は神であった」(ヨハネ1:1)。「この言葉が肉体となり、私たちの中に宿った」(ヨハネ1:14)。
 これはイエス様のことですけれども、私たち「人間そのものの意識や存在の不思議さ」を考えるときの良い参考になります。
              *
 聖書に従って、人間の存在様式を図式化すると、<1>中心に霊、<2>そのまわりに精神あるいは心、魂。<3>その又、周辺に感覚、肉体、この3つの同心円になります。
日本語では霊と魂はほぼ同じもので、霊魂といっしょにしますが、聖書でははっきり区別します。
 <1>の霊は自分自身であって自分で自分が判らないのです。しかし、自分自身、自分がここに居ることは分かりきっています、不思議に思いません。私たちは自分の顔や、特に自分の目を直接見ることは出来なくて、鏡に写して間接的に見るだけです。同様に自分の霊を自分で自覚できるのは、<2>の精神、つまり心、または魂です。これが鏡の役目をしているのです。箴言27:19で「水にうつせば顔と顔が応じるように、人の心はその人をうつす」というのがそれです。
 <3>の感覚と肉体は、ごく幼児期に自分でこれが自分だと自覚させる場所です。椅子に腰掛けてお尻に自分の重みを感じる。そこに自分の存在を自覚する、そういう初期感覚が幼い時のアイデンティティです。
 こうして自分で自分を見る、この自覚能力の過敏症が一方では自己嫌悪症を作り、一方では自惚れや誇大妄想を作ると言えます。
              *
 自分で自分を見る力、これを私は意識の二重構造と呼びます。これは実は非常に大事な能力です。私はこれを20年ほど前に発見しました。聖書に「わが魂よ、主をほめよ」というような、これに類した言葉が詩篇に何度か出てきます。この言葉を見て、「私が私の魂に命令している」ことに気づいたのです。
 そのことから、私は自分が気落ちした時に「我が魂よ、明るくなれ」と自分の魂に命令することを体得したのです。それは偶然というか、ともかくその必要があって思わず試みたのでした。
 その時、私はあることで気分が全く落ちこんでいました。そこで、自分の魂に単純に命令しました。「私の魂よ、明るくなれ」。
 ここからが大切なのですが、私はこう言葉を言い放して、そのことを忘れていました。5分ほどして、何でもないことに、腹を抱えて笑っている自分を発見しました。その時だけの特殊なことだったでしょうが、私は大発見をしたのです。いつの間にか私は暗い心から明るい心に変わっていたのです。この5分ほど無為に待っているのが、後日、私の「得意技」になりました。
 言葉の力です。催眠術でも言葉を使いますが、言葉は人の心に暗示を与えます。暗示は人の心に変化を与え、その心の変化は人の肉体にすら変化をあたえます。だから信仰による癒しなどを催眠術で解釈できるとして、分かった顔をしている人もいます。私は言います。「催眠術だとしてもいいじゃない?」。
              *
 言葉には力があります。聖書は言います。「御言葉には人の魂を救う力がある」(ヤコブ1:21下)と。神の言葉には神の力があり、人の言葉には人の力があり、悪魔の言葉には悪魔の力があるのです。同じ人の言葉でも、悪い言葉には悪い力があり、善い言葉には善い力があるのです。
 そのことを同じくヤコブの手紙の第3章2節から10節までを読むと、舌と口は如何にも人間の御しにくいものだ。しかし、馬を扱うには口にくつわをはめ、大きな船も小さなかじ一つで運転できる。同じように人の舌や口は小さなものだが、人間を善にも悪にもあやつる道具になり得る、ということです。
 今、あなたが「悲しい。不安だ。私の人生は暗い」と思えて仕方がない時、あなたは自分に向かってこう言いなさい、「あなたは神さまに愛されている。神さまはあなたを高価で尊い存在だと言われる。あなたには必ず嬉しくてたまらない時が来ます。あなたの人生は安心です。あなたの人生は真昼のように明るくなる」と。大きな声で言いなさい、一語、一語、区切って言うとよい。何度も、何度も叫ぶように言いなさい。百回も、千回も、一万回でも、言いなさい。あなたは明るくなります。
 人の幸福を見て、「ああ、私は情けない。」と自分を責める。こうした思い、行き過ぎた自責の念は、サタンがあなたをだます言葉であることが多い。サタンは人の目に見えない存在ですが、そうした思いが私たちの心に影を落とす時、それはサタンの影だと悟りなさい。
 イエス様だってサタンの言葉を心に聞きました。サタンがあなたの心の泉に悪い思いのしずくを落とす時、そのしずくがあなたの心の表面に広がって、あなたの心全体に影を作り、あなたは自分を許せなくなる。特にすでにイエス様の血によって許されたクリスチャンであれば、あるほど、純粋な反省心で、そう思って苦しみやすいのです。
 あなたは自分にこう言いなさい、「いいえ、私は大丈夫、私はすでにイエス様によって神の子とされている。たとえ、悪い思いを一時持ったとしても、私はその過ちを主に告白します。神様は私を許してくれますし。私を二度と同じ悪意を抱かないように清めて下さいます」。
 また、次の言葉を繰り返して口にはっきり言ってください。
 「悪魔よ、私はお前にだまされない。私はイエス様の血によって、かねてのアダムの罪は消されている。また先ほど犯した私の心の罪、口と舌の罪も、一切を許してくださる。それらは、一切無かったかのように認めてくださる。今後、同じ悪や罪を犯さないように神様は私の心を守って清めてくださるのだ」。これらの宣言はヨハネの第一の手紙1章9節が根拠です、この1章9節をなんども口にして声を出して読んで下さい。あなたは許され、清められます。
 欝の状態にある時、大切なことは「あなたが既にイエス様によって救われていること」を自覚し、そのことを断固として告白することです。19世紀、ドイツの田舎牧師ブルーム・ハルトは、教区内の狂いわめく娘ゴッド・リービンに困惑しました。ブルーム・ハルトは娘に「キリストは勝利者」と叫ばせました。そしてついには可笑しいことに、悪霊も「キリストは勝利者」と叫んで出て行ったそうです。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-29 00:00 | 日岡だより

No.212 現・詐欺憲法をホンマに改正しよう 2006.1.22

現・詐欺憲法をホンマに改正しよう

 「憲法改正を阻止しよう」という声がある、しかし私は今の憲法をホンマに改正することを提唱しようと思う。今の憲法は詐欺憲法である。
 その理由は前文がインチキであるからである。それでも幾分もっともな前文であるが、それに背いて現に自衛隊をイラクに送っている現政府は、今の憲法を踏みにじっている、そういう意味でも詐欺だと言っていいが、もっと原則的なところに問題がある。実はすでに本紙199号の「あとがき」に書いたことです。
 大欠陥はあの前文です。「我らは世界の諸国の良識と善意に信頼して如何なる戦争の用意も持たない」というようなことを書いてあるけれども、これは噴飯物です。本当は占領国アメリカの核の傘を信頼しての甘えの言葉です。だから一旦朝鮮戦争が始まるとマッカーサーにせつかれて自衛隊を作った。大きな詐欺です。日本の憲法は以後、詐欺憲法になってしまったのです。
           *
 地上の現諸国の善意や良識など、どうして信頼できましょうか。現代における諸国のどの国に非戦平和のサポートを期待し得る国がありますか。
 そこで私は提唱したい。「『創造者なる神の御心と全能の力を信じて、日本国は自衛のための軍備をも絶対に持たない』、と憲法前文を改正しよう」と。
 藤原正彦氏の「国家の品格」ではないが、真の我らが日本国の品格を守るには、この絶対無軍備の一線を守ることにあります。唯単に「平和憲法を守ろう」だけでは日本の品格は守れません。《く》


宇宙論はここまで来たか

 「致知」という雑誌がある。日本の一流の企業家たちの愛読する良心的な雑誌である。その雑誌の2月号に、新聞で言えば社説みたいな欄にこういう記事が載っていた。
 宇宙は100億くらいある。その100億の宇宙の一つがわが地球の属する銀河系宇宙だと言う。銀河系宇宙の大きさはほぼ分かっている。楕円形で、光の速度で直径が10万年、厚さが一番厚いところで1万5千年かかる距離だという。あまりのスケールに言葉もない。
 その宇宙の中で地球だけに生命が宿されている。宇宙から見た地球はものすごく美しいと宇宙飛行士たちは口を揃える。(中略)
 その地球に住む生命体に宇宙はひとしく天敵を与えた。天敵がいなければあらゆる生命は増長し、蔓延、跋扈する。それは調和を愛する宇宙の心に反するということだろう。
 ただ、限りない生命体の中で人間だけに天敵がいない。なぜか、長い間の疑問だったが、ある時思い至った。人間の天敵は外にではなく、心の内にあるのだ、と。
 人間を襲い、蝕む天敵。それは心の中に巣くう不平不満である。事あるごとに湧き起こってくる不平、不満、愚痴こそ、人間を滅ぼす天敵である。(中略)
 話は飛ぶ。昨年、東京で開かれた「人体の不思議展」を見た時、人間の生命に畏怖に近い感動を覚えた。殊に全身に行きわたった渡った血管網と神経細胞の標本は、人知をはるかに超えていた。身体の隅々に至るまで、微妙かつ精巧に、そして見事な調和の中に、一転のねじれも、もつれもなく配列されたそのさまは、神の領域そのものだった。しかもその一本一本がそれぞれの役割を与えられ、その役割を果たして全体に帰依している。全知全能の神でなければ創造し得ない世界がそこにあった。
 人間がすでに奇蹟のような生命をいただいている。「生きて」いるのではなく、限りない恩の中に「生かされて」いる。理屈なしに、そう直感するしかない世界がそこにあった。(後略)
           *
 以上、長文を転載させてもらったが、この文章を書いた記者はクリスチャンではあるまい。しかし、創造者の神をすでにそこに予見していることに感嘆する。
 先に村上和雄教授が遺伝子の研究から、ついに万物の背後にあるサムシング・グレートを予見するに至ったことと類を一つにする。村上教授は「神」とか「仏」とか表現すことを、ついためらってサムシング・グレートと称したらしいが、私はその名称は少なくともグレート・ワンとすべきだと、事ごとに言ってきた。とは言え、この村上教授の発言にはやはり感謝している。いずれにせよ、先の転載文と言い、この村上教授の発言といい、すでに聖書にいう創造者なる神のことを差していると言って差し支えないところまで近づいてきたと私は思う。
 私どもの立ち場から期待すれば、もっと近づいてほしい領域は人格としての創造者なる神と、人間の罪を救済する贖罪者なる神である。そして更に人間の内面的不平不満愚痴の原因者たるサタンを指摘し、そのサタンよりの誘惑による人間の敗北を勝利に切り返す神の勝利を宣揚することである。
 ともあれ、「熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにしてくださった。事実、神はわれわれをひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない、われわれは神のうちに生き、動き、存在して居るからである」という使徒行伝17:27、28の聖書のみ言葉は、今や、ようやく身近な預言になってきた感がある。
 人間の知識の発達がここまで来たことを感謝したい。あと一歩の間隙は、やはり聖霊の啓示なくては埋まらないのであろうと私は信じるが、ここまで来ていることに、もう一度感謝したいと思う。
           *
 ここまで神理解が開けてくると、進化論対創造論の論争はもうそこそこに、切り上げてよさそうに思えるがどうだろう。
 そして、前文までのところで、仏教的宇宙論は満足できるだろうかと思う。仏教系の方々は、このあたりで知的に満足できるだろうかと思うがどうだろう。それ以後の問題は心理学的カウンセリングで解けはしないか。
 しかし、聖書が指摘する最後の問題はサタンと人間の罪の問題である。この間隙を埋めることのできるのはキリストのみである。救贖者イエスの愛の御手と罪人たる人間の悔い改めと信仰との劇的接触だけが、この一切の問題矛盾の解決である。
 21世紀はいよいよ人類の底上げの時代である。いよいよ安息第七の千年紀が来る。百億の宇宙の歴史の中での偉大な意味の時である。この100億の宇宙の外に他次元の世界に他の宇宙がある? 復活のキリストが地球の丘の上から天に帰られた時、もろもろの天を通って行かれた(エペソ4:10)という、その道筋が分かる時が来るのかも知れない。《く》

〔あとがき〕
私は最近、「欝(うつ)から抜け出すには」というミニ冊子(わずか12頁)を作りました。結構、よいものを作ったつもりでした。私は青年時代、脅迫観念で苦しみました。戦時下の刑務所の独房の中では奇妙な観念障碍に遭い、もう自分ひとりでは処理できなくなると、信仰の世界しか無くなります。そうした経験もある上、悪霊追い出しの経験まで持っているので、もういっぱしのプロのつもりで、威張って書いたのですが、最近「いのちのことば」2月号を開いて驚いた。▼私はこれまで、この雑誌はことば社の企業誌と踏んでいたから、あまり重視せず、軽く見過ごしていた。ところが、この2月号で、「弱く、遠く、小さき群れより」という連載ものの最終号にお目にかかった。「幻聴さんも成長しました」という不思議な見出しに、「ウン?」と私の好奇心が湧いたのが良かった。▼「統合失調症」という心の病気の方についての関わりと説明の奇抜さ、深刻さには、驚いてしまった。いわゆる躁欝や分裂病という仕切りを越えて迫ってくる精神と肉体の葛藤、不具合、戦い。私の「欝(うつ)から抜け出すには」てな、もんやない。こんなすばらしい記事を、ともすれば見捨てやすかった「いのちのことば」誌に発見して私は仰天。あいすまなかったと、マザーテレサさん風に同誌に向かって合掌したものです。ともあれ、こうした難しい当事者の方々のために祈りたいものです。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-22 00:00 | 日岡だより

No.211 シラしんけん、ワッハッハ 2006.1.15

シラしんけん、ワッハッハ

 先日、本屋さんに本を買いに行った。途中、赤信号があって、待ち時間がえらい長い。
 でも私は平気。車の中で「ワッハッハ」と笑う。
 交差点、待ち時間はどんなに長くても一分は越えまいと思うが、待っている身には5分にも10分にも感じる。
 でも私は平気。車の中で「ワッハッハ、ワッハッハ」と続けて笑う。真剣に笑う。こういう場合、大分弁では「シラしんけん」と言う。
 シラしんけんに笑っていると、浜田京子さんではないが、息が上がってしまいそう。
 「え? 浜田京子さんってだれ?」
 「オリンピックに出た女子レスリングのさあ…」
 「ああ、そうか。でも、息が上がるって何?」
 「斎藤隆さんの『五輪の身体』って本に書いてあるがね。『息上げすると無心になる』って。これ彼女の親父さんの言うことらしい」
 「親父さんってだれだ?」
 「何も知らないんだねえ。例のアニマル浜口さ」
 「ああ、あの笑いの……」
 「そうさ、だから笑って息上げだ」
 ともあれ、私はシラしんけん笑いました。
 私は案外、欝(ウツ)になりやすいタイプ。少年時時代にはドモリや神経症(体内時計過敏症)で苦しみました。その後遺症が少し残っています。実はその日も、少々欝状態でした。
 だからこそシラしんけん体を振りしぼって声を限りに笑ったのです。とたんに欝(ウツ)が無くなって、ケロリとして、本屋さんに向かいました。《く》


我らを「友」と呼びたもうイエス様

 先日、1月12日の朝、早天祈祷での聖書日課は旧約レビ記19章と新約マタイ20章だった。
 レビ記はそれまで毎日レビ記特有の細かい祭儀規定の連続で飽いてしまう始末だった。この19章に来てホッとする。レビ記全27章の中でも、もっとも優しさに満ちた個所ではなかろうか。
 たとえば、「落ち穂拾い」、これはミレーの絵で有名な題材。ミレーの絵では農民のうるわしい労働姿である。
 しかし、このレビ記では違う。旧約聖書のルツ記に出てくる光景を思い出してほしい。そこでは、貧しい民が、金持ちの畑に行って刈入れの作業の労働者のあとにくっついて、遠慮しいしい残された落ち穂を拾っている姿である。これはレビ記によるユダヤの伝統である。
 ぶどうの刈入れでも、小麦の刈入れでも、木になる果実の収穫でも、取り残したものはないかと振り返ってはならない。それらはすべて残して置き、貧しい人々ために残しておきなさい、というのである。
 他にはこんな規定もある。日雇い労働者のための給金はその日に払え、翌朝まで遅らせてはならない、と。女房が夫の日給の金を持って帰るのを待ちわびている貧民の姿を思いやる心がなければ気が付かない規定である。
 何よりも、「心に憎しみを抱いてはいけない」などと、心の中の思いにまで及ぶ規定など、旧約では珍しいと思う。そこで、イエス様が引用された有名な言葉、「おのれのごとく隣人を愛せよ」という言葉も、このレビ記19章に出て来るのである。
           *
 さて、この日の早天の日課の新約では、マタイ20章。自分のぶどう園のために労働者を雇った主人の喩えをイエス様がなさっている。
 夜が明けるとすぐに雇った者に1日1デナリの労賃を約束してぶどう園に送った。次に9時、12時、3時と、相当な賃金を払うと約束してぶどう園に送った。最後には夕暮れの5時には、最後の男に賃金の話はきめないまま、「ともかくぶどう園に行きなさい」と言って農園に送った。
 夕方になると、主人は最後に来た男に、1デナリ。それから順々に初めに来た男にまで賃金を支払った。ところで、最初に雇われた男は自分には多少とも色をつけて金をくれるかと思ったらしい、ところが、やはり1デナリであった。男は不平を言った。
「最後に来て1時間しか働かなかったものにも1デナリ、1日中、暑さに耐えて辛抱して働いた自分にもたった1デナリ、これは不公平です」
 と言うわけ。主人は言う。
「友よ、私は不正をしていない、私は約束どおり君に賃金を払った。私は自分のものを自分のしたいようにしただけだ。私はこの後の者にも君と同じ賃金を払ってやりたいのだよ。それとも何かね。私があの連中に気前よくしているので、ねたましく思って居るのかね。」
 「この後の者にも」という言葉は後にラスキンの有名な論文になる。ラスキンの思想は資本主義の欠陥を突いて、次代の社会主義的時代に先行する。
 マルクスもこのラスキンと同時代であった。マルクスは唯物論・無神論思想で資本主義社会を批判した。一時はマルクスのほうが現実的で、ラスキンの考えは空想的に見えた、しかしどちらが本当に現実を見ていたか。興味のある相違点である。
 しかし、本当に人間の本質を見抜き、全き現実主義をもって人間の社会を革命するのはイエスの言葉だけである。
 以上のイエス様の喩えの中で、主人は言う。この不平ったらしい扱いにくい男に向かって、主人はこう語りかける。
 「友よ、……」
           *
 イエス様の「友よ」という言葉は、懐かしい言葉である。「私はあなたがたを友と呼んだ」、これはヨハネ15章の「まことのぶどうの木」の章で語られている。この言葉の寸前にイエス様は「人がその友のために命を捨てること、これより大きな愛はない」とおっしゃっておられる。
 イエス様こそ、人類を友と呼んで死んでくださった方ではなかったか。イスカリオテのユダがゲッセマネの園に暴徒たちを導いて「私の口付けするその人がイエスだ」とイエス様を売ろうとする。そのユダの裏切りを先刻ご承知のイエス様は彼の接吻を受けながら、「友よ、なんのためにきたのか」と答えておられる。
 ユダをさえ「友よ」と呼ばれたイエス様の愛を思う時、私たちの心は震える。なんという愛! 先週の本紙に書いたが、今は大変な時代。どれほど悲憤慷慨しても間に合わない、親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの少女を殺す。また、偽装建築もさることながら、天下の学者が世界の学会を惑わす偽装論文を書く。しかし、こうした彼らの悔い改めをじっと待っておられるのもイエス様である。《く》 

〔あとがき〕
第1頁で、欝(ウツ)のことにふれましたが、こうした心の病気の方は専門のカウンセラーか、精神科の医師にご相談ください。しかし、また自分でやってみようと思われるかたは、私の流儀にならって「ワッハッハハ」と笑ってください。かならず、効果はあると思います。もう1つはコトバです。自分の口や心を使って「私は明るくなる」と叫び、言い聞かせてください。この辺のコツは私の「だれでもできる『精神強化法』」に書いておきました。▼ただし、心の病気と言っても、いわゆる「分裂症」などと言われる症状の場合は、聖書的に言えば「悪霊の仕業」である場合が多いようです。私は随分若い時に、悪霊現象にぶっつかり、どうにかこうにか悪霊を追い出した経験があります。その頃はまだ「悪霊追い出し」などは異教の呪術屋さんのすることで、まともな牧師のすることではありませんでした。多分、当時、私は他教会の先生がたからは陰で非難されていたと思います。▼現在ではもう「悪霊追い出し」は一応キリスト教界でも受け入れられてきました。しかし、信仰を持っていれば大丈夫とは言っても、慣れない方には危険であります。信頼できる教職者に相談してください。なお奥山実先生の「悪霊を追い出せ」(マルコーシュ・パブリケーション刊)は信頼できる好著です。ご参考に読んでおかれるのは良いことだと思います。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-15 00:00 | 日岡だより

No.210 新年おめでとうございます 2006.1.8

新年おめでとうございます

 「大変な時代だ」と言う声をよく聞きます
        しかし、人間の作る世界は
              いつも大変でした
 旧約聖書によると、ノアの時代も
   「暴虐が世に満ちていた」とあります
       悪人は、いつの世にもいました
 非行少年もいました
     盗みも姦淫も町に満ちていました
       どこの家庭にも問題はありました
 最悪の時代に比べれば
       今はまあまあ、よい時代です
 悲観せずにイエス様の宣言を聞きましょう
    「幸いなるかな、心の貧しき者!
           天国はその人のものなり」
    「心の貧しき者」という言葉には
         それなりの解釈がありますが
 世の「心の貧しい人(*)」にも
            イエス様は宣言します
   「あなたにも幸福が待っています、
       世界一の幸福が待っていますよ」と
 ですから、「新年おめでとうございます、
    今年も、あなたに幸福が待っているのです
    から」と言えるのです

 さて、よく「今時の若い者は……」という言葉を聞きます。エジプトの昔のパピルスにも同様の言葉が残っているそうです。しかし、こういう悪い時代を造ったのは古い世代の私たちです。その私たちの残した悪習の中に今の若い人たちは育ってきたのです。
(*)ここで使った「心の貧しい人」というのは聖書的な意味(マタイ5:3)ではないのです。いわゆる日本流の、卑しい浅ましい狭い了見の心の人をさしています。《く》
 

「聖霊の油注ぎ」についての一考

 実は「一考」というより、私の経験からくる「一つの理解」なのですが、こうした見方もあるものか、と読んでください。
 聖霊の働きについて、私のこれまでの考え方がありました。聖書から見て、こういう見方もあると思っていたし、かなりの確信を持っていたのです。
 それは、ある集会のあとで、ひとりの篤信のかたから「聖霊の油注ぎとはどんなことですか」と問われた時です。私は一瞬戸惑いながら、とっさにこう答えたものです(次頁上段途中まで)。
 第一の聖霊の働きは、まず「聖霊によって」という場合です。第一コリント12:3の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」という場合です。
 この場合、たとえ聖霊様の感動を感じなくて真実心をもって「イエス様を信じます」等の信仰の告白をしてバプテスマを受ける時、それは目に見えず、心に感じることは無くても、その信仰告白は聖霊様の導きによっているのですよと、パウロは言ってるように思えます。
 第二は「聖霊を受ける」という場合です。この言葉は使徒行伝8:15以下や、同19:2以下にペテロやパウロの言葉として出てきます。これは異言を伴う聖霊の受霊をさしています。
 第三は「聖霊に満たされる」です。これは第二の「聖霊を受ける」体験と同時に起こることもあります。(言い添えますと、第一の最初の信仰告白の時、すでに「聖霊を受け」、また「聖霊に満たされる」経験を受ける人も時には居ます。非常に恵まれた体験というべきでしょう。)
 第四は「聖霊に満たされ続ける」状態です。聖書では使徒行伝8:3、5、同11:24などで言及されていますが、7人の執事やステパノやバルナバのことです、これらの人々を「聖霊に満ちた人」と呼んでいます。つまり「聖霊に満たされ続けている」のです。一回だけ「聖霊に満たされた」のではなく、その後もずっと「聖霊に満たされ続けている」人です。このように類別できると私は思ったのです。
 第五ですが、実は次に私は「聖霊の油注ぎを受ける」体験を添えたのです。「油注ぎとは、聖書を見るかぎり、聖徒たちが主よりの特別の任務、奉仕を為すために選ばれた時、その仕事をするために特別に与えられる聖霊の智恵と能力である」というように答えたものです。
 その時、私は以上の言葉をとっさに答えることができたので、そのこと自体が私にたいする「聖霊の油注ぎ」のように思えたものです。
           *
 ところで最近、私は小さな体験をしました、小さなと言っても、私にとっては小さなことではありませんでした。
 昨秋、11月8日のことでした。私は祈りに行き詰まっていました。その時、神様の言葉がありました。「たとえ、泣いて嘆いて叫んで熱心に祈ることが出来なくても良いんだよ。喜んで笑って祈ったら、どうだ? 私に良いものを求める時、泣いて求めるのもよろしいが、喜んでニコニコ笑って求めるのも理にかなっていると思うが、どうだね。」
 私はその時、不思議に素直でした。早速、そのお言葉に従った。気軽に、喜んで微笑んで、主の聖霊の注ぎを求めたのです。
 その時、かすかですが、聖霊様の注ぎが全身の皮膚面に感じられました。あたかも、目に見えない薄絹の衣を身にまとったようでした。微妙な震動が全身を覆いました。聖霊様が私の全身を包んだように感じられたのです。
 それ以来、私は種々の私の行動にためらいが無くなり、自由さが生じました。日常茶飯事、一切の動作、振舞、行為を行う時、私を覆う聖霊様により守られて正しい行いを為すことが出来るというように感じました。
 「正しい行い」と言うのも律法的・道徳的な「正しい」という意味もありますが、それよりも「時宣に則した」という意味合いのほうが濃い、そういう実感がしたものです。
 私は驚嘆しました。そして、10日ほどたった時でした。早天祈祷の際でしたが、第一ペテロ1:15のお言葉が心を射たのです。「あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」
 このお言葉が、当時の私にとって「とうてい不可能な命令ではなく、当然なお諭し」のように思えたのです。これは正しく「クリスチャンの完全」の教えです。私にとって驚天動地です。こんなことを言ってよいものだろうか。世界のクリスチャンから非難攻撃されそうな気がしました。こんなことを言った先人は一人も居ないのにとも思いました。仏教でいう「増上慢」に陥ってはしまいか、不安でした。
 最近は幸いに(?)に、それほどに確信に満ちた思いはしなくなりました。時に不安や、疑念や、人を責める心も起こります。それにしても、やはり次元の上がった平安を感じるのです。信仰のステージが切り上がったという感じです。
 先に書いた「聖霊の油注ぎ」という段階は、この信仰ステージをさしている、とも言いたいのですが、そう言ってしまっては、これは高慢かなあ、と心配しているのも、私の現状です。みなさん、ご忠言ください。《く》

〔あとがき〕
雑誌「ハーザー」の〈随想〉欄に私の「日本よ、世界のカントリーとなれ」を載せてくれている。この「日岡だより」の207号所載の同名タイトルの拙文からの抜粋転載ですが、お読みください。▼ついでに書きますが、最近は教会の人々も世間並に読書力が落ちていると思う。読書力をのばすには、まず乱読を勧めます。背伸びしてでも、難しい本を読む。難解な熟語など気にしないで、読み進むのです。逆にまた、読みやすい子ども向きの信仰偉人伝などを読むのもよい。▼哲学や物理学の本など、本当にむつかしい本は、分かったつもりで無理やり読む。2、3べん読むと、なんだか全体像が掴めてくる。その上でもう一度、読み返す。これは相当忍耐を要しますが。▼聖書を旧新約全部通読という場合、この方法が良い。ある人はメシも食わず、夜も寝ないほどに聖書を読んだら、3日半で読んでしまったそうです。たしか、埼玉県の人でしたがね、埼玉にはこういう人材が多いようです、確かに! 《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-08 00:00 | 日岡だより

No.209 すべてのものの新しくなる年は来にけり 2006.1.1

すべてのものの新しくなる年は来にけり

 今日は主日です。元旦です。ですから元旦礼拝です。「すべてのものの新しくなる年は来にけり」です。新年おめでとうございます。皆さんの上に主の豊かなご祝福を祈ります。(年賀状に代えて)
      2006年1月1日 キリストの福音大分教会
                      釘 宮 義 人

           *

 私の幼い時、昭和一桁の時代だが、その頃すでに幼児むけ雑誌が出ていた。幼年倶楽部だとか、小学一年生だとか、そういう雑誌の1月号には必ず雪の積もった表紙絵がついていたものである。
 そこで私は胸をワクワクさせて、正月を待っているのだが、正月当日になって雪が積もるどころか、南国大分である、雪もめったに降らない。私の出版物不信、最初の経験である。
 一休禪師が正月の元旦に人のしゃれこうべ(髑髏)をかかげて京の町を「にいどしや、冥途の旅の一里塚」と叫んで回ったそうだ。一休らしいシニカルな戯れ歌だが、これが禅の悟りとは私には思えない。
 もっと素直に、正月にはだれでも感じることができる不思議な新鮮さがある。普段と何も変わらないのに、空や、遠くの山や、町並みが変わって見える。時には聞こえる雀の鳴き声さえも澄んで聞こえる。これは何だろう? と思うものだ。
           *
 先日、12月28日、私は宮崎に急いだ。尾形家を訪ねるためである。27日に長女の慶子さんからクリスマス・カードが届いていた。「メリー・クリスマス」の外に別文が書かれていた。
「先日は、お電話でしたが、父とお話し下さいまして、ありがとうございました。父はたくさんたくさん涙を流しておりました。そして本当のクリスマスの意味について話しをし、まるでイエス様がそばに居て下さるかのように、讃美歌を歌い、素晴らしい時間を家族で共有できたのです。ただただ感謝しております。ハレルヤ、アーメン。」
 この慶子さんのお証しに私は大いに喜んで、「尾形のお父さんの癒される日も近いな」と期待で心ははずんでいた。実はお父さんの尾形建二さんは、腎臓などの癌のひどい症状、激しい痛みで苦しんでいたのである。ところが、その翌日、
 12月28日、慶子さんから電話、「父が天に召されました」というのである。私は仰天した、「神様、それはあんまりです」。
 しかし、ブツブツ言っている暇はない。目下、妻が家に帰って介護中なので私も家を離れにくいが、同居の次女に後をゆだねて、すぐ出発することにした。
           *
 JRで宮崎に着き、さっそくタクシーで尾形家にかけつける。ベッドの建二さんを見ると、半年ほど前、病院でお会いした時に比べると随分痩せておられる。しかし、表情は平安である。私は召されるまでに至るご様子を奥様や慶子さんに聞いた。
 先日の私との電話のあと、毎日、しょっちゅう私の電話メッセージ(「テレホン聖書」と「ワッハッハ元気が出る電話」)を聞かれたそうである。
 その電話を聞いて下さった様子が面白い。私の電話メッセージを聞きながら、「はい、はい」とか、「分かりました」とかのご返事をしていたそうだ。そして私が書くのは変だが、「やはり先生は本物だ」とか、それに類する言葉を吐かれたという。
 私のことはともかく、昨日、今日、信仰に入ったばかりの人の吐かれる言葉としては凄いと思う。
 私は決心した。死の床上バプテスマを施そうということである。
 第一コリント15:29にパウロがこういうこと書いている。「死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのであろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。」
 初代教会に、言わば「身代わり洗礼」ともいうべきことがあったらしい。このことについては今回は書かないが、ともかく今回の尾形建二さんの場合とは事情は違うが、私はこのパウロ先生の記事を援用して、今、床の上にある尾形建二兄弟(正に兄弟!)のためにバプテスマを施したいと思ったのである。
 もちろん、私の教会で行っているような、洗礼槽の水に全身をザブンと浸してのバプテスマは難しい。私はコップに水を汲んできて頂いて、この水の聖別を祈り、父と子と聖霊の御名により、建二兄弟の名を呼んで、とどこおりなく正規のバプテスマを執行出来たのである。
 何たる喜び、何たる栄光。私は身の内に震えるものを覚えた。そばに居る、美津子奥様、慶子姉も同様であったろう。しばし寂として声なし。神秘な時が流れた。
           *
 私は席のあたたまる暇もなく、建二兄弟のバプテスマを受けたばかりの尊い体と、美津子奥様、慶子姉、その他の家族のかたがたも後に残して大分に帰ったが、JRの車中、私の興奮は消えなかった。
 み言葉が私の肺腑を突いた。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(第二コリント5:17)。
 平安である、平安である。大分に帰りついた時は既に真っ暗であったけれども、私の心は明るかった。「主よ、あなたは良きことをなさいました。私はいささかの奉仕ができましたけれど、何よりも建二兄弟のために良きみ言葉の奉仕をして下さった美津子夫人、慶子姉を褒めてやって下さい。残るご家族に更に尊い聖霊の恩寵を与えてクリスチャン一家を建て上げさせて下さい、と祈ったことです。《く》

〔フロントランナーを目指せ〕
地元の大分合同新聞の12月29日号に出色の社説が出ていた(標題がそのタイトル)。最初、私はフロントランナーという言葉を知らなかった。フロントと言われてもホテルのフロントか自動車のフロントガラスだけしか思い出さない。ところで、この大分合同新聞社説の説明を読むと……、
 「政府は『科学技術基本計画』を立案中だが、日本のこれまでの科学技術は『追いつけ、追い越せ』だった。しかし、今や科学技術は多くの分野で誰も真似する相手のない『フロントランナー』にならなくてはならない時代が来ている」と、言うのであった。
 ここで私は最近出た立花隆の「天皇と東大」を思い出した。副題が「大日本帝国の生と死」。700頁を越える大冊が2巻である。立花という人の目の付け所、資料の収集力、その内容の選別と、洞察の確かさ、そして原稿造出力の旺盛さ、驚くばかりである。
 この本の中身だが、明治後半から昭和前期に至るまでの事件総まとめでもあるが、更に人物列伝に圧倒される。上巻では例の内村鑑三先生の不敬事件が出るが、そこで面白いエピソードがある。右翼派の学生たちが自宅前に行って、「内村の非国民」と叫びながら石を投げ、押し込もうとしている時、一人の壮漢が出てきて言った。「我が輩は内村君とは関係はないが、彼が真の愛国者であることは知っている。今、偶然にここを通りかかったが、もし諸君が内村君をやっつけるというなら、よろしい、我が輩が諸君のお相手をしよう」。彼らはその声の主を見て、一斉に退散した。その声の主は講道館柔道の創始者、嘉納治五郎であった、というのである。
 以上の嘉納治五郎のような思いもよらぬ人物登場に驚くのであるが、他に登場する人々も大抵異常な人物で、ほとんど人に知られず、しかもたった一人で周辺に大変な影響を与え、当時の日本の歩みを決めてしまったと見える人たちである。
 特に平泉澄という人は、東條英機がぞっこん心酔した人だと言われているが、この平泉の思想は徹頭徹尾、天皇崇拝、「日本民族よ、死んで死んで死にきって天皇の御心に添いまつれ」といったものだったらしい。この人一人の思想があの頃の日本人の意識方向をひきずったのである。正に昭和10年代の日本思想界のフロントランナーであったと言える。平凡社の百科事典を開いて見ても、この人の名前は出ない! そんな男の考えが当時の日本を牛耳っていたのである、ああ。
 年末、NHKで「夜回り先生・水谷修さんの『夜眠れない子たち』と共に」特集をやっていた。終戦後、大分駅周辺で戦災孤児たちと共に残飯を食った私は、この先生を身近に感じます。勿論、その働きのスケールや思いやりの深さや努力のほどには及びもしませんが。
 こういう方たちの凄い所は、人の思いも及ばない深みに思いを入れ込み、たった一人で無報酬で、がんばっているところ。ここにもフロントランナーが居たではないか、ということです。
 そして、思います。イエス様こそ、神の国のフロントランナーであると。《く》
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by hioka-wahaha | 2006-01-01 00:00 | 日岡だより