<   2005年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

No.208 今日もクリスマスを 2005.12.25

今日もクリスマスを

 日本教会新報社が「クリスマスをあなたに」という新刊をだしている。当教会でも少し委託を受け入れて皆さんに奨めているが、クリスマスを知ってもらうために、まだ信仰を持っていないご主人や、キリスト教に興味を持ちはじめている友人たちに良い本だと思う。
 20年ほど前、大分市合同市民クリスマスの説教者に選び出されて、その時の私の説教題が「クリスマスをあなたに」だったのを思い出した。
 さて、今日はこの教会でのクリスマス礼拝説教も「クリスマスをあなたに」としようかな、と思い始めているところです。
           *
 クリスマス! イエス様のご誕生は、何も2千年前のことだけではない。今も私たちに起こってほしいことである。それも未信者さんたちだけでなく、すでにイエス様を受け入れてクリスチャンになっている人々のためにも、と思っている。
 本日の本紙の2頁以降、「悔い改め」という言葉の時制について書いていることを、改めてイエス様を信じるということ、つまりイエス様を私どもの魂に受け入れるということ、イエス様のご誕生のことにも、当てはめてみたいのです。こういう事です。
 イエス様のご誕生を日々新しく体験しようというのです。言い直すと、「日々、クリスマスをあなたへ」ということになる。「今日も、クリスマスをあなたへ」と言いましょうか。
 もっと極端に言い直すと、「常に私たちの魂にクリスマスを」ということになります。《く》
    (2005.12.23、テレホン聖書にて)

 
「悔い改め」とは何か
            付・「笑って祈る」こと

 「悔い改め」という言葉は、ギリシャ語ではメタノイアである。このギリシャ語を「悔い改め」と訳すのは物足りない、と教えてくれたのは、かつての無教会の石原兵永先生であった。
 メタノイアは「心の転換」であって、心の中心からの大転換を意味していると言って、それを「回心」と訳し直された。
 その「回心」を英語ではコンバーションと言うのだと言って、若き日の私の脳裏に一撃を加えたのである。
 石原先生の言うそれは、アウグスチヌスで言うなら、「取りて読め」と歌う子どもの歌声にうながされて聖書を開き、ローマ人の手紙13章の「夜ふけて日近づきぬ」という所から始まって「汝らイエス・キリストを着よ」というところで終わる聖書を読んで回心する、名場面である。
 ジョンウェスレーで言うなら、アルダースゲートの教会でマルティン・ルターのローマ書講解の序文を読むところで「心の温まるのを覚えた」という回心。1738年3月24日夜8時45分のことである。こういう聖霊による魂の内面で深く転換する経験を指すのである。
 石原先生の「回心記」という本では、その辺をくわしくご自身の経験をとおして叙述、また石原先生の恩師・内村鑑三先生の「コンボルションの記」を持ってきて、その所説を権威づける。内村先生の言う「コンボルション」とはコンバーションのことである。「コンボルション」と言う表記はローマ字読みに似て可笑しく感じるが、アメリカに在住して、アメリカの大学に学んでいた頃、回心した内村先生の肝腎の発音の記録であるから、内村先生表記のほうが正しいのかとも思うのだがどうだろう。もっとも今回のこの小論では、こうした発音問題はいささかも論ずるに足りない。
              *
 私はこの石原式コンバーション論に責め立てられて必死で「回心」を求めた。そしてしばしば書くように1944年11月23日、福岡刑務所の独房で明確に回心した。まさに標準どおりの「回心」であった。これは私の信仰の出発点であり、私の伝道の根拠となった。
 この「回心」が無いかぎり、本当の信仰ではないと確信したし、だから伝道においては、この「回心」を体験させる事が私の目標となった。伝道の初期はこの一本槍で邁進した。
 しかし、伝道の大先生がたの伝道方式をみると明らかに違うのであった。ビリー・グラハムやチョウ・ヨンギ先生の大衆伝道を見ると、しごく簡単、「悔い改めを迫って、信じますと言わせ、そして救いを宣言する」、そういう方式なのである。私には異和感があった。そして、そのような救いは、多くの脱落者を産むのが普通である。私はこの大先生がたの伝道方法に疑いを抱いた。
 しかし、また最終的に包括的計算をすれば、私の伝道方法は実りが少なく、私の否定しがちだった大先生がたの伝道方法のほうが、収穫は多いのであった。
 そこで私は会堂を建て、大衆伝道に心を向けた時から、大先生がたの伝道方法に切り替えた。それでも前時代の伝道法の癖が残っているから、ついコンバーション期待型になり、多数信徒獲得法はうまく行かなかったと言えるであろう。ご覧のとおりである。現に礼拝出席は減るばかりで、惨憺たる状況である。
              *
 「悔い改め」という言葉に返って考えてみたいことの第一は原語のギリシャ語においての、その意味の再検討。第二は、そのギリシャ語の時制の検討である。
 第一、原語のギリシャ語は動詞のメタノエオーである。先に書いた石原先生流の求心的厳密な受取り方もあるが、もう一つは「考え方を変える」と読むことも出来るのである。石原先生流に厳密に自分の精神過程を責め立てないで、簡単に「考え方を変えなさいよ」と読むこともできる。これは窮屈に「悔い改め」を考えていた私には、革命的な読み方だった。そこへ持ってきて……
 第二、このギリシャ語の時制をしらべると、語尾変化があって、メタノエイテとある。しらべると、これは現在形である。ギリシャ語の動詞現在形は世界に珍しい性質があって、その動きを繰り返し習慣にまでなってしまう、という意味を持っている。
 そこで、先に述べた石原先生流のコンバーションは唯一回限りの霊的経験に見えるのだが、イエス様がマタイ3:2やマルコ1:15で仰せられている「悔い改めよ」のご命令は現在形であって、「繰り返し何度も悔い改めて、習慣になるまで悔い改め続けよ」という意味になる。これは私にとって新しい発見であった。
 そこで、この現在形解釈に第一の「考え方を変える」という字義をプラスすると、「信仰とは生涯、神様の言葉に従って考え方を変えることを繰り返し続けて、ついに習慣化してしまうことだ」と言えないこともない。
 こうなると、深刻なルター流義認信仰や、鮮明なジョン・ウェスレー式聖潔信仰や、驚天動地のペンテコステ的信仰とも違って、なんとも風貌の違った気楽な信仰境涯が現われて来そうな気がする。これって本当だろうか、私は戸惑ってしまう。

   付・「笑って祈る」こと

 戸惑わずにはおられない、もう一つのことがある、それは最近、私は「笑って祈る」ことを覚えたからだ。
 笑って祈り始めることもあるし、笑いを含んで祈っていることもある。また祈りの最後に「ワッハッハハ」と高笑いして、「アーメン、ハレルヤ」と祈りを閉じることもある。
 この事は本紙の204号の終わりのほうに書いた。一部を多少訂正したが次に再掲載させて頂く。
 ……祈りの秘訣と言うものがある。聖書では「信仰をもって祈ろう」とか、「イエス様の御名によって祈ろう」、あるいは「失望せず常に祈ろう」とか、そんな風に記載されていますが、もう一つちょっと気がつかないのが、以下の言葉です。
 「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(詩篇37:4)。実際的には、「主によって」を「主を仰いで」と読み替えると感じが出ると思います。
 また、「喜びをなせ」という訳は文語文から現口語訳への伝統ですが、すこし訳し過ぎとは思いますが、良い訳です。
 私はこう読みます。イエス様を見上げて、無理にでも喜びの顔と、喜びの声をあげて、イエス様に心の願いを申し上げよう。そうすると、イエス様は必ず私の願いを聞き入れてくださるという読み方です。
 イエス様はおっしゃいました、「あなたがたのうちで自分の子がパンを求めるのに石を与えるものがあろうか。魚を求めるのにへびを与えるものがあろうか。天にいますあなたがたの父はなおさら求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:9~11参照)と。ですから、
 イエス様を見上げて、喜びの声をあげてあなたの求めをイエス様に告げましょう。イエス様を見上げて喜びの声をワッハッハハとあげる時、私たちは悪い求め、快楽のための求めはしないのが不思議です。
 更に不思議なこと、かすかだったですが、妙なる聖なる油が私の全身に注がれることを感じたのです。次の日に、また喜びの声を上げてイエス様に祈りましたが、今度は聖なる光が私の内に注がれました。イエス様が私たちの求めを清めて、そして答えてくださったと、私はその時、思いました。
 この体験は私には非常に鮮烈で、私の「聖化」経験として、大きな意味を持っていたと思っています。
 しかし、こうしたことは、これまで聞いたことも、読んだこともないし、多くの先人たちの経験に無いことのように思えるので、こういうことを言い出すのでさえ、思い上がりも甚だしいと思う。おこがましくて不遜な感じがする。それで、戸惑っているというわけです。
 ともあれ、以上のこと、もっとくわしく「笑えば必ず幸福になる」の付録版として小冊子12頁に仕立てて作りました。ご希望の方はお申込みください。私の「笑いの実践神学(?)」としてはこの辺りで結論となるようです。
 「笑い」について、やや大胆に吹聴しつづけてきましたが、もう10年近くになるでしょうか。永井先生や手束先生に共鳴を受け、激励されて今日まできました、厚く御礼申し上げます。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2005-12-25 00:00 | 日岡だより

No.207 主よ、来たり給え 2005.12.18

主よ、来たり給え

 いよいよクリスマスが来ます。ルカによる福音書の2章を読みますと、イエス様のご聖誕を待ちに待っていたシメオンという人やアンナという老女のことが出て来ます。
 ヨハネの黙示録の最後の所では、御再臨のイエス様を待ち望んで、「主よ、来たりませ」と記されています。
 ところで今日、私たちが「主よ、来たり給え」と呼ぶことは、可笑しいことでしょうか。いいえ、正しいことです。
 さあ、今、この場で「主よ、来たり給え」と叫びましょう。呼べば答えたもうイエス様を信じましょう。ここで、
 「主を呼び求める者は救わるべし」との御言葉を思い出しましょう。そうです、主は今、ここに来られます。あなたの心に。
 主は言葉です。あなたの心に、「私はあなたの主です」というお言葉が響かないでしょうか。また、「私はあなたを愛しています」というお言葉が響かないでしょうか。
 そのお言葉は主ご自身です。「初めに言葉があった、この言葉は神と共にあった。この言葉は神であった。そしてこの言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った」と言われたイエス様です。
 そのイエス様は今、天の父の御許に帰り、その右に座しておられます。そして聖霊により、言葉となってあなたの心に宿ってくださいます。
 御言葉があなたの心に宿る時、そこに居られるのは主イエス様です。さあ、お呼びしましょう。
 「主よ、来たり給え」と。《く》

 
日本よ、世界のカントリーとなれ

 去る12月8日の朝、私は注意して各新聞を見た。私は地元紙の大分合同新聞と毎日新聞と産経新聞を取っている。地元紙は地元のニュースを知るためであるが、ほとんど私の役には立たない。次は毎日新聞であるが、これは穏当で読むに足る。
 「産経など、どうして読むのですか」と不思議がる人もいる。もっともなことで、私の政治思想と凡そ反対の産経新聞だが、しかし本当に参考になる。私のスクラップ帖では産経の切り抜きが一番多い。朝日は産経の反対意見で、読まなくても分かっているし、読売は面白いばかりで、読むのは時間つぶしのような気がする。これは失礼!
              *
 さて12月8日の新聞記事のことだが、どの新聞にも太平洋戦争勃発、つまり真珠湾攻撃のことが出て来ない。不満である。日本人は忘れっぽいというが、本当だ。1941年、昭和16年12月8日、「本日未明、米英両国と戦闘状態に入れり」という、あのラジオ放送を忘れられるものではない。
 ちょっと余分なことを書くが、あの時まで、日本の新聞雑誌ラジオではイギリスとアメリカを「英米」と呼んで、イギリスを先に呼ぶのが通例だった。あの日から、アメリカを先に呼び、イギリスはその後になって、「米英」になったのである。
 アメリカが正面の敵なのであった。まさかアメリカに勝とうとは一般市民にも思えなかったが、実際は真珠湾もマレー沖も大勝利だったからホッとした。そして南方のマレー方面からは石油や砂糖が入ってくるぞと、大喜びだったのである。
 中には、勝って勝ってアメリカのワシントンまで攻めこんで城下の誓いをさせると本気で言う人もあった。そう思った人も案外多かったであろう。浮いた戦勝気分というものである。
 しかし、私には分かっていた。戦争の勝負は軍事的勝負の後の、それぞれの国家の文化度の差が決めるのである。文化の低い国が文化の高い国に一時勝ったように見えても、それは軍事的勝敗で、時間がすぎると文化の高い国のほうが勝ってしまうのである。
 良い例は中国で、この国は隣接する野蛮な民族から攻めこまれて勝ったためしがない。そして蛮族が入りこんできて、一緒に生活するうちにその蛮族は同化して中国民になりきってしまい、いつの間にか滅んだはずの中国は復活するのである。
              *
 私は絶対非戦論者、いや非戦主義者であるが、それでも一国が自分の国のために軍事的防備がなくて独立国家として立ってゆけるか、どうか、ちょっと自信は無い。
 日本の憲法9条というものは、「あれは詐欺だよ、詭弁だよ」、と本紙に書いたことがあるが、それは現憲法の前文の可怪しさに目をとめているからである。そこになんと書いてあるか。
 「我らは世界の諸国の良識と善意に信頼していかなる戦争の用意も持たない」というような文面だったと思う。正確には覚えていないが。今の日本の安全はアメリカの核の傘の下にかくまわれているからであるとは、だれでも知っている。「世界の諸国の良識と善意に信頼して」などと安堵して言える、そういう国は世界のどこにも無い。
 いざと言う時にはアメリカだって、日本を放り出すことは間違い無い。太平洋戦争ではアメリカは一度、日本軍の猛攻に耐えかねてフィリピンを放り出して逃げ去ったではないか。
 国家というものは最大のエゴイストである。哲学として言えば、人は大集団になればなるほど、それに比例してエゴイストになる。会社でも政党でも宗教団体(!)でも、そうである。
 その意味では小さいことは良いことである。教会も大きいだけが良いのではない。教会も大きくなると堕落する危険が多くなる。こじんまりとした、しかし信仰と愛において強い教会を主は喜ばれるであろう。この理想はセル・チャーチの形成で活かされるであろう。ともあれ、自分たちの教会が小さいからと言って、恥じることはない。しかし、その上で更に大きくなれば、更に良い。
              *
 ロシアの文豪トルストイの小説に「イワンの馬鹿」というのがある。イワンという馬鹿な男がヒョンなことから王様になる。馬鹿な王様に馬鹿な国民。そこへ隣国から戦争をしかけて来る。
 馬鹿な王様と馬鹿な国民は戦争ということを知らない。乱入してきた兵隊たちが市民の家にあがりこんで略奪を始めると、「まあ、可哀想に。こんなものが無いのかい。さあ、持ってお出で。これも持ってお出で。さあ、ひもじいのだろう。このパンを食べてお行き」、という具合である。
 乗り込んできた兵隊たち、あっけに取られて、戦争にならない。ばかばかしくなって戦争を止めて国に帰ってしまった。
 こんな話だったと思うが、これがトルストイの非戦論の啓蒙小説である。この小説に感激して本気で非戦主義に生きたのが熊本の山村の地主の息子、北御門二郎さんだ。この人のことは、山村基毅さんが「戦争拒否11人の日本人」という本のなかで書いている。ちなみにこの本で私の徴兵忌避事件も取材されて「『禁酒非戦』の牧師」という題で載っている。
 この北御門二郎さんの記事を読むと、神経質な私と大違い。鷹揚なのである。のんびり徴兵検査を逃げて、あとでノコノコと役場に文書を出して様子を伺うような所がある。
 その結果、精神病者と見たてられて、あいまいに処理された感がある。戦後もずっと、トルストイを翻訳し、非戦主義者として生涯を全うされた。一度、お会いしたいと思って、お約束もしていたが遂にお会いできないまま、地上を去って行かれ、お目にかかれぬままであった。
 ともあれ、この「イワンの馬鹿」流の非戦主義は、現代の国際社会に応用できるかと考えると、それは困難だろうと思う。私はやはり神経質に考え過ぎる。それに引きかえ、北御門さんは十分にそれを信じていたように思われる。
 もし今、某国が核弾頭を東京や沖縄に打ち込み、ガス弾や細菌弾を日本列島に落とし始めたとする。「イワンの馬鹿」では対処できない。トルストイ流の人道主義では駄目なのだと、私は考える。しかし、別の道がある。出来ることがある。しなければならないことがある。「イワンの馬鹿」ではなく、「福音の賢明さ」でやるのだ。
              *
 キリストの平和に捉えられた政府要人と国民があるとする。少なくとも国民の八割がキリストの平和に保たれたクリスチャンであってほしい。そうなれば、日本の国際社会における態度、振舞、意見は世界に異常な影響と感化を与えるはずだ。
 エペソ2:14~16を適宜抜き書きして引用したい。「キリストはわたしたちの平和であって、2つのものを1つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ひとりの新しい人に造りかえて平和を来たらせ」云々。この内容をすべてのクリスチャンが持っており、これらのクリスチャンが8割以上をしめる国民となっているならば、その国の姿勢、外交、発言は違ってくる。
 もちろん、すでに軍隊はなくなっている。発言は常に誠実、裏表の違いはない。外交も国内の政治も教育も産業にも驕りがない。環境問題には敏感、貧しく弱い他国には常に親切、援助、難民受入れ、すべてに愛と真実。
 国民は神を楽しみ、教会生活を喜ぶ。大邸宅や宝石等に興味はない。贅沢な快楽、娯楽を知らない。ましてパチンコやアダルト・ビデオなど見向きもしない。また金を貯め込む喜びを知らない。人のために尽くすことを喜びとする。
 だから無駄な産業開発をしない。大工場も、大型ショップ、スーパー、郊外商業地帯もない。国民にいわゆる購買欲が無いのだ。ただ神を愛し、人に仕える喜びだけに生きる。決して禁欲している訳ではない。
 福音と文化は栄えても、いわゆる文明は不要である。文明というものは人間の快楽と便利さのためにある機械発達の偽文化である。日本はたぶん田園国家になる。
 つまり、日本列島は世界のカントリーとなるのだ。エデンの園の再来である。世界中の人々はこの国を故郷のように思う。毎年、この国を訪れる。この故郷のような国に攻めこんで来る国は一国もない。こういう日本になりたい。《く》 
(2005・12・15、祈祷会にて)

〔あとがき〕
日本民族総福音化の時代が達成するとき、この日本列島カントリーが実現するわけです。本題は、橋本先生の「田舎(カントリー)牧師」という本が気に入って、そのカントリーという言葉を拝借しました。橋本先生に感謝します。佳きクリスマスをお迎え下さい。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2005-12-18 00:00 | 日岡だより

No.206 救いと報い、信仰の喜び 2005.12.11

救いと報い、信仰の喜び
       第一ペテロ1:3~9、ヘブル11:6 

   一、神の国について
 イエス様の伝道の第一声は「時は満ちた。神の国は近づいた。」(マルコ1:15)でした。「神の国」という言葉は聖書の中で福音書や使徒行伝において、一つのキイワードだと言えます。
 「神の国」と言う言葉の内容には3つの段階があるように思います。まず私たちは、十字架にかかって私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださったイエス様を信じます。その時から(ピリピ人への手紙に従えば)私たちの国籍は天にあるのです。
 私たち日本人がアメリカに行こうと、ヨーロッパに行こうと、またそこで住もうと、たとえそこで死んでも、私たちの国籍は日本にあるように、私たちがこの地上に住んでいても私たちの国籍は天にあるのです。
 もし「あなたの国籍は?」と聞かれたら、とっさに「天国人です」と答えるようでありたいですね。この地上で天国人らしく生きて日々を過ごす、そういう人たちが集まって交わりを持つ時、そこに地上の神の国が生れます。
 そうです、そこに教会があり、そここそ地上の神の国です。死んでから行く「神の国」ではありませんが、地上天国とも言える神の国です。神の民の集まるところ、この教会こそ神の国であります。
 まとめて言えば第1は、私たちの国籍は天にある、既に神の国の者であるということ。第2は私たちは今、この地上天国・教会に生きているということ。第3は、私たちは遂には主に迎えられて天の御国に入ることができるということ。この3つの段階です。

   二、救いについて
 ペテロの第一の手紙1:3~6は言います。
 「(神は)わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない(神の国の)資産を受け継ぐ者として下さった(=国籍が天にできた)のである。あなたがたは、終わりの時に啓示さるべき救い(天に迎え入れられる)にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、(天国に入る日のことを思って)あなたがたは大いに喜んでいる」と。
 主によって救われていることの喜びについて、3段階で語ってみましょう。
 第1は私たちが罪からあがない出され、新しく生まれさせて頂いて、神の子とされているという信仰を喜びます。
 第2は生きている間には、いろんな問題や困難もあるが、それに勝利する救いを獲得しており、更に私たちの霊性が高められ、信仰のランクがぐっと引き上げられて、信仰成長の飛躍的体験をもさせてくださる、その経験をする時、私たちは子どものように跳ね踊って喜びます。
 第3番目は、遂には神の国に入り、肉体もあがなわれる完全な救いを、天国にあって喜ぶのです。

   三、信仰には報いがある
 ヘブル11:6に「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」とあります。ここで言う信仰とは教条的な信仰ではありません。徹底して神様に近づく信仰です。「神に来る者は、神のいますことと、(神は)ご自身を求めるものに報いてくださることを必ず信じる」のです。
 信仰の第一番はイエス様の十字架を信じて救われる信仰でした。イエス様の十字架を信じて罪が許され、命があがなわれ、神の子とされて、国籍が天にあることを信じる信仰でした。その上で、
 日常生活において本当に、信仰生活が生き生きとして実りのある信仰、このヘブル11の6にある信仰を持つのです。この信仰を神様は喜んでくださいます。ですから、
 (1)神様が現実、真に存在することと、(2)神様ご自身を求める者に必ずご自身の臨在を報いてくださることとを信じるのです。
 究極の信仰は神様ご自身を求める事です。「求める者には神は必ず報いてくださる」と聖書は言います。この個所で用いられている「求める」という言葉は、原語では「ひたすらに必死に求め続ける」という意味です。
 尚もう一つ。この「報い」という言葉はヘブル人への手紙にしか出てこない言葉でミスタポドシアと言います。その人の功績や働きの実績に応じて確実に、本当に、正当に与える報い、という意味です。
 「報いを求めて働く」と言うと、「報いなどは期待しないで、無償の純粋な気持ちで働くのが本当ではないでしょうか。報いを求めて働く、と言うのは不純な感じがします」、という方もあるでしょう。
 なるほど、報いなんか求めないで、ただひたすら神様の御心に従う。それは良い信仰だと思います。にもかかわらず、ここでは「報い」という言葉を、働いた者に対する当然の報酬という意味で聖書は使っているのです。
 聖書を見ると、イエス様は報いを求めることを決して批判しないし、そういう信仰を拒絶していません。パウロも、「競走で走る者は賞をもらうため一所懸命走っている。私たちクリスチャンもすべて、神様からご褒美の冠を頂こうとして、ゴールまで走り抜こうではないか」、と言うのです。(なお旧約のネヘミヤ5:14などもご参考に)。
   四、神に喜ばれる信仰
上述の「神様ご自身を求めること」、これは信仰姿勢の極致です。そして、このヘブル人への手紙のお言葉に励まされて「ご自身を求める者に神は必ず報いてくださること」を信じようではありませんか。
 私は勉強が足りないからとか、信仰歴が少ないからとか、道徳的に失敗しているからとか、だから私はダメです、などと言わないことです。どのような人をも変わりなく、神様は愛して下さるのです。
 イエス様の王様の婚宴の喩えがあります。王様が婚宴を開いて皆を待っていた。聖書には、その時「善人も悪人もみな連れてこい」と王様はおっしゃったとあります。ただ王宮の入口で貸して貰える礼服を着なければならない。礼服を着て来ない者は善人でもダメ。礼服を着ていさえすれば悪人でもよろしいと、聖書は読めます。礼服とは何でしょうか。
 ローマ13:14に「あなた方はイエスキリストを着なさい」とある。そうです、イエス様こそ礼服です。イエス様を信じ、イエス様を着て、神様のところに行く時に、善人であろうと悪人であろうと、神様は受け入れてくださるのです。
 その王宮に入って、愛にして真実なる父なる神にお会いする時、子どものように、「お父様」とすがりついてご覧なさい。「おお、お前か、よく来たな」とおっしゃって抱きしめてくださることでしょう。
 そのようにして、天において神様とまったく一つになる信仰の喜びが成就するのです。そして、その時、顔を上げて父なる神様を見ようとすれば、そこに見えるのはイエス様のお顔ではなかろうかと、私は信じるのです。   (1998.10.11.週報より再掲載)

〔感謝〕
妻トミのことですが、本年5月27日に脳梗塞を起こし、脳神経外科の病院に入院しました。一応、脳外科の治療を終わったものの、意識や運動の能力が麻痺しているので、6月10日にリハビリ治療を受けるため湯布院厚生年金病院に転院しました。それ以後、半年の療養を経て、先日(12月9日)に退院して自宅に帰って来ました。まだ身体の運動も会話の機能も麻痺状態でありますが、それでも退院数日前から回復の兆しが見え、また帰宅しての、その夜から回復の様子が一段と目だって見え、喜んでいます。これも神様のなされるところ、また諸先生方、諸兄姉のご加祷の結果と感謝いたしています。これまでの何度か難病を経てきた妻ですが、その度に奇蹟をもって喜びを与えてくださった主の、更にこの度も奇蹟を表して下さることを信じているしだいです。(釘宮拝)
[PR]
by hioka-wahaha | 2005-12-11 00:00 | 日岡だより

No.205 サタンから奪還せよ 2005.12.4

サタンから奪還せよ

 私は最近、教会の信徒のみなさんに一冊の本を推奨しています。それはジェリー・サヴェルという先生の書いた本で、「荒野に水が、荒地に川が」という本です。けっして安いとは言えない本ですが、みなさんに買ってほしいと思っています。近く、この本で読書会をしたいと思っているからです。
 この本の一番大事なメッセージは、私たちが神様から与えられている祝福を、サタンから奪い取られているということです。そして、このことを「我慢ならない理不尽なことだ」と自覚せよということです。「この侭ではたまらない。私は私の奪われたものをサタンに向かって『我に返せ』と言おうと決心せよ」と言うのです。
           *
 私たちクリスチャンは、この世にあって絶対的勝利者であるべきです。パウロは、「わたしたちは、すべてのことにおいて勝ち得て余りがある」と言っています。しかし、現実には私たちはしばしば敗北を喫しています。なぜでしょうか。それはサタンから騙されているからです。
 クリスチャンはイエス様のあがないによって、ひとたび罪を赦され、すでに罪人ではないはずです。しかし、敬虔なクリスチャンほど毎日のように「私の罪を赦してください」と祈っています。また「私は罪人です。罪人です」と告白している人のなんと多いことでしょう。
 多くのクリスチャンたちが、イエス様が「求めよ、そうすれば与えられる」とおっしゃった重大な約束を忘れているのです。もしも、金や物が無くなると顔色を変えて狼狽し、だれに借金を申し込もうかとあせるのです。なぜ、まず万物の所有者である神様のもとに駆け込まないのでしょうか。
 主は言われます。「私は主であって、あなたがたを癒すものである」。ところが、みなさんが体に異様を覚えると、すぐに「癌ではないか」とおびえて医者に飛込みます。なぜ、まず最大の医師である神様の膝下にゆかないのでしょうか。
 私はしばしば信徒のかたに質問します。「みなさん、病気になったら、一番にどうしますか」。「はい、神様に祈ります。そして牧師先生に電話します」などと答えてくれれば、私は満足しますが、実は一番なさってほしいのは、まずご自分で「サタンよ、私から離れ去れ、私は病気になぞ負けないぞ」と宣言することです。
 あなたがたの家庭や、友人仲間のなかに誤解や不和が生じる、そうした人間関係の困難がやって来たとき、「あなたがたは愛し合いなさい」というイエス様のご命令を厳粛に受け入れましょう。
 そして、「私たちの間に疑いや憎しみをもたらしているサタンよ、主の御名によって命じる、去って行け」と命じるのです。
           *
 実はそれらの困難な状況はクリスチャンに起こるはずは無いことです。しかし事実は、しばしば私たちはそのような困難に遭遇します。それはサタンの仕業、サタンの撹乱戦術です。
 こうした状況から私たちは逃げ出すのではなく、私たちをだまし、私たちから神様の祝福を盗み取っているサタンに対して戦いをいどみ、彼らを退け、勝利を宣言しましょう。
 実はサタンの軍勢とは悪霊どもなのですから、そいつらを追い出し、追い掛け、奪った彼らの戦利品を奪い返せということです。盗人の盗んだ品々を、私たちが取り返す時、聖書の教えでは、4倍か7倍の賠償を取ることになっていると、前述の「荒野に水が、荒地に川が」の中でジェリー・サヴィエル先生は言っています。
           *
 ジェリー・サヴィエル先生は奪われたものの「回復」と言っています。「回復」という言葉は10年か20年ほど前のカリスマ集団では流行の神学用語でした(「回復」のことについては最後の補遺をお読みください)が、それはともかく、私は今、ジェリー先生には悪いけれども「回復」という言葉を変えて、「奪還」と言う言葉に替えたいと思います。
 人類の最終的「回復、つまり奪還」は主のご再臨の時に成就します。最近の社会情勢や科学や軍事模様の動きを見ていると、その時は近づいていると思えます。(先々週のNHKで巨大くらげの発生が特集されていました。人間の貪欲な文明の総決算が目前に迫っている感じがしました)。
 それらはすべてサタンの狡猾な奪取戦略です。これらサタンを追いたてる戦術について、私の発見した武器を公表します。それは前号に書いた「笑いによる祈り」です。
 私はかつて言ったことがあります。「ワッハッハハ」と高笑いしましょう。我々の笑う声を聞くとサタンもはだしで逃げるのです」。
 ジェリー先生の「荒野に水が、荒地に川が」の本の終わりのほうにも、こんな言葉が出てきます。
「ヨエル書2:21によれば、私たちが『回復』を体験したいのなら、まず『喜べ、楽しめ』を先にしなくてはならない。昼食の招待を受けた場合、御馳走を食べる前に『頂きます』と礼を言うようなものです。神様の祝福を回復(奪還)を信じる者は、それを迎える前に喜び楽しんで感謝するのです」。
 私は提唱します。「主にあって喜び(笑い)をなせ、主はあなたの心の願いをかなえられるであろう」(詩篇37:4)、この言葉を唱えましょう。そして「ワッハッハハ」と高笑いして、サタンを退けましょう。アーメン。《く》

〔笑いの運動について注意〕
 去る11月22日のTBS系の「はなまるマーケット」で、「大いに笑いましょう」と私の十八番を横取りしたような放送があった。「笑いの基礎練習」と称して顔の筋肉の体操を教えていた。結構なことなのだが、笑い顔と同時に怒った顔を作ってみましょうとか、顔の筋肉の訓練にひょっとこのような口をさせてみたり、妙に目くばせをさせたりさせる、これは良くないと思った。
 顔の表情筋肉を大いに練習させようという発想は良いことのようだが、怒った顔やおどけた顔や泣きべその表情はそのまま感情脳のほうに悪い印象を印刻させるので良くないのだ。楽しい愉快な、活き活きとした感情を植えつけ、倍加させる、私の「笑いましょう」運動の意図とは全く別物である。最近は「笑いましょう」運動も、各所で殖えてきて、大いに感謝であるが、こうした問題のある指導も各所で行われているようだ。□く

 〔補遺・回復の神学について〕
かつて「回復」と呼んだのは、中世のヨーロッパ教会において失われたた原始教会の信仰を、現代に回復するのだという意味に使われていたかとも思います。神学音痴の私には自信はありませんが、こういうことでなかったでしょうか。まずルターの宗教改革によって「信仰義認」の信仰が回復され、次にジョン・ウェスレーによって「聖化」の信仰が回復され、次にA・B・シンプソンによって「神癒」の信仰が回復された。又、1900年代に、カリフォルニアで異言を伴う「聖霊」信仰が回復されたというように。「聖霊」信仰の回復は私の先師・手島郁郎先生に従えばカリスマタ(カリスマの複数)の時代の到来と言うべきかと思います。私の考えによりますと、それ以後チョウ・ヨンギ先生などによって「繁栄」の信仰や「悪霊解放」の信仰も回復してきたと思っています。▼ジェリー先生に言わせると、200年前は「私は救われています」と自信ありげに言うだけのことでも、はばかられたと言いますし、50年前に私が「すべての病気は主が癒されます」などと言い出して、神癒伝道を始めた時も、周辺の牧師先生がたからは奇異の目や批判の目で見られたと思います。ですから、「悪霊追い出し」などを始めると、もう論外だよ、というような批判が向けられたものです。最近では、こうした前衛的回復の現象は次第にキリスト教界のメインラインでも全般的に受容されてきているのではないでしょうか。▼なお、方々から不審がられるかもしれませんが、今後どしどし回復されて然るべき分野を次に挙げてみます。(1)信徒たちの無所有共同生活の回復。(2)社会に対する奉仕活動の回復。これは救世軍やマザー・テレサなどの活動に燭光が見えます。(3)最後に、もう一つはダビデの王国の回復です。日本流にいえば祭政一致ですね。多々批判も受けるかも知れませんが、真にキリストの福音が日本民族に豊かに息づく時、日本の政治も経済も教育も変わるでしょう。神の権威と教え、愛と正義が国家の中核となるはずです。現状から類推すれば、この成長過程では創価学会の強力な牽制に遭うことでしょうが、この国の年来の創価学会の成長ぶりこそ、私たちにとり良い研究課題でもありましょう。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2005-12-04 00:00 | 日岡だより