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No.195 オズボーン師のセミナーに参加して 2005.9.25

オズボーン師のセミナーに参加して

 この9月19日から22日まで、埼玉県川口市で持たれたオズボーン師のセミナーに参加してきました。オズボーン師は私の神癒伝道者としての恩人でありますから心を踊らせて行ってまいりました。そのステージ上の先生を私の眼をもって初めて見ることができたのですから、本当に感激でありました。今回の先生のセミナーで学んだ私のノートを簡略にお伝えします。
 第一、先生は本当に聖書を広く、深く読んでおられる。そして、その聖書をまったく信じきっておられる。そのことを私は先生のお話を聞きながらひしひしと感じました。「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学なものを賢くする」という詩篇19篇、7節のお言葉を思い出したことです。
 第二に、先生は「キリスト教は宗教以上のもの、宗教を越えるものです」と何度となくおっしゃった。世間ではキリスト教も宗教の一つと思っていましょうが、先生は違うのです。世にある宗教はおまじない宗教から、祖先崇拝、道徳宗教、そして仏教のような哲学的宗教まであります。仏教はたしかに宗教としては最高の宗教でしょうが、しかしキリスト教は神様の力を頂き、キリスト様ご自身が人の内に宿ってくださる福音であると、先生はおっしゃったのです。
 第三は、聖書の言葉、信仰の言葉を何度も会衆一同の口で唱えさせました、告白です。これこそ私たちが信仰を確実に握り、信仰を生きる秘訣であります。
 先生は最初の夜などはステージに立って、3時間か4時間立ちつくして説教されました。先生はまさしくすぐれた説教家だと感じました。又、その83歳の元気さにも驚かされたことです。《く》

 
無邪気な信仰

 アメリカにはアーミッシュという超保守的キリスト教集団があります。本当か、どうか知りませんが、今でも自動車を使わないで馬車に乗って移動する、そんな生き様を頑固に守っているそうです。
 その頑固さの故に、時にはアメリカの法律に従い得ないことが起こります。その結果、ある時、集団の長老が法律に問われました。この時、アメリカの最高裁判所は、宗教者の信仰を選択的信仰と信念的信仰に区別して審査し、長老の信仰は信念的信仰であると認めて、彼を無罪と判決したというのです。
 さすがアメリカです。こういう司法判断が過去の日本にあったなら、さしずめ兵役を拒否した私なども、たとえ、それが戦争中だったとしても、罪に問われ、刑務所に入れられることはなかったかもしれません。
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 選択的信仰とは神様を信じていながらも、社会生活の現場では妥協的姿勢をとることです。国家の政策や法律を恐れ、世間の評判や視線を気にするからです。
 信念的信仰とは、正しい信仰に立って、世間や、国家や、政府の権力を恐れないで、神様の御心に沿った正しい行動をとる、そういう信仰です。
 私の母が、戦争中、部落の区長さんが伊勢神宮のお札を配ってくると、はっきり断りました。
 私が非戦主義の結果、捕えられた時、参考人として警察に呼ばれましたが、「私の息子は聖書の教えに従ってやったことですから、悪いことをしたと思っていません」と言って、警察は唖然としたと言います。
 日ごろ、気の弱い母でしたが、こういう時、信念的信仰から外れることは無かったのです。母には夫の釘宮太重や、義兄の釘宮徳太郎の聖書信仰に従って、自然体のままに的を外さないところがありました。
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 前述の私の母の信仰の秘密はその無邪気さにある。つまり、愚かなのです。戦時中のような逼迫した時代には意識的にせよ、無意識にせよ、愚かにならなければ、権力や世間の趨勢に巻き込まれてしまう。私の母は、つまり愚かであった。時代の流れを知らず、聖書の教えのまま、戦争はしてはいけないと思いこんでいた。警察の刑事さんも怖くなかったのである。
 まったく愚かになりきって幼子のように神様に信頼する時、人は強い確乎たる信念的信仰を持ち得ます。こう言えば簡単ですが、これは並の知恵のある人には難しい。人類はエバ、アダムの時に知恵の実を食べてから、無用の知恵がありすぎて、愚かな人になり得ない。愚かに徹することは至難なことです。
 この愚かな道とは別として、信念的信仰を持つためには、2つの道があります。
 この強い信仰を持つ第一の道は神様の声を聞くことです。神様の声には権威と力がある。神様が私たちの魂に「平安なれ」と言ってくださると、即座に私たちの心は平安になるのです。かつて神様が私に、「この事を始めなさい」と言われたら、それを聞いた私はとたんに一切の障碍を打ち破ってその業を始めたものです。
 神様の声を聞いて人生の道を開いて行く人は幸いです。しかし、いつも神様からの御声が聞こえるとは限らない。しかし、強い信仰や勇気、神の知恵を必要とすることは、人生にしばしば起こります。そこで、
 第二の道は言葉による信仰の育成です。神様の言葉や、聖書に沿った撰練した言葉を、自分自身に言い聞かせる方法です。私はこの方法を金田福一先生から学びました。金田先生の言うところでは、これはマルティン・ルターの本にあったのだそうです。
 これは又、永井先生に学んだ「告白」の信仰でした。この源流はケニヨンという先生にあるそうですが、へーゲン先生や、オズボーン先生、ドン・コセット先生の本にもあります。お読みになってください。(01.9.9.週報より)
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 前述の信念的信仰という次元は全く内面的な良心の問題です。使徒行伝第15章におけるヤコブの意見は、その点、次元が低いのでして、割礼や不品行や食べものの次元にとどまっています。今のキリスト教界で言えば、禁酒禁煙の問題が、これに似ています。論議を進めれば、アメリカのクリスチャンの保守派に言わせれば、非戦論もその中にはいるかも知れません。
 原罪論に従うと、クリスチャンが言っている罪は内面性の強い倫理感が強く、法律の罪の問題とは次元が違います。法律は外面の行為や言葉に関することですが、信仰上の罪は心の次元を含めます。心の中で人を呪っても、姦淫を犯しても、法律では罪になりません。
 しかし、神の前における罪は、神の正義と、神の愛と、神の聖性と、神の全能を信じ、それに従うか、否かに関わります。
 法律では問われないような、消印を忘れた切手を再使用をするとか、隣家のイチジクの果を一個盗んだとかも、神の正義の前では良心のとがめを受けます。
 人を憎むとか、汚れたことを思うとか、それは神の愛、また聖性に反します。神の声に従わないで世の常識に従うという誰にも有り勝ちな罪も、それは神の全能の力を信じない不信仰の罪だと言われれば、呆然としましょう。原罪論はそこまで詰めて行くのです。
 罪の責任は罰ですが、クリスチャンの罪の責任はイエス様の十字架の贖いによって除かれます。心の汚れは、罪の結果ですが、その責任は除かれたにしても、クリスチャンはその心の汚れには悩みます。少しは清められたにしても、尚も汚れた思いが残っているからです。この苦しみと悩みは、イエス様の内在の信仰に至って初めて解放されます。
 また神様の御言葉に従い得ない力の弱さ、不従順の罪、これを覆いくださるのは聖霊の賜物による能力の付与です。《く》

〔あとがき〕
オズボーン先生のセミナーに続いて癒しの伝道会が持たれましたが、私には時間の制約があり心を残しつつ大分に帰ってきました。当教会から何人か伝道会に参加されましたので、その方々から癒しの伝道会の報告を聞けることと思っています。▼私個人としては、伝道会に出席して癒しを受けたい熱望もありました。セミナーとは言え、癒しのミニストリーも少しはして下さることと期待していましたが、残念なことに些かもその気ぶりもお見せでなかったです(笑)。▼今回の出張中、お世話になった方々のご恩愛に感謝します。またお訪ねすべき方々をお訪ね出来ませんでした。失礼のほど、お詫びいたします。釘宮拝。
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by hioka-wahaha | 2005-09-25 00:00 | 日岡だより

No.194 選挙は終わった 2005.9.18

選挙は終わった

 選挙は終わった。今回の選挙は九州では台風14号が突入してきて騒々しかった。落ち着いて選挙演説も聞けないという有様だった。その中で選挙は終わった。自民党大勝利である。
 このまま小泉さんが羽振りを利かせても、ヒットラーのように舞い上がりはしないだろうから安心だが、それでも勝って驕ってはいけない。自重して頂きたいと思う。人間は得てして、こうした大勝利のあとが怖い。頼まれないでも祈ってあげましょう。パウロ先生は私たちクリスチャンに勧めるのです。
「まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っている人々のために、願いと祈りと、とりなしと、感謝をささげなさい」(第一テモテ2:1)と。
 この勧めを、全クリスチャンはぜひ覚えていてほしい。日本にとって、王たち、上に立つ人たちとは、まず天皇様ご夫妻と皇太子ご夫妻。そして今回の小泉さん。以下各閣僚、高級官僚、代議士諸君、こういう方々のために祈りなさい、とパウロ先生は言うのです。
 当時の王たちや、上に立つ役人たちは揃ってクリスチャン迫害者たちではなかったか。その残忍な迫害者たちのために「願い、祈り、とりなし、感謝しなさい」と言う。「パウロ先生、人がよいにもほどがあります」という声もあろう。
 しかし、社会の一応の安寧秩序を守るためには悪い権力でも無きに勝る」という低次元の配慮もあったと思う。「わたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすため」(第一テモテ2:2)には必要な権威であると言うのだろうか。常識人のパウロの言いそうなことでもある。
 しかし又、これは「敵のために祈れ」と仰せになったイエス様の御心に沿った勧めだと私は思う。ナチス治下、ヒットラーのために祈ったクリスチャンは反ナチスの教会の中にも多かったと思うのです。
 特に「願い、祈り、とりなし、感謝」、この言葉の並びに思いを馳せると、幾多の神学的重要命題が出てきそうであるが、その事には今回は触れない。
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 「すべての人」という言葉に目を留めたい。この第一テモテ第2章の1節から6節までに同じように「すべての人たち」と言った言葉が4回出て来ます。
 最も重要な言葉は、「神はすべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」という言葉と、「彼(キリスト・イエス)は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」というお言葉です。
 神様は全人類を救おうと望んでおられる、しかもそのための神様のご計画は既にイエス様によって成就された、というのです。それがなぜ、現実的には未だにこの地上に実現されていないのか。
 パウロは一つの付帯条件を語っていました。私たちの「願い、祈り、とりなし、感謝」です。この言葉をパウロがまず語るのに、「すべての人のために」と言って一旦区切って、それから「王たちと、上に立っている人々のために」と書き添えるのです。
 ここで学べることは、すべての人を救う神様のご計画が成就されるためには、私たちクリスチャンの祈りが必要だということです。しかも、「願い、祈り、とりなし、感謝」という、重複的な祈り方をパウロは要求するのです。そうした全クリスチャンの「願い、祈りと、とりなしと感謝」がささげられる時、神の救いの御業は成就するのだよ、とパウロは言っているように見えます。
 先師T先生が言いました。「信仰とは神と人との協力作用だよ」。ちょっと理解し難い言葉でしたので、私は驚きの余り、その言葉を正確に覚えることができなかったほどです。信仰とは「私が全く無力になって、神様に完全に降参することである」と極力思いこんでいた私は、腰が抜けるほどびっくりしたのです。
 もちろん「私が全く無力になって完全に神様に委ねきる」信仰は真理です。大切です。しかも尚、「私の協力」を神様が求めておられるという不可思議さが、その後次第に分かってきました。
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 ところで、「すべての人のために、また王たちや上に立つ人々のために」祈るクリスチャンの責任について申し上げたい。
 日本だけにしぼって言うなら、「すべての人」は日本国全国民です。「王たちや上に立つ人々」は先に述べたように、天皇様や、その周辺。また小泉さんやその周辺、その従属する人々です。こうして人々のために、祈りましょう。今回、一応の選挙をすませたクリスチャンの私たちには、その責任があります。
 アメリカの南北戦争が終わって、ゲッティスバーグの記念式典でリンカーンが演説しました。有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という名句。
今日に至っても、リンカーンがあれほど熱望した奴隷廃止の根本的理念がアメリカで完全には生きていないことは、今日のハリケーン被害地の住民たちの底知れぬ白人支配への怨念を見れば分かります。アフリカから無理矢理に連れて来られた貧困で無教養な黒人たちを見くびって社会資本の投入をしぶってきたアメリカのいわゆる民主主義の偽善性が今露呈しているのです。
 私はここで好んでアメリカ非難をしている訳ではない。アメリカには良きものが沢山あります。私はアメリカ人が好きです。しかし、アメリカ人が自己の矛盾を知らずして、民主主義を世界に輸出しようとしている愚かさと傲慢さには気づいてほしいのです。
 そして今、日本を振り返るならば、私たちこそ「日本人民の、日本人民による、日本人民のため」の政治を求めたいのですね。それを今回、意気軒昂たる小泉さんと、それに率いられる自民党の面々に求めて、それが可能でしょうか。不安にならざるを得ない。まず不可能でしょう。ではどうすれば良いでしょう。
 祈りです。日本の全クリスチャン、祈りましょう。
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 国家というものは、国土と国民と支配権の三つで構成されます。ユダヤ人は西暦71年以来、国土を失い、国民は世界に流浪し、彼らを治める王も政府もありませんでした。しかし、彼らは2千年の間、自分たちが神の民であることの自覚を失った事はありません。世界歴史の奇蹟です。(2005.9.13.夜、祈祷会にて)
 日本人は余ほど誇り高き民ですが、それでもアメリカに移民すると一世はともかく二世はもうアメリカ人です。太平洋戦争の時には日本人二世のアメリカ兵士は父祖の日本列島に軍靴で上陸して来ることを厭いませんでした。ひょっとしたら日本領土空爆の兵士のなかに日本人二世がいた可能性もありますが、それは知りません。ともあれ、ユダヤ人は国土もなく、王も無いけれど、ユダヤ人として2千年の歴史を地球上に残してきた。このすばらしい民族のアイデンティティ、こうした民族の誇りを日本人も持ってほしい。
 そのためには、まず日本にあるすべてのクリスチャンがキリスト・イエスにある栄光に満ちた自画像を抱いてほしい。そのことは別の機会に書きたい。《く》

《お知らせ》
 パワー・プレイズの松岡欣也先生から次のような携帯メールがはいりました。毎朝、ご希望の方に送り出している「聖句と先生の一言コメント」というものです。実は私もしてみたいと思っていましたが、先を越されました、呵々。《く》
【聖書の言葉】『だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎ当てたりはしない。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。(ルカ5:36、37)』
【チョッと一言】これまでにない熱い選挙戦でした。改善より改革を望む人達や世代へと移行する時の流れを感じます。イエス様も改善ではなく根底から造り直すために来られたのに、古い頭の指導者層は抵抗。代わって神は新人、素人、若者、女性を抜擢。日本にイエス様のおいでを待つ人は聖書の解釈に光が当てられたら、腹を決めて自分に大切なものを見分け取捨選択し、次に備えよう!(松岡師)

〔あとがき〕
私は9月20日より22日まで埼玉県川口市のリリアで持たれるオズボーン師のセミナーに参加します。伝道会には残念ながら参加できません。なお、今回は帰路を急ぐ事情があり、ゆっくりお訪ねしてお交わりする余裕がなさそうです。東京方面の方々、近くまで行きながら失礼する方も多いと思いますが、お許しください。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-09-18 00:00 | 日岡だより

No.193 神の言葉には力がある 2005.9.11

神の言葉には力がある

 ある本屋さんがありました。ご夫婦で経営していました。ある日、そのお2人が一緒に聖書を読みました。「人間はすべて神様から造られた神様の子供である」という言葉、そして「あなたがたは互いに清い挨拶を交わしなさい」(第一コリント16:20等参照)という言葉を読みました。その言葉にふれた時、何かがハッと彼らの心にひらめいたのです。
 それから、彼らのお店にくる人にはどんな人にも、子供でも大人でも、どんな貧しい人にでも、立ち読みする人でも、「お早ようございます。よくいらっしゃいました。ありがとうございます」と心をこめて挨拶をするようになりました。
 ところが、店の構えのどこを変えたわけでもなく、販売のやり方など、何も変えた訳でもないのに、売上げが4倍にもなったのです。
 そして、家の中も楽しい優しい幸福な家庭に変わってしまったと言うのです。実は30年ほど前のこの教会の週報という刷り物の中に書いてあったのを、ふと手に取ってみて発見した文章です。(30年ほど前というのは、この教会の建物がちょうど出来たころにあたります。)
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 一つの言葉、良い言葉を、それも聖書の言葉、神様の言葉を、それに目を留めて、一心に行う時、その人に、その人の周辺に、何かよい変化が起こります。
 新約聖書ヤコブの手紙第1章25節に、「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」とあるとおりです。
 つまり「み言葉を行う人には祝福がある」、ということです。この言葉は確かに真理ですが、多くの人にとっては、つまづきの言葉でもあります。聖書の中の言葉のどれかを拾って来て、「さあ、これを実行せよ」と言われても、実行できそうもない言葉が沢山あります。たとえば、イエス様の山上の説教の「あなたの右の頬を打たれたならば左の頬を向けなさい」です。この言葉の解釈も難しいのですが、それが分かったとしても、この言葉を実行することが難しいです。
 確かに、この言葉はガンジー流の無抵抗主義を傍証するのに良い言葉ですが、こうしたことを実行できるのは聖フランシスコ並の聖人でもなければ不可能に見えます。
 こうした実行不可能に見える聖書のお言葉を実行できる人になるためには、二つの道があります。その道を次にあげましょう。
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 第一は神様の側だけの力、聖霊の助けです。前掲の「あなたがたは互いに清い挨拶を交わしなさい」というお言葉ですが、このお言葉に触れて「何かがハッと彼らの心にひらめいたのです」と書きましたが、ここに聖霊さまの秘密があります。
 聖書の言葉でなくても、聖霊の働きによる言葉が私たちの心に響くとき私たちの魂は一変します。それが「神の言葉には人の魂を救う力がある」(ヤコブ1:21参照)ということです。
 ここで「人の霊」と言わないで、「人の魂」とあるところに注意してください。「神の言葉には人の霊を救う力がある」と言っても誤りではありませんが、聖書はそうは言いません。人の霊を救うのはイエス様の十字架の血潮なのです。
 そこでわざわざ「人の魂」というのは、一旦救われたクリスチャンがこの世で生きてサタンと戦わねばならない魂(精神活動)の領域で勝利するためなのだということを表明しているのです。
 多くのクリスチャンがせっかく新生の命(霊)を頂きながら、この世の実践的生活において失敗しやすいのは、この精神活動の領域においてパワーが無いからです。また神より賜って聖霊の権威を用いる信仰の働かせ方が理解できていないからです。
 さて、説明を戻しますが、聖書のお言葉、もしくは一般の言葉でも聖霊様が加護して働かれる時、私たちの魂(心・精神活動)に異常なインパクトを与え、揺るがない信仰を与えます。それほど堅苦しくない淡々たる信仰の場合が多いですが、しかし強烈な信念を伴う信仰を与えてくれます。これは聖霊の加担力です。
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 第二は人間のがわでなすべき事です。やや工夫が必要です。「工夫」と言う言葉は、よく賀川豊彦先生が使った言葉ですが、重要な実践用語だと思います。(例えば、賀川先生が「冥想の工夫」などと言う時、そこに賀川先生の魂の深淵が顔を覗かせています。先生のこの言葉に余り注意を払う人の少ないのは残念なことです)。
 ヤコブの手紙1:25の「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて実際に行う人である」という言葉があります。「完全な自由の律法」とは「聖書の言葉」のことです。「一心に見つめてたゆまない」とは、言い変えれば「見続ける」ということです。「一心に」ということは一応難しいことに見えますが、実際に「見続け」ていると、次第に心が一つに集中してくるものです。
 しかも、その言葉をあなたの口で言い続けてください。それを「み言葉の告白」と言うのです。その告白を続けて行きますと、次第に信仰があなたに育って行きます。告白すれば告白するほど、あなたに信仰が増し加わって行くのです。
 この告白を実践的に強化する方法は、声を高くし体でも身振り手振りのパフォーマンスを添えてやることです。ビジネスマンの自己開発研修会でよくやる「アファーメイション」と形は同じです。(私の「だれでも出来る心の強化法」の11頁を参考)。
 こうした時、長く続けなくても、ただの1回か2回の告白でドカンと求めたことが実現することがあります。そこには前節の聖霊さまの助けを感じます。しかし、たいていの場合、忍耐して告白を継続することが求められます。(祈りにおいても同様です。イエス様が「失望せずに求め続けなさい」と例話(ルカ18:1~8)で語られたとおりです。
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 告白ということを少し広げて考えますと、「いつも喜びなさい。すべてのことに感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16、18)というお言葉を思い出します。
 これはマーリン・キャロザース先生の「賛美の力」で教えられました。この本が初めて出版されて、もう30年はたったでしょうか。一世を風靡しました。当時、私はさっそく真似しました。何を見ても、何が起こっても「感謝します」「賛美します」と言ったものです。
 そこへ続いて「笑い」の神学的方法論が私の頭脳に湧いてきました。すぐさま実行を始めました。「ワッハッハハ、ワッハッハハ」です。これらはすべて、即「喜ぶこと」や「感謝する」ことの告白です。これを出来るかぎり絶え間無く実践する、ここに信仰を効果的に自分に当てはめて成功的信仰生活を送る秘訣があります。軽すぎる言い方でしょうが、コツと言ってもいいほどのことです。《く》

【福音春秋】
 リバイバル新聞が「バウンダリー」の紹介を始めた時、私は非常に好感を持った。それは非常に今日的な人間関係、近隣問題に触れているので、こうした事に悩む心優しきクリスチャンの方々のためすばらしい、身近な問題引受け窓口だと思ったからである。さて、同じく今回のリバイバル新聞9月11日号、ヒットだと思う。借金問題である。関係のない人は他人のことで何処吹く風かもしれないが多重負債を抱えてウンウン言ってうなっている人には飛びつきたい頁であろう。西田育生先生がやっている東京ライフケア事務局の記事です。借金に悩む人々のためのカウンセリングと支援を目指します。先生言わく、「借金はもともとは心の問題」。しかし、具体的には「目の前の問題」です。今後の記事を期待します。《く》

〔あとがき〕
先週の本紙に書いた産経新聞の件、実はその掲載した写真に産経らしいメッセージを感じて同紙を褒めたつもりであった。さて9月10日の地元大分合同新聞にはコラム囲いで、ワシントンからバス10台でニューオーリンズに被災者迎え入れに行ったが一人しか希望者が無かった、とある。それ以上何の説明もない。商業新聞のくせ、突込み足りなあと、呆れる。《く》

《御礼》
台風14号のお見舞を多数頂きました。感謝します。大分の教会や小生、信徒各位、さして被害はありませんでした。感謝。ただし、宮崎や延岡等、床上浸水や断水、お見舞申しあげます。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-09-11 00:00 | 日岡だより

No.192 民族の魂 2005.9.4

民族の魂

 この原稿は9月1日の夜に書いている。日本では1923年の関東大震災を心に銘じて「防災の日」と呼ぶ日だ。関東大震災は当時、世界の同情を買った。アメリカからも多くの援助物資が贈られた筈である。
 今回のアメリカのハリケーン被害の報道にビックリしている。今度こそ、日本からアメリカにお見舞の復興資金や物資を贈る時であろうか。どうも、こう書くとヘンな感じがするのもヘンであるが、私の正直な気持ちである。なぜか?
 世界一の金持ちで、文明国で、無いものは何も無いように見えるアメリカの国で、たかが風が吹いたくらいであんなに被害が起こるものなのか。同情してよいのか、同情などしては失礼なのか、挨拶に困る、と言った感情が起こるのだ。私のひねくれ根性だろうか。
 それにしても、あのキリスト教国家アメリカで、ああした混乱下に略奪が起こるとは何事か。日本の阪神大震災などで略奪どころか、コンビニなどで買物の客が整然として順番を待っていた、公衆電話では急ぐ人に順番を譲る人もあったという。当時、その記事を読んで、感激して涙ぐんだものだ。なんだかアメリカが憐れになってきた。
 産経新聞の紙面を見ると腰まで水に浸かって避難している集団は皆、黒人たちである。産経は何も解説していないけれど、南部アメリカの暗部をあばいているようにも見えた。
 ともあれ、この日には、もう一つひどい国際ニュースがあった。イラクのバグダットで数百人の民衆が橋から、チグリス河になだれ落ちて溺れ死んだという。宗派間の摩擦が原因だが、群衆がテロの噂におびえた結果であるという。このような騒動が起こるのもイスラムの信仰のせいか、民族の特別の問題なのか。《く》

 
福音魂を日本に

 戦争中の記憶であるが、無教会の矢内原忠雄先生が書いていた文章がある。「日本の台湾統治は成功である。これに比して朝鮮統治は全く悪い」。正確な文章は忘れたが、だいたいこんな意味だった。戦時であったから政府筋には睨まれて当然の文意であったがこういう時、矢内原先生には只ならぬ勇気があった。ちなみに矢内原先生は当時、東京帝国大学の教授、植民地政策の権威であった。
 最近、ある人が台湾を訪ねて、当地の台湾の知識人が「日本の政治は良かった。かつての日本人は私たちに日本魂を教えてくれた。今の日本人には日本魂が無いような気がする」と言うのを聞いたそうだ。「日本魂って何ですか」と聞くと、「それは教育勅語ですよ」と答えたそうだ。私は驚いた。
 明治天皇による「教育に関する勅語」は明治23年の発布だが、その記念式が当時の第一高等学校で行われた。時も時、そこで教授であった内村鑑三先生が正面に飾られた天皇のお写真(当時御真影と言った)に礼拝することをためらって、チョコッと頭を下げただけにした。それが天下に伝えられ、先生は「国賊」という訳で全国住む所にも窮するような事になった。
 その時、先生は「形式的に教育勅語をうやうやしく拝むとか、どうとかではない。教育勅語の精神を真心から実行出来るのか、ということではないか」と、当時の国純派の哲学者井上哲雄あたりに反論している。
 「教育勅語」は良いものである。いわば聖書でいう律法である(ローマ2:14参照)。戦前の台湾の人々が心から承服したという「教育勅語」は明治日本の遺産である。台湾の人さえ褒めてくれる。日本人たるもの、これは堂々と誇ってもよいことだと思う。
 しかし、実は日本魂だけでは物足らない。今、日本に必要なものは福音魂である。「律法のなし得なかったことを成就するのはキリストの血潮」(ローマ8:3参照)である。キリストの福音こそ「教育勅語」の律法を完成する。さあ、「キリストを日本に!」《く》
 

「国家の理想」

 折も折、伊豫土佐市の浅野忠志兄から、矢内原先生の「中央公論」昭和12年9月号に載った論文、「国家の理想」の複写が届いた。私は文献で読むだけで、実際に開いたことのなかった問題の論文を初めて拝見して感激した。その論文を紹介するだけの紙面がないのだが、武田清子氏の解説の一部を以下に載せる。
 「この論文で一番当局が忌避したのは、どの点であったか」という問いに対して先生はこう答えている。
 「国家の理想は正義と平和である。戦争という方法で、弱者をしいたげてはならないのです。国内においても、国際的にも、強者が弱者を支配するのに暴力を用いるならば、それは既に戦争政策です。
 如何なる国も『国家の理想』に従って歩むとき、立派な国となり、栄える国になるのである。そういう国家の理想に従って歩む国にならなければ、国は栄えない。一時、栄えるように見えても、理想のない国は滅びるものだと言った、これが問題になったのです」
 矢内原先生は藤井武先生の記念講演会でも語りました。「理想を失った日本の国は一度葬って、新たに出直さねばなりません、日本の理想を活かすために一先ずこの国を葬ってください」。この言葉が引き金になって、当時の東京帝国大学の教授の地位を追われたのです。戦後、先生は当東京帝国大学の総長に帰られたのはどなたも知っています。
 さて辞表を出された後、終講の辞を述べられた。
「私は身体を殺して魂を殺すことのできない者を恐れない。……身体ばかり太って魂の瘠せた人間を私は軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように」。
 教室につめかけた満堂の学生たちは深い感動に襲われたという。先生は、別の聖書研究会の会員の前でこうも言っている。
 「どんなことがあっても、私は諸君に恥をかかせるようなことはしません」と。「私のせいで諸君が警察に捕まるようなことがあっても後悔せぬように」と言わんばかりであったそうです。《く》
 

神の道をわが道とせよ

 もう一つの「折も折」です。ちょうどこの日、キリスト聖書塾の藤岡弘之先生から「生命の光」今月号を恵送受けました。私は手島先生から叱られて、何を叱られているのか見当もつかず、打ちしおれて大分に逃げて帰ったものです。その後、先生は亡くなられてしまったし、不本意のまま本日まで過ごして来ました。
 ところで、その今日頂いた「生命の光」に懐かしい手島先生のブラウニングの「ベン・エズラ」の感想が載っていました。先生の「ベン・エズラ」は天下の圧巻です。言わく、

 「私たちは、一度すっかり自分の心に線を引くことが大事です。小さな心、目先だけの小さな理想しかもっていない小人ばら、すなわちこの世の神無き人たちとは、一線を画して歩こうと決心しないと、信仰が成長しません。私たちは、偉大な心の人々の心、グレート・マインドの持ち主でありたいものです。……人が何と言おうと、神の道をわが道として行こうとするのが、一番大事です。
 私たちは神に聴き、神の声を聴くべきです。神様に信頼し、神様に価値基準を置くのが一番良い。神様の目に尊く見えるものがよいのです。人間に基準を置いたら負けてしまいます。
 神様に信じて、自分の一生を、今からの未来に任せることが大事ですね。神は必ず導きたまいます。」《く》

〔あとがき〕
以上は、9月1日に書いたり、引用したりした拙文です。「福音魂を……」は元々私の原稿ですが、拡大の機関紙に載せた私のエッセイです。丁度その機関紙「マグニファイ」が9月1日に私の手元に着いて、この号に貰ってしまったのである。いまさら、書き直しもしたくないので、このまま印刷に廻すズルを決めたわけです。▼9月1日がこんな風なら、9月2日も又、新聞に振り回された。ミズーリ号艦上降伏文書調印の記事、関連して「山口判事、ヤミ米を食べないで餓死」、「特攻隊くずれの青年、戦災孤児と共に駅に寝る」、そういう記事が満杯である。▼「戦災孤児」!、私には想い出が山ほどある。防空壕跡に共に抱いて寝たY君。駅の切符売り窓口の棚の上に寝て転げ落ち接骨医に連れていってやったG君、その後どうしたろう。当時の事ゆえ、写真もない。時おり新聞社が写してくれた写真は捨ててしまった。▼当時、大分駅前から竹町にかけてのヤミ市の靴磨きのボスは私だった。私の許可が無いと靴磨きが出来なかった。その特権を利用してキリスト新聞を戦災孤児たちに駅構内で売らせた。売った金は彼らにやった。たしか、300部は売れたなあ。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-09-04 00:00 | 日岡だより