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No.191 オズボーン師を迎えて 2005.8.28

オズボーン師を迎えて

 数年前、アメリカでのベニーヒン師の聖会のビデオを見ることがあった。そのステージにオズボーン師がゲストに招かれて上がって来たので、私はびっくりしたものだ。私はもうオズボーン師はとっくに天に召されているもの思っていたからである。なぜなら、
 オズボーン師は私より20歳は年上の方だろうと思っていたからである。私は今年83歳である。だから先生はもう生きているはずはないと思っていた。又オズボーン師の噂を聞くことが無かったのである。
 私が初めてオズボーン師を知ったのは、日本語訳の「キリストによる癒し」という本によってである。そのことは本紙の先週号で書いた。当時1955年、私は33歳であった。「キリストによる癒し」は多分その数年前には書いた本と思われた。事実、今、手もとの資料でしらべると、この本はオズボーン師の最初の著作で、その発行は1950年とある。まさに、オズボーン師がはりきって書いた最初の本である。
 南方の後進国(失礼!)諸国での奇蹟的伝道集会、そこで何万人という大人数を集めての神癒聖会の説教者である。大物だ。私にはどうしても40歳、50歳の先輩伝道者に見えた。私はこの本によって、神癒伝道者として神様に導かれたのであるし、だからオズボーン師は私の恩人である。この方の、その後の消息が私の耳や目には入らなかった。何故だろう。日本には全然来られなかったからである。
 だからもう、世界の伝道界からは消えた方だと思っていた。それは私の情報把握能力の脆弱さからも来るのだろうが、他にも理由がありそうな気がする。
            *
 あの「キリストによる癒し」を訳したのは松山福音センターの万代恒雄先生であった。また、かつての日本・京都における神癒聖会の通訳者も、この万代先生であった。当時の京都集会が如何に凄かったかは、今度、頂いたオズボーン伝道の書籍に載っている、あの時の京都集会の大群衆の写真を見ると、想像がつく。
 万代先生はその後、日本を代表すると言ってよい神癒の賜物を含めて、放送伝道や海外伝道の大型伝道者となった。当然、そこにはオズボーン師の強い影響も想像できる。この万代先生がオズボーン師を日本に招かないはずはないと思うのだが、なぜかその企てがない。やはりオズボーン師はもう地上にはおられないのかな、と私が思ったとしても、笑う人はいまい。
 昨年の暮れ近くになった頃だったかと思うが、今年の9月にオズボーン師が50年ぶりに再来日とのニュースをキリスト教関係の新聞で知った。私は驚いた、その突然の来日ニュースもさることながら、オズボーン師が83歳だと言うことが分かったからだ。
 「何だって、私と同じ年ではないか」。私は仰天した。そうすると、私を発奮させたあの本を書いた時は多分、28歳位の若さ。あの驚嘆すべきアフリカなどでの神癒伝道集会は20歳代の若さでやったのか。私は腰を抜かす思いだった。
            *
 今回、オズボーン師の新著「贖われた祝福」の書評を書いてくれというリバイバル新聞からの依頼があって、その本を送ってくれた。読んでみると、凄い。かつての「キリストによる癒し」が、キリスト教神癒をストレートに書いた基本的簡約テキストとするならば、今回の「贖われた祝福」は「癒しの教理と実際」を網羅するテキスト大全集である。
 人はなぜ罪を犯したのか。その罪から病気が生じる。悪魔とは何か。キリストは地上に何故うまれたか等々、キリスト教の教理の大略を落すこと無く掲げる。
 そして神癒の力の根本、如何にして癒しの力を頂けるか、失敗しやすい原因、そんなことをすべて丁寧に書いてくれているが、そこに神の御言葉に対する信頼や熱情、まだイエス様を知らない民族への宣教熱。そうしたオズボーン師の溢れるばかりの思いが、読む私たちに伝わってくる。
 この本を読むと、先生は20歳の時デイジー嬢と結婚し、23歳(太平洋戦争終結の年)の時インドに宣教師として行った。しかし失敗してアメリカに帰った。そんなことが分かる。こうして、イエス様を知らず、未回心の国に行って、福音を伝えることの困難さを身をもって体験した。これは先生夫妻にとって大変なショックで、大事な経験であったと思う。
 そして数年後、すばらしい先輩たちに会う。彼らの圧倒的癒しの伝道の現場にふれ、先生夫妻は覚醒する。聖書の奇蹟の真理を発見して、その後ジャマイカにおける宣教の後、本格的に世界宣教への活動を始めたのだそうです。それは1949年、先生は27歳の若さだったのです。私(釘宮)がちょうど大分市鶴崎で独立伝道を始めた年です。
 私は後に大分市中心部にもどって集会を始めていましたが、そこで初めてオズボーン師の「キリストによる癒し」にふれ、そして私の神癒伝道が始まります。それから、ちょうど50年たちました。そして昨年の終わりの頃だったか、オズボーン師再来日のニュースを知るのです。
            *
 さて、今回の「贖われた祝福」という先生の本ですが、小さい字で約500頁の大冊です。最初に「この本は真の人生のための7つの賜物、7つの祝福、7つの啓示を公表しています」と約束しています。
 このように数字を打って文章の区分をつけ、文章を分かりやすくするのも、先生の親切です。お陰でかなりむつかしそうな説明文も見やすくなります。こうして綿密に長文を書いておられるのも驚きです。
 時には驚くような提言を出します。「しばしば、貧乏でいなければ敬虔なクリスチャンになれないと心の底で思っている人も多いかも知れないが、それは間違いです。神様はご自身の子どもたちが富んでいるのを見るのは嬉しいはずです」、などと言います。
 また、「祈りについて、悲痛な声をあげて泣き叫ぶようにして祈らなければ神様は聞いてくれない、などと思うのは最大の誤解です。神様は愛の方です。祈らぬ前から私たちの必要を知って満たしてくださる方ではありませんか」、などと言ってくれます。
            *
 オズボーン師は、これまで一人としてイエス様の言葉を聞いたことの無いような未回心の国に伝道することを決めていたようです。「私は異邦人への伝道者」、また「人が行ったあとには私は行かない」などと言ったパウロに似ています。こうしたことが、これまで長い間先生が日本に来なかった理由かもしれません。
 あの頃、先生が日本の京都で伝道された時、日本の国が東南アジアや、アフリカ、南アメリカのような未伝国とは見えなかったのかも知れません。私の独り合点の判断ですが、先生の宣教上の信条の故に、既宣教国である日本へは行かなくても良い、あの国は万代先生に任せておこう、とでも思われたでしょうか。
 しかし、この度、日本に再来日されるのは何故でしょうか。私の立ち入るべき問題ではありませんが、先だってハーザー8月号で「日本にはリバイバルが起こる、リバイバルが起こると、もう耳にたこが出来るほどアメリカなどの高名な先生がたの預言を聞くが、一向に日本にリバイバルが来ない。これはどうした訳か」、という某先生のご意見が出ていた。まさに然り。
 日本は非キリスト教国でありながら、日本のクリスチャンや牧師、神学者たちの質がよい、もうすぐリバイバルが来て良さそうであるのに、それが起きない。
 これには霊的地政学と言うか、他国に例のない問題がありはしないか。この問題についてオズボーン師は何か期すものがあるのではないか。これは私の思い過ごしでしょうか。今回の川口市における先生のセミナーに期待することが大きいのも、この期待もあるからです。《く》

〔図書推薦〕
オズボーン師と娘さんのラドンナ師との共著「新しい奇蹟のいのち」、世界各地で行った癒しの伝道集会における驚天動地の奇蹟の証し集です。273頁。1680円。発行所はイルミナイター、発売は(株)星雲社。▼「贖いの祝福」も先週号に書いたとおりです。ぜひお求め下さい。教理的にも、しっかりしていますから。いずれもキリスト教書店でどうぞ。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-28 00:00 | 日岡だより

No.190 私の神癒伝道事始め 2005.8.21

私の神癒伝道事始め

 それは、1955年のことだったと思う。私はどこで手に入れたか覚えていないが、T・L・オズボーン著「キリストによる癒し」という雑誌型の本を手に入れた。「癒し」という言葉に魅力があった。私は読み始めた。その内容に魅せられた。私は熱中して毎週の礼拝でこの本の宣伝と講釈を始めた。
 「皆さん、確かにイエス様は私たちの病気を癒して
 くださる方です。この本を読んでください。聖書に
 書いてあるまんまです。ぜひ読んでください。」
 その頃、私は大分市の中心にあった町村会館というビルの一室を借りて毎週日曜日の礼拝をしていた。会衆は15名、時には30名ほど集まる程度でした。
 その「キリストによる癒し」を信徒諸君に勧めているうちに、ある日、Nという老人があたふたと私のもとにやってきた。
 「先生、奇蹟です。私のおなかの痛いのが治ったん
 です。」
 様子を聞くとこうだ。聞けば可笑しい、おなかが痛くなったので、ふと毎週先生の言う「キリストによる癒し」のことを思い出した。それで、やってみようと思って、あの本をおなかの上に置いて寝た。そして寝入ってしまったが、目がさめると腹痛が治っていた。と、こう言うのです。
 なんだか、偶像宗教の「おふだ」をお腹に貼っていたら病気が引いたという感じだから、吹き出しそうになった、しかし、ご当人が真剣だから笑うに笑えず、真面目な顔をして、他の信者さんたちに神癒のあらたかさを吹聴した。すると皆さんは真面目に聞いた。
           *
 ところで、次の週、その夜が祈祷会の日だった、皆さんが集まって祈祷会の準備中だった。そこへ、例のN老人の奥さんのオバアチャンが急きこんで部屋に入ってきた。私の家の6畳の間だった。
 「先生、先生、神経痛が治った。おったまげた。わ
 し、イエス様、信じます。」
 今までご主人のお腹の痛みが治ったのをせせら笑っていたオバアチャンが言うのである。
 郊外の田圃の畦道を歩いていたそうだ。突然、全身に痛みが走って倒れそうになった。神経痛だ。彼女は必死になって叫んだ。
 「釘宮先生の信じるイエス・キリストの神様。この
 神経痛を治してください。」
 すると、左か、右か、ともかく半身がずばりと治った、しかし、残る半分が痛い。彼女はもう一度、叫んだそうだ。
 「釘宮先生の信じるイエス・キリストの神様。半分
 だけでなく、全身をポーンと治してください。」
 そうすると、いっぺんに全身からスッキリ痛みがなくなったそうだ。
 「先生、わしゃもうジイチャンを笑いません。私も
 イエス様を信じます。」
 と、おいおい泣くのです。その夜の祈祷会はいっぺんに燃え上がったのです。
            *
 その後、しばらくしてある女性、30代の奥さんが来て、「先生、盲腸炎ですが、キリスト様の力で治るでしょうか。」と言う。私はドキッとしたが、無理に落ち着いて「大丈夫、なおりますよ」と言った。
 くわしく聞くと、下腹部に痛みが始まって病院に行くと、2人のお医者が3べん見て、「手術をせねばいかん」という。しかし、お金がありません。(当時はまだ国民健康保険の無い頃です。手術が怖いから神様のお癒しというのではない。入院費が無いから神様のお癒しがほしいという時代です。)
 私がそのご家庭に行って見ると、奥さんは布団をしいて寝ている。枕もとに化膿どめの薬がおいてある。お腹のほうには氷嚢をあてている。その奥さんのそばに行って家族の見守る中で、まず薬と氷嚢を棄てさせた。そして私は下手な祈りをした。私はそういう時の霊的処置というか、祈り方というか。全く知らなかった、祈りの大家の祈りの現場を見たことが無かった。
 私は祈り終わると、冷や汗をかいて、そそくさと逃げるように、その場を辞して我が家へ急いだ。あのままで大丈夫だろうか。あの奥さんが死んだら、私は多分、「偽牧師、患者を殺す」とでも新聞記事になって叩かれるだろうなあ、と不安で一杯だった。私は今でもその時、恐れつつ帰った道の様子を覚えている。
 それから3日して、日曜日がきた。いつもの町村会館で礼拝をしていると、あの奥さんが飛び込んできた。そして、叫んだ。
 「先生、盲腸炎が治った。一向に痛くありません。
 熱も無いです。日直のお医者に見てもらったら、盲
 腸炎は無くなっている! って言うんです。」
 さあ、礼拝の場は大騒動。私は驚喜して叫ぶ。
 「みなさん、どうです。神様のお力は凄い。皆さん、
 病人をどんどん教会に連れてきなさい。」
 さっそく次の日に、ある信者さんが乳癌の女性を連れて来た。未信者です。私はまた、顔色を無くした。
 「なんで、もっと軽い風邪か、腹痛の人でも連れて来
 ないんだい?」
 信仰のない牧師の私は慌てます。しかし、その乳癌の女性もまた、一週間で癒されます。私はますます上気しました。
           *
 ところが、今度は私の家族です。様子が違う。ちょうど年が変わって新年になりました。「今年は神癒の年だ」とはばからず、公言していたが、なんとその正月から妻や子どもが次々に猩紅熱とか、幼女の唇がただれて溶けて行くとか、難病、奇病の連続です。
 そして今度は、これらの病気が一気には治らない。信じて忍耐して、待っているだけです。そうしているうちに、しかし次第に治って行く。
 実はその頃、私は医師も医薬品も一切拒否。だから小さい傷にも、メンソレータム一つ塗らない。風を引いても売薬一包も飲まない。厳酷なものです。(今はそうではありません)。じっと待っているだけです。
 多分、自然治癒力でなおるのだろう、と理屈をつける批評家もいます。ともあれ、そういう我慢のなかで、病気は一切治って行く。そのうちに、私の家庭では病気というものは放っておけば、治るものだということになってしまいました。
 その後も、ある信者の方、足に出来たコブのために祈ると、見ている間にジュジュと音を立ててコブが消え、後に皮膚が皺になって残っていた。あるいは、ある未信者さんの家庭からは、「家出をしたお父さんを捜してくれないか」などと、占いの霊媒にでも持って行きそうな依頼が舞こんだことがある。でも、祈ってあげると、お父さんがその祈った時刻にちょうど北九州の駅に行っていて、そこで心が変わって家に帰ってきた。そんな例が続々と生まれてきました。
 こうして、次第に私の内に強い信仰が固まってきました。小さかった信仰、無邪気な可愛いい信仰が、積み重ねられていって、いつの間にか、しっかりした確かな信仰に固まってくるのです。小さい信仰でも気にせずに積み重ねてゆくうちに、強い、大きい信仰に成長していく。そこに信仰確立の法則があるようだと私は気づき始めました。
 ただ恐れるのは、そうした信仰を頂くと、傲慢になりやすいことです。働かれるのは主イエス様です。私たちは主の僕に過ぎません。私は特に小さい器です。諸先生がたの末尾に伏すものです。ただ、主様だけに栄光をささげます。《く》
 
〔あとがき〕
冒頭に書いたT・L・オズボーン師は来月の9月19日から25日まで、埼玉県川口市(川口駅前)のリリアにてセミナーと伝道会を開きます。まさに50年ぶりの来日です。ご紹介した「キリストによる癒し」は万代恒雄先生の翻訳でした。その本が私の神癒伝道に乗り出す原点になりました。そういう訳でオズボーン師は私の恩人です。▼この度、オズボーン師の新著「贖いの祝福」という本が出されています。リバイバル新聞からその書評を依頼されて目下原稿作成中ですが、凄い本です。皆さんのご購読をお勧めします。発売は(株)星雲社。定価は2600円。少々値は張りますが、がんばって買ってください。私は書評のために読み始めたのですが。文句なしにすばらしいというより、実はびっくりしています。信仰の持ち方や、祈りの姿勢について、私たちの多くの誤解を指摘し、そして具体的に本当の祈りについての新しい考え方、姿勢を教えてくれます。どうぞキリスト教書店に行って注文してください。▼今週のリバイバル新聞の「非戦論」の記事は注目です。団体や国や、ともかく組織が大きくなればなるほど倫理的水準は落下してゆくのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-21 00:00 | 日岡だより

No.189 平和論者はどこへ行く? 2005.8.14

平和論者はどこへ行く?

 毎年、2月と、8月が来ると、キリスト教関係の新聞に私は必ず「平和憲法を守ろう」という協賛広告を出す(小さい枠だが)。2月は建国記念日の2月11日(戦前の紀元節)を意識してのことだが、8月はもちろん敗戦の日を意識してのことである。
 もう一つ、12月8日の真珠湾攻撃の日、つまり大東亜戦争が太平洋戦争に拡大した日であるが、この日を控えての「平和憲法を守ろう」という広告も出したいのであるが、新聞社側がこの企画を持って来ない。
 12月8日の真珠湾攻撃の記事は一般紙でも載らないことがある。まして2・26事件や支那事変の勃発等、滅多に新聞に載らない事が多い。一般読者に興味の無さそうなことは記事にしない癖が新聞各紙には有りそうである。
 明治時代には社会を啓蒙し、権力や社会に嫌われそうな意見もデカデカ発表する新聞があったようだが、その後、新聞経営は肥大して利益本位となり、理想主義が卑小化したのか、かつての意気込みが無い。
 せめて、キリスト教関係の新聞は積極的に平和論を大声叱呼してほしい。(大声叱呼という言葉は私の慣用語らしく、辞典には同音の言葉はあるが、この言葉は無い)。
           *
 先週の「日岡だより」の付録として一部の方々に配布した文章がある。以下のようなことを書いた。
 8月6日の新聞各紙に一頁全面広告が出ていましたね。皆さん、見られましたか。
 「『憲法を変えて戦争に行こう』という世の中に
  しないための18人の発言」
 と称して、井上ひさしや、黒柳徹子、美輪明宏、吉永小百合さんなどの名前が連なっていました。
 なんという気の弱い見出しでしょう。私は言いたい。真の平和主義というものはそんなものではない。国(国会)が憲法を修正して、国を挙げて戦争をおっぱじめた時、その戦争のさなかで、我々戦争反対者は、どうしたらよいのかという覚悟が見えない。今からでも、その用意をしておかなくては、イザという時、間に合いません。
 某国が日本列島に水爆を落して、東京、皇居、大阪、名古屋、北九州、沖縄が壊滅する。政府の機構は文書やインターネット関係、全国を網羅する産業、交通、通信、地方行政の把握が一切メチャメチャになる。
 その時、どういうわけか軍事機能だけが、つまり軍人さんだけが残って健気にも日本列島を守ってくれている。そういう光景が国民の前に現出されたとしたら、誰でも主戦論者になるだろうと思う。これは、
 私のしろうとらしい、やや誇張したシミュレーションですけれど、こうした事が起こりはしないかと思うのです。その時、平和主義者はどこへ行くのか。


世界の終末が来るか

 戦争どころか。もう一つ問題があります。地震です。関東の人からハガキが来ました。「東京地下地盤が地震必至という噂があります。日本は大丈夫でしょうか。最近の小型地震の頻発に恐れています」と。
 ファチマの預言というのを聞いたことはありませんか。1917年にポルトガルのファチマという村でルチアという少女に聖母マリヤが表れて、3つの預言をしました。
 それはまず、第一次世界大戦と、第二次世界大戦の預言でした。そして、その預言はズバリ当たりました。残る第三の預言がヴァチカンの奥深く納められて、聖母マリヤのご命令で、秘密にされていました。
 その禁が解かれる1960年?に、時の教皇さんが開いて見て、その恐怖的内容に失神したと言われています。そしてその預言文書は再び秘密にされました。
 さて、噂らしいが確かなことらしい。その第三の預言というのは、近づく第三次世界大戦と聖書のヨハネ黙示録にある世界終末の地震やその他の地上の惨劇を預言しているのだというのです。
 その時代が、今、近づいているのではないか。私たちクリスチャンは単なる平和憲法論や、戦争が起こったら、どうするか、そんなことを言っているどころではないのではないか。
 地球最後の終末が来る。単なる「戦争はキライです」というような小児病的非戦論では収まらない時代がくる。主イエス・キリスト様の到来を迎えて、教会は奮闘的対応が迫られている、そういう時が来るのです。
 悪魔の力、そう、闇の力です。その闇の力が現れます。その力に打ち勝たねばなりません。そのためには福音の力が待たれます。
 全世界に福音が宣布され、世界各地に霊的、道徳的変革が起こり、地球に新しい地殻と気象の変動が起こり、新人類が生れます。全世界が一つになります。聖書でいう千年王国です。……しかし、まず地震が来るべきなのです。《く》


新聞の不思議さ

 この8月6日の産経新聞でしたが、その日の「産経抄」というコラムに、当時としては「郵政改革案賛成」と小泉さんを驚喜させるような記事が載っていました。しかもこの日の読者投書欄では、その見やすい箇所に、「郵政改革の利点」と称して、具体的な民営化利点を挙げた投書が載っていたのです。今まで、こんな記事を産経新聞でも見たことがなかった。まして、他の各社の新聞ではそうです。なぜでしょうか。
 他に例をあげましょう。本年当初の頃だったか、自治体の合併問題の扱い方がそうでした。「今、なぜ市町村の合併が必要なのか」、政府や関係市町村の説明も、そして新聞(!)の解説も全然ない。これも不思議だった。
 こうした重要問題には、新聞はもっと解説や意見を出すべきだと思う。郵政民営化の問題など、宙に浮いていて、衆議院解散の時に至るまで、万事まったく蚊帳の中で、遂に解散だ。なぜ政界であんなにもめたのか。さっぱり分からなかった。当事者も新聞も説明不十分のまま、幕は下りたのです。
 これは政府も周知徹底不十分というべきでしょうが、新聞には尚更、その責任があると思うのです。それにしても、最近の県警の捜査費の使途不明の事件は、少なくとも大分県の地元紙はかなり執拗に追及しています。しっかりしてきたと言うのは失礼かな。《く》


主は今、生きておられる

 先週、8月4日から同6日まで、久留米ベテル・キリスト教会を会場にしてイエス・キリスト福音の群の九州リバイバル夏季聖会が持たれました。当教会からは牧師を含めて5名しか参加が出来なかったのは残念でしたが、そのすばらしい聖会の霊気にふれて、私はいっそう深く残念に思いました。当初、私がもっと熱心に信徒の皆さんにお勧めすれば良かったのにと、ひとしお後悔したことです。
 今回の聖会の主題聖句はヘブル13章8節、「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも、同一のお方です」です。それを、最後の聖会で永井明先生が「これはつまり『主は今生きておられる』ということです」と言い替えて熱弁を振るわれました。
 先生は、どこまでも開拓伝道者、九州の小都市・鳥栖にお出でになって、まず奥様のご肉親、ご親族の最後に残られた、奥様直接のお兄様に伝道なさって、バプテスマを施された。しかも、遠慮なさらず、あっさりと酒や煙草もお止めになられるよう、義兄にあたられるお方に対して見事なご指導です。このお証しに感銘しました。
 なお明先生に先だって、信義先生は第一回は「イエス様に従え」。第二回は「イエス様を決して離れるな」との素晴らしい説教でした。最後の名フレーズは「いつも、どうしようもなく、神様を必要としている」。私は両先生の説教を身震いしながら、お聞きしましたよ。テープが間もなく出来るでしょう。みなさん、お求めください。《く》


【福音春秋】
 私の書いた小冊子「笑えば必ず幸福になる」がだんだん有名になって来ました。盛岡の鵜丹谷先生と、大和カルバリチャーチの大川先生の宣伝が大きく効いていると思うのですが、それにしても今回の私の手元に舞いこんだ情報に私もつい嬉しくなって、それこそ「ワッハッハハ」でした。
 昨日、前橋市の富沢内科小児科医院の院長先生から電話があったのです。先月、この医院の先代院長先生から「笑えば必ず幸福になる」を150冊の注文があったのですが、今回追加注文で50冊ほしいと言われる。というのもこの小冊子を患者さんたちに勧めたところ、実践してみた患者さんたちの疾病が治ってきているというのです。
 もっとも詳しいことは電話で分かりにくかったので、あらためて文書でお知らせくださいとお願いしたのですが、とにかく例えば、「神経痛の痛みが引きました」と言っておられるのを確かに聞きましたが、他にも癒しの証しが沢山ありました。ともあれ、小冊子「笑えば必ず幸福になる」で現に痛みが治ったなどと、現業医の先生からお証しを聞くのは嬉しいです。みなさん、ますます笑ってください。シャローム!《く》

〔あとがき〕
私はどうも長文大冊が書けません。小冊子が好きです、と言うよりそれしか能力が無いのか。前記の「笑えば必ず幸福になる」や「誰でも出来る『心の強化法』」など好評ですが、最近、永井明先生のご要望で1988年に書いた「ヨブ記説教集」を復刻出版しました。これも1冊100円の小冊子です。けっして重厚な本ではありません。重量的にも軽い。それこそ軽く手に取って読めます。なるほど、難解ヨブ記が楽しく読めると皆さんも言ってくれます。評判です。製本にやや難点があり、ですが安いのが取りえです。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-14 00:00 | 日岡だより

No.188 「真の勝利者」 2005.8.7

「真の勝利者」

 栃木の稲葉兄から、はがきが来た。「リバイバル新聞7月31日号の奥山実先生の『ハイデッガーとボンヘッファー』を読みましたか」とある。
 慌ててリバイバル新聞7月31日号を開いた。実は昨年の3月からリバイバル新聞で毎月1回、奥山実先生が「聖書とエスプリ」という連載を書いておられる。その途中、サルトル論だったか、その中でやはり、「ハイデッガーとボンヘッファー」に触れて居られた。
 ちょっと余分なことを書くけれども、この「聖書とエスプリ」という連載は非常に面白い。いささか量子力学など一般の人にはなじみのない学問も出てくるので、読みづらいかもしれないが、無理をして読んでいると少しずつ判ってくるものです。
 ハイデッガーは20世紀最高の頭脳と言われた哲学者だったが、ドイツ人としての誇りに驕ったのか、ヒットラーの政治思想に魅惑され、ナチス敗退後も山にこもり沈黙したまま悔い改めた様子はないという。
 引換え、ボンヘッファーは若い牧師だったが、政治指導者が偶像化されることに絶対反対だとヒットラーを批判、その所説をラジオで放送した。
 奥山先生は言う。全体主義体制のもとでは、教会は必ず2つに分裂する。体制側の「公認教会」と、「抵抗する教会」(ドイツでは告白教会)」である。
 ボンヘッファーは遂に逮捕され、ヒットラー自殺の3週間前だったそうだが、処刑される。死の直前に、こう語ったと言われている。
 「私にとってこれがいよいよ最後です。しかし又、
  これは始まりです。
  そして私たちの勝利は確かです。」
 ボンヘッファーこそ真の勝利者であった。《く》
 

かつての日本では 

 大東亜戦争(太平洋戦争)下の日本は全体主義政治体制であった。だから前頁の奥山先生の言葉によれば、教会は必ず二分化するはずだった。日本はどうであったか。
 いいえ、日本は違った。二分化どころか、一極化されてしまった。戦前の日本基督教団がそれである。当時日本にあったプロテスタント教会の殆どが加盟した巨大な組織であった。カトリックは別建てだったが、それも一つになって日本政府に従順に従った。
 反体制派は私のような二、三の個人を除いて、いくらも出ない。さびしく孤立した。
 さて、この教団が合同化するときの、総会の様子を当時某牧師から聞いた覚えがある。教会合同をせきたてる軍部の恐喝というか、威圧であろう。会場の外のロビーから軍人たちの歩き回るサーベルの音が聞こえたという。
 余談だが、そういう報告をしてくれる牧師には、私に対する一つの警告があったのである。私はすでに当時、非戦論者であったし、その意見を教会の青年会などで隠す事は無かった。そこで、「釘宮君、時代はこんな風に変わってきている。軍部の勢力は大変なものだ。これに反対するのは危険だよ」と言いたかったのである。その牧師の私に対する一種の「愛情?」はよく分かった。
 戦時下に作られた日本基督教団の規定には、牧師向けの懐柔策もあったと思われる。当時、前記の牧師が鼻をうごめかして言ったものだ。「今度の教憲ではね、牧師は教会の主管者として位置付けられ、教会の最高責任者として認められたんだよ」。
 これは今の私にしてみれば聖書的には当然のことであるけれど、戦前の共和制的教会政治の中で、信徒の長老役員たちの弁力が強く、牧師の意見が閉ざされることも多かった時代、牧師にとってこれは息を吹き返させてくれる思いだったかも知れない。
 また、牧師の立場が国家権力によって擁護されるような錯覚を生んだかも知れない。これも、全体主義体制下にまるめこまれて行く際のキリスト教会の一スナップであった。
            *
 戦前の賛美歌には、その最後の頁に日本国国歌の君が代の歌詞と譜が載っていた。末尾に「この書の歌詞にあらず。便宜上ここに収む」とあったように思う。信仰保持と国家主義とが厳密に丁重に扱われていて明治以来の教会の良さも表れていると思うが。
 しかし、ここから悪い扱いかたも生まれてくる。教会の礼拝中に東方遥拝が行われるようになる。東方遥拝とは九州からは東京は東である。天皇の住まわれる皇居を戦前は宮城と言った。(みやぎではない。きゅうじょうと呼んだ)。この宮城のある方向に向かって礼拝するのである。ちなみに当時東京の遊覧バスに乗ると、二重橋前ではバスガイドの指示で礼拝をさせられたものだ。
 そういうことで、礼拝の中で国歌の君が代も歌われるということがおこる。これはどこの教会でそうだったとは言えないが、特高警察が礼拝監視にでも来ていたような教会ではそれも有り得たと思われる。私の教会ではさすがに君が代は歌われなかった。しかし東方遥拝は行われた。こうしたことは各教会まちまちであったであろう。ここでは私の経験のみを書くことにする。
 私はこういう時、かたくなに正面を向って立っていた。私の教会では東が正面に対して左側になっていた。信徒の皆さんは従順に左向け左で東を向いて、最敬礼するのである。私は冷やかに突っ立っているから、その筋から見れば危険分子である。さいわい憲兵や警察が来ていなかったから、私は無事だったが、しかし牧師はヒヤヒヤしたと思う。
 遂に1941年12月8日、日本空軍の真珠湾攻撃が始まる。天皇の名による「宣戦布告」がなされる。私はその翌日、牧師を訪ね、「教会に迷惑をかけてはいけないから、今日限り教会を脱会します。教会と縁の無いことにします」と挨拶した。もちろん、牧師は了承したし、ホッとしていたようである。
 その後、戦局は拡大して行く。ついに日本基督教団から戦闘機「日本基督教団号」が献納されるまでになる。
 私はその後、投獄され刑務所の独房で回心した。それまで、信仰の確信がなかったのである。キリスト教的思想によって非戦主義を唱えてはいるが、可笑しなことに、その実しっかりした信仰を持っていなかった、それは私の嘆きだった。
 信仰を求めていた。内村鑑三のいうコンボルションが欲しかったのである。それが無いばかりに、私は無理矢理に非戦論を言いつのり、憂国の志士になったつもりで悲壮な気分を作り上げていた面もある。
 確信的信仰を神様から頂いてから、「しまった」と思うようになった。「宣戦布告」の翌日、教会に迷惑をかけまいと思って「脱会」を申し出た、それである。あれは失敗だった、教会に迷惑がかかるように籍を残しておくべきだったと考え直したのである。理由はこうだ。
 私のお陰で、あらためて思想調査を受ける信者さんの中で、一人でも信仰を告白し、「戦争は間違っています」と警察で言える人の出るのを待つべきだった。そういう人が出ないにしろ、教会の牧師や信徒の皆さんに信仰とは権力とぶっつかるものだ。キリシタン迫害は昔のことではなかった。現代でも起こり得る事なんだと認識させることは、迷惑かもしれないが、良いことなんだと、思ったのである。
            *
 私の母は当時52歳であったろうか。今の人にくらべ年老いて見えた。刑務所に面会にくる母の老いた容貌に私は泣いた。自分は親不孝だなあと思った。その母だが、警察に参考人として呼ばれたらしい。私はそのことを、随分後年になって知ったのだ。
 私の少年時代、私の一年先輩にMという人がいた、お姉さんがメソジスト教会の伝道師で、そのMさんもクリスチャンだった。そのMさんが戦後、大牟田の炭鉱で働いていたが、大牟田の新聞にコラムを担当してエッセーを書いていた。その中で、「釘宮さん、あなたのことを書いたから」と言って新聞の切り抜きを送ってくれたのである。その記事によると、
 Mさんは戦争中、満州の奉天にいて、なんと憲兵になっていたという。ある時、東京の本部から通達が廻ってきた。その中に、「九州大分市の釘宮なる男が非戦論で事件を起こしているのは既報のとおりだが、その母親が警察の取調べでこういうことを言っている。うちの子は聖書の言葉に従って戦争してはいけないと言っているのですから、あれの言うことは正しいと思います、と。この親にしてこの子ありだ。今後、キリスト教徒の思想は厳重に監視しなくてならない」とあったそうだ。
 Mさんは大分にいるとき、私の家の家業にアルバイトにきたことがあって、私の母親の気弱と言っていいくらいの温厚な性質を知っていたからびっくりしたそうだ。そして彼自身は私と同じ学校に通っていたときは、宣教師からキリスト教的匂いのする英語演説を習って得意げに雄弁大会に出たりした。いっぱしのクリスチャン顔をしていたのが、今は憲兵隊に入れられて結構憲兵づらをしている。恥ずかしさで身悶えしたそうだ。第一、1年後輩の私は在学中は軟派の女の腐ったような見栄えのない男だったから、あの釘宮君が……? と思うと呆然としたそうだ。
 その新聞記事の切り抜きを読んで、私も母を見直したものである。母は決して剛毅な人ではない。頭も賢くはない。信仰論や政治問題など難しい事は分からない。ただ私の伯父や夫の私の父の日ごろの言っていることをオウム返しに言っているに過ぎない。
 戦争中の町内では、ときおり区長さんが各戸に伊勢神宮のお札(大麻)を持って廻る。いくらかの金を払う。戦時下、これを断る人はいない、断れば、非国民である。それを母は簡単に断る。
 「へい、私の方はいりません。私の家はキリスト教ですから」という。区長さんは「ええ?」とびっくりして、「それでも、日本人じゃろうに。日本人はみんなお伊勢さんの氏子ですぞ」と言いながら、私の家の中をうさんくさそうに睨み廻す。
 母の信仰は決して偉いのではない。素朴に夫や、尊敬するその長兄の信仰に倣っているだけなのである。父の長兄は釘宮徳太郎、2・26事件の翌日に肺炎で死んだ。この伯父の召天の知らせを受けた東京の友人たちは悲鳴に近い声を上げた。
 大分の聯隊の将校たちが反乱をおこして釘宮さんは血祭にあげられたのではないか、と思ったかである。日頃、内村鑑三を尊敬した伯父なら、それも有り得たと思われた。母の警察での姿勢は、そんな伯父の影響であった。
 何かと書きたいことは山ほどあるが、今回はこの辺で結文したい。私の非戦論事件はなんだったか、実は書くのも恥ずかしいのだが、いずれ又、稿を改めて書くことにする。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-07 00:00 | 日岡だより