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No.193 神の言葉には力がある 2005.9.11

神の言葉には力がある

 ある本屋さんがありました。ご夫婦で経営していました。ある日、そのお2人が一緒に聖書を読みました。「人間はすべて神様から造られた神様の子供である」という言葉、そして「あなたがたは互いに清い挨拶を交わしなさい」(第一コリント16:20等参照)という言葉を読みました。その言葉にふれた時、何かがハッと彼らの心にひらめいたのです。
 それから、彼らのお店にくる人にはどんな人にも、子供でも大人でも、どんな貧しい人にでも、立ち読みする人でも、「お早ようございます。よくいらっしゃいました。ありがとうございます」と心をこめて挨拶をするようになりました。
 ところが、店の構えのどこを変えたわけでもなく、販売のやり方など、何も変えた訳でもないのに、売上げが4倍にもなったのです。
 そして、家の中も楽しい優しい幸福な家庭に変わってしまったと言うのです。実は30年ほど前のこの教会の週報という刷り物の中に書いてあったのを、ふと手に取ってみて発見した文章です。(30年ほど前というのは、この教会の建物がちょうど出来たころにあたります。)
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 一つの言葉、良い言葉を、それも聖書の言葉、神様の言葉を、それに目を留めて、一心に行う時、その人に、その人の周辺に、何かよい変化が起こります。
 新約聖書ヤコブの手紙第1章25節に、「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」とあるとおりです。
 つまり「み言葉を行う人には祝福がある」、ということです。この言葉は確かに真理ですが、多くの人にとっては、つまづきの言葉でもあります。聖書の中の言葉のどれかを拾って来て、「さあ、これを実行せよ」と言われても、実行できそうもない言葉が沢山あります。たとえば、イエス様の山上の説教の「あなたの右の頬を打たれたならば左の頬を向けなさい」です。この言葉の解釈も難しいのですが、それが分かったとしても、この言葉を実行することが難しいです。
 確かに、この言葉はガンジー流の無抵抗主義を傍証するのに良い言葉ですが、こうしたことを実行できるのは聖フランシスコ並の聖人でもなければ不可能に見えます。
 こうした実行不可能に見える聖書のお言葉を実行できる人になるためには、二つの道があります。その道を次にあげましょう。
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 第一は神様の側だけの力、聖霊の助けです。前掲の「あなたがたは互いに清い挨拶を交わしなさい」というお言葉ですが、このお言葉に触れて「何かがハッと彼らの心にひらめいたのです」と書きましたが、ここに聖霊さまの秘密があります。
 聖書の言葉でなくても、聖霊の働きによる言葉が私たちの心に響くとき私たちの魂は一変します。それが「神の言葉には人の魂を救う力がある」(ヤコブ1:21参照)ということです。
 ここで「人の霊」と言わないで、「人の魂」とあるところに注意してください。「神の言葉には人の霊を救う力がある」と言っても誤りではありませんが、聖書はそうは言いません。人の霊を救うのはイエス様の十字架の血潮なのです。
 そこでわざわざ「人の魂」というのは、一旦救われたクリスチャンがこの世で生きてサタンと戦わねばならない魂(精神活動)の領域で勝利するためなのだということを表明しているのです。
 多くのクリスチャンがせっかく新生の命(霊)を頂きながら、この世の実践的生活において失敗しやすいのは、この精神活動の領域においてパワーが無いからです。また神より賜って聖霊の権威を用いる信仰の働かせ方が理解できていないからです。
 さて、説明を戻しますが、聖書のお言葉、もしくは一般の言葉でも聖霊様が加護して働かれる時、私たちの魂(心・精神活動)に異常なインパクトを与え、揺るがない信仰を与えます。それほど堅苦しくない淡々たる信仰の場合が多いですが、しかし強烈な信念を伴う信仰を与えてくれます。これは聖霊の加担力です。
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 第二は人間のがわでなすべき事です。やや工夫が必要です。「工夫」と言う言葉は、よく賀川豊彦先生が使った言葉ですが、重要な実践用語だと思います。(例えば、賀川先生が「冥想の工夫」などと言う時、そこに賀川先生の魂の深淵が顔を覗かせています。先生のこの言葉に余り注意を払う人の少ないのは残念なことです)。
 ヤコブの手紙1:25の「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて実際に行う人である」という言葉があります。「完全な自由の律法」とは「聖書の言葉」のことです。「一心に見つめてたゆまない」とは、言い変えれば「見続ける」ということです。「一心に」ということは一応難しいことに見えますが、実際に「見続け」ていると、次第に心が一つに集中してくるものです。
 しかも、その言葉をあなたの口で言い続けてください。それを「み言葉の告白」と言うのです。その告白を続けて行きますと、次第に信仰があなたに育って行きます。告白すれば告白するほど、あなたに信仰が増し加わって行くのです。
 この告白を実践的に強化する方法は、声を高くし体でも身振り手振りのパフォーマンスを添えてやることです。ビジネスマンの自己開発研修会でよくやる「アファーメイション」と形は同じです。(私の「だれでも出来る心の強化法」の11頁を参考)。
 こうした時、長く続けなくても、ただの1回か2回の告白でドカンと求めたことが実現することがあります。そこには前節の聖霊さまの助けを感じます。しかし、たいていの場合、忍耐して告白を継続することが求められます。(祈りにおいても同様です。イエス様が「失望せずに求め続けなさい」と例話(ルカ18:1~8)で語られたとおりです。
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 告白ということを少し広げて考えますと、「いつも喜びなさい。すべてのことに感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16、18)というお言葉を思い出します。
 これはマーリン・キャロザース先生の「賛美の力」で教えられました。この本が初めて出版されて、もう30年はたったでしょうか。一世を風靡しました。当時、私はさっそく真似しました。何を見ても、何が起こっても「感謝します」「賛美します」と言ったものです。
 そこへ続いて「笑い」の神学的方法論が私の頭脳に湧いてきました。すぐさま実行を始めました。「ワッハッハハ、ワッハッハハ」です。これらはすべて、即「喜ぶこと」や「感謝する」ことの告白です。これを出来るかぎり絶え間無く実践する、ここに信仰を効果的に自分に当てはめて成功的信仰生活を送る秘訣があります。軽すぎる言い方でしょうが、コツと言ってもいいほどのことです。《く》

【福音春秋】
 リバイバル新聞が「バウンダリー」の紹介を始めた時、私は非常に好感を持った。それは非常に今日的な人間関係、近隣問題に触れているので、こうした事に悩む心優しきクリスチャンの方々のためすばらしい、身近な問題引受け窓口だと思ったからである。さて、同じく今回のリバイバル新聞9月11日号、ヒットだと思う。借金問題である。関係のない人は他人のことで何処吹く風かもしれないが多重負債を抱えてウンウン言ってうなっている人には飛びつきたい頁であろう。西田育生先生がやっている東京ライフケア事務局の記事です。借金に悩む人々のためのカウンセリングと支援を目指します。先生言わく、「借金はもともとは心の問題」。しかし、具体的には「目の前の問題」です。今後の記事を期待します。《く》

〔あとがき〕
先週の本紙に書いた産経新聞の件、実はその掲載した写真に産経らしいメッセージを感じて同紙を褒めたつもりであった。さて9月10日の地元大分合同新聞にはコラム囲いで、ワシントンからバス10台でニューオーリンズに被災者迎え入れに行ったが一人しか希望者が無かった、とある。それ以上何の説明もない。商業新聞のくせ、突込み足りなあと、呆れる。《く》

《御礼》
台風14号のお見舞を多数頂きました。感謝します。大分の教会や小生、信徒各位、さして被害はありませんでした。感謝。ただし、宮崎や延岡等、床上浸水や断水、お見舞申しあげます。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-09-11 00:00 | 日岡だより

No.192 民族の魂 2005.9.4

民族の魂

 この原稿は9月1日の夜に書いている。日本では1923年の関東大震災を心に銘じて「防災の日」と呼ぶ日だ。関東大震災は当時、世界の同情を買った。アメリカからも多くの援助物資が贈られた筈である。
 今回のアメリカのハリケーン被害の報道にビックリしている。今度こそ、日本からアメリカにお見舞の復興資金や物資を贈る時であろうか。どうも、こう書くとヘンな感じがするのもヘンであるが、私の正直な気持ちである。なぜか?
 世界一の金持ちで、文明国で、無いものは何も無いように見えるアメリカの国で、たかが風が吹いたくらいであんなに被害が起こるものなのか。同情してよいのか、同情などしては失礼なのか、挨拶に困る、と言った感情が起こるのだ。私のひねくれ根性だろうか。
 それにしても、あのキリスト教国家アメリカで、ああした混乱下に略奪が起こるとは何事か。日本の阪神大震災などで略奪どころか、コンビニなどで買物の客が整然として順番を待っていた、公衆電話では急ぐ人に順番を譲る人もあったという。当時、その記事を読んで、感激して涙ぐんだものだ。なんだかアメリカが憐れになってきた。
 産経新聞の紙面を見ると腰まで水に浸かって避難している集団は皆、黒人たちである。産経は何も解説していないけれど、南部アメリカの暗部をあばいているようにも見えた。
 ともあれ、この日には、もう一つひどい国際ニュースがあった。イラクのバグダットで数百人の民衆が橋から、チグリス河になだれ落ちて溺れ死んだという。宗派間の摩擦が原因だが、群衆がテロの噂におびえた結果であるという。このような騒動が起こるのもイスラムの信仰のせいか、民族の特別の問題なのか。《く》

 
福音魂を日本に

 戦争中の記憶であるが、無教会の矢内原忠雄先生が書いていた文章がある。「日本の台湾統治は成功である。これに比して朝鮮統治は全く悪い」。正確な文章は忘れたが、だいたいこんな意味だった。戦時であったから政府筋には睨まれて当然の文意であったがこういう時、矢内原先生には只ならぬ勇気があった。ちなみに矢内原先生は当時、東京帝国大学の教授、植民地政策の権威であった。
 最近、ある人が台湾を訪ねて、当地の台湾の知識人が「日本の政治は良かった。かつての日本人は私たちに日本魂を教えてくれた。今の日本人には日本魂が無いような気がする」と言うのを聞いたそうだ。「日本魂って何ですか」と聞くと、「それは教育勅語ですよ」と答えたそうだ。私は驚いた。
 明治天皇による「教育に関する勅語」は明治23年の発布だが、その記念式が当時の第一高等学校で行われた。時も時、そこで教授であった内村鑑三先生が正面に飾られた天皇のお写真(当時御真影と言った)に礼拝することをためらって、チョコッと頭を下げただけにした。それが天下に伝えられ、先生は「国賊」という訳で全国住む所にも窮するような事になった。
 その時、先生は「形式的に教育勅語をうやうやしく拝むとか、どうとかではない。教育勅語の精神を真心から実行出来るのか、ということではないか」と、当時の国純派の哲学者井上哲雄あたりに反論している。
 「教育勅語」は良いものである。いわば聖書でいう律法である(ローマ2:14参照)。戦前の台湾の人々が心から承服したという「教育勅語」は明治日本の遺産である。台湾の人さえ褒めてくれる。日本人たるもの、これは堂々と誇ってもよいことだと思う。
 しかし、実は日本魂だけでは物足らない。今、日本に必要なものは福音魂である。「律法のなし得なかったことを成就するのはキリストの血潮」(ローマ8:3参照)である。キリストの福音こそ「教育勅語」の律法を完成する。さあ、「キリストを日本に!」《く》
 

「国家の理想」

 折も折、伊豫土佐市の浅野忠志兄から、矢内原先生の「中央公論」昭和12年9月号に載った論文、「国家の理想」の複写が届いた。私は文献で読むだけで、実際に開いたことのなかった問題の論文を初めて拝見して感激した。その論文を紹介するだけの紙面がないのだが、武田清子氏の解説の一部を以下に載せる。
 「この論文で一番当局が忌避したのは、どの点であったか」という問いに対して先生はこう答えている。
 「国家の理想は正義と平和である。戦争という方法で、弱者をしいたげてはならないのです。国内においても、国際的にも、強者が弱者を支配するのに暴力を用いるならば、それは既に戦争政策です。
 如何なる国も『国家の理想』に従って歩むとき、立派な国となり、栄える国になるのである。そういう国家の理想に従って歩む国にならなければ、国は栄えない。一時、栄えるように見えても、理想のない国は滅びるものだと言った、これが問題になったのです」
 矢内原先生は藤井武先生の記念講演会でも語りました。「理想を失った日本の国は一度葬って、新たに出直さねばなりません、日本の理想を活かすために一先ずこの国を葬ってください」。この言葉が引き金になって、当時の東京帝国大学の教授の地位を追われたのです。戦後、先生は当東京帝国大学の総長に帰られたのはどなたも知っています。
 さて辞表を出された後、終講の辞を述べられた。
「私は身体を殺して魂を殺すことのできない者を恐れない。……身体ばかり太って魂の瘠せた人間を私は軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように」。
 教室につめかけた満堂の学生たちは深い感動に襲われたという。先生は、別の聖書研究会の会員の前でこうも言っている。
 「どんなことがあっても、私は諸君に恥をかかせるようなことはしません」と。「私のせいで諸君が警察に捕まるようなことがあっても後悔せぬように」と言わんばかりであったそうです。《く》
 

神の道をわが道とせよ

 もう一つの「折も折」です。ちょうどこの日、キリスト聖書塾の藤岡弘之先生から「生命の光」今月号を恵送受けました。私は手島先生から叱られて、何を叱られているのか見当もつかず、打ちしおれて大分に逃げて帰ったものです。その後、先生は亡くなられてしまったし、不本意のまま本日まで過ごして来ました。
 ところで、その今日頂いた「生命の光」に懐かしい手島先生のブラウニングの「ベン・エズラ」の感想が載っていました。先生の「ベン・エズラ」は天下の圧巻です。言わく、

 「私たちは、一度すっかり自分の心に線を引くことが大事です。小さな心、目先だけの小さな理想しかもっていない小人ばら、すなわちこの世の神無き人たちとは、一線を画して歩こうと決心しないと、信仰が成長しません。私たちは、偉大な心の人々の心、グレート・マインドの持ち主でありたいものです。……人が何と言おうと、神の道をわが道として行こうとするのが、一番大事です。
 私たちは神に聴き、神の声を聴くべきです。神様に信頼し、神様に価値基準を置くのが一番良い。神様の目に尊く見えるものがよいのです。人間に基準を置いたら負けてしまいます。
 神様に信じて、自分の一生を、今からの未来に任せることが大事ですね。神は必ず導きたまいます。」《く》

〔あとがき〕
以上は、9月1日に書いたり、引用したりした拙文です。「福音魂を……」は元々私の原稿ですが、拡大の機関紙に載せた私のエッセイです。丁度その機関紙「マグニファイ」が9月1日に私の手元に着いて、この号に貰ってしまったのである。いまさら、書き直しもしたくないので、このまま印刷に廻すズルを決めたわけです。▼9月1日がこんな風なら、9月2日も又、新聞に振り回された。ミズーリ号艦上降伏文書調印の記事、関連して「山口判事、ヤミ米を食べないで餓死」、「特攻隊くずれの青年、戦災孤児と共に駅に寝る」、そういう記事が満杯である。▼「戦災孤児」!、私には想い出が山ほどある。防空壕跡に共に抱いて寝たY君。駅の切符売り窓口の棚の上に寝て転げ落ち接骨医に連れていってやったG君、その後どうしたろう。当時の事ゆえ、写真もない。時おり新聞社が写してくれた写真は捨ててしまった。▼当時、大分駅前から竹町にかけてのヤミ市の靴磨きのボスは私だった。私の許可が無いと靴磨きが出来なかった。その特権を利用してキリスト新聞を戦災孤児たちに駅構内で売らせた。売った金は彼らにやった。たしか、300部は売れたなあ。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-09-04 00:00 | 日岡だより

No.191 オズボーン師を迎えて 2005.8.28

オズボーン師を迎えて

 数年前、アメリカでのベニーヒン師の聖会のビデオを見ることがあった。そのステージにオズボーン師がゲストに招かれて上がって来たので、私はびっくりしたものだ。私はもうオズボーン師はとっくに天に召されているもの思っていたからである。なぜなら、
 オズボーン師は私より20歳は年上の方だろうと思っていたからである。私は今年83歳である。だから先生はもう生きているはずはないと思っていた。又オズボーン師の噂を聞くことが無かったのである。
 私が初めてオズボーン師を知ったのは、日本語訳の「キリストによる癒し」という本によってである。そのことは本紙の先週号で書いた。当時1955年、私は33歳であった。「キリストによる癒し」は多分その数年前には書いた本と思われた。事実、今、手もとの資料でしらべると、この本はオズボーン師の最初の著作で、その発行は1950年とある。まさに、オズボーン師がはりきって書いた最初の本である。
 南方の後進国(失礼!)諸国での奇蹟的伝道集会、そこで何万人という大人数を集めての神癒聖会の説教者である。大物だ。私にはどうしても40歳、50歳の先輩伝道者に見えた。私はこの本によって、神癒伝道者として神様に導かれたのであるし、だからオズボーン師は私の恩人である。この方の、その後の消息が私の耳や目には入らなかった。何故だろう。日本には全然来られなかったからである。
 だからもう、世界の伝道界からは消えた方だと思っていた。それは私の情報把握能力の脆弱さからも来るのだろうが、他にも理由がありそうな気がする。
            *
 あの「キリストによる癒し」を訳したのは松山福音センターの万代恒雄先生であった。また、かつての日本・京都における神癒聖会の通訳者も、この万代先生であった。当時の京都集会が如何に凄かったかは、今度、頂いたオズボーン伝道の書籍に載っている、あの時の京都集会の大群衆の写真を見ると、想像がつく。
 万代先生はその後、日本を代表すると言ってよい神癒の賜物を含めて、放送伝道や海外伝道の大型伝道者となった。当然、そこにはオズボーン師の強い影響も想像できる。この万代先生がオズボーン師を日本に招かないはずはないと思うのだが、なぜかその企てがない。やはりオズボーン師はもう地上にはおられないのかな、と私が思ったとしても、笑う人はいまい。
 昨年の暮れ近くになった頃だったかと思うが、今年の9月にオズボーン師が50年ぶりに再来日とのニュースをキリスト教関係の新聞で知った。私は驚いた、その突然の来日ニュースもさることながら、オズボーン師が83歳だと言うことが分かったからだ。
 「何だって、私と同じ年ではないか」。私は仰天した。そうすると、私を発奮させたあの本を書いた時は多分、28歳位の若さ。あの驚嘆すべきアフリカなどでの神癒伝道集会は20歳代の若さでやったのか。私は腰を抜かす思いだった。
            *
 今回、オズボーン師の新著「贖われた祝福」の書評を書いてくれというリバイバル新聞からの依頼があって、その本を送ってくれた。読んでみると、凄い。かつての「キリストによる癒し」が、キリスト教神癒をストレートに書いた基本的簡約テキストとするならば、今回の「贖われた祝福」は「癒しの教理と実際」を網羅するテキスト大全集である。
 人はなぜ罪を犯したのか。その罪から病気が生じる。悪魔とは何か。キリストは地上に何故うまれたか等々、キリスト教の教理の大略を落すこと無く掲げる。
 そして神癒の力の根本、如何にして癒しの力を頂けるか、失敗しやすい原因、そんなことをすべて丁寧に書いてくれているが、そこに神の御言葉に対する信頼や熱情、まだイエス様を知らない民族への宣教熱。そうしたオズボーン師の溢れるばかりの思いが、読む私たちに伝わってくる。
 この本を読むと、先生は20歳の時デイジー嬢と結婚し、23歳(太平洋戦争終結の年)の時インドに宣教師として行った。しかし失敗してアメリカに帰った。そんなことが分かる。こうして、イエス様を知らず、未回心の国に行って、福音を伝えることの困難さを身をもって体験した。これは先生夫妻にとって大変なショックで、大事な経験であったと思う。
 そして数年後、すばらしい先輩たちに会う。彼らの圧倒的癒しの伝道の現場にふれ、先生夫妻は覚醒する。聖書の奇蹟の真理を発見して、その後ジャマイカにおける宣教の後、本格的に世界宣教への活動を始めたのだそうです。それは1949年、先生は27歳の若さだったのです。私(釘宮)がちょうど大分市鶴崎で独立伝道を始めた年です。
 私は後に大分市中心部にもどって集会を始めていましたが、そこで初めてオズボーン師の「キリストによる癒し」にふれ、そして私の神癒伝道が始まります。それから、ちょうど50年たちました。そして昨年の終わりの頃だったか、オズボーン師再来日のニュースを知るのです。
            *
 さて、今回の「贖われた祝福」という先生の本ですが、小さい字で約500頁の大冊です。最初に「この本は真の人生のための7つの賜物、7つの祝福、7つの啓示を公表しています」と約束しています。
 このように数字を打って文章の区分をつけ、文章を分かりやすくするのも、先生の親切です。お陰でかなりむつかしそうな説明文も見やすくなります。こうして綿密に長文を書いておられるのも驚きです。
 時には驚くような提言を出します。「しばしば、貧乏でいなければ敬虔なクリスチャンになれないと心の底で思っている人も多いかも知れないが、それは間違いです。神様はご自身の子どもたちが富んでいるのを見るのは嬉しいはずです」、などと言います。
 また、「祈りについて、悲痛な声をあげて泣き叫ぶようにして祈らなければ神様は聞いてくれない、などと思うのは最大の誤解です。神様は愛の方です。祈らぬ前から私たちの必要を知って満たしてくださる方ではありませんか」、などと言ってくれます。
            *
 オズボーン師は、これまで一人としてイエス様の言葉を聞いたことの無いような未回心の国に伝道することを決めていたようです。「私は異邦人への伝道者」、また「人が行ったあとには私は行かない」などと言ったパウロに似ています。こうしたことが、これまで長い間先生が日本に来なかった理由かもしれません。
 あの頃、先生が日本の京都で伝道された時、日本の国が東南アジアや、アフリカ、南アメリカのような未伝国とは見えなかったのかも知れません。私の独り合点の判断ですが、先生の宣教上の信条の故に、既宣教国である日本へは行かなくても良い、あの国は万代先生に任せておこう、とでも思われたでしょうか。
 しかし、この度、日本に再来日されるのは何故でしょうか。私の立ち入るべき問題ではありませんが、先だってハーザー8月号で「日本にはリバイバルが起こる、リバイバルが起こると、もう耳にたこが出来るほどアメリカなどの高名な先生がたの預言を聞くが、一向に日本にリバイバルが来ない。これはどうした訳か」、という某先生のご意見が出ていた。まさに然り。
 日本は非キリスト教国でありながら、日本のクリスチャンや牧師、神学者たちの質がよい、もうすぐリバイバルが来て良さそうであるのに、それが起きない。
 これには霊的地政学と言うか、他国に例のない問題がありはしないか。この問題についてオズボーン師は何か期すものがあるのではないか。これは私の思い過ごしでしょうか。今回の川口市における先生のセミナーに期待することが大きいのも、この期待もあるからです。《く》

〔図書推薦〕
オズボーン師と娘さんのラドンナ師との共著「新しい奇蹟のいのち」、世界各地で行った癒しの伝道集会における驚天動地の奇蹟の証し集です。273頁。1680円。発行所はイルミナイター、発売は(株)星雲社。▼「贖いの祝福」も先週号に書いたとおりです。ぜひお求め下さい。教理的にも、しっかりしていますから。いずれもキリスト教書店でどうぞ。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-28 00:00 | 日岡だより

No.190 私の神癒伝道事始め 2005.8.21

私の神癒伝道事始め

 それは、1955年のことだったと思う。私はどこで手に入れたか覚えていないが、T・L・オズボーン著「キリストによる癒し」という雑誌型の本を手に入れた。「癒し」という言葉に魅力があった。私は読み始めた。その内容に魅せられた。私は熱中して毎週の礼拝でこの本の宣伝と講釈を始めた。
 「皆さん、確かにイエス様は私たちの病気を癒して
 くださる方です。この本を読んでください。聖書に
 書いてあるまんまです。ぜひ読んでください。」
 その頃、私は大分市の中心にあった町村会館というビルの一室を借りて毎週日曜日の礼拝をしていた。会衆は15名、時には30名ほど集まる程度でした。
 その「キリストによる癒し」を信徒諸君に勧めているうちに、ある日、Nという老人があたふたと私のもとにやってきた。
 「先生、奇蹟です。私のおなかの痛いのが治ったん
 です。」
 様子を聞くとこうだ。聞けば可笑しい、おなかが痛くなったので、ふと毎週先生の言う「キリストによる癒し」のことを思い出した。それで、やってみようと思って、あの本をおなかの上に置いて寝た。そして寝入ってしまったが、目がさめると腹痛が治っていた。と、こう言うのです。
 なんだか、偶像宗教の「おふだ」をお腹に貼っていたら病気が引いたという感じだから、吹き出しそうになった、しかし、ご当人が真剣だから笑うに笑えず、真面目な顔をして、他の信者さんたちに神癒のあらたかさを吹聴した。すると皆さんは真面目に聞いた。
           *
 ところで、次の週、その夜が祈祷会の日だった、皆さんが集まって祈祷会の準備中だった。そこへ、例のN老人の奥さんのオバアチャンが急きこんで部屋に入ってきた。私の家の6畳の間だった。
 「先生、先生、神経痛が治った。おったまげた。わ
 し、イエス様、信じます。」
 今までご主人のお腹の痛みが治ったのをせせら笑っていたオバアチャンが言うのである。
 郊外の田圃の畦道を歩いていたそうだ。突然、全身に痛みが走って倒れそうになった。神経痛だ。彼女は必死になって叫んだ。
 「釘宮先生の信じるイエス・キリストの神様。この
 神経痛を治してください。」
 すると、左か、右か、ともかく半身がずばりと治った、しかし、残る半分が痛い。彼女はもう一度、叫んだそうだ。
 「釘宮先生の信じるイエス・キリストの神様。半分
 だけでなく、全身をポーンと治してください。」
 そうすると、いっぺんに全身からスッキリ痛みがなくなったそうだ。
 「先生、わしゃもうジイチャンを笑いません。私も
 イエス様を信じます。」
 と、おいおい泣くのです。その夜の祈祷会はいっぺんに燃え上がったのです。
            *
 その後、しばらくしてある女性、30代の奥さんが来て、「先生、盲腸炎ですが、キリスト様の力で治るでしょうか。」と言う。私はドキッとしたが、無理に落ち着いて「大丈夫、なおりますよ」と言った。
 くわしく聞くと、下腹部に痛みが始まって病院に行くと、2人のお医者が3べん見て、「手術をせねばいかん」という。しかし、お金がありません。(当時はまだ国民健康保険の無い頃です。手術が怖いから神様のお癒しというのではない。入院費が無いから神様のお癒しがほしいという時代です。)
 私がそのご家庭に行って見ると、奥さんは布団をしいて寝ている。枕もとに化膿どめの薬がおいてある。お腹のほうには氷嚢をあてている。その奥さんのそばに行って家族の見守る中で、まず薬と氷嚢を棄てさせた。そして私は下手な祈りをした。私はそういう時の霊的処置というか、祈り方というか。全く知らなかった、祈りの大家の祈りの現場を見たことが無かった。
 私は祈り終わると、冷や汗をかいて、そそくさと逃げるように、その場を辞して我が家へ急いだ。あのままで大丈夫だろうか。あの奥さんが死んだら、私は多分、「偽牧師、患者を殺す」とでも新聞記事になって叩かれるだろうなあ、と不安で一杯だった。私は今でもその時、恐れつつ帰った道の様子を覚えている。
 それから3日して、日曜日がきた。いつもの町村会館で礼拝をしていると、あの奥さんが飛び込んできた。そして、叫んだ。
 「先生、盲腸炎が治った。一向に痛くありません。
 熱も無いです。日直のお医者に見てもらったら、盲
 腸炎は無くなっている! って言うんです。」
 さあ、礼拝の場は大騒動。私は驚喜して叫ぶ。
 「みなさん、どうです。神様のお力は凄い。皆さん、
 病人をどんどん教会に連れてきなさい。」
 さっそく次の日に、ある信者さんが乳癌の女性を連れて来た。未信者です。私はまた、顔色を無くした。
 「なんで、もっと軽い風邪か、腹痛の人でも連れて来
 ないんだい?」
 信仰のない牧師の私は慌てます。しかし、その乳癌の女性もまた、一週間で癒されます。私はますます上気しました。
           *
 ところが、今度は私の家族です。様子が違う。ちょうど年が変わって新年になりました。「今年は神癒の年だ」とはばからず、公言していたが、なんとその正月から妻や子どもが次々に猩紅熱とか、幼女の唇がただれて溶けて行くとか、難病、奇病の連続です。
 そして今度は、これらの病気が一気には治らない。信じて忍耐して、待っているだけです。そうしているうちに、しかし次第に治って行く。
 実はその頃、私は医師も医薬品も一切拒否。だから小さい傷にも、メンソレータム一つ塗らない。風を引いても売薬一包も飲まない。厳酷なものです。(今はそうではありません)。じっと待っているだけです。
 多分、自然治癒力でなおるのだろう、と理屈をつける批評家もいます。ともあれ、そういう我慢のなかで、病気は一切治って行く。そのうちに、私の家庭では病気というものは放っておけば、治るものだということになってしまいました。
 その後も、ある信者の方、足に出来たコブのために祈ると、見ている間にジュジュと音を立ててコブが消え、後に皮膚が皺になって残っていた。あるいは、ある未信者さんの家庭からは、「家出をしたお父さんを捜してくれないか」などと、占いの霊媒にでも持って行きそうな依頼が舞こんだことがある。でも、祈ってあげると、お父さんがその祈った時刻にちょうど北九州の駅に行っていて、そこで心が変わって家に帰ってきた。そんな例が続々と生まれてきました。
 こうして、次第に私の内に強い信仰が固まってきました。小さかった信仰、無邪気な可愛いい信仰が、積み重ねられていって、いつの間にか、しっかりした確かな信仰に固まってくるのです。小さい信仰でも気にせずに積み重ねてゆくうちに、強い、大きい信仰に成長していく。そこに信仰確立の法則があるようだと私は気づき始めました。
 ただ恐れるのは、そうした信仰を頂くと、傲慢になりやすいことです。働かれるのは主イエス様です。私たちは主の僕に過ぎません。私は特に小さい器です。諸先生がたの末尾に伏すものです。ただ、主様だけに栄光をささげます。《く》
 
〔あとがき〕
冒頭に書いたT・L・オズボーン師は来月の9月19日から25日まで、埼玉県川口市(川口駅前)のリリアにてセミナーと伝道会を開きます。まさに50年ぶりの来日です。ご紹介した「キリストによる癒し」は万代恒雄先生の翻訳でした。その本が私の神癒伝道に乗り出す原点になりました。そういう訳でオズボーン師は私の恩人です。▼この度、オズボーン師の新著「贖いの祝福」という本が出されています。リバイバル新聞からその書評を依頼されて目下原稿作成中ですが、凄い本です。皆さんのご購読をお勧めします。発売は(株)星雲社。定価は2600円。少々値は張りますが、がんばって買ってください。私は書評のために読み始めたのですが。文句なしにすばらしいというより、実はびっくりしています。信仰の持ち方や、祈りの姿勢について、私たちの多くの誤解を指摘し、そして具体的に本当の祈りについての新しい考え方、姿勢を教えてくれます。どうぞキリスト教書店に行って注文してください。▼今週のリバイバル新聞の「非戦論」の記事は注目です。団体や国や、ともかく組織が大きくなればなるほど倫理的水準は落下してゆくのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-21 00:00 | 日岡だより

No.189 平和論者はどこへ行く? 2005.8.14

平和論者はどこへ行く?

 毎年、2月と、8月が来ると、キリスト教関係の新聞に私は必ず「平和憲法を守ろう」という協賛広告を出す(小さい枠だが)。2月は建国記念日の2月11日(戦前の紀元節)を意識してのことだが、8月はもちろん敗戦の日を意識してのことである。
 もう一つ、12月8日の真珠湾攻撃の日、つまり大東亜戦争が太平洋戦争に拡大した日であるが、この日を控えての「平和憲法を守ろう」という広告も出したいのであるが、新聞社側がこの企画を持って来ない。
 12月8日の真珠湾攻撃の記事は一般紙でも載らないことがある。まして2・26事件や支那事変の勃発等、滅多に新聞に載らない事が多い。一般読者に興味の無さそうなことは記事にしない癖が新聞各紙には有りそうである。
 明治時代には社会を啓蒙し、権力や社会に嫌われそうな意見もデカデカ発表する新聞があったようだが、その後、新聞経営は肥大して利益本位となり、理想主義が卑小化したのか、かつての意気込みが無い。
 せめて、キリスト教関係の新聞は積極的に平和論を大声叱呼してほしい。(大声叱呼という言葉は私の慣用語らしく、辞典には同音の言葉はあるが、この言葉は無い)。
           *
 先週の「日岡だより」の付録として一部の方々に配布した文章がある。以下のようなことを書いた。
 8月6日の新聞各紙に一頁全面広告が出ていましたね。皆さん、見られましたか。
 「『憲法を変えて戦争に行こう』という世の中に
  しないための18人の発言」
 と称して、井上ひさしや、黒柳徹子、美輪明宏、吉永小百合さんなどの名前が連なっていました。
 なんという気の弱い見出しでしょう。私は言いたい。真の平和主義というものはそんなものではない。国(国会)が憲法を修正して、国を挙げて戦争をおっぱじめた時、その戦争のさなかで、我々戦争反対者は、どうしたらよいのかという覚悟が見えない。今からでも、その用意をしておかなくては、イザという時、間に合いません。
 某国が日本列島に水爆を落して、東京、皇居、大阪、名古屋、北九州、沖縄が壊滅する。政府の機構は文書やインターネット関係、全国を網羅する産業、交通、通信、地方行政の把握が一切メチャメチャになる。
 その時、どういうわけか軍事機能だけが、つまり軍人さんだけが残って健気にも日本列島を守ってくれている。そういう光景が国民の前に現出されたとしたら、誰でも主戦論者になるだろうと思う。これは、
 私のしろうとらしい、やや誇張したシミュレーションですけれど、こうした事が起こりはしないかと思うのです。その時、平和主義者はどこへ行くのか。


世界の終末が来るか

 戦争どころか。もう一つ問題があります。地震です。関東の人からハガキが来ました。「東京地下地盤が地震必至という噂があります。日本は大丈夫でしょうか。最近の小型地震の頻発に恐れています」と。
 ファチマの預言というのを聞いたことはありませんか。1917年にポルトガルのファチマという村でルチアという少女に聖母マリヤが表れて、3つの預言をしました。
 それはまず、第一次世界大戦と、第二次世界大戦の預言でした。そして、その預言はズバリ当たりました。残る第三の預言がヴァチカンの奥深く納められて、聖母マリヤのご命令で、秘密にされていました。
 その禁が解かれる1960年?に、時の教皇さんが開いて見て、その恐怖的内容に失神したと言われています。そしてその預言文書は再び秘密にされました。
 さて、噂らしいが確かなことらしい。その第三の預言というのは、近づく第三次世界大戦と聖書のヨハネ黙示録にある世界終末の地震やその他の地上の惨劇を預言しているのだというのです。
 その時代が、今、近づいているのではないか。私たちクリスチャンは単なる平和憲法論や、戦争が起こったら、どうするか、そんなことを言っているどころではないのではないか。
 地球最後の終末が来る。単なる「戦争はキライです」というような小児病的非戦論では収まらない時代がくる。主イエス・キリスト様の到来を迎えて、教会は奮闘的対応が迫られている、そういう時が来るのです。
 悪魔の力、そう、闇の力です。その闇の力が現れます。その力に打ち勝たねばなりません。そのためには福音の力が待たれます。
 全世界に福音が宣布され、世界各地に霊的、道徳的変革が起こり、地球に新しい地殻と気象の変動が起こり、新人類が生れます。全世界が一つになります。聖書でいう千年王国です。……しかし、まず地震が来るべきなのです。《く》


新聞の不思議さ

 この8月6日の産経新聞でしたが、その日の「産経抄」というコラムに、当時としては「郵政改革案賛成」と小泉さんを驚喜させるような記事が載っていました。しかもこの日の読者投書欄では、その見やすい箇所に、「郵政改革の利点」と称して、具体的な民営化利点を挙げた投書が載っていたのです。今まで、こんな記事を産経新聞でも見たことがなかった。まして、他の各社の新聞ではそうです。なぜでしょうか。
 他に例をあげましょう。本年当初の頃だったか、自治体の合併問題の扱い方がそうでした。「今、なぜ市町村の合併が必要なのか」、政府や関係市町村の説明も、そして新聞(!)の解説も全然ない。これも不思議だった。
 こうした重要問題には、新聞はもっと解説や意見を出すべきだと思う。郵政民営化の問題など、宙に浮いていて、衆議院解散の時に至るまで、万事まったく蚊帳の中で、遂に解散だ。なぜ政界であんなにもめたのか。さっぱり分からなかった。当事者も新聞も説明不十分のまま、幕は下りたのです。
 これは政府も周知徹底不十分というべきでしょうが、新聞には尚更、その責任があると思うのです。それにしても、最近の県警の捜査費の使途不明の事件は、少なくとも大分県の地元紙はかなり執拗に追及しています。しっかりしてきたと言うのは失礼かな。《く》


主は今、生きておられる

 先週、8月4日から同6日まで、久留米ベテル・キリスト教会を会場にしてイエス・キリスト福音の群の九州リバイバル夏季聖会が持たれました。当教会からは牧師を含めて5名しか参加が出来なかったのは残念でしたが、そのすばらしい聖会の霊気にふれて、私はいっそう深く残念に思いました。当初、私がもっと熱心に信徒の皆さんにお勧めすれば良かったのにと、ひとしお後悔したことです。
 今回の聖会の主題聖句はヘブル13章8節、「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも、同一のお方です」です。それを、最後の聖会で永井明先生が「これはつまり『主は今生きておられる』ということです」と言い替えて熱弁を振るわれました。
 先生は、どこまでも開拓伝道者、九州の小都市・鳥栖にお出でになって、まず奥様のご肉親、ご親族の最後に残られた、奥様直接のお兄様に伝道なさって、バプテスマを施された。しかも、遠慮なさらず、あっさりと酒や煙草もお止めになられるよう、義兄にあたられるお方に対して見事なご指導です。このお証しに感銘しました。
 なお明先生に先だって、信義先生は第一回は「イエス様に従え」。第二回は「イエス様を決して離れるな」との素晴らしい説教でした。最後の名フレーズは「いつも、どうしようもなく、神様を必要としている」。私は両先生の説教を身震いしながら、お聞きしましたよ。テープが間もなく出来るでしょう。みなさん、お求めください。《く》


【福音春秋】
 私の書いた小冊子「笑えば必ず幸福になる」がだんだん有名になって来ました。盛岡の鵜丹谷先生と、大和カルバリチャーチの大川先生の宣伝が大きく効いていると思うのですが、それにしても今回の私の手元に舞いこんだ情報に私もつい嬉しくなって、それこそ「ワッハッハハ」でした。
 昨日、前橋市の富沢内科小児科医院の院長先生から電話があったのです。先月、この医院の先代院長先生から「笑えば必ず幸福になる」を150冊の注文があったのですが、今回追加注文で50冊ほしいと言われる。というのもこの小冊子を患者さんたちに勧めたところ、実践してみた患者さんたちの疾病が治ってきているというのです。
 もっとも詳しいことは電話で分かりにくかったので、あらためて文書でお知らせくださいとお願いしたのですが、とにかく例えば、「神経痛の痛みが引きました」と言っておられるのを確かに聞きましたが、他にも癒しの証しが沢山ありました。ともあれ、小冊子「笑えば必ず幸福になる」で現に痛みが治ったなどと、現業医の先生からお証しを聞くのは嬉しいです。みなさん、ますます笑ってください。シャローム!《く》

〔あとがき〕
私はどうも長文大冊が書けません。小冊子が好きです、と言うよりそれしか能力が無いのか。前記の「笑えば必ず幸福になる」や「誰でも出来る『心の強化法』」など好評ですが、最近、永井明先生のご要望で1988年に書いた「ヨブ記説教集」を復刻出版しました。これも1冊100円の小冊子です。けっして重厚な本ではありません。重量的にも軽い。それこそ軽く手に取って読めます。なるほど、難解ヨブ記が楽しく読めると皆さんも言ってくれます。評判です。製本にやや難点があり、ですが安いのが取りえです。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-14 00:00 | 日岡だより

No.188 「真の勝利者」 2005.8.7

「真の勝利者」

 栃木の稲葉兄から、はがきが来た。「リバイバル新聞7月31日号の奥山実先生の『ハイデッガーとボンヘッファー』を読みましたか」とある。
 慌ててリバイバル新聞7月31日号を開いた。実は昨年の3月からリバイバル新聞で毎月1回、奥山実先生が「聖書とエスプリ」という連載を書いておられる。その途中、サルトル論だったか、その中でやはり、「ハイデッガーとボンヘッファー」に触れて居られた。
 ちょっと余分なことを書くけれども、この「聖書とエスプリ」という連載は非常に面白い。いささか量子力学など一般の人にはなじみのない学問も出てくるので、読みづらいかもしれないが、無理をして読んでいると少しずつ判ってくるものです。
 ハイデッガーは20世紀最高の頭脳と言われた哲学者だったが、ドイツ人としての誇りに驕ったのか、ヒットラーの政治思想に魅惑され、ナチス敗退後も山にこもり沈黙したまま悔い改めた様子はないという。
 引換え、ボンヘッファーは若い牧師だったが、政治指導者が偶像化されることに絶対反対だとヒットラーを批判、その所説をラジオで放送した。
 奥山先生は言う。全体主義体制のもとでは、教会は必ず2つに分裂する。体制側の「公認教会」と、「抵抗する教会」(ドイツでは告白教会)」である。
 ボンヘッファーは遂に逮捕され、ヒットラー自殺の3週間前だったそうだが、処刑される。死の直前に、こう語ったと言われている。
 「私にとってこれがいよいよ最後です。しかし又、
  これは始まりです。
  そして私たちの勝利は確かです。」
 ボンヘッファーこそ真の勝利者であった。《く》
 

かつての日本では 

 大東亜戦争(太平洋戦争)下の日本は全体主義政治体制であった。だから前頁の奥山先生の言葉によれば、教会は必ず二分化するはずだった。日本はどうであったか。
 いいえ、日本は違った。二分化どころか、一極化されてしまった。戦前の日本基督教団がそれである。当時日本にあったプロテスタント教会の殆どが加盟した巨大な組織であった。カトリックは別建てだったが、それも一つになって日本政府に従順に従った。
 反体制派は私のような二、三の個人を除いて、いくらも出ない。さびしく孤立した。
 さて、この教団が合同化するときの、総会の様子を当時某牧師から聞いた覚えがある。教会合同をせきたてる軍部の恐喝というか、威圧であろう。会場の外のロビーから軍人たちの歩き回るサーベルの音が聞こえたという。
 余談だが、そういう報告をしてくれる牧師には、私に対する一つの警告があったのである。私はすでに当時、非戦論者であったし、その意見を教会の青年会などで隠す事は無かった。そこで、「釘宮君、時代はこんな風に変わってきている。軍部の勢力は大変なものだ。これに反対するのは危険だよ」と言いたかったのである。その牧師の私に対する一種の「愛情?」はよく分かった。
 戦時下に作られた日本基督教団の規定には、牧師向けの懐柔策もあったと思われる。当時、前記の牧師が鼻をうごめかして言ったものだ。「今度の教憲ではね、牧師は教会の主管者として位置付けられ、教会の最高責任者として認められたんだよ」。
 これは今の私にしてみれば聖書的には当然のことであるけれど、戦前の共和制的教会政治の中で、信徒の長老役員たちの弁力が強く、牧師の意見が閉ざされることも多かった時代、牧師にとってこれは息を吹き返させてくれる思いだったかも知れない。
 また、牧師の立場が国家権力によって擁護されるような錯覚を生んだかも知れない。これも、全体主義体制下にまるめこまれて行く際のキリスト教会の一スナップであった。
            *
 戦前の賛美歌には、その最後の頁に日本国国歌の君が代の歌詞と譜が載っていた。末尾に「この書の歌詞にあらず。便宜上ここに収む」とあったように思う。信仰保持と国家主義とが厳密に丁重に扱われていて明治以来の教会の良さも表れていると思うが。
 しかし、ここから悪い扱いかたも生まれてくる。教会の礼拝中に東方遥拝が行われるようになる。東方遥拝とは九州からは東京は東である。天皇の住まわれる皇居を戦前は宮城と言った。(みやぎではない。きゅうじょうと呼んだ)。この宮城のある方向に向かって礼拝するのである。ちなみに当時東京の遊覧バスに乗ると、二重橋前ではバスガイドの指示で礼拝をさせられたものだ。
 そういうことで、礼拝の中で国歌の君が代も歌われるということがおこる。これはどこの教会でそうだったとは言えないが、特高警察が礼拝監視にでも来ていたような教会ではそれも有り得たと思われる。私の教会ではさすがに君が代は歌われなかった。しかし東方遥拝は行われた。こうしたことは各教会まちまちであったであろう。ここでは私の経験のみを書くことにする。
 私はこういう時、かたくなに正面を向って立っていた。私の教会では東が正面に対して左側になっていた。信徒の皆さんは従順に左向け左で東を向いて、最敬礼するのである。私は冷やかに突っ立っているから、その筋から見れば危険分子である。さいわい憲兵や警察が来ていなかったから、私は無事だったが、しかし牧師はヒヤヒヤしたと思う。
 遂に1941年12月8日、日本空軍の真珠湾攻撃が始まる。天皇の名による「宣戦布告」がなされる。私はその翌日、牧師を訪ね、「教会に迷惑をかけてはいけないから、今日限り教会を脱会します。教会と縁の無いことにします」と挨拶した。もちろん、牧師は了承したし、ホッとしていたようである。
 その後、戦局は拡大して行く。ついに日本基督教団から戦闘機「日本基督教団号」が献納されるまでになる。
 私はその後、投獄され刑務所の独房で回心した。それまで、信仰の確信がなかったのである。キリスト教的思想によって非戦主義を唱えてはいるが、可笑しなことに、その実しっかりした信仰を持っていなかった、それは私の嘆きだった。
 信仰を求めていた。内村鑑三のいうコンボルションが欲しかったのである。それが無いばかりに、私は無理矢理に非戦論を言いつのり、憂国の志士になったつもりで悲壮な気分を作り上げていた面もある。
 確信的信仰を神様から頂いてから、「しまった」と思うようになった。「宣戦布告」の翌日、教会に迷惑をかけまいと思って「脱会」を申し出た、それである。あれは失敗だった、教会に迷惑がかかるように籍を残しておくべきだったと考え直したのである。理由はこうだ。
 私のお陰で、あらためて思想調査を受ける信者さんの中で、一人でも信仰を告白し、「戦争は間違っています」と警察で言える人の出るのを待つべきだった。そういう人が出ないにしろ、教会の牧師や信徒の皆さんに信仰とは権力とぶっつかるものだ。キリシタン迫害は昔のことではなかった。現代でも起こり得る事なんだと認識させることは、迷惑かもしれないが、良いことなんだと、思ったのである。
            *
 私の母は当時52歳であったろうか。今の人にくらべ年老いて見えた。刑務所に面会にくる母の老いた容貌に私は泣いた。自分は親不孝だなあと思った。その母だが、警察に参考人として呼ばれたらしい。私はそのことを、随分後年になって知ったのだ。
 私の少年時代、私の一年先輩にMという人がいた、お姉さんがメソジスト教会の伝道師で、そのMさんもクリスチャンだった。そのMさんが戦後、大牟田の炭鉱で働いていたが、大牟田の新聞にコラムを担当してエッセーを書いていた。その中で、「釘宮さん、あなたのことを書いたから」と言って新聞の切り抜きを送ってくれたのである。その記事によると、
 Mさんは戦争中、満州の奉天にいて、なんと憲兵になっていたという。ある時、東京の本部から通達が廻ってきた。その中に、「九州大分市の釘宮なる男が非戦論で事件を起こしているのは既報のとおりだが、その母親が警察の取調べでこういうことを言っている。うちの子は聖書の言葉に従って戦争してはいけないと言っているのですから、あれの言うことは正しいと思います、と。この親にしてこの子ありだ。今後、キリスト教徒の思想は厳重に監視しなくてならない」とあったそうだ。
 Mさんは大分にいるとき、私の家の家業にアルバイトにきたことがあって、私の母親の気弱と言っていいくらいの温厚な性質を知っていたからびっくりしたそうだ。そして彼自身は私と同じ学校に通っていたときは、宣教師からキリスト教的匂いのする英語演説を習って得意げに雄弁大会に出たりした。いっぱしのクリスチャン顔をしていたのが、今は憲兵隊に入れられて結構憲兵づらをしている。恥ずかしさで身悶えしたそうだ。第一、1年後輩の私は在学中は軟派の女の腐ったような見栄えのない男だったから、あの釘宮君が……? と思うと呆然としたそうだ。
 その新聞記事の切り抜きを読んで、私も母を見直したものである。母は決して剛毅な人ではない。頭も賢くはない。信仰論や政治問題など難しい事は分からない。ただ私の伯父や夫の私の父の日ごろの言っていることをオウム返しに言っているに過ぎない。
 戦争中の町内では、ときおり区長さんが各戸に伊勢神宮のお札(大麻)を持って廻る。いくらかの金を払う。戦時下、これを断る人はいない、断れば、非国民である。それを母は簡単に断る。
 「へい、私の方はいりません。私の家はキリスト教ですから」という。区長さんは「ええ?」とびっくりして、「それでも、日本人じゃろうに。日本人はみんなお伊勢さんの氏子ですぞ」と言いながら、私の家の中をうさんくさそうに睨み廻す。
 母の信仰は決して偉いのではない。素朴に夫や、尊敬するその長兄の信仰に倣っているだけなのである。父の長兄は釘宮徳太郎、2・26事件の翌日に肺炎で死んだ。この伯父の召天の知らせを受けた東京の友人たちは悲鳴に近い声を上げた。
 大分の聯隊の将校たちが反乱をおこして釘宮さんは血祭にあげられたのではないか、と思ったかである。日頃、内村鑑三を尊敬した伯父なら、それも有り得たと思われた。母の警察での姿勢は、そんな伯父の影響であった。
 何かと書きたいことは山ほどあるが、今回はこの辺で結文したい。私の非戦論事件はなんだったか、実は書くのも恥ずかしいのだが、いずれ又、稿を改めて書くことにする。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-08-07 00:00 | 日岡だより

No.187 「読み聞かせ」の極意 2005.7.31

「読み聞かせ」の極意

 志茂田景樹さんの自作童話の「読み聞かせ」活動の現場に触れて来ました。トキハ本店の地下です。時間がなかったので半分ほどで早退して、大変失礼でしたが、私は大変よい勉強をしました。
 子ども向けの童話ですけれども、大人の私たちも聞いていてジーンと心にしみます。洗練されたテキスト、その持っているメッセージ、更に話してくれるその人の人格から発散される暖かさ、そうしたものが私たちの心を打つのでしょう。
 私は教会に帰って、考えさせられました。そして発見しました。「読み聞かせ」こそ、聖書が率先してやって来たことではなかったか、と。
 グーテンベルクの印刷術の発明は聖書の大量印刷をもたらし、聖書はそれ以来毎年ベストセラーになった。これは宗教改革の成功を荷なう功績でもあった。しかし、聖書の音読の習慣をさまたげ、更に聖書の読み聞かせの重要さを忘れさせるマイナス面も生じたわけだ、と今にして思わせられるのです。
 かつて古代、聖書は写本であった。教会では牧師が聖書を朗読した。パウロは弟子のテモテに「教会で、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」と言っている。
 旧約時代では尚更のことである。モーセは民に律法を読んで聞かせた。またネヘミヤ記8章を読むと、学者エズラが広場であけぼのから正午まで律法の書を明瞭に読んで聞かせた。その時、民は大いに喜んだとある、有名な「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という聖句が生まれるのもこの時です。
 古代の教会は聖書の「読み聞かせ」の極意を持っていたのではないか、それを現代の教会は失っているのではないか、と思わせられたのです。《く》


救いの条件ただ一つ

 大分市の森町にある専想寺というお寺は由緒ある古いお寺だ。その初代のお坊さんがしっかりした信仰者だったと聞いている。そのお寺に、今おられる和尚さんも熱心な布教精神をお持ちのようで陰ながら尊敬している。
 この方は毎月一枚の紙に法語を書いて、あちこちに掲示板を立てて貼っている。私方の近くにも、その掲示板がある。
 仏教の方の書く、この手の標語類は日本人の心に素直に入り込む特徴があって、いつも羨ましく思うが、今回の法語はこれだ。
   「お救い」に
   ご注文無しの
   アミダサマ
 この、真宗信仰の徹底ぶりには恐れ入る。私も少々呆れたほどだ。しかし、私たちでも「委ねきる」信仰を持つ時、これに似た心境になることがある。主観的告白としては肯定できる信仰表現であろう。
 でも、正確にいうと、やはり「ご注文」はあるはず。真宗で言うなら、「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』と、よきひとの仰せをこうむりて、信ずるほかに別に子細はなきなり」という歎異鈔記載の言葉のとおり、「念仏」だけが唯一のその「ご注文」であることが分かる。
 とは言え、やはり前述の「ご注文無しのアミダサマ」には何か教えられるところがあります。
 さて、私は若い時、前記の親鸞の歎異鈔や、法然の一枚起請文によって、真宗信仰の深さを学んだのだったが、もう一つ仏教で学んだのは禅宗だった。
 禅宗の要点は私に言わせれば「全宇宙、これ無、これ空」とまとめることができようか。般若心経で言う「色即是空、空即是色」である。
 最近、この言葉を柳澤桂子さんという生命科学者が苦しい闘病生活の中で悟ったという本が出て、その本の書評を読んだのだが、よく釈迦の宇宙観を見ていると思えた。とは言え、肝心なことは、
 思想体系として般若心経を読むのではなく、その中核を悟ることにある。「悟る」ということは禅宗体験の中心である。柳澤さんは本当に悟ったのかなと、やんちゃな詮議心も湧くのです。
 仏教では宇宙をただ「在るもの」として見るのだろうか。そしてこれも所詮「無である」「空である」と言うのでしょうか。対して、聖書は言います。
 「初めに神が天と地とを創造した」(創世記1:1)と。神は又、自ら「私は有って有るものだ」(出エジプト記3:14参照)と、自己宣言します。
 聖書では神は自ら語り行動する方です。だから作られたものも自動運動を起こします。じっとしていると見えるものも、内部では原子構造は営々として働いているように。そして運動は時間を生みます。
 「時間は運動の物差しである」と言ったのはアウグスチヌスですが、「存在と時間」は実存哲学者に待つまでもなく、太古の聖書以来の神学的課題です。
         *
 ともあれ本題に戻ります。「悟る」ということは真宗にもあります。それを「廻心(えしん)」と言っています。心が信仰に転じる時の心の動きを差しているのです。これはキリスト教で言う「回心」に似ている。
 親鸞は言う、「腹を立てたり、悪いことをした時、必ず廻心せよという人がある。そういう人はきっと廻心という言葉を断悪修善のことと思っているのだろう。(キリスト教でいう「悔い改めよ」というのに似ています)。
 しかし、親鸞は言う。「私たち信仰一筋の者にとって『廻心』はただ一回のことである。これまで信仰のことを何も知らなかった者が、弥陀から知恵を頂いて『今のままの心では極楽往生はかなうまじ』と、本心を引きかえて弥陀の本願を頼みまいらすことを『廻心』と言うのである」と書いている。(文章は現代調に書き直した)。
 この「廻心はただ一回のことである」という所が親鸞の体験と認識の凄い所である、この「廻心」とは、一人の人の前生涯と後生涯との分水嶺であってキリスト教でも同様である。
 生涯を信仰に転換させる心の動きを「悔い改め」と呼ぶのは危険なので、私は必ずこれを「回心」と呼んでいます。(この回心については石原兵永先生の「回心記」を読んでほしい)。
 マルティン・ルターが「クリスチャンの生涯は悔い改めの生涯であるべきである」というのは、この回心ではない。しかし、生涯にくりかえし、もたらされる聖霊充満の経験を回心経験と称する方々もおられるが、これは最初の回心とは区別して聖霊経験とでも名付けたほうが良いと思う。
 冒頭に戻るが、聖書に従えば、私たちの救いについて「ご注文が無い」とは決して言えない。ただ一つの注文が聖書に載せられている。それは、「主イエス様を信じる」ことである。主イエス様のお名前に頼ることである。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」のである(ローマ10:13)。
 だから、「この人(イエス様)による以外に救いはない。わたしたちを救い得る名は、この方を別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)と聖書は言います。
 このイエス様を信じる心が起こる時、人生ただ一回の奇蹟が起こります。その時、私たちは神様の子になります。「その人は新しく造られた者」と言われます。「古きは過ぎ去り、すべては新しくなった」(第二コリント5:17)という回心の奇蹟です。
 更に引き続き、「内なる人は日毎に新しくされていく」(第二コリント4:16)ということが起こります。回心後の成長の奇蹟です。御霊の賜物と御霊の実が加えられ始めます。聖霊のバプテスマを受けて、喜びに溢れ、新しい言葉を語り、力ある信徒に成長します。信仰は日々成長するのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-07-31 00:00 | 日岡だより

No.186 意志すれば、笑えるよ! 2005.7.24

意志すれば、笑えるよ!

 トロントやアルゼンチンで聖霊による笑いの賜物が始まったのは、もう20年も前のことだったか。
 当時、その噂を聞くだけの私たちは、どんなことかなのかと不思議にも思い、羨ましくも思った。後に私は永野先生に連れだって頂いてトロントに行き、実際に体験したのだったが、それにしてもいつも笑っておれる訳ではない。
 そうした頃、松岡欣也先生を教会に招いたことがある。松岡先生は大胆で愉快な方だから、説教でも途方もないことを言う。その時、こんなことを言われた。
「みなさーん、聖霊様によって笑う。それは善いことです。しかし、いくら待っても聖霊様が来ない時、特に笑いの聖霊が来ない、そんな時、みなさーん、どうします。簡単です。自分で笑いましょう。ワッハッハハ」
 この松岡先生の言葉に私は開明した。そうか、聖霊様によらなくても、自分で笑ってみよう。そうだ、自分で腹をきめて笑おう。そして「ワッハッハッハ」と始めたのです。
 私のワッハッハハ運動はここから始まったのです。そして分かった。大事なことは意志である。「笑おう」と心で意志すれば、人は笑える。
 落語や漫才や喜劇、あるいは愉快な人物の言動や、無邪気な子どもの可愛い仕草にも思わず笑う、そういう受動的な笑いも、他の動物にはない人間だけの高度な精神機能だと思うが、それ以上に「自分で笑おうと思えば笑える」、これは人間の著しい脳の機能であると私は気がついた。
 これは意志の力であり、人間特有の能力である。そして意志の道具は言葉であると認識しよう。《く》

  
永藤裕幸先生に見ならえ

 先の主日の夜は、当教会で永藤裕幸先生を招いての神癒聖会だったが、その直前になって、私は「あっ、しまった」と思った。事前の宣伝を殆どしていなかったのである。週報に予定行事として挙げてはあるが、それ以上、熱心に信徒諸君に奨めもしなかったし、まして他教会の先生がたに何一つ案内していなかった。
 その上、信徒諸君の中には、これという病気の人がいない。私の妻は重病だが、病院に入ってしまっていて、教会には来れそうもない。(妻は湯布院の厚生年金病院に入院しているので、大分までの外泊許可をとって連れ帰り、会衆の前で奇蹟的癒しを現わしてほしかったのだが、病院の医療プログラムの中では妻を外泊させて教会の神癒聖会に出席させるのは無理だった)。
 当夜、先生に講壇に立って頂いて説教を終わり、いよいよ「お癒しの時間です。皆さん、お癒しを求める方、前に出てください」と言った時、ひとりも前に出なかったらどうしよう。これが私の心配であった。
 ところで、後から分かったことであるが、先生のご説教の最中に、すでにN君などは腰の痛いのが癒されていた。午前の礼拝の時から、私は上記のような心配があるにも関わらず、気を取り直して大胆に「今晩の聖会に奇蹟を期待しましょう」と叫んでいたのが良かったのか。
 先生の説教はどちらかと言うと、地味である。少なくとも、アナコンディアやベニー・ヒンのような華やかさはない。にもかかわらず、癒しの希望者を募ると、なんと皆さんが前に出てきて待っている。
 実は、私もそうだが、多くの先生がたも神癒会では一人一人に大して時間をかけない。和歌山の山本先生のごときは、サァーッと駆けるように手で会衆の頭を撫でるようにして按手してゆく、すると会衆はバタバタと倒れる。
 しかし、永藤先生はそうではない。一人一人にじっくりと祈る。当夜は、たった28人の会衆だった。前述のとおり、宣伝が足りなかったからである。しかし、その28人が恵みの座にひしめきあって座って待っている。ついに先生の癒しの祈りが終わるのに11時半までかかってしまった。
 28人の少数でこそ、良かった。これ以上会衆が多かったら翌日の朝までかかったであろう。実際、先生を宿泊のホテルまでお連れしたとき、夜半の12時になっていた。
 ところで、その恵みの座だが、一人一人確実に癒されてゆく。私の知って居るはずの信徒の皆さんだが、私が気づいていない病気が多々あるらしい、その病気が次々癒されて行く。みなさんは跳びあがるようにして「癒されました」と叫び、手を振り、足を踏みならし、体をゆすって証しをする。後ろの人たちが喜んで拍手したものです。私の心配はどこかへ吹き飛んでしまった。
            *
 翌日の朝、私はホテルで先生と落ち合い、湯布院まで車でご一緒に行くことにする。先生は佐世保が次の奉仕地なので、湯布院からJRの久大線でお送りすれば良いわけである。湯布院で私の妻のため祈って頂きたかったのである。
 車の運転席で運転のせつこ(二女)が説教テープを入れた。どなたの説教か私には分からない、ところが永藤先生にはすぐ分かったらしい。「あっ、モーリス・セルロ先生ですね」と言われる。私にも記憶がよみがえった。「あぁ、そうです。川口のリリアでの聖会のテープです」。私は川口駅から妻と一緒に通路を通ってリリアのホールに入った記憶をなつかしんだ。
 ここから、永藤先生のすばらしい車中講義が始まったのである。昨夜の神癒聖会の恵みにまさる牧師冥利につきる時間であった。永藤先生はこのモーリス・セルロ先生のミニストリー聖書学校に在学したのだという。その前にも、CFN聖書学校を卒業しているという。先生、実は英語はベラベラらしい。
 そこから始まって、私の神癒伝道の隠れた恩人であるT・L・オズボーンが20代にインド伝道で挫折して一度、アメリカに帰り、ウイリアム・ブラハムという人だったか、その人の指導を受けて再献身、再びインドに渡って、数万人の神癒伝道に成功した話。そういう「血湧き肉踊る」といえば下品だが、そういう秘話をいくつも聞いた。
 前世紀初頭のイギリスのウイグルワースから始まって、オーラル・ロバートや、マックス・ホワイト、カルロス・アナコンディやベニー・ヒン等、前記のウイリアム・ブラハムやT・L・オズボーンを含めて知らない人や、聞きかじっている神癒関係の諸先輩の先生がたの秘話が続出する。
 「先生はそんな知識はどこで得たのですか」と問うと、永藤先生言わく、「いやあ、聖書学校の図書館に行って随分勉強しました」とおっしゃる。私はこの神癒伝道者列伝は大変感動した。それぞれの神癒ご奉仕の特異技が目に見えるような感じで、前世紀からの聖霊様のお働きの歴史が見渡せる感じだったのである。
 つまり、神癒のタイプの分別ができるのである。そして後続する私たちのために、良い参考になる個人向け講義録を開いているような気がしたのである。
            *
 あらためて、私は先生にお聞きした。「先生の癒しを受けた人たちは、今後、また病気や痛みを受けたとき、今回先生から祈っていただいた祈りの言葉、語調、雰囲気(霊調と言うべきか)を思い出して、先生の真似をして、自分自身に祈ってみる。あたかも自分を他人のごとく思って自分に対して祈る、これが良いでしょうね」と。「そうですね」と先生も賛成して下さった。
 私は記念すべき先週の神癒の夕べが終わって2日目の朝、K君が言う。このK君、言っては悪いが信仰は至って弱いほうである。信仰は、あるか無きかの薄い信仰で、教会にやっと来ている人であるが、このK君が「不思議だなあ。一昨日、永藤先生に祈ってもらったら確かに足の付け根や、腰の痛みがすっかり直ってしまった。びっくりしました。……でも、今日はまた、そこが痛いんですよ」と言う。
 こういう人は案外多かろうと思う。今日の礼拝の中で、みなさんの証しを聞きたいと思っているが、そういう痛みの再発例も聞きたいと思う。そうして、そういう人たちのために再発脱出策を講じたいと思っているのです。
 こうした場合、永藤先生の神癒会は非常に良いのです。たとえばベニー・ヒン式に、パッと手のひらを返して、癒しを求める人を転倒させたり、意識を失わせたり、こういうあっという間に癒しを行う奇蹟的技は、鈍感な能力の私たちには、真似のしようがない。ほとんど何も出来ないに等しい。
 ところが、永藤先生が念を入れて綿密に繰り返し祈って下さった癒しの言葉は、私たちがそれを模範として覚えることができる、易しい祈りの言葉でした。ですから、
 先生に祈って頂いた皆さん、あなたがたが癒された時の先生の祈りの声は耳に覚えているでしょう。皆さんが今後、自分の病気や痛みのために祈りの必要を覚えたとき、その言葉で自分に祈ってみてください。自分が永藤先生になったつもりで、自分自身に向かって祈ってください。
 そうしているうち、しだいに祈りのコツを掴むことができるはずです。そうすれば皆さんはきっと他の人のためにも祈って、主のご用にあたるクリスチャンになれるでしょう。あなたの主にある活躍を期待して、祈ります。《く》

【福音春秋】
昨日(7月23日)直木賞作家志茂田景樹氏と夫人の光子姉が見えられた。大分市での、氏の「読み聞かせ」活動のためにやって来られた、その尊い時間を縫って私に会うために来てくださったのである。今日はトキハ本店地下2F特設会場で、午後1時からその会が持たれる。時間のある方は参加してください。くわしくは昨日の大分合同新聞に一頁全面使っての紹介記事が出ているので、参考にしてください。▼また光子夫人のインタビュー記事が「恵みの雨」の本年1月号に出ています。ご主人が直木賞を取って以降、不良亭主になってしまって苦労絶えなかった奥さんがイエス様に触れて変えられてゆく一連の物語は感動的です。人間の努力や忍耐などの美談ではなくて、ただただ神様の不思議なお取扱いによって変化してゆく奇蹟に驚嘆させられます。会堂の図書台に置いておきます。《く》

〔あとがき〕
釘宮よりの私的通信。妻トミのことですが、ずっと湯布院厚生年金病院に入院中です。遅々としていますが、順調に回復しています。最近は私や家族の語りかけに何とか応答できますし、笑顔も見せます、時には声をあげて笑います。リハビリで有名な病院ですが、それでも私どもの祈りとみ言葉による語りかけ、特に「精神強化法」による言葉の応酬は、更に良い結果を妻にもたらすと信じています。お見舞い頂いても良い時期も近いかと思います。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-07-24 00:00 | 日岡だより

No.185 大事なことは……? 2005.7.17

大事なことは……?

 大事なことは主イエス様と親しくなること、主イエス様を信じること、主イエス様に従うこと、これである。そしてますます、主イエス様と親しくなること、つまりウェストミンスター信仰告白に従えば神様をエンジョイすること(これは永井信義先生に教わった)である。

 電話で随分聞きづらい思いをした。補聴器の掃除をしたら、よく聞こえ出した。神様の声を聞くためにも、もっと霊の耳の掃除をしなくてはならない。

 マタイ12:36の「無益な言葉の言い開き」というところを勉強した。「言い開き」という言葉がギリシャ語ではロゴス(ことば)である。第一ペテロ3:15では「説明する」と訳されている。

 最近、「親しい仲間同志の特徴はムダな会話が多いことなのだそうだ。そうならば、イエス様ともムダな会話を多くしよう」などと言っているが、真面目な先生がたから叱られそうで心配だった。上記の勉強でやや愁眉を開いた。無益な言葉が全部いけないのではない。説明できれば良い訳だ。

 聖書の語句の勉強は耳の掃除に似ている。これらの勉強については、教文館の「聖書語句大辞典」と黒崎先生の「新約聖書語句索引」がなんと役立つことであろうか。
 特にこの「新約聖書語句索引」を私の若い時に買って贈ってくれた妻に感謝する。まだ結婚前であった。妻は当時の貧乏のさなかで大枚をはたいて買ってくれたのである。

 私たちの教会の礼拝室には日本のクリスチャンの大先輩の書が2枚掲げられている。一人は内村鑑三先生、書は「禁酒非戦」と先生らしい武骨な言葉、武骨で下手な(失礼!)字である。
 もう一人は賀川先生、書は「博愛」。これは又、通俗的な言葉だな、と不審に思っていたが、出典はテトス3:4、原語はフィラントローピアである。人類愛と訳すべきか。これも賀川先生らしい。

 このフィラントローピアという言葉を上記の黒崎先生の「新約聖書語句索引」で調べると、使徒行伝27:2、同28:2にも出てくる。ローマの軍人ユリアスやマルタ島の人々がパウロやパウロ一行の人たちに「親切」であったという時の言葉に使われている。
 「この人々は、もしかしたら神の国に招かれるかなあ」、などと考えるのは行き過ぎかなあ。ともあれ、親切はよいことなのだ。(某日、日記より)。


「幸いなるかな、心の貧しき者」

 伊東直士兄は私の旧い信仰の友である。同兄の発行する家庭雑誌「牧草」第四四号をお送りくださった。家庭新聞というのは時々あるが、家庭雑誌というのは珍しい。この雑誌発行の謂れについては書き添えたいことが山ほどあるが、今回は割愛する。
 この「牧草」第44号に同兄の御父上のキリスト教入信記が載せられていた。この方、伊東栄兄は明治10年(1877年)に生まれ、昭和35年(1960年)に召天された。
 御父上が東京に遊学され、青山学院で院長・本多庸一先生の聖書講義を聞かれた時、マタイ5:3の「幸いなるかな、心の貧しき者、その人は天国のものなり」という聖書の言葉に触れた。
 この言葉が伊東栄兄に深い霊的感銘を与え、その後の人生の歩むべき方向を決定づけられたようであると、ご子息の直士兄が書いている。
 この「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」という聖句は大抵の人は知っている。また「心の貧しい」とは当時のイエス様の時代では「謙遜な」という意味に使われていたという説明も、よく講壇から牧師が語る所である。そして、謙遜に神を求め、神に従う人は天国に行けるのですよ、これに勝る幸福はありませんねえ」と結ぶのが通例かもしれない。
 しかし、その時、本多庸一先生はこう語った。「この冒頭に書かれている『幸いなるかな』という言葉は、事実、原文のギリシャ語の聖書でも、文頭に書かれているし、英語の聖書でも最初に Blessed とある。この『幸いなるかな』という言葉は、心して意を強めて読まねばならない」と。
 そして、御父上の栄さんは、このお言葉を神様の招きの言葉として受けとめ、「ここにお出でなさい。ここにあなたの幸いを知る世界がありますよ、と呼びかけ、また招き寄せて下さっているのだ」と思ったのです、とご子息の直士兄は書いている。直士兄は更に言葉を続ける。
 父は、この言葉を「幸いを約束する言葉」だと考え、誰も保証なんかしてくれない我々の幸福を、キリストは約束して下さっているのだと思ったのです。
 そしてこの言葉には聴く者の生活を全く新しく造りかえてします創造的な力がこもっているとも考えました。
 ここには単に聖書の言葉を耳で聞き、目で読んだというだけにとどまらず、イエス様の言葉が学者のような言葉でなく権威があって、聞くものが驚いた(マタイ7:29参照)というような権威があったということです。
 この権威とは偉い人の上からおっかぶせるような威厳ある風格というのではなく、聞く者の内心(霊)に浸透し、内側から人を変革させる力を持っていた、そして今も尚、聖書を読むものに、聖句の背後にあるキリストの力を感じさせるのである、と直士兄は敷衍されるのです。
            *
 釘宮言う。私も最初は、このマタイ5:3のお言葉の素晴らしさには気がつきませんでした。このみ言葉について、御父上様にとり本多庸一先生が果たしてくださった役目を、私には手島郁郎先生がなさってくださった。
 手島先生は「幸いなるかな」を英語でなくてギリシャ語のマカリオイという言葉を使って教えてくれました。又、同じようにギリシャ語で解説すれば、「貧しい者」という言葉はプトコマイという言葉で、その意味は「乞食」だということも教えてくれました。「乞食のような心で主様にすがりつくように求めるんだよ」とも言いましたが。
 大事なことは、文語訳聖書の以後、口語訳など「心の貧しい人は幸いです」と言うように、平板に訳しているけれど、これは惜しい。本多庸一先生が青山学院で教えられたように、この「幸いなるかな」という言葉を真っ先に持ってきて、勢いをつけて訳すべきです。
 私はこの聖書の箇所を「イエス様の幸福宣言」と呼びます。イエス様はその権威において、「お前たちは、どんな境遇や、どんな精神状況に居ろうと、私は宣言する、お前たちは幸福なんだ。また私はお前たちを必ず幸福者にする。すべて重荷を負うて苦労している者たちよ、私のもとに来なさい、私のふところに飛び込みなさい、あなたがたに真実の平安を与え、幸福にしてあげる」とおっしゃるのだと私は言いたいのです。
 イエス様の宣言は生半可なものではない。私たちの生来の罪、生涯に為し来たりし全ての罪を一切赦し、更に清め、力を与え、愛と善の人生を送らしめ、クリスチャンとして完成させ、天国に迎えてくださる凄い約束なのです。
 イエス様のお言葉には神の力があります。逆に悪魔の言葉には悪魔の力があります。同様にクリスチャンの言葉にはクリスチャンとしての力があるべきです。クリスチャンはすべて、この尊い力を頂いているのですから。
 これこそ「告白の力」です。大胆な言葉の力を日本人は昔から言霊(ことだま)と言って、この力を知っていました。しかし、残念ながらイエス・キリスト様の力を知らなかったのです。
 私はまた、イエス様との「会話の力」とも言っています。足立姉の詩集にあります。
   いつも喜びなさい、ハイ。
   絶えず祈りなさい、ハイ。
   すべてのことに感謝しなさい、ハイ。
 この会話を繰り返してください。そして、次は永井明先生のお勧めです。
 「毎日3度は、鏡の前に立って、自分の顔に向かって言いなさい。『いつも喜びます。絶えず祈ります。すべてのことについて感謝します』とね」。ある、いつも顔の暗い人がいました。この永井先生の奨めに従って毎日「いつも喜びます、絶えず祈ります。すべてのことについて感謝します」とやっていました。そうすると、最近ではすっかり明るい朗らかな人に変わった、ということを聞きました。私はこうしたイエス様流の明るい約束の言葉を「天国語」と呼んでいます。
 日常座臥、常に「天国語」を語りましょう。特に3か月以上続けたら、奇蹟的変化があなたの人生に起こることを私は信じます。キリストの福音が単に来世的なことにとどまらず、今日只今、私たちの人生に実現する尊い偉大な力であることを、すべてのクリスチャンに実証してほしいものです。《く》

〔福音春秋〕
 1、2頁に書いた短文スタイルは、かつての亀谷凌雲先生の真似です。先生の一枚雑誌「十字架」に載せられた短文形式の信仰語は天下一品でした。
先生は蓮如上人の14世(?)だったので代々の寺の僧職を継ぐべきでしたが、東大の哲学科に在籍中、イエス様の福音に触れられ、そして牧師になってしまった。その経緯は先生の名著「仏教から基督へ」に詳しい。仏教を棄てるのではなく、まして仏教に背くのでもない。仏教を完成させるキリスト教の神髄を先生は語る。先生が召されて、もう幾年たったのか。なつかしい先生を憶う。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-07-17 00:00 | 日岡だより

No.184 主との親しい交わり、その一つの例 2005.7.10

主との親しい交わり、その一つの例

 「常に主と交わっているという境地は、好ましいけれど、むつかしいです」と言って、あきらめる人が多いと思います。
 いつか「日岡だより」に書いた記憶がありますが、親しい交わりの仲にはムダな言葉が多いものです。つまり雑談が多いと言うのです。
 このことから気づいた一つのアイデアですが、神様との会話にムダな言葉を入れる、つまり雑談を多くすると神様との間が親しくなる! これはラッキーな思い付きでした。
 目にいるもの、気がつくこと、人のこと、物のこと、一切を神様との会話に挟みこむのです。
「神様、あの坊や、かわいいですね。あの子を神様、愛してください」
「わあ、向こうの山、きれいです。こんなきれいな山を造ってくださってありがとうございます」
「あのお店に、はいってみたいです。買物してはいけませんか」
「この小川、むかしはメダカがいたでしょうね」
「この道、よく掘り返していますよ。市の予算のむだ使いですね」
 こんなおしゃべりを神様に申しあげるのです。その時、ぜひ神様からのご返事を貰えることを期待してください。もし聞こえたら、うれしいですね。
 なんとなく、お言葉が聞こえたような気がしたら、その聞こえるように思える言葉を自分で言ってみてください。神様から直接お言葉を聞いたような気分になります。
 ひとり芝居みたいですけれど、こうして仮に神様との会話らしきものを楽しんでみるのです。
          *
 これは、なんだか冒涜のように思える人も居るでしょう。しかし、安心して神様との会話の練習と思って何度も心の中で試みてみて下さい。
 そのうちに素直に、順調に、少しずつ神様との会話が始まるようになります。
 これを普段の生活のさなかで、実習してみてください。
 たとえば、笑いの練習で、作り笑いをするのは偽善に思えて困る方もあるでしょうが、そういう方に、これは神様の前にいつもニコニコしているための真面目な練習ですよ。決して偽善ではありませんよ、と私は説明しています。
 それと同じ理屈で、この神様との会話の練習を、「偽善、いや神様の名を悪用した冒涜だわ」などと気にしないで、「これはまじめな練習です」、と神様にお許しを願って、この練習をつづけるとよいのです。
 そうすると昔、壊れたポンプに呼び水を送って水を吸いあげたように、私たちの深層意識の底のほうから神様の言葉として相応しいと思える言葉を自己流におしゃべりして吸いあげてみるようになる。
 これを繰り返しているうちに、少しでも本当の神様の言葉が上がってくるようになるかもしれない。これは神層意識からの神様のお言葉を聞き分ける練習なんだと自分に言い聞かせてください。
 こうした練習を繰り返しているうちに、常に絶えることなく、神様と交わっている幸いな人に変って行けるでしょう。《く》

  
信仰の心理学(三)

 クリスチャンで「自分の心をもっと清くしたい」と願わない人は無いでしょう。前号から引き続き書いていますが、この「信仰の心理学」は、その願いにたいする実践的な試論の一つです。
 お断りしたいことは、前頁に書きました「主との親しい交わり、その一例」も同様の目的を持っています。読者にとってはまぎらわしい小論でしょうが、逆に言えば相補的な意味合いを持っています。ご熟読ください。
 また小生がこうした実践的聖化論について、その達成者のように誤解をうける恐れもありますが、私は至って歩みののろい、こうした主題について口ほどにもなく不適格な者であることをお詫びします。
 しかし、こうではないかと道筋の見当をつけ、青年のような熱情をもって心路突破を求めている者でもあることを告白します。
 これまでのプロテスタントの聖潔派の主論や、ペンテコステ派の聖霊のバプテスマに異を立てるのではなく、もう一つの手近な方法論を模索しているのに過ぎません。ひょっとしたら、カトリックのイグナチウス・ロヨラの「霊操」の跡を追っているのかもしれません。《く》
 
 これは、あなたの心を清くする方法でもあります。聖化論の戦闘的具体策と思ってください。あなたの心に悪しき思いが浮遊しています。これまで長いこと、これを追い払い、これを消しさることに失敗してきた方が多いことでしょう。
 この私たちの心から暗い気分、悪しき思いを拭いだすための第一作戦は、これら悪しき思いの源泉であるサタンを追い払うことでした。本紙183号掲載「信仰の心理学」(二)を参照してください。イエス様のお名前を使って確信をもって「サタンよ、立ち去れ」と命じるのです。
 第二には、あなた自身の心に命じるのです。「悪霊どもの残した悪しき言葉の数々よ、消えて行け」「暗い心よ、明るくなれ」「憎しみよ、消えよ」「汚れた思い、清くなれ」、等々。
 この命令を発したら、しばらく放って置きます。神様の御手にゆだねるのです。そうすると、いつの間にか悪しき思いの残存も消えてゆくものです。
 もう一つ、処理しておきたいのは弱さの自認感情です。「自分は弱い、失敗している。私の罪は消えていない」。これらの弱い感情や罪責感をイエス様の血潮によって消し去り、強い強固な感情に建て上げる必要があります。
 もちろん、まだイエス様を信じていなくて罪の赦しを得ていない人はだめです、しかし既にイエス様を信じて罪を許され、死んだら天国に行ける信仰を持って居る人は、今更、罪意識に苦しみ、失敗や過ちを苦に病んで、自己不憫症に陥る必要はないのです。
 「私はイエス様の血潮により許され、救われている。私を責めるものは悪魔の虚偽の訴えである。私は主によって救われている。サタンよ、お前に騙されないぞ。私はイエス様の血潮であがなわれている。サタンよ、下がれ、私は神の子だ。私はイエス様の十字架の下に立っている」と叫びなさい。
 こうして、私たちはサタンの影響下から逃れ、救われ、勝利し、悪しき思い、汚れた思い、弱さの感情。無用な罪責感から救われます。ダイナミックな聖化への変革を得るのです。
 主が清くあられるように、私たちは清くなるべきです。私たちの意志をもって心に命じると、命じる言葉は必ず心に成就します。私たちの心は清くなります。もちろん、完全にそうなれるとは言いませんが。
 しかし、知性は聖書を学び、聖書に従って意志に善い方向性を与えます。善い意志は、善い言葉を発し、善い言葉は善い行動を起こします。善い行動は自信を伴い、善い感情を引き起こします。そして自らの自我を確立させます。こうして、一種の人格的自信を生むのです。
             *
 ここで、ぜひ必要なコツを紹介します。それは祈りの主題を具体的にすることです。個々の問題について祈り、次第にそれを一つのグループにまとめあげて、一括して悪しき思いの一グループを一掃するのです。例をあげます。
 たとえば「ねたみ」の心が湧いて苦しんでいるとします。これは対人的悪意でありますから、対象の人がいるはずです。その人の名を挙げて、「Aさんに対する嫉みの思いよ、去れ」と命じます。たいてい一度や二度では消えて行きません。しかし、五度か十度で一応止めるのが賢いのです。
 あまり繰り返すと、却って「私ごとき者は何べん祈っても聞かれない」という思いに捉われて祈りの自信を無くすからです。そして五度くらいが丁度よいと思うのは私の経験ですが、私は五度でやめて後は主に任せて放っておくのです。
 そうすると早い時は5分か10分で、遅い時でも半日もすると、その嫉みの思いが無くなっていることに気づきます。この「主に任せて放っておく」、これは「主にお委ねする」ということのコツでもあります。
 こうして、Aさんに対するねたみの思いが消えたにしても、別にBさんに対する嫉みの思いがあったことに気づきます。今度は「Bさんに対する嫉みの思いよ、去れ」と命じます。そして、Bさんに対する嫉みの思いが消えますと、今度はCさんに対する嫉みの思いが残っていることに気づきます。今度はCさんに対する嫉みの思いについて、去ることを命じます。
 このようにして数人の人にたいする具体的自己命令をやっているうちに、一種の汎化作用が起こります。
 その命令力が個々の対象を離れて同一傾向の問題に対して総括効果をもたらすということです。つまり「友人たちに対する嫉み」の心が全般的に無くなってしまうということです。
 この汎化作用が起こり始めると、聖化についての強力な影響がもたらされます。
 もっとも、悪魔によって荒らされた人間の悪しき心の傷の領域は、更に更に深くて微妙で混然としていますから、完全に私どもの人格が清められることは困難です。
 しかし、ここでジョン・ウェスレーの高唱する「聖潔」の信仰の賜物を求めましょう。その時ジョン・ウェスレーの言う「常に神と共にいる」人生を始めることは随分容易になります。この角度を更に研鑽したいものです。《く》


(第184号付録)
2005年7月10日(荒巻保行君の命日を前に)発行


父の死、荒巻保行、そして芥川龍之介のこと

 1930年(昭和5年)3月12日、私の父が死んだ。父の名は太重という妙な名で「たじゅう」と読む。死亡通知を出しているが、そのはがきが残っている。文章を多少現代風になおし、抜粋してみる。
「拝啓父太重儀永らく病気の処神の御旨により昨12日午後11時天に召され候 故人が生前受けし信仰の導きと交わりとを思いここに深く感謝をこめ此の段御通知申上候 釘宮義人」
 多分、この文章は父の長兄・釘宮徳太郎のものである。私は当時7歳の少年、こんな文章を書けるはずはないし、母も書くことは遠慮する、釘宮徳太郎に違いない。ともかく、短い死亡通知一片にも信仰的気迫をこめている。弟たる私の父への愛情もある。
 この同じ年、同じ月、つまり1930年(昭和5年)3月だが、その28日に内村鑑三先生が召される。70歳、ちなみに私の父は44歳、若かった。母は38歳で未亡人になったわけである。
 翌年の9月18日、満州事変と日本は称したが、対中国戦争が始まり(本当は「起した」と書くべきか)、後の対英米戦争、いわゆる太平洋戦争へ拡大の端緒となった。
 脱線するが、太平洋戦争の戦争責任を日本だけに負わせるのは酷だと私は思っている。しかし対中国戦争については日本に同情する余地はほとんど無いと思う。
 思い出してみると、この昭和六年ごろから東北の冷害はあるものの、日本の国内事情はやや明るくなっていたのではないか。日本中「東京音頭」で踊っていた感もある。
 年賀はがきの特別取り扱いが始まり、鉄道の機関車が形だけでも流線型になった。大分市ではデパートができ、エレベーターなるものに驚きの目を見はった。
 政府や軍部が「戦争するも良し」と判断するだけの経済的余裕が日本にできかけていたのかも知れない。
            *
 1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校らによる首相襲撃事件、いわゆる5・15事件が起こる。4年たって、1936年(昭和11年)2月26日、青年将校らによる大臣諸公襲撃、相当規模の反乱事件が起こる。2・26事件だ。
 その翌日、2月27日、伯父の釘宮徳太郎が永眠、東京の友人たちは一瞬、釘宮さんは大分の軍人たちに殺されたのかと思ったそうだ。その通夜や葬儀の席上で加藤虎之丞氏から当時の国際、国内の政治事情を聞いて、世界や東洋、そして日本に対する平和主義的関心と熱情が私の胸に高まったのである。
 後々の非戦主義はこの時から私の内に醸成されていったのである。もちろん、叔父釘宮徳太郎の残した信仰日記に大きい影響を受けたのは当然である。
 その頃、私は14歳、大分商業学校2年生、小学校時代のブクブク肥えていた肥満体が消えて痩せ型の美少年に変わりつつあった時である。当時、友人たちとガリ版ずりの同人誌のひよこみたいなものを作って、学校の成績はどんどん落ちていった。
 この商業学校の3年生のとき、荒巻保行君と親しくなった。彼が病気で休んでいるとき、私は彼に一篇の詩を送った。それが彼を喜ばせた。そして生涯(!)を通じての心の友となったのである。商業学校を卒業するとき、彼は文学好みで特にフランス文学をやりたくって、外国語大学に行くと言う。
 私は、初め大分市内にある大分高商(後の大分大学経済学部)に進学するのが母の希望だったが、実は文学部に行きたかった。ところが当時の学制では商業学校から文学部へは行けない。私は進学を断念した。これは私の短慮というか、失敗だったと思うが、とにかく叔父徳太郎の残した肥料問屋の店に勤めることにしたのである。私の家がその支店として肥料小売商をしていたので、まあ商売の見習いということであった。
 ところで、荒巻保行のことだが、彼は東京外大の受験寸前に倒れた。胸を病んでいたのが分かった。当時の多くの青年をむしばんだ結核である。彼の父親は最初、別府の下町に別荘を持っていたので、彼を一時そこに住まわせたが、すぐ山手のほうにこじんまりとした別荘を建てて、そこに彼を保養させた。食事や身の回りの世話に年寄りのおばあちゃんを同居させた。
 彼は最初は結構この生活を楽しんだ趣きもある。玄関には柔らかい字だったが書道の先生に書いてもらって額を掲げた、「蒼瞑荘」。彼の好きそうな名である。
 周辺は落葉樹の林が多くて、彼はその環境が気に入っていたようである。私はよくそこに彼を訪ねた。
 今でも、その付近をとおると、胸がツーンとする。地に伏して泣きたいような気持ちになる。
            *
 ある日、訪ねると、彼は言う。
「このごろ、哲学を勉強している。ショーペンハウエルって奴だがね、知ってるだろ、厭世哲学の。この人は厭世哲学というけれど、70歳も越えて若い娘に恋愛しているんだよね。バカにしているねえ(彼は私をのぞきこんで言った。つづけて)、僕は死の哲学を作ろうと思ってるんだ。多くの哲学や人生論が、すべて生きている事は善い事だ、ということを前提に始める。例えばさ、ロマン・ローランだ。これはインチキだと思うんだ。生きていることが良いことか、悪いことか、そのことに何の疑いも抱かず、それを肯定して、その前提のもとに生の哲学を立てる。もし生きていることが無意味なのだときまったら、その哲学は全部崩れてしまうだろ? 僕は死の哲学を作りたいのだ」
 「おい、おい。それ可笑しいんじゃないか。君が死の哲学を立てるのはよい。そうしたら、生の哲学ならいざ知らず、死の哲学を本当に立てたのなら、その哲学のノートや原稿を書く余裕はない、その場で死んでしまうんじゃないかな、ハハハハハ」
 彼とは、そんな会話を交わし、そして私は彼の住まいを辞した。それが最後であった。
 1941年(昭和16年)7月12日、彼の父から電話があった。「保行の行方が分からない」。私はびっくりして別府に飛んで行った。しばらくして、彼が以前、住んでいた下町の別荘でガス自殺をしている姿が発見された。呆然として私は彼の死体のそばに座りこんでしまったが、ついに耐えきれなくて大分の自宅に帰った。すると、彼から小さなノートが届いていた。彼の最後の日までの日記であり、また私への遺書でもあった。
 私はそれを読んで泣いた。一夜泣き明かした。大分川のほとりに行って、川辺で泣いた。水辺に遊ぶかもめの姿が今も目に焼きついている。現在、元・西鉄グランドホテルが建っているところである。
 彼はその小さな手帳に「紫荊」という名をつけていた。読み方は「はなずおう」というのだそうだ。弱々しい花びらが彼の心を引きつけたらしい。辞典を引けば「花蘇芳」という正字が別にあるのだけれど、彼は「紫荊」という字にこだわっている。
 私のひそかな憶測だが、その字を「しけい」と読んで「死刑」を連想していたのではないか、とさえ思う。彼は彼自身を死刑にしようとしたのである。
 彼の遺書をかいつまんで紹介すればこうなる。「人間の生というものは感覚的なものである。そして感覚は快なるものを良しとする。そして快なる感覚は人を罪に誘い込む。
 感覚も快も罪ではない。しかし、それを肉に持つ私自身は、それを契機として罪を犯してしまう。
 友よ、私は死ぬことによって、私の罪を消そう、赦して貰おう、というのではない。ただ、一刻もはやく、罪の生にピリオドを打ちたいのである。
 友よ、今、死に臨んで、君が冗談のように言ったあの言葉が、私の心に、あいくちのように刺さる。まさしく君の言うとおり、死の哲学が完成したならば、『その場ですぐさま死なねばなるまいね』。でも、私は今、不思議に幸福感に満たされている」。
 私はそれまで軟弱な文学青年であった。しかし、その時から死と生の問題に思いをひそめ、死からの呼び声におびえながら、それからの解決を求めた。
 私は父が信じ伯父が信じたイエス・キリストに救いを求めた。しかし、そのイエス・キリスト体験をするまで3年かかった。それは福岡刑務所の独房の中に於いてであった。1944年11月23日のことである。
 実は、私は最近、奥山実先生の「芥川龍之介」の評論を読んだ。そこで奥山先生が指摘する芥川の深刻な内面史に、私が前述した荒巻保行の魂の面影を二重写しに見たのである。
 私は深い溜息をつかざるを得なかった。奥山先生の芥川観は凄まじいものである。
 先生自身が深淵を覗きこんだ過去があるからであろう。あの磊落な開けっ広げな奥山先生を見ると不思議な感じもするが、いや、だからこそと言うべきか、神様に感謝する! 《く》

〔あとがき〕
 3年前のある日、突然、ある人から部厚い郵便が届いた。それは前記の旧友荒巻君が、その弟の俊彦君にあてた手紙類の書簡集でありました。時期は昭和16年の4月から7月までの正味40日に足らぬ文集です。
 荒巻君の自死と、それについての私の受けた影響はすでに書きました。私は、その夜大分川のほとりで泣き明かしたことも書きました。その後、私は死んだ荒巻君の真似をしてしばらく哲学を勉強しましたが、私の頭脳ではカント、ヘーゲル、ニーチェは歯が立ちませんでした。
 西洋伝来のキリスト教は、もちろん自死を罪と断じ、その魂は地獄に行くと言います。それが本当なら荒巻は地獄行きです。そんなことがあろうか。しかし、それが本当なら、自分も荒巻を追っ掛けて地獄に行きたい、そんな風に思う私でした。
 さて、弟さんの送ってくれた荒巻君の書簡集には驚きました。これが、当時の旧制大分商業学校というマイナーな学校を出たばかりの19歳の青年の書いた手紙だろうか。私は彼の「遺簡集」を読んで、彼の思索がこんなに深かったのかと驚嘆しました。
 こんな事を書いてあります。ある哲学者を評したあげく「彼の烈々たる愛国の情熱に大いに感動している。哲学が決して学者の閑事業でないことが分かる。いたずらな文学者みたいな、やくざ的なところがない。実際、今日の文学者の書くものには「時局便乗的」な臭いを感じる。彼らはいつも思想をペン先から作りあげる。だから戦争が始まれば、すぐ戦争文学を書く。平和になれば、その同じペンから平和文学をすぐ書くだろう。馬鹿々々しいよりも彼らの精神の悲惨さに目をそむけたくなる、それにくらべれば、日本の哲学者は感心だ。彼らを大いにほめておこうと思う」。
 これがあの思想統制の激しかった戦時中に、19歳の若者が言ったことだろうか。また、「日本の哲学者は感心だ」などという彼の大人ぶりにも一驚する。その頃から、2年もすると、同じようなことを私が自分のノートに書き始める。そして、その後の私の人生に《非戦主義と自殺と刑務所行き》というコースが待っていたわけだが、彼の見通していたコースの上を私は走っていたことになる。
 何よりも、彼は生来の詩人だった。気質も繊細、字もきれいで、小詩篇を書いて寄越した。私はその詩心の深さにため息をついたものだ。しかし、それどころではない、こんな頑丈な哲学者としての資質を持っていたのかと、私は呆れるのである。私は全く見誤っていた。私はかの「死の哲学」問答の時、「その時には、その場でさっさと死んでしまえよ」と一家言を呈して彼に一発食らわせたつもりでいたが、どっこい彼は先刻承知、彼は「僕も釘宮の言うことに大賛成だ」だと弟さんに書いている。私はお釈迦さんの手のひらの上で踊っている孫悟空のような者だったわけだ。
 彼は言う、「宗教は人が自己の自己たる所に絶望し、その絶望に直面して絶望に泣く所から始まる。神は決して罪悪なき天上の調和的世界に居られるのではなくて、罪悪に汚され、矛盾に満ちた地下の底におられるのである。神は愛であるというのも、ただ憎悪のない非現実的世界に神の愛が見られるのではない。金貸婆を殺したラスコーリニコフの悪の魂にも、フョードルの汚れた血を受けて人倫から背き去ったカラマーゾフの兄弟ドミートリーの魂の底にも、燦として輝く愛なのである」と。私は脱帽した。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-07-10 00:00 | 日岡だより