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No.755 今週の聖句3題/聖書の教えの三つのライン 2016.7.3

《今週の聖句》 
愛は神より出る

「愛は神より出る」(ヨハネ第一書四・7)
 
 ここで「愛」と訳されている言葉は原語のギリシャ語では「アガペー」といって独特な言葉です。
 日本ではぶりという魚に、成長につれて幾通りもの名で呼ばれるのだそうです。ギリシャはさすが哲学の国、愛に対する用語が五つもあるのです。知的学問愛、友情の愛、親の愛、性的愛。
 それらの愛を超絶して、神が罪人を許し受け入れる愛、正しきものが罪人をあわれむ愛、許しがたき仇敵の為に死をとして愛する愛、そういう愛を「アガペー」というのです。
 そのような愛は、人間は持ちあわせていません。そういう愛はただひたすら、神より出るのみです。
 (1978.10.8週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
宣教のおろかさ

「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」
 (コリント第一書第一書21節)
 
 教会では、いろいろと分りやすいように説明して、人々に信仰をすすめる。言葉の解釈とか二千年前のユダヤ人の風習の説明とか。
 しかし、最後に残る聖書の不可思議さは説明しきれない。商品を売ったり、入会をすすめたりする時のように、説明や計算でなっとくして頂いて、クリスチャンになってもらう事は困難である。いや不可能と言ってよい。
 ただ一方的に聖書からあなたに流れる宣教の言葉が、ある日突然あなたの心の壁をやぶって、あなたの心にキリストの火をやどす日まで、ただ一途に理解されにくい神の言を語り続けるのが「宣教の愚かさ」なのである。
 (1978.10.15週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
世の光

 「あなたがたは世の光である」
 (マタイ福音書第五章14節)
 
 これはイエス様が山上で弟子たちに語ったいわゆる〝山上の説教〟の中の一節です。ここで光とは、端的に言えば良い行いのことなのです。良い行いを、あたかもあかりを燭台の上において部屋を輝かすように、人々の前に見せなさい、とイエス様は言っています。
 これは、人前で祈ったり断食したりする宗教家の偽善をきらったイエス様のお言葉とは思えない趣きがあります。
 善い行いを、端的に人前でスッとして見せる事は容易ではありません。道でゴミを拾う。大衆食堂で食前の祈祷をささげる。これを淡々とやれる人は、たしかに光の子であります。
 主よ、私を光の子にしてください。
 (1978.10.22週報「キリストの福音」より)


聖書の教えの三つのライン

 あたかも、三本の緒をそれぞれねじて互にからませ、一本の強靱なロープを作るように、イエス・キリストの福音には三つの大きな教えの流れがある。
 その第一は、イエス・キリストはわれらの罪のあがない主、われらの病の担い主ということである。律法の前に弾劾され、のろわれた私達を救う手だては、主の十字架にのみある。これは神自ら義となるため、ひいて罪人を義人と宣告し、神の子としての身分を与えることである。罪責感や自己れんびんに悩む人々はこの福音がよく悟れていないのである。
 第二は、イエス・キリストは悪魔に対する勝利者、悪魔・悪霊に奴隷とされたわれらの解放者であるということである。すべての権威を足下にして神の右に高くあげられたお方こそ、われらの主である。能力的伝道の秘訣はこの信仰にある。
 第三は、イエス・キリストの愛により、われらは愛を知り、その故にわれらは互に相愛すべきこと。愛が最高の律法であり、聖霊の賜物であること。愛なくばいくら「主よ、主よ」と言っても、大なる業を為しても主はかえりみられない。互に愛しあいなさい、これがイエスの最大の戒めである。教会形成の最大の秘訣である。(九月十三日祈祷会のメッセージより)
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-07-09 13:11 | 日岡だより

No.754 キリストの御名に救あり 2016.6.26

キリストの御名に救あり

 (一九七八年九月二十四日(日)礼拝メッセージより)
 「主イエスの名に勝利あり」と、今歌いましたこの賛美は、勝利の歌、凱旋の歌であります。私等の人生は戦いの人生であり、そこに勝利があるのです。私等は小さいことで時に敗れることはあるかもしれませんが、最後の勝利は私等のものであります。時々失敗した時、罪責感におちいってはなりません。そんな弱々しい人生でなく、そのとがめを取り去って下さり、勝利の人生へと導いて下さるのが主の救いであります。
 よく、キリスト教の説教はむつかしいと言われますが、そのむつかしい原因は次の二つです。
 (1) 罪について語るからです。
 罪について語る時、これを聞く人は、恐ろしくて、聞きたくない心が働くのです。他の宗教では、人は生れながら善人であって、途中で色々と悪いくせがついたものである、だから、心を入れかえて良い事をすれば家庭が明るくなりますよ、と言いますと、みんな良くわかるわけですね。しかし、キリスト教ではこんな話はしませんから、非常にむつかしいと思うのです。
 (2) 次に、この罪を救うために、イエスが十字架にかかり、復活なさった、このイエスのみ名を信ずるだけで救われます、と言うと、「そんな簡単なことで」と言って今度は、やさしすぎてわからんと言うのです。
 もしこのことがわかって、私は罪人の頭であったと実感し、イエスの御名を信ずるのみで救われたと、わかってくれば、聖書の御言葉がみなわかってくるわけであります。
 信仰とは、イエスを主と呼ぶことです。このことは聖霊によらなければできません。それがわかれば、内に信仰を確立することができるのです。
 パウロもアナニヤによって、イエスの名をとなえて救われました。このことは、イエスの軍門に降ること、イエスの杯を受けてイエスの子分になることを意味します。このことによって、案外簡単に、この地上と縁を切ることができます。
 イエスは神のあらわれです。本尊です。仏教の言葉の本尊は、本になる尊いものの意味ですが、人は何かを作って拝みたいという本能があります。それがシャカであったり、マンダラであったりします。それを木に刻んで拝みます。マジメですが、愚かです。本物ではないからです。
 この地上の人類を救う為に、イエスは神の姿を表わして下さいました。このことは、本尊はイエスのみであることを示しています。内村鑑三は、仏教は月であり、キリスト教は太陽であると答えたそうですが、私等はこの太陽に目を向けることが大切であります。
 私は、戦時中に刑務所の中で極度の疲労の労役にあった時、イエスの名をとなえることのみで大変な御利益(?)にあずかった経験があります。イエスはそれ以上に今私等を救って下さることを信じます。
 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ人への手紙一〇・13)
 
 今日のメッセージの中心は簡単なことです。
 (1)聞いて下さるイエス(エレミヤ三三・2~3参照)
 「呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」と主は言われます。神には耳があります。そして答えて下さるのです。そして健康と、いやしと、豊かな繁栄を与えると約束して下さいました。
 (2)近くに居たまうイエス(エレミヤ二三・23参照)
 救い主でも遠くにいては私等の助けにはなりません。主は近くの神であり、すぐに答えて下さるのであります。
 (3)愛であるイエス
 もし、私の呼び声が聞け、近くに居ても、その人が怒りの人、憎しみの人であれば、その人は私を救ってはくれません。しかし神は愛の神であり、良き父でありますから、私を救って下さるのです。前科は問わずです。
 (4)全能のイエス
 終戦後、満州から親子が引き揚げようとしましたが、ソ連軍が入って来て、子供に乱暴しようとしましたが、これを親は助けることができませんでした。子供の助けを呼ぶ声は聞こえますし、近くにも居ました、又愛もありましたが、力がなかったのです。
 イエスは全能の力をもっております。ですから私等を救うことができるのです。このお方を呼び求めるのです。
 神は今、御聖霊として天と地に満ちているお方であります。聖霊は空気と同じ、いつもここにあります。生命があればそれを吸うことができます。吸えば生きます。名を呼べば、イエスは来て下さるのです。
 主の御名を呼ぶ者は救われる、「イエス様、イエス様、イエス様」のみでよいのです。
 すばらしい楽な信仰であります。これが私の人生のすべてを解決する秘訣であります。
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-06-30 23:00 | 日岡だより

No.753 今週の聖句4題(「互にあいさつを……」ほか) 2016.6.19

《今週の聖句》
互にあいさつを……

「きよい接吻をもって、互にあいさつをかわしなさい」(ローマ書一六・16)
 
 日本人には一般の挨拶に接吻をする風習はない。それ故接吻はともかくとして、清い心、つまり下心のない、いつわりのない真実の心をもって、互に挨拶をかわしましょう。
 ある本屋さん、夫婦二人で一生懸命働いて月平均わずか百万円の商売でした。ある時、真理の言葉にふれた。買いに来たお客様も、立ち読みのお客様も、すべて神に造られた人の子。すべての人に、大人にも子供にも、心をこめて、商売気ぬきであいさつ。夫婦お互いもこれにつられてあいさつ。すると、店舗も改装せず、特別の商策もないのに、七ヶ月目には夫婦は仲よくなり、月高は四百万円になったとは、本当にあった話。
 きよい挨拶をかわしましょう。
 (1978.9.10週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
ハレルヤ

「エホバをほめたたえよ」(文語訳)
 
 詩篇第一四八篇をはじめ、詩篇の各所に出てくる、この「エホバをほめたたえよ」という言葉は、言語では「ハレルヤ」です。「ハレル(讃美する)」という言葉と「ヤハウェ(神名エホバ)」との合成語です。
 このたび、白牧師の通訳として同行して来られた金牧師は、どこに行っても「ハレルヤ」と大声で呼びかけるので有名な先生。ニックネームもハレルヤ牧師。
 交差点で信号待ちで停車している時も、隣の車に「ハレルヤ!」、別府の地獄めぐりに案内しても、修学旅行中の中学生たちに、「ハレルヤ! イエス様を信じましょう」。いやな事がおこっても矢張り「ハレルヤ」明るい顔。
 (1978.9.17週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神の宮

「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある」(歴代誌下七・16)
 
 これはソロモン王が神の宮を建設したときの、彼に対する神様の祝福の言葉です。のちに、この神殿は破壊され朽ち果てました。
 しかし、今、聖書は私達のからだを神の宮と呼びます(第一コリント三・16、六・19、第二コリント六・16参照)。私たちはクリスチャンと呼ばれることによって、主の名が私たちに留められている事実を認識しましょう。これは神様が、私たち一人一人を選び、世より聖別し、そして尊い御目と御心を私たちの内なる霊に内在せしめ給うことを語っています。
 友よ、あなたは神の宮であります。
 (1978.9.24週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神の言葉の祝福

「神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された」(歴代誌上一三・14)
 
 モーセが神より受けた十戒の石板を入れた神の箱を、ダビデ王は一時オベデ・エドムという人の一家に預けました。
 神の箱は、新約の思想で言えば、聖書ですし、また神の言葉のことでもあります。彼の家が、その家族とともに一家をあげて神の言葉を受け入れた時、神の祝福がその一家に溢れたのであります。
 かつて私の父や、又その兄が聖書を受け入れ、神様の言葉を信じた時、借金だらけの家業が、見る見る地場企業としては一流の、商社に生れ変っていったのでありました。
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-06-25 09:12 | 日岡だより

No.752 今週の聖句4題(「宇宙的充満を味わえ」ほか) 2016.6.12

《今週の聖句》
宇宙的充満を味わえ

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」
 (エペソ人への手紙一・23)
 これはパウロがローマの牢獄の中にいて、エペソの教会のクリスチャンにあてて書いた手紙の一節。囚人のくせして、このパウロの自信満々たる発言は、どこから来るのでしょう。勿論、この「教会に満ち満つるキリストの臨在の信仰」でした。
 この聖句は、日本文では少々まわりくねっていて理解に手間取るところがありますが、要するに「万物充満者が、我らに充満する」という途方もなく大きいイメージであります。この聖句を何度も告白(コール)してごらんなさい。必ずや宇宙的充満感覚を味わえます。
 (1978.8.6週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
全力をつくせ

「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」(第一コリント一五・58)
 
 「ただ信仰のみ」を強調し、がんばりや努力を否定するあまり、無気力で消極的なクリスチャンになっている人を見かけることがある。極端な例では、老人になって生活費の一端を浴場掃除のアルバイトに行って得ているのを、これは不信仰な業ではないだろうかと、心配して相談されたことがある。
 「すべてあなたの手のなし得る事は、力をつくしてなせ」(伝道の書九・10)。パウロの手紙には「努力」という言葉が四回も出ている。パウロは実に無類の努力家でああったのである。信仰による努力はむだにならない。
 (1978.8.20週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
怒ることがあっても

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」(エペソ人への手紙四・26)
 多くの人の怒りは、自己本位の防御本能か早合点の批判精神が、カンシャク玉を破裂させたという程度のものです。本当の怒りは、(イエス様も怒ったことがあります)正しい判断のもとに、不正不義に対して発せられる勇敢な抗議です。その時、右の頬を打たれれば左の頬をさし出すくらいの余裕が必要です。すぐカッとなるのは、あやまちの元です。又、夜寝る前には興奮をおさめてしまうことです。カラリと忘れることができない怒りは、多分恨みをもふくんでいるのでして、悪魔のつけ入る隙です。精神衛生上にも不健康です。
 (1978.8月臨時号週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
罪人を招く……

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書九・13)
 
 このイエス様の御ことばに接すると、日本人の多くは、親鸞の悪人正機論を思い出すであろう。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのである。蓮如も言う、「心の悪さや妄念妄執を止めよと言うのではない。何の業にせよ、あさましい罪業に日夜惑うヤクザな私を助け給う如来の本願を深く信じ一心にすがるのみであります」(御文章一帖目第三通二~四節意訳)と。
 人間は救われても罪人である。信仰に入ってクリスチャンになっても相変らず変りばえせんなァと落胆している人々は、この救いの徹底さが心根に徹していないのである。
 (1978.9.3週報「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2016-06-18 10:31 | 日岡だより

No.751 信仰三つの焦点/今週の聖句3題 2016.6.5

信仰三つの焦点 

第一、イエス・キリストを信じなさい。イエス様の血のあがないによって子としての身分をさずけられていることを信じなさい。この尊い真理を理解して、イエス様をうけ入れなさい。この信仰を主張しなさい。
第二、天地の造り主、万事の計画者、全能の神を信じなさい。神は、あなたに豊かな愛の計画をもって、あなたの全人生をつかさどり給う。この父なる神に感謝し、さんびしなさい。
第三、あなたに内在の御聖霊様によって、あなた自身を信じなさい。「あなたの信じるごとくあなたに成るべし」という約束は、「あなた」への主の信任です。あなたの為すこと、思うことを神は「わが心にかなえり」と喜んで下さるのです。故に、へりくだりつつも、大胆に言い、行うのです。
         *
 まとめると、信仰は①キリスト、②神、③我(聖霊)に焦点をあてることができます。心の態度は①キリストをうけ入れる、②神に感謝する、③内なる我に自信をもつ。行動としては①の信仰を口で言い表わし、主張しつづける、②は神への「さんび」、③は、すぐに行動をおこすこと、これです。
 (1978.6.25週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
大胆に語れ

 「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した」(使徒行伝第四章三一節)
 教会の指導者達が、時の権力者によって脅迫されたとき、初代教会の信徒達は「この脅迫を去らせて下さい」とか「忍耐する力を与え給え」とかいうふうには祈りませんでした。かえって「思いきって大胆に御言葉を語らせて下さい」と祈りました。彼らの祈りは積極的で具体的で戦闘的ですらありました。(聖書のこの箇所の前後をよくお読み下さい)
 いやしや、しるしや、奇跡はすぐには表われませんでしたが、彼らはまず第一に、大胆に神の言を語り始めました。そして、これこそ初代教会の偉大なわざの秘訣です。
 (1978.7.16週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
熱砂より救うもの

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た」(創世記21・19)
 中近東の砂漠では、外があついので自動車は窓をしめるそうです。熱い風が入って来ないためです。そのような熱砂の中で、ハガルは幼児イシマエルを連れて、水もパンも無くなってしまったのであります。ハガルはもうこれまでと思い、子供の死ぬのを見るに忍びないと、子供を一人砂の上におき去りにしました。その時、神は子供の泣く声を聞かれ、ハガルをあわれんで、その目を開くと、彼女の眼前に水のあるのが分ったのです。
 火のような苦しみで、人生の砂漠で飢えかわいて苦しむ人々に、目を開かせて永遠の泉を発見させてくれるのは、神の御言です。
 (1978.7.23週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神に寄り頼め

 「主は……、我が神、わが寄り頼む岩」(詩篇一八・二)
 この頃、早天祈祷会でビル・ブライト氏の信仰テキスト(略してT・Cという)を学習しています。ある日、「信仰というのは、言いかえれば信頼ということです」とあるのを見ました。オヤと思いました。現代人は複雑怪奇です。「信じても信頼せず、信頼しても従わず」という信者が多いのです。子供のように単純な信仰なら、信じることも、信頼することも、従うことも一つの筈ですがね。
 この悲しむべき信仰の表裏不一致は現代の信仰界に深く食い込んでいます。神により頼む信頼の筋肉を、十字架信仰の骨格の上に、かたく鍛錬して根づかせる事が必要なのです。(T・C第二巻25.26頁参照)
 (1978.7.30週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-06-10 15:10 | 日岡だより

No.750 今週の聖句4題/義人は信仰によりて生きる 2016.5.29

《今週の聖句》  
クリスチャンの自己建築

 愛する人々よ。あなたがたは、
(1)自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、
(2)聖霊によって祈り、
(3)神の愛のうちに自分自身を保ち、
(4)永遠のいのちに至らせる私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
(ユダ書20、21節 新改訳)

 (1)がクリスチャンの完成の基礎である。(2)がその為の徒労ならざる努力の秘訣。(3)がその工事の設計監督者、(4)が目標と激励である。
 バベルの塔は失敗した。しかし、この建築工事(クリスチャン自身の築き上げ)は右のルールを守れば決して失敗しない。
 (1978.6.4週報「キリストの福音」より)



《今週の聖句》  
イエスのキリスト意識

 「そして見よ、天からの声があり、『これは私の子、私の愛する者、私の喜ぶ者である』と言った」(マタイ福音書第三章17節・詳訳聖書による)
 人間としてのイエス様が、はっきり神のひとり子キリストとしての自覚をお持ちになったのは、この時ではないかと思われる。洗礼者ヨハネよりバプテスマを受けられた直後、右のような神の声を聞いたのである。
 もし私たちが「キリスト・イエスの心を心とせよ」とのお言葉を受け入れるなら、それこそ右にのべた、神に喜ばれる者であるという「キリスト意識」を、私たちの心とすべきだ。これこそ、福音である。
 (1978.6.18週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》  
キリストの生命

「最早や我生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」(ガラテヤ二・20)
 自分で死のうとすると、自分が生きる。死のうとせぬことにすれば、全然、自分は死なぬ。どっちにしても、自分は死なぬ。したたかなヤツ。これが自分である。
 死ねば生きる、この宗教的真理、理くつでは分る。しかし、人間の心で、なかなかつかめぬ。
 自分で計らい、自分の力でりきんで、死のう死のうと努力するのではない。キリストにあってすでに死んでいる自分を発見するのだ。そして、自分の中に生きているキリストの、その全生命・全品性・全能力を信じるがよい。信じるとは、その真実性を理解し、めい想し、主張し、宣言し、その如く歩むことだ。
 (1978.6.25週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》  
決然たる意志と命令 

「われ意志す、清くなれ」(マタイ福音書八・三直訳)

 生硬な直訳で申しわけない。原文は非常に簡単明瞭。英訳すると〝I will, be clean〟と実に訳しやすいし、又よく語気がつたわって来る。これは「主よ、思召(おぼしめし)ならば、私も潔(きよ)くする事がお出来になります」(バルバロ訳)と訴えるらい病人に対するイエス様の応答である。
 「私はのぞむ」(同訳)というあきらかな断乎たる意志表明と、これにつづく「潔(きよ)くなれ」(同訳)という明確な断言命令。この二つがイエスの口より発せられる。
 何事であれ、信仰を適用し、霊的に生きるには、この意志表明と断言命令が必要である。
 (1978.7.9週報「キリストの福音」より)



義人は信仰によりて生きる

 みなさん、義人とは人のことではありません。あなたご自身のことです。イエス様の十字架のあがないを信じる人は皆義とされる。義人です。
 義人の食べ物は何でしょう、お金ですか、地位ですか、自分の能力ですか、奥さんですか、御主人ですか、子供ですか、いいえちがいます。
 神様の御言葉です(聖書)。神様のみことばに信頼することです。あなたが主に信頼すればする程、主もあなたを信頼されて、いろいろな持場(お金、地位、能力、奥さん、御主人、子供)を与えて下さいます。
 (1978.7.16週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-05-31 23:00 | 日岡だより

No.749 あなたがたは地の塩です/時事雑感2題 2016.5.22

あなたがたは地の塩です

「良い塩も、塩けをなくしたら、だいなしです。味つけの役に立たなくなってしまいます。だからあなたがたも、塩けをなくさないように、よく注意しなさい。そして、互に仲むつまじく暮しなさい。」

これはリビングバイブルによるマルコ福音書九・50の御言葉です。
塩はものの腐敗をとどめ保存の為の良き化学成分であるのみでなく、料理の味つけになくてはならぬ調味料です。しかしからすぎて、人との平和をこわさぬよう、また人との友和を考えすぎて塩けのぬけた人間にならぬよう、とのイエス様の尊いご注意です。
 (1978.5.21週報「キリストの福音」より)


時事雑感

五月九日、仙台高裁で七年前の全日空機と自衛隊機の衝突事故の判決があったのですが、「自衛隊の教官であった隅一尉は有罪、訓練生市川二曹は無罪、全日空機に過失の証拠なし」と。この判決に全日空機長の未亡人は「無罪なんて絶対許せません。百六十二人もの人命をうばっているのですから」と言ったと新聞の記事。こういう記事は新聞記者も月並な文章をかきがちなものとはいえ、二社の新聞に同様な報道があるので本当かもしれぬ▲無罪の判決に被害者の「許せません云々」という言い分は無実再審の時などよく聞かれる言葉だが、口惜しさのほこのむけ先をあやまっていると思われます。冒頭の全日空機事故の判決は一応妥当な判決に思われます。軍隊組織の中での訓練生が教官の指導通り行動していて、その結果を罪に問われてはたまったものではありません▲百六十二人の犠牲の責任は航空行政や自衛隊の訓練計画にあるのですから、公憤はそちらの方にもっていくべきです。ともあれ、日本の判決報道の中で被害者の方が加害者(あるいはその被疑者)を許し、かついたわるような記事にお目にかかった事がない。そういう事実がたしかに一件もないのかもしれないし、あるいは又、取材する記者の側の既成概念にそういうものがあって、怨念いっぱいの表現しか聞き出せないのではないかとも思えるのです。どうでしょうか。
(1978.5.14週報「キリストの福音」より)


時事雑感

時の権威の為したこと、為していること、為そうとしていることが、誤っている、罪であると確信するとき、それを直言し反省を求め、それを中止するよう運動することは正しい事であります。法理論や社会的常識はともかくとして、クリスチャン道徳として、それは正しいと思います▲しかし、その考え方が激化して、権力そのものを無視したり倒そうとして運動が暴力化してくるとき、つまる処、行政的秩序も司法的拘束もすべてを悪とみなして抵抗しますから、一般民家・市民・公共施設に危害を加えてもテンとして恥じなくなります。これが赤軍派やイタリアの赤い旅団のやり口です。そして最近の成田空港反対派のやることも、これに似てきました▲「石も投げれないようなものは来るな」等、成田反対闘争の委員長・戸村一作氏は同志集めのアッピールで言っています。同氏はクリスチャンであり、まじめな人であるだけに、残念な事です。これは、革命は正義であり、革命は鉄砲で実現する、と信じている毛沢東の信念であり、クリスチャンの考え方ではありません▲剣で勝つものは剣で負けます。本当の革命はキリストによる霊的革命が第一に必要です。世と世の様は過ぎ行きます。専制君主に屈せず、おもねず、逆わず、二つの王朝に仕えたダニエルに学びなさい。悪い権力でも無きにまさる。それに従うのが聖書の教えです。
(1978.5.21週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-05-25 15:16 | 日岡だより

No.748 母の愛、神の愛/聖書は預言者を生む 2016.5.15

母の愛、神の愛

家出娘を探そうとして、ある母親はポスターを作りました。娘のかわりに自分の写真を刷り込み、「お母さんは待っているよ」と書いて、バーやキャバレーや駅やお風呂屋さんなど、あらゆる処に貼って歩きました。恥ずかしいことでしたが、娘のためには恥も外聞もかまいませんでした。母親は子供を愛したからです。

母親の愛にまさる愛はこの世にないかもしれません。しかし、それは自分の子供にのみ限定される愛です。神の愛は、母親の愛にまさります。神の愛はすべての人に、そして罪人にさえ向けられる愛なのですから。
 (1978.5.14週報「キリストの福音」より)


聖書は預言者を生む

 ここに「醒(さ)めよ日本」という文章があります。
「醒めよ日本。
なんじは神のあたえ給うものを無視して、
〝米が出来すぎて食えぬ目にあう〟
などと不平をもらし、
しかも〝減反〟など、神に対し不尊きわまる言動をなす。
今にして悔改めずば
見よ、飢饉きたりて、
汝らは食わぬ罰にあう時が来るであろう」
 
 この文章が四十五年前の昭和八年十一月一日発行のある小雑誌に書かれたものであると知れば、たいがいの人はびっくりするでありましょう。
 これを書いたのは、大評論家でも、大政治家でも、大宗教家でも、ありません。九州の一角にすむ一商人にすぎないのであります。ただし彼は、内村鑑三を尊敬する(内村鑑三には一度も会ったことはなかったそうですが)無教会主義のクリスチャンでありまして、信仰を生活に活かし、地方の小都市において多少名の知られる実業家として、些かも世に妥協せぬその実生活ぶりを〝復活〟というミニ雑誌に発表しつつ、伝道につとめたのであります。
 冒頭の文章は、その〝復活〟の第一八〇号に出ているのであります。漢字を当用漢字に近づけ、かなづかいを現代風にあらためたほかは、原文のままであります。昭和八年当時の風潮を考えあわせてみて、この文章がいかにおどろくべき〝預言〟的風格をもっているかを指摘せざるを得ません。
 聖書は預言者を生むのであります。
 
 ひきつづき、次のように書かれています。当時は特高の検閲のきびしい時期でありまして、文中○○とあるのは、いわゆる伏字であって、「軍部」とか、「無産者の暴動」とか、適当な文字をあてはめて判読してみてください。
「醒めよ、日本。○は神をおそるることを知らず、外交をすてて○○をたのみ、○○○○○○して、そのばん勇をほこる。なんじ今にして悔改めずば、汝の○汝の上におよぼし、なんじ自らの○○に倒れ、おのれの掘りし墓穴に入れられるであろう。
        *
さめよ日本。なんじはむやみに正義の言論に対して迫害断圧をくわえ、おのれ自ら自殺せんとしつつあり。言論の圧迫は暴力の奨励である。このままにて進まんか、さらに○○○○○○おこり、○○○が蜂起するであろう。
        *
さめよ日本。○○あたりでは、ヒットラーのまねでもあるまいが、しきりに強硬外交をとなえているとか。(中略)
日本よ、なんじはまず神をおそれ、おのれ自身の罪を知り、十字架を仰ぎて、正義の上に固く立ち、外交はよわくして然も最後まで戦い、兵は強くしてしかも戦わざるようつとめよ。これ正に平和の道であり、日本魂と武士道をあたえられた汝の使命であらねばならぬ。」
 
 この著者は私の伯父釘宮徳太郎であります。彼は昭和十一年二月二十七日に急性肺炎で死亡。ただし、あたかも二・二六事件の翌日でありますので、東京の友人達は彼も二・二六事件と同様の軍人の反乱軍の手で倒れたのであろうと、トッサに思ったそうであります。
 この伯父の〝復活〟旧号の残部が、だいぶ汚損していますが、昭和六年より同九年の分まで、多少欠号はありますが、このたび発見されました。その事情は、この週報第一九号に書いたとおりであります。
 いわゆる十年戦争当時、硬骨にして牧師、先生ならざるソロバン片手のクリスチャンの手になる信仰雑誌(特に日記スタイルですので当時の小都市の政治・経済・家庭・集会の様子がありありとわかる)は希有なものかもしれません。少数の人にとっては得がたい資料かもしれません。
(1978.5.21週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-05-20 09:46 | 日岡だより

No.747 「感謝します」/時事雑感 2016.5.8

「感謝します」

「先生はよく感謝します、感謝します、と言うですねェ。聞いていて、何を感謝しているのか、さっぱり分らん。何でもない時に、感謝します、感謝します、と言う。気になるなァ。先生の感謝します、感謝しますは」
 と、久しぶりに会ったK君が率直な表現で人に言っているのを、小耳にはさみました。それを聞いて私はうれしくもあり、又反省もさせられたのでした。
 
 最近、私は私の体験するたいていの事が神様への感謝のタネであります。又、できることなら、一切のことにおいて神様をあがめ、感謝したいと願っています。そこで、つい椅子にすわっても「感謝します」、立っても「感謝します」、みそ汁をこぼしても「感謝します」というぐあいですから、K君が異様に感じるほど「感謝します」を多発していたのかもしれません。それ程のこととは自覚してなかったので、K君の批評は大変うれしかったのであります。
 
 しかし、もう一つの見方が出来ます。それは、多分私の「感謝します」が、余りにも軽々しく言われているようで、真剣味の無い口さきだけの言葉に聞こえたのかもしれません。いわゆる「口数が多ければきかれると思っている異教徒の祈り」のような事はあってはならないのでありまして、この点は大いに反省させられたのであります。
 二、三年前、ある派の教会に行ったとき、玄関でいきなり「感謝します」と挨拶されて、とまどいもし、ある種の反感さえ持ったのでしたが、今は慣れっこになってしまって、私達自身同様のマンネリ化した「感謝します」の冗舌をくり返しているのでしたら、大いに愁うべきことであります。
 
 「賛美の力」(マリーン・キャロザース著)という本に啓発されて以来、すべてのことにおいて神様をさんびし、神様の御計画を信じ、現状を神様の御心の故に肯定し受け入れ、すべての事を(善きも悪しきも)神の御手により相働いて善い方に変えて下さることを信じる、との事を知識的にも体験的にも学んできたのでありました。
 
 この三月、Y君がK花店をやめ、私の手許もはなれ、F工場に行くと言い出した時は、私をはじめ周囲のものは、みんな反対でした。常識的に考えて少しも「善い」こととは思えませんでした。Y君はみんなの反対を押しきってF工場に行きました。然し、そこで何故か分りませんが彼は元気を回復し、その上M君という又とない求道の友を得ました。先日の礼拝には、F工場の同僚二人の友人と共に出席し、その面前で証詞に立ちました。
 反省してみると、この事では当初より私達は神様の御心を問いませんでした。そして常識ばかりで反対していました。しかし、神様の御心は別の処にあったようであります。
 ともあれ、当時Y君を送り出して以後、私達は一切を神様にゆだね、万事を益に変えて下さる神様をさんびしたのであります。そして、御覧のとおり神様はそのさんびにふさわしい方でありました。
 「神様!感謝します」
 この言葉を一生つづけたいものであります。
(1978.5.14週報「キリストの福音」より)


時事雑感

植村直己氏が世界最初の単独北極点踏破をやってのけました。そんな無茶な事ができるのかしらと危ぶんでいましたら、わけなくやってしまいました。相当危険や困難もあったようですが、それにしても矢張り茶の間の我々には僅かの間にあっけなくやってしまったように思えます。戦前の人間である我々にはアムンゼンとかスコットとかいう英雄ばりの名前と一つになって知っている北極が、急に親しげにそばにやってきた感じです▲何と言っても無線、人工衛星による追跡、ヘリコプターによる食糧補給等、昔にはとうてい考えられない文明の機器の援助があります。これらのものがなくては、今回の植村氏の探検の成功は考えられません。時代の変革によって昔出来なかった事も今できる、そんな事はたくさんあります▲信仰にも、そういう処があります。イエス様がいらっして、十字架と復活を経験して下さらなければ、信仰による赦しは人間に分りませんでした。ペンテコステのすばらしい経験がなければ、無学な只人がこの世の権者智者の前に大胆にふるまう事は不可能でした。昔、預言者や一流の宗教的天才でなければ出来なかったような事が、今平凡なる我々に出来るのであります▲聖霊がのぞむ時、イエス同様の、いやイエス以上のことも出来るとイエス御自身が仰せられた。そのようなすばらしい聖霊の時代が、今である。
(1978.5.7週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-05-13 09:23 | 日岡だより

No.746 明治・硬骨のクリスチャン 2016.5.1

明治・硬骨のクリスチャン

 大分市大道町六丁目にある〝大徳本店〟という家は、私の父の実家であります。先日、上水場の係員のミスで晴天下に時ならぬ山津波状の災害をおこし、その被害を真っ向にうけて、当主内藤利兵衛兄ら御一家に人身事故がなかったのが不思議なくらいの、おそるべき事でありました。
 それより二、三日して、利兵衛兄より「あげたいものがあるから取りにおいで」と電話なので、行ってみると、伯父徳太郎の出していた雑誌「復活」の保存版や、その他貴重な資料の数々です。小生、大喜びで挨拶もそこそこに自動車につめこんで帰ったのであります。
 
 さて、あの〝大徳本店〟の家は、もともとは酒造業の旧家の家にて明治八年に建てたものだそうであります。それを釘宮家が明治か大正の頃に買い取って移ってきたのだと思います(釘宮家はもともと旧稙田村下宗方の産)。この家の大黒柱を見ますと、大人がひとかかえもするような大きさ、赤茶けて底光りしているこの柱の材質は何でしょうか、ともかく釘を打っても入らずに曲ってしまう。昔式に一本一本鍛冶屋がきたえあげた釘でないと、曲ってしまう、いかな上手な大工もお手上げです。そのかわり鋼鉄ばりの固い釘を一度打ち込んでしまえば、今度は絶対に抜けない、そういう昔式の柱を見て帰ったわけです。
 
 帰って、さっそく胸おどらせながら伯父徳太郎の主筆雑誌〝復活〟の旧号を見ていると、昭和三年七月三日のところに、こんな文章があります。
「我家の系図を見ると我家は元藤原家であったが我が先祖、宇佐神宮に三七日の間参籠して聖くして確(かた)き姓を賜らんことを祈願した処が〝聖きものは宮なり。しかして確きものは釘付けなり。よって汝は釘宮ととなうべし〟とのお告げを受け、それより釘宮を姓としたりと書いてある。今朝、日課の聖書をよむと〝我らをしてその聖所にうちし釘のごとくならしめ給え〟(エズラ九・八)とある。どうか自分もこの聖句のごとく、又その姓の如く、名実共に神の前にきよく、またいかなる悪魔の誘惑にも打ち勝つ確き信仰を与え給えと祈った」
 人間は誰でも、家系誇りしたい気分があり、それを自慢する本人はたいそう喜んでいるが、はたの者はそれ程うれしい事ではないと思うので、こういう文章を週報にまで紹介するのは気がひけますが、しかしこうしてすぐに聖書を引用し、自分の信仰のはげましにする処が、この伯父の良い処であります。
 
 〝復活〟という雑誌は、紙面の大半を釘宮徳太郎の日記でうめているという特異なスタイルであります。説教や聖書解釈よりも、発行者自身の日常の生活をそのまま前面に押し出している、堂々たる面構えであります。徳太郎伯父は一介の商人でありました。その間十年程の日本最初の公設市場なるものを創設、そこの理事として市の給料をはみ、遂に悪人どもより逐われるという事もありました。その後商工会議所議員として勇名を馳せ、ガンジーのニックネームは有名でありました。そういう市井の政治・経済の中に活躍しつつ、交際する重要メンバーにはみなこの〝復活〟は送付したわけであります。ですから、ウソもキレイごとも書けない、多くの人に嫌悪と衝動を与える。そういう身をもって示す警世の書でありました。
 
 読んでいておどろいたのは、日記はその日か翌日に必ず原稿用紙に書いていたらしいが、それが後日いかに都合わるくても削除したり訂正したりしなかったらしい。私などだったら印刷寸前でもいろいろ第三者に対す当たりさわりを思い校正時に文章をいじるのであるが、それは不誠実であるとして絶対しなかったらしいのです。大したものです。軍国主義時代になると、かなりの発売禁止をうけ、特高にも再々出頭している。この明治生れ硬骨のクリスチャンを伯父にもったことを私は本当に誇りにしたいのです。
 
 最後に〝復活〟誌の欄外に毎月印刷してあった彼の信仰標語を紹介する。
「神を信ずる、これ我らの唯一最大の事業なり」
「不信者のてきめんの刑罰は品性の堕落である」
「礼拝は誠実なる日々の労働なり」
「実行は有力なる祈祷なり」
「キリスト教とはキリストの復活証明なり」
「キリスト教とは十字架と血の教えなり」
「求むべきものは成功にあらずして正義なり」
「困難をへずして深き信仰は得られず」
「伝道とは我が心に実験せし神の救を世に発表することなり」
「すべて汝の手に来ることは力をつくして之をなせ」
(1978.5.7週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-05-05 09:48 | 日岡だより