カテゴリ:日岡だより( 623 )

No.760 聖書のことば「われらは倒れず」/マジメとカシコサ 2016.8.7

《聖書のことば》
われらは倒れず

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(ピリピ一・6)
 
 俳優田宮二郎が自殺しました。佐藤文生代議士言うところの「国際的スケールを持った」男、ある新聞は「自ら提言して」大成功をねらうタイプであったと言います。しかし、彼は自らの人生プログラムに破れたわけです。
 私どもも、今年は大きい夢を抱きました。信じて祈りました。しかし、まだまだ多くの未完成の夢が多いのです。しかし、失望しません。倒れません。主が、「この日だ」と定めてくださっている日、その日に万事はかならず成っていくと、信じているからであります。
 (1978.12.31週報「キリストの福音」より)


マジメとカシコサ

 三浦綾子さんの出世作「氷点」は、朝日新聞の一千万円懸賞小説の入選作でした。入選の感想に、「これはキリスト教でいう原罪をテーマにした小説です」とはっきり言って世の人の目を見はらせたことは、今も記憶に新しいところです。
 その時、この入選を知った御主人の三浦氏はさっそく夫人をともなって二階に上り、ともに座って神様の前に祈ったそうです。それは神様への深い感謝でした。そして、夫人が有頂天になることを戒め、応募して落選した他の七百三十人の落胆を思いやり、そして与えられる賞金を自分のためにではなく、他の人の為に使い得るようにとも祈ったそうです。
 なんともエライ人じゃなあ、と感嘆しますね。この話は「うれしい時の神頼み」という不思議な題で書かれています。くわしくは新刊の「天の梯子」(三浦綾子著・主婦の友社)をお読み下さい。
 
 さて、私はこの時の三浦氏に感心するのは、こういう時に、こういうマジメな祈りをしようと、心の中で思う人は案外多いでしょうが、これを実行することがむつかしいのに、これを実行してしまうカシコサについて三浦氏に敬服したいのです。
 今年の九月十日、韓国より白先生、金先生がお見えになってすばらしい聖会をもって下さいました。あの時より、信仰の成長した人が多くいますね。私の家庭もすごく変ったと思います。あの時、両先生は四日間程滞在され、K姉の献身的韓国料理に舌つづみを打って、天国的だんらんの日々をすごしたのでした。たえず「ハレルヤ、ハレルヤ」と連呼される金先生におどろかされましたが、いつしかその習慣が私達にもついてしまい、そして常に信仰のコトバを語る人に変えられていました。
 
 正直なことを言って、私はざっくばらんに物を言うほうだと思っていますが、それが度をこして世間ずれした冗談や下品な言葉、くり言を言うことになりやすいのです。かたぐるしくない、牧師らしくない牧師としてのポーズを見せたい下心も少しはあったのですね。そこで、私生活において、あまり信仰ぶかそうな言動をすることに照れを感じる―――、そんな風になってしまいます。
 いわゆるタテマエは教会堂の中で言うだけ、家庭ではホンネが出る。このホンネというのがこわいのでして、よく考えるとホンネは肉の感受性を通して入ってくる世の声、サタンの声であることが多いのです。霊からひびいてくる神の子としてのホンネではないことが多いのです。
 
 マジメとは、間をしめることである、とある人は言いましたが、こういう語呂あわせはともかく、サタンのつけ込むすきをしめる為には、内なる心で、「さあ今妻と共に祈ろう」と示されたら、さっさと妻をさそって共に祈るようにすることです。照れて、ぐずぐずしていてサタンに侵入されるすき間を作らぬことです。それが、へびのごときカシコサです。先程かいた三浦氏のマジメさ、カシコサはそれであります。
 
 白先生、金先生との四日間の交わりの中で、とくに教えられたのは、この事でした。肉のホンネは、完全にしめ出すこと。そして霊のホンネ(つまり世の人から見ればつめたい堅苦しいタテマエ的表現になりやすいのですが)によって生きるのです。これが、偽善や律法主義にならないのは、罪の許しの確信と、内在の信仰によるのであります。
 
 さて、この三浦綾子さんの「天の梯子」は、祈りについての本であります。まだ他にも大変良い文があります。祈りについては、日本の教会はもっと実技的指導が必要です。この本の紹介も兼ねて、次号にも書き続けたいと思います。
 (1978.12.31週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-12 13:05 | 日岡だより

No.759 クリスマスをあなたへ 2016.7.31

クリスマスをあなたへ

一、もう一度クリスマスを
 
 あの最初のクリスマスの夜、羊飼たちや、東の国の博士たち、又その他大ぜいの物見高い連中まで、その家畜小屋に集まってきた事でありましょう。そして、無遠慮に聞いた人もあったかもしれません。
「へえー、この赤ん坊が神様のお約束のキリスト様かねえ」
 何分にも、その頭に金のリングは輝いていませんし、両親はさほど裕福そうでもないし、第一このきたならしい馬小屋で生れねばならないなんて……
 しかし、ヨセフ様もマリヤ様も胸を張って誇りと喜びをもって答えたはずです。
「はい、この子こそ、キリストです」
 時おり、教会に行くことすら、人にかくそうとする人のよい気の弱そうなクリスチャンに会うことがあります。そういう人を、イエス様は、「私もその人を天にて恥じる」と言われたのですよ。
 かつて、あなたの心の中に輝いたクリスマスの星をもう一度たしかめてみましょう。祈りの不足、不従順、艱難の雲やきりで、その星がくもっていなかったでしょうか。あなたの魂に、もう一度イエス様の誕生を!
 
二、罪よりの救い主、キリスト
 
 十一月のこと、弁天泊地で親子をのせた自動車が海に転落しました。運転していたお父さんはとっさに助手席のドアをひらいて小学校五年生の息子さんを押し出しましたが、ご自分は力つきて車の中で死んでしまわれました。痛ましい事故でした。このお子さんは、一生お父さんの愛と犠牲を忘れぬことでしょう。生涯彼の誇りと愛慕の的であることでしょう。
 さて、私たちは地獄に転落する罪という自動車の中にとじこめられた子供に似ています。救ってくれるべき父親はそばの運転席にいません。聖書は、私たち人間を生れながらの罪人ときめつけています。これが聖書のきびしい処で、キリスト教の人気のないゆえんです。しかし、人間の実相に気がつくと、誰でも自分をおぞましい罪ふかいものと悟るでしょう。
 この車に、私を救ってくれる神の子イエスを迎え入れましょう。神は私たちの罪の為に、罪を知らない方を罪とされた。この方のゆえに、私たちは救われます。父が死んで子供を生かしてくれたように、キリストの死は私を生かします。
 このキリストを、今私の心に迎え入れること、これが今日只今のあなたの心におけるキリスト誕生です。
 
三、すべての人にクリスマスを
 
 ある雪の深い山奥に、クリスチャン医師を訪ねて、二、三日滞在したことがあります。彼は愛と犠牲心に富んだすばらしい人でした。夜おそくでも、危険な山道にでも、ストーブで暖まった家を後にして、ニコニコしながら出て行くのです。
「どうして、そんなにすばらしいことができるのですか」
 と問うと、その医師は答えました。
「私の少年時代、危険をおかして生命をすくってくれた聖者ともいうべき老先生がいました。その方の幻が今も私を駆り立てるのです。
その方が、谷底の私の家に来て、死にかけた私を救って下さり、先生は雪の吹きだまりで足をすべらせて死んでしまわれました。私は先生のあとを追い、そしてこの村に帰ってきたのです」
 キリストも又、天においてうるわしくたのしい父の神の御もとをはなれ、無残なこの地上に来られて(それがクリスマスです)私たちの為に死んでくださいました。
 「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい」と主は言われました。
 しかり、私たちも私たちのたのしい処をはなれて出て行き、世のすみずみにまで、私たちのクリスマスをおわかちしようではありませんか。(一二・一五夜 市民クリスマスにて)
 (1978.12.17週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-07-31 23:00 | 日岡だより

No.758 聖書のことば4題(「義人はいない」ほか) 2016.7.24

《聖書のことば》
義人はいない

「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ三・10)
 
 私の名は「義人(よしと)」と言います。少年後期より青年前期にかけて、私はこの自分の名前で苦しみました。学校で名前などを呼ばれる時、自分の偽善と虚飾とその他内面の罪があばきたてられるようで、自分の実際の姿とあまりに相違する名前に冷や汗をかいたものです。
 昭和十九年の秋、私は福岡刑務所の独房にすわっていましたが、その時私の罪責感不法感は益々深刻でしたがそして、その深刻のきわみに、「お前は私と共に死んだ」との御言にふれて回心したのでした。
 十一月二十三日の夕刻、私の回心記念日です。その時より、「義人(ぎじん)」の名は私にとって喜びとなりました。
 (1978.11.19週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
人をゆるしなさい

「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(「主の祈り」より・マタイ福音書六・12参照)
 
 主の祈りの、この箇所は、「こんな大それた祈りは私には出来ません。私には人を許すことなんて出来ません」と言って、多くのクリスチャンを悩ませるところです。
 しかし、もし私たちがイエスの血によってゆるされているのなら、「わたしがあわれんでやったように、お前も仲間をあわれむべきではなかったか」という主の言葉を、すなおに聞くべきです(マタイ一八・33)。
 多くゆるされた者は多く愛し得るのです(ルカ七・47)。神の子となる力を与えられた(ヨハネ一・12)者にはそれが出来るはずです。
 (1978.12.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
弁解はよしなさい

「わたしの友は私をあざける、
しかしわたしの目は神に向って涙を
注ぐ」(ヨブ記一六・20)
 
 ひとりひとりに、ふれまわって、私の無実の罪、いわれなき非難、人の誤解に対して弁解したい時があります。時には主の栄誉のために一言弁明するのが良いこともあります(第二コリント一二・19)。しかしたいていの場合は口をつぐんでいるのがよいのです。
 
「見よ、今でもわたしの証人は天にある。
……ほかにだれがわたしのために
保証となってくれる者があろうか。」
(ヨブ記一六・19、一七・3)
 
 目を天にむけなさい。いつか必ず主があなたの正しさをあらわすでしょう。弁解はよしましょう。日本男子じゃありませんか。
 (1978.12.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
飼葉おけ

「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(ルカ二・12)
 
 ユダヤの飼葉おけは、日本のような木製ではなかったもののようです。それは陶器であったというのです。何だか、冷たい感じです。どちらにしても、寝心地の良いベビーベッドではありません。金のかざりも無ければ、イルミネーションもありません。
 しかし、そこに信仰ふかき善良なる両親、そしてやさしき家畜、そこへ労働者仲間の羊飼いがやってくる。何よりもよい事は、彼らには天使の歌がきこえ、神の御旨が信じられた事です。貧しい飼葉おけは決してみじめなしるしではないのです。
 (1978.12.17週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-07-30 16:03 | 日岡だより

No.757 今週の聖句「無罪の宣告」/イエスより復活の生命を受けよ 2016.7.17

《今週の聖句》
無罪の宣告

「私たちを罪に定めるのは誰か。キリスト・イエスですか。とんでもない。このお方こそ、死んで、否、よみがえって神の右に座し、現に私たちの為にとりなして下さる方なのである」(ローマ八・34私訳)
 
 最近、ある殺人事件で、一審で無期の判決をうけた人を、今度は二審が無罪と宣告しました。人間が人間をさばく事がいかにむつかしいか、というよい実例です。人はまた、自分で自分をさばくものです。そういう人は、良心的にすぎて、ノイローゼか自殺に追いこまれます。
 本当に人をさばき得るのは神のみです。「神のさばきに誰かたえ得んや」であります。しかし、神のひとり子のイエス様の愛のゆえに、私たちは「罪なし」とせられるのであります。
 (1978.11.5週報「キリストの福音」より)


イエスより復活の生命を受けよ
   ―ルカ七・11~15による奨励―

 イスラエルのナインという町に、イエスの御一行が来られました。その時、町の門より葬儀の行列が出て来ました。一方は「私は命である」と仰せられたイエスを先頭に、一方は死んだひとり息子のなきがらを先頭に。
 葬儀の行列には、多くの人が、その母親につきそっていました。しかし、いくらたくさんの人が彼女につきそってくれても、彼女をなぐさめ力づけるには、あまりに無力でありました。本当に彼女をなぐさめることの出来るのはイエスさまお一人であります。イエスは真実の愛と、また息子を生きかえらせて下さる力をもっていましたから、
 さて、この人生において、あなたは死の行列に属していますか。それとも生の行列に属していますか。
 
 このナインの町の未亡人は、イエスが棺の前に来たとき、はたと足をとめました。行列もとまりました。
「このお方に、この死んだひとり息子をおゆだねするがよい」
 聖霊のささやきが、このように彼女の魂に語りかけたのに相違ありません。そこで、彼女は死の行列の一員であることを拒否しました。そして生命の主であるイエスに、彼女の死児をおゆだねしたのです。
 ところで、あなたにとって「死児」とはなんでしょうか。失恋でありますか。それとも、上司の無理解? サラ金? 事業失敗? 子供の家出? 夫の病気? それらのすべてを(それがあなたの死児です)、イエスの御手にゆだねましょう。
 
 イエスは死人に「起きよ」と命じられました。人が石に命じて立ち上がらせられるものなら、この場合、死人が起きてくるのも簡単なことですが、イエスは人間にとって不可能な事を口にされました。そしてイエスの御言葉どおり、無より有を呼び出すごとく、奇蹟はおこりました。人には出来ないことも神には出来ます。
 私(釘宮)はかつて、ウジ虫のごとく意気地のない神経衰弱の青年でありました。全く気力をなくして、牢獄の中から、外で心配しているに違いない母親にハガキ一枚書けないのでした。ちょうど今頃(十一月)、私は地獄の火をまざまざと見たような無残な状況下で、イエスの言葉を心に聞きました。この生けるしかばねのごとき私に、イエスは
「お前は、私と共に死んだ。そして今生きかえっているのだ」
 と言われるのでした。その言葉は私の心底をつらぬき、大氷山を一瞬にとかす大熱線のように、私を作り変えました。あなたも、聖書をお読みください。いつか必ず、イエスの言葉をお聞きになるでしょう。
 
 イエスは、この生きかえった息子を、その母親にお渡しになった、と聖書にあります。その時、母親は息をはずませ、喜びと感謝の心いっぱいに、息子を抱きかかえるようにして受け取ったことでしょう。
 みなさんにお聞きしたい、この時、この婦人は、
「いいえ、主よ、ちょっと待って下さい。私にはこのことが信じられません。これは果たして真実かどうか、科学的に調べてもらって、本当に生き返ったわが子なら受け取ります」とか
「私はこれまで一面識もないあなたに、こんな事をして頂いて勿体ないです。せめて御礼に五十万円用意してまいりますから、それまで待って下さい」
 そんなことは言いますまい。この婦人は、全く無代価で、一瞬のちゅうちょすることなく、自分の手にわが子を受け取っていたことでありましょう。
 あなたの人生に、復活的生命力を与えて、霊に心に肉体に物質世界に、救をもたらすイエス御自身を、無代価で、すなおにお受け入れ下さい。(十一月十六日原家家庭集会における奨励)
 (1978.11.19週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-07-23 14:29 | 日岡だより

No.756 今週の聖句「人をゆるしなさい」/聖書へのあこがれ 2016.7.10

《今週の聖句》
人をゆるしなさい

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(「主の祈り」より マタイ福音書六・12参照)
 
 まじめに考えるクリスチャンにとって「まだキリストの福音に接せずして、(そこで当然の事ながら)キリストを信じなかった人は、果たして天国に行けるのですか」という質問くらい困るものはない。聖書に従うと「イエスの御名のほかに救わるべき名は天下にない」ということだから、甚だ困る。
 ともあれ、もし万一、キリスト信仰ぬきで天国に行ける人があるとすれば、それは、人を許す人だと思う。あなたを裏切り、あなたに不義をなし、あなたの仇である人をゆるし、愛しなさい。そのような人を、教会に行かなかったからと言って、神は捨て給わないと、私は思う。(教界の大先生に叱られそうですが。)
 (1978.10.29週報「キリストの福音」より)


聖書へのあこがれ

 人間は、自分にないものを見てあこがれるのであります。明治以来、日本人にとって「天使のような可愛い顔」とは、西洋人の幼児のような顔のことでありました。現在でも、良いプロポーションとか、良い姿勢というのは、西洋人を尺度にして言っているようです。
 反対に、西洋では(十九世紀のフランス)浮世絵の影響で、画家たちはしばしば実際のモデルより足を短く描いて、日本人の体にあこがれたのであります。西洋人は日本人の赤ん坊を見ると「本当にすばらしい」とため息をつきます。よく考えると、中世画家のかいた聖母子像そっくりの顔なのですね。彼らは東洋人の神秘な顔にあこがれているのです。
 
 最近、西洋の人々が禅やヨガにあこがれるのも、同様でしょう。考えてみれば、世界の重要な宗教は、すべて東洋に発生しているのです。しかし、その中でも仏教やインドの神秘主義は、あまりにも汎神主義と唯心主義の度がすぎて、個人と社会の具体的改造への努力に欠ける処があるように思えます。それに比し、キリスト教が東洋の西のはし(ヨーロッパ、アジヤ、アフリカのクローバー型地形の中心にあたります)に生れ、まず主我性のつよい知性と技術の西洋に伝えられた事は意味がふかいと思います。
 
 日本人が、明治以来西洋にあこがれ、その制度と技術を受け入れて、国民皆教育勤勉出世主義で近代化をはかり、ここ百年間(特にこの二十年間)でみごとな成長を遂げた事は、中国の副首相に今更指摘されるまでもない事です。しかし、日本人は制度と技術を受け入れて、西洋の心を受け入れませんでした。特に、キリスト教に対しては理由なき抵抗感をもっています。これはキリシタン禁制以来数百年間の日本民族の潜在意識に刻まれたキリスト恐怖症の傷のためでしょう。
 
 しかし、日本人の心のすべての面が扉を閉ざしているわけではありません。平均的日本人が、キリスト教的なものに対して、多少とも心を開いている面が三つあると思います。それは
 1.修道女などの清楚な姿
 2.さんび歌(特に曲)
 3.聖書
 先日の大分ナザレン教会の集会で、車女史の証しされた言葉の中に、「私は初めてある伝道者に会った時、その喜びの顔、その平和な姿に心打たれた。みなさん、クリスチャンの姿は大切ですよ」とありました。敬虔なクリスチャンの姿は、一般日本人の心をゆさぶります。
 次に、さんび歌です。長い伝統をもつキリスト教のさんびのすばらしさを、私達は人々に伝えましょう。聖歌四〇二番をきいて、その意味は分らず、そのメロディだけで、回心した実例さえあるのです。
 
 しかし、修道女の姿や、さんびの歌は、人の感情をうるおしても、なかなか信仰への意志的求め心を引きおこさぬものです。同様に「キリスト教を信じませんか。信仰に入れば平安になりますよ。生き甲斐を感じますよ」と言われても、それは情緒的訴えですから、「それでは何宗でも同じですね。安心立命が宗教だね」と、こうなるのです。
 しかし、聖書は違います。聖書を読んでもらうと、聖書はコトバですから、読む人に理解を与えます。そして聖書は神の霊感による御言ですから、読む人の魂にたしかな変化を与えます。聖書は神の本である、不思議な本であると実感させます。
 ありがたい事に、聖書は多くの日本人に親近感をもたれ、一種のあこがれすらあります。信者にならなくてよい、教会に行かなくてよいなら、聖書の中身を知りたい、そういう日本人は多いのです。
 「聖書を学ぶ会」を開こうではありませんか。
 (1978.11.5週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-07-15 10:08 | 日岡だより

No.755 今週の聖句3題/聖書の教えの三つのライン 2016.7.3

《今週の聖句》 
愛は神より出る

「愛は神より出る」(ヨハネ第一書四・7)
 
 ここで「愛」と訳されている言葉は原語のギリシャ語では「アガペー」といって独特な言葉です。
 日本ではぶりという魚に、成長につれて幾通りもの名で呼ばれるのだそうです。ギリシャはさすが哲学の国、愛に対する用語が五つもあるのです。知的学問愛、友情の愛、親の愛、性的愛。
 それらの愛を超絶して、神が罪人を許し受け入れる愛、正しきものが罪人をあわれむ愛、許しがたき仇敵の為に死をとして愛する愛、そういう愛を「アガペー」というのです。
 そのような愛は、人間は持ちあわせていません。そういう愛はただひたすら、神より出るのみです。
 (1978.10.8週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
宣教のおろかさ

「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」
 (コリント第一書第一書21節)
 
 教会では、いろいろと分りやすいように説明して、人々に信仰をすすめる。言葉の解釈とか二千年前のユダヤ人の風習の説明とか。
 しかし、最後に残る聖書の不可思議さは説明しきれない。商品を売ったり、入会をすすめたりする時のように、説明や計算でなっとくして頂いて、クリスチャンになってもらう事は困難である。いや不可能と言ってよい。
 ただ一方的に聖書からあなたに流れる宣教の言葉が、ある日突然あなたの心の壁をやぶって、あなたの心にキリストの火をやどす日まで、ただ一途に理解されにくい神の言を語り続けるのが「宣教の愚かさ」なのである。
 (1978.10.15週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
世の光

 「あなたがたは世の光である」
 (マタイ福音書第五章14節)
 
 これはイエス様が山上で弟子たちに語ったいわゆる〝山上の説教〟の中の一節です。ここで光とは、端的に言えば良い行いのことなのです。良い行いを、あたかもあかりを燭台の上において部屋を輝かすように、人々の前に見せなさい、とイエス様は言っています。
 これは、人前で祈ったり断食したりする宗教家の偽善をきらったイエス様のお言葉とは思えない趣きがあります。
 善い行いを、端的に人前でスッとして見せる事は容易ではありません。道でゴミを拾う。大衆食堂で食前の祈祷をささげる。これを淡々とやれる人は、たしかに光の子であります。
 主よ、私を光の子にしてください。
 (1978.10.22週報「キリストの福音」より)


聖書の教えの三つのライン

 あたかも、三本の緒をそれぞれねじて互にからませ、一本の強靱なロープを作るように、イエス・キリストの福音には三つの大きな教えの流れがある。
 その第一は、イエス・キリストはわれらの罪のあがない主、われらの病の担い主ということである。律法の前に弾劾され、のろわれた私達を救う手だては、主の十字架にのみある。これは神自ら義となるため、ひいて罪人を義人と宣告し、神の子としての身分を与えることである。罪責感や自己れんびんに悩む人々はこの福音がよく悟れていないのである。
 第二は、イエス・キリストは悪魔に対する勝利者、悪魔・悪霊に奴隷とされたわれらの解放者であるということである。すべての権威を足下にして神の右に高くあげられたお方こそ、われらの主である。能力的伝道の秘訣はこの信仰にある。
 第三は、イエス・キリストの愛により、われらは愛を知り、その故にわれらは互に相愛すべきこと。愛が最高の律法であり、聖霊の賜物であること。愛なくばいくら「主よ、主よ」と言っても、大なる業を為しても主はかえりみられない。互に愛しあいなさい、これがイエスの最大の戒めである。教会形成の最大の秘訣である。(九月十三日祈祷会のメッセージより)
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-07-09 13:11 | 日岡だより

No.754 キリストの御名に救あり 2016.6.26

キリストの御名に救あり

 (一九七八年九月二十四日(日)礼拝メッセージより)
 「主イエスの名に勝利あり」と、今歌いましたこの賛美は、勝利の歌、凱旋の歌であります。私等の人生は戦いの人生であり、そこに勝利があるのです。私等は小さいことで時に敗れることはあるかもしれませんが、最後の勝利は私等のものであります。時々失敗した時、罪責感におちいってはなりません。そんな弱々しい人生でなく、そのとがめを取り去って下さり、勝利の人生へと導いて下さるのが主の救いであります。
 よく、キリスト教の説教はむつかしいと言われますが、そのむつかしい原因は次の二つです。
 (1) 罪について語るからです。
 罪について語る時、これを聞く人は、恐ろしくて、聞きたくない心が働くのです。他の宗教では、人は生れながら善人であって、途中で色々と悪いくせがついたものである、だから、心を入れかえて良い事をすれば家庭が明るくなりますよ、と言いますと、みんな良くわかるわけですね。しかし、キリスト教ではこんな話はしませんから、非常にむつかしいと思うのです。
 (2) 次に、この罪を救うために、イエスが十字架にかかり、復活なさった、このイエスのみ名を信ずるだけで救われます、と言うと、「そんな簡単なことで」と言って今度は、やさしすぎてわからんと言うのです。
 もしこのことがわかって、私は罪人の頭であったと実感し、イエスの御名を信ずるのみで救われたと、わかってくれば、聖書の御言葉がみなわかってくるわけであります。
 信仰とは、イエスを主と呼ぶことです。このことは聖霊によらなければできません。それがわかれば、内に信仰を確立することができるのです。
 パウロもアナニヤによって、イエスの名をとなえて救われました。このことは、イエスの軍門に降ること、イエスの杯を受けてイエスの子分になることを意味します。このことによって、案外簡単に、この地上と縁を切ることができます。
 イエスは神のあらわれです。本尊です。仏教の言葉の本尊は、本になる尊いものの意味ですが、人は何かを作って拝みたいという本能があります。それがシャカであったり、マンダラであったりします。それを木に刻んで拝みます。マジメですが、愚かです。本物ではないからです。
 この地上の人類を救う為に、イエスは神の姿を表わして下さいました。このことは、本尊はイエスのみであることを示しています。内村鑑三は、仏教は月であり、キリスト教は太陽であると答えたそうですが、私等はこの太陽に目を向けることが大切であります。
 私は、戦時中に刑務所の中で極度の疲労の労役にあった時、イエスの名をとなえることのみで大変な御利益(?)にあずかった経験があります。イエスはそれ以上に今私等を救って下さることを信じます。
 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ人への手紙一〇・13)
 
 今日のメッセージの中心は簡単なことです。
 (1)聞いて下さるイエス(エレミヤ三三・2~3参照)
 「呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」と主は言われます。神には耳があります。そして答えて下さるのです。そして健康と、いやしと、豊かな繁栄を与えると約束して下さいました。
 (2)近くに居たまうイエス(エレミヤ二三・23参照)
 救い主でも遠くにいては私等の助けにはなりません。主は近くの神であり、すぐに答えて下さるのであります。
 (3)愛であるイエス
 もし、私の呼び声が聞け、近くに居ても、その人が怒りの人、憎しみの人であれば、その人は私を救ってはくれません。しかし神は愛の神であり、良き父でありますから、私を救って下さるのです。前科は問わずです。
 (4)全能のイエス
 終戦後、満州から親子が引き揚げようとしましたが、ソ連軍が入って来て、子供に乱暴しようとしましたが、これを親は助けることができませんでした。子供の助けを呼ぶ声は聞こえますし、近くにも居ました、又愛もありましたが、力がなかったのです。
 イエスは全能の力をもっております。ですから私等を救うことができるのです。このお方を呼び求めるのです。
 神は今、御聖霊として天と地に満ちているお方であります。聖霊は空気と同じ、いつもここにあります。生命があればそれを吸うことができます。吸えば生きます。名を呼べば、イエスは来て下さるのです。
 主の御名を呼ぶ者は救われる、「イエス様、イエス様、イエス様」のみでよいのです。
 すばらしい楽な信仰であります。これが私の人生のすべてを解決する秘訣であります。
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-06-30 23:00 | 日岡だより

No.753 今週の聖句4題(「互にあいさつを……」ほか) 2016.6.19

《今週の聖句》
互にあいさつを……

「きよい接吻をもって、互にあいさつをかわしなさい」(ローマ書一六・16)
 
 日本人には一般の挨拶に接吻をする風習はない。それ故接吻はともかくとして、清い心、つまり下心のない、いつわりのない真実の心をもって、互に挨拶をかわしましょう。
 ある本屋さん、夫婦二人で一生懸命働いて月平均わずか百万円の商売でした。ある時、真理の言葉にふれた。買いに来たお客様も、立ち読みのお客様も、すべて神に造られた人の子。すべての人に、大人にも子供にも、心をこめて、商売気ぬきであいさつ。夫婦お互いもこれにつられてあいさつ。すると、店舗も改装せず、特別の商策もないのに、七ヶ月目には夫婦は仲よくなり、月高は四百万円になったとは、本当にあった話。
 きよい挨拶をかわしましょう。
 (1978.9.10週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
ハレルヤ

「エホバをほめたたえよ」(文語訳)
 
 詩篇第一四八篇をはじめ、詩篇の各所に出てくる、この「エホバをほめたたえよ」という言葉は、言語では「ハレルヤ」です。「ハレル(讃美する)」という言葉と「ヤハウェ(神名エホバ)」との合成語です。
 このたび、白牧師の通訳として同行して来られた金牧師は、どこに行っても「ハレルヤ」と大声で呼びかけるので有名な先生。ニックネームもハレルヤ牧師。
 交差点で信号待ちで停車している時も、隣の車に「ハレルヤ!」、別府の地獄めぐりに案内しても、修学旅行中の中学生たちに、「ハレルヤ! イエス様を信じましょう」。いやな事がおこっても矢張り「ハレルヤ」明るい顔。
 (1978.9.17週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神の宮

「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある」(歴代誌下七・16)
 
 これはソロモン王が神の宮を建設したときの、彼に対する神様の祝福の言葉です。のちに、この神殿は破壊され朽ち果てました。
 しかし、今、聖書は私達のからだを神の宮と呼びます(第一コリント三・16、六・19、第二コリント六・16参照)。私たちはクリスチャンと呼ばれることによって、主の名が私たちに留められている事実を認識しましょう。これは神様が、私たち一人一人を選び、世より聖別し、そして尊い御目と御心を私たちの内なる霊に内在せしめ給うことを語っています。
 友よ、あなたは神の宮であります。
 (1978.9.24週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神の言葉の祝福

「神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された」(歴代誌上一三・14)
 
 モーセが神より受けた十戒の石板を入れた神の箱を、ダビデ王は一時オベデ・エドムという人の一家に預けました。
 神の箱は、新約の思想で言えば、聖書ですし、また神の言葉のことでもあります。彼の家が、その家族とともに一家をあげて神の言葉を受け入れた時、神の祝福がその一家に溢れたのであります。
 かつて私の父や、又その兄が聖書を受け入れ、神様の言葉を信じた時、借金だらけの家業が、見る見る地場企業としては一流の、商社に生れ変っていったのでありました。
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-06-25 09:12 | 日岡だより

No.752 今週の聖句4題(「宇宙的充満を味わえ」ほか) 2016.6.12

《今週の聖句》
宇宙的充満を味わえ

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」
 (エペソ人への手紙一・23)
 これはパウロがローマの牢獄の中にいて、エペソの教会のクリスチャンにあてて書いた手紙の一節。囚人のくせして、このパウロの自信満々たる発言は、どこから来るのでしょう。勿論、この「教会に満ち満つるキリストの臨在の信仰」でした。
 この聖句は、日本文では少々まわりくねっていて理解に手間取るところがありますが、要するに「万物充満者が、我らに充満する」という途方もなく大きいイメージであります。この聖句を何度も告白(コール)してごらんなさい。必ずや宇宙的充満感覚を味わえます。
 (1978.8.6週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
全力をつくせ

「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」(第一コリント一五・58)
 
 「ただ信仰のみ」を強調し、がんばりや努力を否定するあまり、無気力で消極的なクリスチャンになっている人を見かけることがある。極端な例では、老人になって生活費の一端を浴場掃除のアルバイトに行って得ているのを、これは不信仰な業ではないだろうかと、心配して相談されたことがある。
 「すべてあなたの手のなし得る事は、力をつくしてなせ」(伝道の書九・10)。パウロの手紙には「努力」という言葉が四回も出ている。パウロは実に無類の努力家でああったのである。信仰による努力はむだにならない。
 (1978.8.20週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
怒ることがあっても

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」(エペソ人への手紙四・26)
 多くの人の怒りは、自己本位の防御本能か早合点の批判精神が、カンシャク玉を破裂させたという程度のものです。本当の怒りは、(イエス様も怒ったことがあります)正しい判断のもとに、不正不義に対して発せられる勇敢な抗議です。その時、右の頬を打たれれば左の頬をさし出すくらいの余裕が必要です。すぐカッとなるのは、あやまちの元です。又、夜寝る前には興奮をおさめてしまうことです。カラリと忘れることができない怒りは、多分恨みをもふくんでいるのでして、悪魔のつけ入る隙です。精神衛生上にも不健康です。
 (1978.8月臨時号週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
罪人を招く……

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書九・13)
 
 このイエス様の御ことばに接すると、日本人の多くは、親鸞の悪人正機論を思い出すであろう。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのである。蓮如も言う、「心の悪さや妄念妄執を止めよと言うのではない。何の業にせよ、あさましい罪業に日夜惑うヤクザな私を助け給う如来の本願を深く信じ一心にすがるのみであります」(御文章一帖目第三通二~四節意訳)と。
 人間は救われても罪人である。信仰に入ってクリスチャンになっても相変らず変りばえせんなァと落胆している人々は、この救いの徹底さが心根に徹していないのである。
 (1978.9.3週報「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2016-06-18 10:31 | 日岡だより

No.751 信仰三つの焦点/今週の聖句3題 2016.6.5

信仰三つの焦点 

第一、イエス・キリストを信じなさい。イエス様の血のあがないによって子としての身分をさずけられていることを信じなさい。この尊い真理を理解して、イエス様をうけ入れなさい。この信仰を主張しなさい。
第二、天地の造り主、万事の計画者、全能の神を信じなさい。神は、あなたに豊かな愛の計画をもって、あなたの全人生をつかさどり給う。この父なる神に感謝し、さんびしなさい。
第三、あなたに内在の御聖霊様によって、あなた自身を信じなさい。「あなたの信じるごとくあなたに成るべし」という約束は、「あなた」への主の信任です。あなたの為すこと、思うことを神は「わが心にかなえり」と喜んで下さるのです。故に、へりくだりつつも、大胆に言い、行うのです。
         *
 まとめると、信仰は①キリスト、②神、③我(聖霊)に焦点をあてることができます。心の態度は①キリストをうけ入れる、②神に感謝する、③内なる我に自信をもつ。行動としては①の信仰を口で言い表わし、主張しつづける、②は神への「さんび」、③は、すぐに行動をおこすこと、これです。
 (1978.6.25週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
大胆に語れ

 「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した」(使徒行伝第四章三一節)
 教会の指導者達が、時の権力者によって脅迫されたとき、初代教会の信徒達は「この脅迫を去らせて下さい」とか「忍耐する力を与え給え」とかいうふうには祈りませんでした。かえって「思いきって大胆に御言葉を語らせて下さい」と祈りました。彼らの祈りは積極的で具体的で戦闘的ですらありました。(聖書のこの箇所の前後をよくお読み下さい)
 いやしや、しるしや、奇跡はすぐには表われませんでしたが、彼らはまず第一に、大胆に神の言を語り始めました。そして、これこそ初代教会の偉大なわざの秘訣です。
 (1978.7.16週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
熱砂より救うもの

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た」(創世記21・19)
 中近東の砂漠では、外があついので自動車は窓をしめるそうです。熱い風が入って来ないためです。そのような熱砂の中で、ハガルは幼児イシマエルを連れて、水もパンも無くなってしまったのであります。ハガルはもうこれまでと思い、子供の死ぬのを見るに忍びないと、子供を一人砂の上におき去りにしました。その時、神は子供の泣く声を聞かれ、ハガルをあわれんで、その目を開くと、彼女の眼前に水のあるのが分ったのです。
 火のような苦しみで、人生の砂漠で飢えかわいて苦しむ人々に、目を開かせて永遠の泉を発見させてくれるのは、神の御言です。
 (1978.7.23週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神に寄り頼め

 「主は……、我が神、わが寄り頼む岩」(詩篇一八・二)
 この頃、早天祈祷会でビル・ブライト氏の信仰テキスト(略してT・Cという)を学習しています。ある日、「信仰というのは、言いかえれば信頼ということです」とあるのを見ました。オヤと思いました。現代人は複雑怪奇です。「信じても信頼せず、信頼しても従わず」という信者が多いのです。子供のように単純な信仰なら、信じることも、信頼することも、従うことも一つの筈ですがね。
 この悲しむべき信仰の表裏不一致は現代の信仰界に深く食い込んでいます。神により頼む信頼の筋肉を、十字架信仰の骨格の上に、かたく鍛錬して根づかせる事が必要なのです。(T・C第二巻25.26頁参照)
 (1978.7.30週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-06-10 15:10 | 日岡だより