カテゴリ:日岡だより( 623 )

No.770 《聖書のことば》2題/あなたも燃えて生きないか 2016.10.16

《聖書のことば》
御言(みことば)の力

「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブの手紙一・21)
 
 人生の夕ぐれ、年老いて病み、痴呆症状態となってやってくる人々を迎える、ある老人医療施設で。言葉のかなわぬ人や、失語症の人に言語治療士が指導にあたる。
 その言語治療士がクリスチャンだった。時を見計らって聖書の言葉を読んで聞かせる。その時、老人達の心に大変化がおこった。
 何でも忘れてしまう彼らだのに、聖書だけは忘れない。集会の時間を今やおそし、と待ちかまえている。素朴な愛の行為をつくして、しかし、それはやはり、けろりと忘れ果ててしまう。
 今年の「あかし文学」入選作の一つにある実話――、おどろくべき御言の力!
 (1979.6.24週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
家族のための箱船

「信仰によって、ノアは……家族を救うために箱船を造り、……」(ヘブル一一・7)
 
 ノアは家をよく治め、家族を愛していましたから、神様もノアとその家族を愛して下さいました。ノアは神の言葉を信じ、山の上に巨大な帆もなくかじもない舟を造りました。
 なぜなら、それは航行する為のものではなく、山をもおおいつくす大洪水の上に浮ぶためのものだったからです。このばかげた大工事に家族もノアを信じてよく従いました。この大浪費に妻も一言の文句もありませんでした。
 「あなたもあなたの家族も救われる」ためには(使徒行伝一六・31参照)、単にセンチメンタルな信仰ではなく、箱船を造るほどの信仰と、家族の信頼が必要なのであります。
 (1979.7.1週報「キリストの福音」より)


あなたも燃えて生きないか

 最近、出版された本に、「なぜ燃えて生きないのか」というのがありました。まさに、最近は、燃えない、シラケた、冷えた人々の時代なのですね。
 さて、聖書の神は、燃える火のような神です。アブラハムとの契約に火、モーセを導くのも火、預言者エリヤを天に迎えるのも火。
 キリストは言われました。「わたしは地上に火を投じるために来たのだ」(ルカ一二・49、50)と。キリストご自身、火のような方です。
 そして遂に、キリストの十字架と復活ののち、五十日程たって、彼の霊(聖霊)は百二十人の弟子達に一人一人に分れて下りました。あたかも火の舌のように。これが、教会のはじまりです。
 以後、各時代の聖者や、偉大な宣教者たち、すべてはキリストの火に燃える人々でした。火は燃え移ります。元火はたとえ小さくても、燃える材料があれば、いくらでも燃えひろがっていきます。
 火はすべてを焼いて、過去を消し去ります。火はあたたまりをもって人を集めます。火はあかりとなって周りを照らします。火は金属をとかしてこれを精錬します。火は燃えて野獣を恐れさせます。
 さて、この時代は燃える人を期待しています。利得や肉欲のためではなく、神と人のために燃える人です。今は火のない、暗黒と乾燥の時代です。だからこそ、自ら燃えて、人を燃やす人が必要なのです。
 あなたが、キリストの霊にふれるなら、あなたは本当に燃える人になるのです。(一九七九・六・三主日説教「聖霊があなたに下る時」の要約)
 (1979.6.17週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-10-22 12:51 | 日岡だより

No.769 私はすでに死んでいるのです 2016.10.9

私はすでに死んでいるのです

 本間俊平、彼は明治、大正、昭和にかけて非行少年の父、秋吉台の聖者とうたわれ、その元気のよい著書は当時のベストセラーとなりました。
 ナマの日本人が熱血をむき出しにして、学歴なき労働者のあらくれ魂でキリストを信じたらどんな人間になるか、そのよい見本が彼でありました。
 本間俊平が、そういうすぐれた人物に成長した原因の一つは、彼の両親の死にあるようです。
 青年俊平は誤解をうけて失職し北海道小樽で両親と別れ東京に出ます。当時明治二十七年日清戦争のさなか、大倉組に拾われて軍需労務にたずさわり朝鮮にわたります。それは軍事行動の一環ですから当然極秘とされ、両親には音信不通。その間老いた両親は小樽より函館までトボトボと無銭旅行の末、十一月十二日寒風吹きすさぶアイヌ漁村の小屋の軒下で手を取り合って凍死するのです。
 戦争が終って日本に帰った俊平はこれを聞いて号泣しました。この悲惨な両親の死をその後夢の間も忘れることができなかったでしょう。この事が本間俊平の人生に発奮をうながした事は疑いもありません。
 
 太平洋戦争直後、フィリピンで戦犯となって逃げていた男、ある処で親友と二人でかくれていました。そこへMPと現地民にふみこまれ、思わず彼Aは親友Bをすてて逃げ去りました。
 その後Aはどさくさにまぎれて日本に帰りましたが、占領下の日本では戦犯として安じて眠る処もなく、故郷にも帰れず、Bのことで良心もとがめて気分も重い、ついに放浪と淪落の人生。山谷のドヤ街でアル中で倒れている時、浮浪者伝道のK牧師に会いました。
 K牧師はAの口から彼の名を聞いておどろいて言いました。
「Aさん。私はあなたをずっと探していましたよ。もうあきらめていましたがね。あなたはB君を知っているでしょう。」
「B君! どうして彼の事をあなたは?」
「彼はフィリピンの刑務所で死にました。私はその時、死刑執行の立会人だったのです。死刑の寸前、彼は言いました。私の本名はBです。私の事を日本に帰ったら、私の親と、そしてAに知らせて下さい。私はAの名で捕えられ、Aの名で死んでいきます。これは自分で承知でした事です。彼は親友でしたからね。彼に安心するように伝えて下さい、と。」
 Aは茫然として声も出ません。牧師は言う、
「だからAさん、あなたはもうBさんの死刑と同時に死んでいるのですよ」
「ホントです。―――すると、今ここに生きているのは?」
「あなたではなく、Bなのですよ」
 実は、このフィリピンの身代り戦犯の話は架空の物語です。しかし、終戦当時としては、よくありがちな事でした。
 
 さて、キリストの死はこのB以上の事です。彼は親友のために死にましたが、キリストは不信不義のもののために死んでくれました。
 キリストの十字架において、私も同時に死んでいます。これは「死んでいる」という実感以上に、一種の「法的事実」なのです。
 「現に私は生きているけれど、生きているのは私ではなくて、私の中にキリストが生きているのだ」
 これを肉体的生命感覚として捉えようとすると分らなくなります。しかし、私のために死んで下さったキリストを慕い、痛悔し、感動し、感謝し、従い、仕える熱情のおこる時、私の中に新しい人格が形成されます。それが内なるキリストです。あたかも、本間俊平が両親の死を生涯胸に抱いて生きたであろうように。
 テレビの機械に電気がいり、その回路がウォーミングアップされる時、遠くのTV局の映像がブラウン管に写ります。私どもの胸にキリストを思う心の熱くなる時、キリストの生命は私どもの心にはっきり写ります。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙二・19下~20中)
 (一九七九・六・七夜 中野家家庭集会にて)
 (1979.6.10週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-10-15 14:56 | 日岡だより

No.768 《聖書のことば》4題(「きかない薬」ほか) 2016.10.2

《聖書のことば》
きかない薬

「彼ら(記者註・偽預言者、偽宗教家どものこと)は、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ書六・14)
 
 戦後すぐ、私の母が突然高熱を出し、頭が痛いといって床につきました。医者につれていくと、「これは丹毒だ」と言って、黒い液体のイヒチョールという薬をぬってくれました。
 「間もなくなおる、そのうちよくなる」と医者が言うので安心していました。ところが、それでは駄目でした。その後よい薬が手に入りまして、すぐ快復しましたが、あのままでしたら、母は死んでいたかもしれません。
 この世の宗教家や道徳家は処世のための心がまえ身がまえを教えてくれます。良い事ではありますが、重病にはきかないのです。
 (1979.5.27週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
聖霊の力

「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」
(ゼカリヤ書四・6)
 
 キリスト教の全体を像を一言で言えば「神の栄光」です。しかし、私どもに最も身近く接する教理として言えば「十字架によるあがない」です。
 ところが、私たちの中に信仰を実現させる力としてのキリスト教の重要な武器は「聖霊」です。キリスト教は聖霊の宗教だと言っても、あながち過言ではないでしょう。
 聖書を読むとき、聖書の教えを聞く時、祈るとき、賛美を歌うとき、瞑想する時、そして日常生活のすべての時に、神は聖霊をもってあなたの心と霊に働きかけるのです。
 (1979.6.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
燃える人生

「お互の心が内に燃えたではないか」
(ルカによる福音書二四・32)
 
 最近ある仏教の人が「なぜ燃えて生きないのか」という本を出しました。現代は燃えない時代なのでしょうか。
 百年ほど前、電気の法則で有名なファラデーが(その時すでに七十才の老人でした)、少年少女を相手に「ローソクの科学」というお話をしました。
 日本のローソクはシンに穴があって燃えやすいのだというようなお話から始まって、人間の生命の燃焼にまで及ぶわけです。
 少年少女の未来よ、炎のように燃えて輝けと、この老人は熱望したのでした。
 人間を本当に燃やすものは、聖書です。
 (一九七九・六・二毎日新聞「変化球」を参考に)
 (1979.6.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
めざとく ほめる

「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」
(ルカによる福音書二一・3)
 
 イエス様は宮のさいせん箱のそばで、金持たちがたくさん投げ入れるのを見、また貧しいやもめが銅貨を二枚入れるのを見て、右のように言ったのです。
 心からする謙遜な献金は少額でも、高慢な心で見せびらかしてする多額な献金にまさります(日本の教会は、むかしから献金の個人額を公示しませんが、これはよい習慣だと思います)。
 この時、イエス様は、小さいことに目をとめて、これをほめて下さいました。かくれた良いことを目ざとく見つけて、それを賞賛しましょう。人を育てる秘訣です。
 (1979.6.17週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-10-08 14:17 | 日岡だより

No.767 《聖書のことば》ほほえむ/イエスは神である 2016.9.25

《聖書のことば》
ほほえむ
 
「あふれるばかり感謝しなさい」
(コロサイ人への手紙二・7)
「いつも感謝していなさい」
(コロサイ人への手紙三・15)
「すべての事について、感謝しなさい」
(テサロニケ人への第一の手紙五・18)
 
「ものが言えない私は
ありがとうのかわりに ほほえむ
朝から何回も ほほえむ
苦しい時も 悲しい時も
心から ほほえむ」(水野源三)
 強度の脳性麻痺で身動きできず手足も動かぬ水野源三さん。この三十年間まばたきすることと、ほほえむことだけの生活。信仰が輝いて溢れている。その彼の詩です。
 (1979.5.20週報「キリストの福音」より)



イエスは神である 

 新約聖書のマルコ一〇・17~31を見ると、そこにある青年がイエス様にたずねているところがあります。
「よき師よ、永遠の生命を受けるためには何をしたらよいですか」
 イエス様がユダヤ古来の十戒を教えますと、「イエス様、私はその殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ……、そのようなことはみんな守っております」
 日本人で言うなら、「わしは教育勅語のとおりにまっすぐに生きとる。信仰なんか不要だ。信仰などは、意志の弱い人間のすることだ」という具合です。
 そこでイエス様は一喝される。
「お前には、もう一つすることが残っている。お前の全財産を売って貧しい人々にほどこせ。そして私について来い」
 これで青年はおったまげて帰っていくのです。ここが、この青年の足らない処で、せっかく人生の良師に会いながら、自分の至らなさを見せつけられると、ざんげして更に随身の道を問うべきなのに、一目散に逃げていくのです。
 
 ところで、この時このありさまを見ていた弟子たちの反応が面白いのです。口々に言う、
「それなら、だれが救われる事ができるでしょう。大変なこった」
 
 イエス様は彼らをじっと見て
「人には出来ないことも、神には出来る――」
 第一の弟子ペテロは、はっとして叫びました。
「そうだ。現にぼくらはこうしてイエス様についてきているではないか。親父も商売も捨ててついてきているではないか」
 みんなも、目がさめたように一切をすててイエス様に従ってきている自分達に気づきました。
 それなら、なぜあの青年はイエス様から逃げていったのでしょう。
 
 あの青年がはじめイエス様に「よき師よ」と問いかけた時、イエス様の返事は実にそっけないのです。
「なぜ私を、よき師よと呼ぶのか。神ひとりのほか善きものはないのだ」
 この返事は実に逆説的です。クリスチャンとはイエスを神と信じる者。そうすると、このイエスのお言葉は実に不思議で、禅僧が好んで使う謎のような「反対ことば」だと思っています。
 ペテロが最初の出会いでイエス様にふれた時、その神性にびっくりして
「主よ、私を離れ去ってください。私は罪ふかいものです」
 とひれ伏したものです。ペテロはイエスの神性にふれて一言のつべこべも言わずに従って行きました。「よき師よ」などと言っている、あの青年はイエスを当り前の人間、ただし一級の教師ぐらいに思っていましたから、けっして従って行き得ませんでした。
 イエスは神であります。その彼の神的わざが働かなければ、だれもすべてを捨てて彼に従うなど出来るわけがないのです。
 (一九七八・一二・一七礼拝説教「樹は熟した実を人に与える」より、吉田一行兄筆記、釘宮編)
 (1979.5.20週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-09-30 23:00 | 日岡だより

No.766 聖書のことば4題(「事実」ほか) 2016.9.18

《聖書のことば》
事実

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネによる福音書一一・25)
 
 キリストを信じた者も、信じない人と同じように、病床や交通事故や戦争や、はたまた老衰などで死んで、そして再び生き返りはしないように見える。この限りでは前述のイエスの言葉はウソのように見える。
 しかし使徒パウロは言う、「事実、キリストは……死人の中からよみがえったのである」と。パウロは当初のキリストの復活を肉眼で見たわけではなかったのに、キリストの復活は「事実」であると証言する。死んでも死なない永遠の生命が、自分の中にあることを、事実としてパウロは握っていたのである。
 (1979.4.15週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
実をむすべ

「ひでりの年にも憂えることなく、
絶えず実を結ぶ」
(エレミヤ書一七・8)
 
 作物(さくもつ)にとって、ひでりは大患難であります。地中にどれ程栄養分があっても水分がなければ少しもそれを吸うことができません。ところで、そばに川がある木は根をいっぱいにのばして水と栄養を吸い上げるのです。実は絶えずみのります。
 この世にはたくさんの「神がよしとされる」栄養分がたくさんあります。物も金も地位も学問もそうです。それらが真に朽ちることなき実をうんで、それを永遠の彼方まで持っていけるかどうか。それは神の生命の水があなたにあるか、無いかにかかっています。
 (1979.4.29週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
キリストの形ができるまで
 
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」
(ガラテヤ四・19)
 
 クリスチャンは、キリストの花嫁であります。しかしあまりに幼い時は、インドの幼い婚約者のように、ままごと遊びに打ち興じるだけで、受胎能力もなく、まして胎児の形もできません。
 クリスチャンが、一人前のキリストの花嫁として、彼の心の内にキリストの似姿をみごもるまで、魂の義父であるパウロは産みの苦しみをすると、ここで訴えているのです。ただ、悲しいことなのは、多くのクリスチャンがキリストの種をすでに受胎しているのに、そのことを自覚しない事であります。
 (1979.5.6週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
神は悪を良きに変えられた
 
「……神はそれを良きに変らせて……」
(創世記五〇・20)
 
 次のようなイメージを、あなたの頭の中に絵をかくように、えがいて下さい。
「地球がある。地球に大きなポンプがすえてある。ポンプの下は、どろどろした真っ黒な汚水。そのポンプを押すと、あにはからんや、きれいな水がジャブジャブ出てくる」
 これは現在やっている聖書研究会での宿題の一例。創世記第五〇章の主要テーマ「神は悪を良きに変えられた」を記憶する為の便利なイメージ法です。
 地球は創世記を示し、ポンプは第五〇章のことなのです。真っ黒のドロドロの汚れが、きれいな水にかわってほとばし出る、神は悪を良きに変えられるのです。
 (1979.5.13週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-09-24 15:32 | 日岡だより

No.765 困難にぶっつかった時 2016.9.11

困難にぶっつかった時

 一、人生は火事にあった家のようなものである、と仏教では教えます。火事の現場に行ってみると、出火して逃げまどう被災の人たち、物見高い愚かなやじ馬の連中、そして消火にあたる勇気ある人々、それらのすべての人の上に火の子は舞うのであります。
「人が生れて悩みを受けるのは、
火の子が上に飛ぶにひとしい」(ヨブ記五・7)
 たしかに、火は家財を焼き、家をもやし、人を無一文にします。しかし又、火は金属などをきたえ、純粋にするのであります。
「彼(神)がわたしを試みられるとき、
わたしは金のように出て来るであろう」(ヨブ記二三・10)
 ロシヤの格言に「ハンマーはガラスをくだくが、鋼鉄を強くする」というのがあるそうです。
 私は中年すぎて、事業をはじめて三年目の頃、最大難関の中で、この格言をカール・ヒルティの「幸福論」の中で学び死にかけた不死鳥が生き返ったかのように元気を取りもどしたことがあります。ですから、おそって来た困難を「何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく」(第一ペテロ四・12)、学校の子供が宿題をもらったかのような態度で受け取るべきなのであります。

 二、徹すれば通じる。(世間では「窮すれば通ず」と言うが、それでは少々捨てばちで消極的です)。信仰をぬきにした処世論としても、これは推賞できる真理です。こういったたぐいの本で抜群なのは、デール・カーネギーの「道は開ける」です。この中に、問題を解決する為の三法則がのっています。すなわち、
1. ぶっつかっている問題を冷静に観察し分析し、その結果を考える。
2. その起こってくるであろう結果の最悪の状況を覚悟する。
3. そこで、考えられる解決策のすべてを列記し、その良策と考えられる点と時間の制限をにらみあわせて順位№をつけ、早速№1より手をつける。
 右の三法則の中の第二を「不可避なことは受容する法則」と言います。交通事故で足を失った人は、もう二度とその事をくやまず、足の無い事実を受け入れて心のエネルギーを他のことにまわせ、と言うのです。
 私は若い時どもりでした。今でもどもると言えばどもるようです。何度か矯正所にいきましたが、矯正用語が上手になるだけで、社会にもどれば元のまま、困りました。今のようにスラスラしゃべり出したのは内在のイエス様が本当に分ってからです。ところで最近、大分県教育センターの言語治療室に佐世先生を訪ねて聞いてみたら、最近の方法はどもりを治すのではなく、どもりを受け入れて、大胆にどもるように指導するのだそうです。これこそ、この第二法則ですね。
 神経質の療法で森田正馬博士の「あるがままに受け入れる」という方法は、今ではもう世界的に有名であります。たとえば、不眠症の人に「無理に眠ろうとせず、不眠症の自分をそのまま受け入れて、眠らずにいなさい」とすすめるのです。
 ヨブは言います、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記二・10)。災がきたら、これから逃げようとしないで、真正面に受取るのです(体ごと真正面に球をとるのが野球の守備の原則であるように)。
 イエス様はゲッセマネの最後の夜で、来たるべき十字架の死を「御心のままになさせ給え」と受けとめました。苦悩を満ち足りるまでに受け、にがい杯をのみほし、おのれを打つものにほおをむけることは、かえって苦難や八方ふさがりの状況より脱出する道の第一歩なのであります(哀歌三・1~33を参照して下さい)。

 三、「十字架のメドを通って」。これはかって聖燈社から出た腎臓結核の女性の信仰闘病記で、よく読まれた本の題です。メドとは針の穴のことです。十字架にも針の穴のようにメドがあるのでしょうか。
 ①針の穴でも、そこからすかして見ると前方の景色が、一風変った感じで見えます。
 さて、十字架のメドを通して世の中を見、艱難や問題を見ると、どのように見えるでしょう。あなたの問題となっている、不眠症や、おしゅうとさんの事や、事業不振や、子供の不従順、それらをキリストの血汐流れる十字架を通して見るのです。
 ②針はあらゆる布地をくぐりぬけて行くように、十字架も又、あらゆる問題をくぐりぬけて行く力があります。あなたの罪も、罪意識も、病気も、家庭も、事業も、あなたの人生のすべてと宇宙のすべてをも。
 ③あなたがもしその十字架のメドにあなたのすべてを委ねるなら、糸が針について行って二枚の布地を一枚に縫いあわせるように、あなたの人生や社会観の矛盾する処をすべて縫合する事ができます。十字架は一切を止揚して一つに帰せしめる神の秘儀です。
 「この十字架によって世は私に対して十字架につけられ、私の世に対するも又しかり」(ガラテヤ六・14)とパウロは言います。あなたは信仰の第一の入り口でキリストの十字架のあがないにより罪を許され神の子とせられました。その原点に帰って、あなたも、あなたの困難・試練・障碍ももろともに血汐にとかされてしまうとよいのです。(四月一八日夜祈祷会の「苦難や障碍に処する道」というメッセージの要約)  
 (1979.4.22週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-09-17 12:26 | 日岡だより

No.764 クリスチャンの成功法則 2016.9.4

クリスチャンの成功法則

 一、成功の法則

 この地上で、人が成功するための心の法則のようなものがあります。それはイエス様の十字架と復活を信じる福音の中心意義とは少々はなれた処にあります。しかし、イエス様の教えにも、またイエス様を信じるすぐれた信徒達の生活にも、この成功法則にぴったりするものがたくさんあります。V・ノーマン・ピールの本や趙ヨンギ先生の説教にも、それがしばしば顔を出すのであります。いわゆる「成功の法則哲学」はキリスト信仰の最重要の面を欠いているが、しかし逆にそのすべては聖書の中に見出されるのであります。
 三浦綾子さんは初め、「あなたはキリスト教信仰を表面に出しては作家として成功しませんよ」との忠告を受けましたが、彼女は作家として成功することよりもキリストを信じる信仰表明することを第一の目的と考えました。―――この目的をはっきり抱くこと、これが世に言う成功の第一法則であります。
 この三浦綾子さんの最近の本に「天の梯子」というのがあります。この本の中に長尾巻さんという賀川豊彦先生の恩人になる方の話がのっています。この長尾巻先生は、賀川先生が青年時代肺病のとき何も言わず家に入れて助けてくれた人であります。この長尾巻先生が金沢で開拓伝道の時、信者が一人も来ず五年間奥さん一人を前にしてうまずたゆまず説教したそうです。この忍耐の力の秘密は多分先生の祈りの生活にあったのであろう、と三浦さんは書いていますが、その祈りを日夜ささえるものこそ、目的意識であります。
 後に長尾巻先生が金沢を出る時、駅には市内の名士より乞食までプラットホームにくりだして見送りしてくれたと言います。さて前述の成功の法則に、第二を書き加えましょう。それは継続であります。

 二、いわゆる成功哲学の挫折

 この前、俳優の田宮二郎が自殺しました。彼は大事業家を夢みて、積極的に目的をかかげ努力を傾注する成功哲学からぬけ出たような男でありました。しかし、最後は悲惨なあの始末です。豊臣秀吉の晩年の孤独、ナポレオンの流刑死、ヒトラーの自殺、これらにはすべて何か別の法則が働いているように思えます。
 旧約聖書に出てくるダビデ王のことを学んでみましょう。ダビデは預言者をとおしてイスラエル二代目の王として任命をうけましたが、それは内密のことで、現実には却って初代の王サウロに追われる身となりました。目の前はまっくらです。時にはサウロ王を殺す事もできる場面がありましたが、反逆罪をおかすことは神にも正義にももとると考えて手を出しませんでした。こうして、ひたすら時をじっと待ったのです。
 この時、ダビデは「目的を忘れず、努力を継続する」のは勿論ですが、それ以上に「①自分の目的が神から出ている事を自覚し、②神と正義を畏れ、③神が事を成し給うと信じてじっと待った」のであります。この①②③を忘れて、むやみやたらと人間欲に目もくらみ、神にさからう成功を望んでも、一時は栄えても所詮最後は滅亡なのであります。
 先日の新聞に、金大中氏の手記が出ていました。精神的に参るのを防ぐには「あわてるな、あせるな」ということだとあります。あせるのは不信仰であります。あせると、―――最後は自殺です。

 三、神による「成功哲学」

 目的をはっきり持つには、その目的を「①文章に書くことが出来る、②具体的に幻を描くことが出来る」ことが必要です。その目的を、キリストの十字架という尊いふるいにかけてカスを取りのぞき、キリストの血汐のフィルターをかけて、無より有を呼び出す神の力を信じて見つめるのです。それをあなたの心にある神の網膜に焼きつけて、万物の原因の源を動かすのですよ。(私の中にあるキリストの霊こそ神の網膜なのです)。
 趙ヨンギ先生の証しに、ある婦人が売春婦である娘の更正を祈ろうとして、どうしてもその汚らわしい娘の更正した清らかな姿を考えることができない。その時、先生は「キリストの血を通して娘さんを見なさい」と忠告しています。しかり、私どもの罪をあがない給うキリストの血をとおして見る時、私等も又、罪人や悪人を神の子として見つめ得るのであります。かって私が救われた時と同じように……。ですから、許しと救いの確信がなければ真の成功哲学は成り立ちません。世間にあるビジネスマンの積極思考的成功哲学はシンキロウのようなものです。時がたつと、あとかたもなく消え果ててしまいます。

 四、クリスチャンよ、元気を出せ

 使徒パウロは難破しかけている船の中で、人々をはげましました。
 「皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている」(使徒行伝二七・25)
 パウロこそ、成功哲学の模範であります。これに比して現代のクリスチャンの多くは、この成功の法則を知りません、無視しています。そして苦難に忍従し、屈辱に甘んじ、貧乏し病気している事を神の御旨と思っています。いわゆる「現代のヨブ」の方々を私は尊敬し決して辱める気はありません。しかし、ほとんどのクリスチャンにはぜひ「回復のヨブ」になってほしいと思うのであります。(一九七八・一二・三一メッセージ)  (1979.4.15週報「キリストの福音」より)









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by hioka-wahaha | 2016-09-10 12:23 | 日岡だより

No.763 聖書のことば4題(「サタンよ、退け」ほか) 2016.8.28

《聖書のことば》
「サタンよ、退け」(マタイ四・10))
   
 イエスが、「サタンよ、退け」と悪魔を叱りつけると、二つのことがおこりました。
 (1)悪魔は離れ去った。
 (2)そして天使たちが来て仕えた。
 悪魔とは人殺しであり、偽(いつわ)り者であります。こいつの声には、かくす事のできない本音のひびきがあるので(ヨハネ八・44)、イエス様にはすぐ分るのです。そして、人の生くるはサタンの言葉ではない、神の言葉の一つ一つに従うことにあるというのであります。
 悪魔の声がきたらどうするか、「御言(みことば)」を用いることと、「サタンよ、退れ」と撃退の意志をはっきり示すこと。そうすると、悪魔は離れ去り、天使たちが来て下さるのです。
 (1979.3.11週報「キリストの福音」より)
 


《聖書のことば》
セルフ・コントロール

「自制心のない人は、城壁がないので破壊しつくされた都市に似ている」(箴言二五・28)
 
 古代の都市は、城壁を失うと敵が侵入してきて、市中はめちゃくちゃに破壊され、機能と秩序を失う。同じように、自ら(セルフ)をコントロールする心を失う時、人間は人間としての能力とバランスを失う。
 さて、自制とは禁欲でもなければ、制限でもない。流れる水をとめてしまうと、水は溢流して大水害をおこす。適宜に流れを誘導して利水をはかれば大変な役に立つ。
 自制は、聖霊のわざである。自動車はたしかに自動するが、運転者がなければ暴走する。人間という車には聖霊という運転者が必要なのである(ガラテヤ五・23)。
 (1979.3.18週報「キリストの福音」より)



《聖書のことば》
しかし、神の賜物は……

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ人への手紙六・23)
 
 レックス・ハンバードのテレビを見ていましたら、「罪の報酬」という説教。「播いたものを刈り取る、これは自然界の法則であり、道徳界の法則である。豆をまけば豆を収穫、罪をまけば死を刈り取る」と言うのです。
 「さて、私は何を刈り取るのであろう」
 私のこれまでの失敗や罪が山のように続々と脳裏に浮かんできました。これらの報酬は正しく「死」なのでしょうか。然り!
 しかし、この法則とは別に、行いによらず道徳によらぬ、神の恵みの賜物がある。キリストにある復活永遠の生命です。然り(アーメン)。
 (1979.3.25週報「キリストの福音」より)



《聖書のことば》
光として来て下さるキリスト

「わたし(キリスト)は光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。」(ヨハネによる福音書一二・46)
 
 長い間、空けていた家をもう一度使おうと思いました。入って、電気をつけてみると暗いのでした。よく見ると、管球にペンキをぬりつけたり、セロハンをはりつけたり、その上ほこりだらけで、光がよく通らないのです。
 そこで、その管球を外して、よく掃除してから、又つけてみると大変明るくなりました。
 しかし、電気が来なければ、どれほど掃除しても、管球は明るく輝きません。
 主よ、管球に電気が来て明るく光をともすように、私の内に来て下さい。
 (1979.4.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-31 23:00 | 日岡だより

No.762 天国はあなたの中にある 2016.8.21

天国はあなたの中にある

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」(第一テサロニケ四・13)と聖書にありますが、今晩は故中野ヨシ老姉(中野無限兄母堂)の昇天五周年記念集会でありますから、まず第一に、このように主にあって召された人々のことについて考えてみたいのであります。
 この中野の叔母(私の妻の叔母にあたる)とか、私の母などは、実にぐちの多い、愚かなところのある、これでもクリスチャンですかい、というような人達でありました。こういう人達でも、今、確実に神様のみもとに行っているのだと断言できますか?みなさん!(アーメンという声がいっせいに返ってくる)。
 日本では、悪人でも罪人でも死んでしまったら、仏さまであるからして、手をあわせて拝んで、もう悪口は言わない。そこで葬式等の仏事の時には、「ここのおばあちゃんは良い人やった」などと心にもないキレイごとを言って場を飾る――、そういう方式で、今日の場合、あの中野のおばあちゃんや私の母などが、今必ず天国におられるのだと、おついしょうを言っているのではダメなのです。
 信仰に関して次のような二大原則があります。
一、イエス・キリストによる許しと救のわざは百%完全である。
二、新生せる神の子に対する神の期待は百%の完全性、ゆえにクリスチャンに対する訓練の目標は百%の完成にある。
 この第一原則の故に、いかなる弱い不完全なクリスチャンも、完全に救われます。弱さや愚かさも許されます。ですから、どのようなヘナヘナしていたクリスチャンのおばあちゃん方も、イエス様の十字架のあがないを信じている以上、その許しと救いと天国への到達は確実です。
 人間は、霊と心と体によって構成されています。イエス様を信じる時、霊は救われます。心で信じ体(口)で言い表わす時(心と体の割礼が行われて聖霊は霊に侵入し)霊は活きます、これが新生です。この時、右の第一原則が果たされるのです。
 そこで、次に必要なことは霊によって新生せるものにふさわしく、心が成長することです。心に必要なことは訓練です。これが第二の原則です。
 
 プロテスタント(新教)のキリスト教会の陥りやすい失敗は、信仰のみによって救われると言って、訓練を忘れる事です。信仰のみによって救われるというのは霊の救のことであって、これは先に挙げた第一原則のことです。ところで、霊を包みこんでいる肉と心は、現象的世界に生きています。この世の法則の中に生きていますので、それと戦いつつ生きていく肉や心には「信仰のみ」では解決できない処があります。
 第一テモテ四・7、8に出てくる「信心のための訓練」とは、心の訓練であります。心の訓練の為には、肉体の訓練も多少必要でして、それも又有益です。例えば、祈祷の為には祈る精神的決心が必要です。そして、その結果として、肉体の姿勢や場所や時間設定が必要ですね。
 パウロは信仰生活を、兵卒の従軍生活や、運動選手の節制や、肉体の鍛錬に比して語っているのはその為です。そのようにして、肉体を打ちたたいて服従せしめ(第一コリント九・27)、肉体の働きを殺す(ローマ八・13)時、霊において獲得された生命の法則(ローマ八・2)は、心をも肉体をも支配するようになるのです。
 そんな事は、人間に可能でしょうか。「勿論、聖人級の人には出来ることかもしれないけど、この私にはだめです」などと謙遜ぶることはないのです。第二原則の項目をどうぞ思い出して下さい。「父の完全であるごとく完全であれ」とか「あなたは私の前に歩みて完全であれ」とか言い給う神様の言葉は、クリスチャンにとり、百%可能つまり祝福の言葉として聞かなくてはなりません。この事を、それこそ、「信仰のみ」によって信じるのですよ。
 
 天国は、私たちの只中にあります。今、中野の叔母や私の母が行っている神の御側にある天界の様相を、早々と私共の只中に獲得しなくてはなりません。人間は死ぬと、肉はこの地上にのこり霊は神の国に帰ります(伝道の書一二・7)。心は肉に従わず霊にくっついて天に昇るものなのです。故に地上において実現する天国は、その霊と心の只中にあるべきなのです。
 さて、先に「心に信じて義とせられ……」といってローマ一〇・10を引照しましたが、信仰は心の精神力にて理解され意志力によって始まるのでした。天国も、心の理解・意志・情念の中で具体化され、獲得されていくのです。(霊を土壌として例えれば、心はその表土であります。信仰はその根を霊におろしますが、具体的に花を咲かせ、実をみのらせるのは心においてです。つまり具体的天国的建築は心においてなされます)。
 心を支配するものは言葉、全身をひきまわすものは舌(ヤコブ三・3)であります。舌で神の言葉を告白し心に御言葉をみたす時、神の思想はあなたの体と心をたがやし、神の領土にふさわしい品性をつくっていきます。確信して頂けますか。あなたは御国の保持者なのです。(一九七九・一・二六 中野家家庭集会にて)
 (1979.2.11週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-27 12:57 | 日岡だより

No.761 聖書のことば3題(「神第一」ほか)/たいせつな生命

《聖書のことば》
神第一

「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(ルカ一〇・27)
 
 あなたがクリスチャンであるなら、この事をおすすめする。朝目がさめて顔を洗う時、鏡に向って次のように言え。
「○○○○(あなたの名前)よ! あなたは神のしもべである。なんじの心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるなんじの神を愛せよ」と。
 新年にあたって、我らの心すべきことは、第一のことを第一にせよ、ということである。神を愛して、神第一の生活を心がけよ。そのために、この正月より、このように朝毎におのが心に言いきかせようではないか。ハレルヤ!
 (1979.1.7週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
いついかなる場合にも、平和

「どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。」(第二テサロニケ三・16)
 
 右の聖句と同じ章の前の方では、パウロというこの手紙を書いた使徒が、こうも言っています――「(私たちは)昼も夜も労苦しながら働き続けました」
 宗教家と言えば、多忙なこの世間をはなれて、静かな僧院で祈祷三昧の日を送り、そこで宗教的平和を得るのであろうと、思われがちです。しかし少なくとも、このパウロという人は違っていました。この世の泥と汗にまみれて働いた人でした。そして昼夜分かたぬきびしい労働の中でも、神より来る平和を失わなかったのであります。
 (1979.1.14週報「キリストの福音」より)

   
たいせつな生命(いのち) 

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ一六・26)
 いのちは神さまからお預かりしたものです。
 お母さんが、おせんたくするので、大切にしている指輪をあなたにあずけました。ところが、あなたが面白はんぶんにその指輪をマンホールにすててしまいました。お母さんは指輪がなくなったことと、あなたの不従順を悲しむことでしょう。
 この頃、小学生や中学生でも自殺する人があって新聞に出ています。子供でも大人でも、自殺することは神さまからあずかった大切な命をそまつにする不従順の罪です。
 お父さんやお母さんが悲しむのはもちろん、神さまもイエスさまもたいへん悲しみます。また「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル九・27)のですから、死んだあとは何も無いなどという言葉にだまされないで、命を大切にして正しい愛を行う生活を守りましょう。(一九七九・一・二一教会学校児童説教要約)
(1979.1.28週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
信仰の第一義

「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」(ガラテヤ三・2)
 
 ガラテヤ地方の(今のトルコの一部)の教会の人々の信仰が、本筋からはずれたナ、だいぶおかしいぞと気付いたとき、パウロの聞きたいことは、ただこの一事でした。他の何事も聞きませんでした。
 「信仰を行いで見せてほしい」(ヤコブ二・14~26)という問いただしは、この際には引っ込めておくべきで、「行いなど何一ついらぬ」という信仰の土性骨が必要です。この際、「行いなくして義とせられる」という大宣言をあなたは大胆に出来ますか。
 (1979.3.4週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-08-19 15:29 | 日岡だより