カテゴリ:日岡だより( 618 )

No.775 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな 2016.11.20

悪をなす者のゆえに、心を悩ますな

 ユダヤ人の祖先の一人に、ヨセフという人がいます。ヨセフは少年の時、あまりに父に愛されて他の年長の兄弟十人ににくまれます。そしてとうとうエジプトに奴隷として売りとばされ、その上売られたさきで又も無実の罪を負わされて牢屋に入れられてしまいます。しかしヨセフは兄弟をうらまず神様につぶやかず、行く先々で人に愛され、神の栄光をあらわし、遂にエジプトの宰相となるのであります。
 時に、ユダヤの地ではききんとなり、あの十人の兄弟たちはエジプトに穀物を買いに来て、ヨセフに対面しますが、あまりに出世したヨセフの姿を見て、だれ一人それと気づきません。ヨセフは彼らの良心を呼びさますべく一計を案じます。彼らはその計略にはまってヨセフの前にひれ伏し、「青草のようにしおれ」(詩篇三七・2)ました。この物語は教会学校の生徒に大変喜ばれるお話しであります。
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。……彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」(詩篇三七・1?2)
 
 昭和二十年代だったと思います。大分市竹町の商店街で、売り出しの抽選券を持って景品場に行きました。私の四、五人前の人が特等を当てて大さわぎになりました。その時、すぐ次の人がわめき始めました。
「ああ、イヤだ、イヤだ。こんな気持のわるい日はない。なんとイヤな日だ。こんちくしょう。」
 とぷりぷりおこっているのです。なる程、前の人が特等を当てれば、もう今日のくじ箱にいいくじが残っている筈もなく、よく考えれば夢も望みも前の人に先取りされたことになりますから、その気持は分からぬではないが、余りに子供じみた直情さに呆れたことがあります。
 ねたむ心は、同じものを欲しがる心から生じます。その欲望がおさえつけられると、怒りにまで発展するのです。政治家や財界人の不義をいかって共産主義運動の先頭に走っていた男が、一転して大分に来て文芸活動の旗をふって同好者の資金をごっそり持ち逃げした事件がこの前おこりました。
「不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。……怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ」(詩篇三七・1、8)。
 
 人が悪をなし、不義を行うて成功しているように見えても、それは一時的の事です。
 「主に信頼して善を行え」(詩篇三七・3)、迷わず疑わず、あなたの善き道を歩み続けなさい。
 人に打たれ、迫害される時も、
 「主によって喜びをなせ」(詩篇三七・4)、万事を見通し給う神様を信じる時、喜ぶ事も出来ます。
 いかに困難を感じても、マラソンの選手が一着を求めて苦しいコースを走るように忍耐して走るのです。
「あなたの道を主にゆだねよ。……耐え忍びて主を待ち望め」(詩篇三七・5、7)。
 これは、聖書では預言者的忍耐といって、積極的忍耐心をさします。ウジウジした消極的忍耐とは違います。
 
 冒頭に紹介したヨセフという人は、最後に十人の兄弟を前にしてこう言いました。
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」(創世記五〇・20)
 悪を良きに変らせる、宇宙の主宰者、ただ一人の神様を信じましょう。
 (一九七九・九・一三、中野家家庭集会にて語る)
 (1979.9.23週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-29 14:31 | 日岡だより

No.774 《聖書のことば》4題(「小事に忠実なれ」ほか) 2016.11.13

《聖書のことば》 
小事に忠実なれ

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」
(ルカによる福音書一六・10)
「わずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」
(マタイによる福音書二五・21)
 
 人びとはよく大きな金塊をさがします。しかし、めったにそんなに大きな金塊は見つからぬものです。慣れた人は砂の中から、小さな小粒の金を砂といっしょにすくって、鍋でより分けます。そしてそれらの小粒の金をとかして大きな金塊にするのです。
 突然、映画会社にスカウトされて一躍スターになったり、遠戚のおばあさんの莫大な遺産がころがりこんだり、一夜にして聖者に生れかわったり、そういう大金塊の夢はすてて目前の小さな仕事をやりとげなさい。
 (1979.8.19週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
いっしょに喜びたい

「女の人が銀貨を十枚持っていました。ところが、どうしたことか一枚なくなってしまったのです。この女はランプをつけ、家の中をすみからすみまで掃除して、その一枚を見つけるまで、必死で捜し回るでしょう。そして見つけ出したら、一人ではもの足りず、友達や近所の人を呼び、いっしょに喜んでもらうでしょう。」
(リビング聖書より、医者ルカの記録
一五・8~9)
 
 こういう女の人は、甚だひとりよがりで、はた迷惑な感じもします。
 しかしもし、その銀貨一枚を捜した熱心さで、私の失せものをも一緒に捜してくれたらどうでしょう。彼女は多分、喜びのあまり、又捜しものの自信も手伝って、それをやってくれるでしょう。
 伝道とはあたかもそういうことではないでしょうか。
 (1979.8.26週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
イエスの賞賛

「この女はできる限りの事をしたのだ」
(マルコによる福音書一四・8)
 
 ベタニヤ村のマリヤという女性が、イエス様に高価な香油をそそいだのです。
 そばで見ていた弟子がおこりました。「何という浪費だ。これを貧乏な人達にほどこせばよいのに。」こういった弟子達の非難を制して、イエス様はこのマリヤの行為を喜んで受けられました。
 「これは私の十字架の死のよき準備(象徴的予表)である」と受けとめて、「あなたは、できる限りの事をしてくれたのだ」とマリヤをほめなさったのです。
 人のした事に難クセをつけるのは悪魔ですね。イエス様は逆に、本人も気づかぬ意味をその行為に汲み取ってほめて下さるのです。
 (1979.9.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の前に正しいかどうか

「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか……」
(使徒行伝四・19)
 
 元中核派闘士Kという男、横領罪で大分に逃げてきて、同人誌「文芸大分」なるものの中核にすわり、又も金と人妻を持ち逃げ(?)して行方不明との事。大した共産くずれ。
 共産主義というもの、最大の人間信頼派であるのだが、事実は最も人間不信の人間をつくりあげている。
 ヒューマニズム、ヒューマニズムというが、神なきヒューマニズムほどこわいものはない。神なき文化、神なき科学、神なき芸術、神なき哲学、神なき人間尊重、すべては、その主張する処に反して人間に逆き、人間を破壊する結果を招くのです。
 (1979.9.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-19 10:57 | 日岡だより

No.773 今、立ち上れ 2016.11.6

今、立ち上れ

一、自己憐憫(自己をあわれむ)は自殺行為の一つである。
 「兄弟にむかって愚か者と言う者は裁判にわたされ馬鹿ものと言う者は地獄に投げこまれるであろう」とイエス様は言われました。それなら、自分に対して、「おれは馬鹿だ、、私はダメだ」と言う人は、自分に対して殺人罪(つまり自殺)を犯しているのに等しいのではないでしょうか。
 聖書は「友のために生命をもすてる」大いなる愛を説いてはいますが、これは肉体的生命のことであって、決して自身の霊性を滅し、又損傷することをすすめているのではありません。かえって「自分自身を憎んだものは一人もいない」(エペソ五・29)と言い、「自分を愛するように人を愛しなさい」と言って、自分以上に人を愛せよとは言っていないのです。人はまず神を愛した次には自分自身の霊性を尊重し愛さねばなりません。
 自分を憐れみ、時には自分をのろいさえする人もありますが、これは自己自身に対する反逆であり、ひいては人間を造り、これに霊の息を吹き込みたもうた神様への反逆であります。
 
二、自己憐憫の人は他人に迷惑である。
 新約聖書のヨハネ五・1~9を読みましょう。ここに出てくる人物は自己憐憫の標本のような男であります。彼は三十八年間病気をわずらい、遂にこのベテスダの池に来ました。この池に天使が来て水をかきまぜる時、一番早く水に入るものは病気がなおると言うのです(今で言うなら間歇泉で新しく湧き出る水にはラジウム線が強いので病気によく効くとでも言うことでしょうか。ともあれ、聖書を学ぶ時、こういう合理的解釈にあまり時間をかけないほうが良いのです)。
 しかし、この池に来たものの誰も彼をかかえて水に入れてくれる者がいない。そこで彼の心には三十八年来のにがにがしい気持、不平、不満が一杯になって言うこと為すこと一切が周囲をいらいらさせ、人を遠ざけてしまう。自己憐憫の人は、人を傷つけようとする悪意は一つもないのだけれども、事実は周りの人に迷惑な存在になってしまうものなのです。
 
三、自己憐憫の人は行き止まりの人である。
 この三十八年病気の人に、イエス様は「なおりたいか」とお聞きになる。これはエリコのバルテマイに、「どうしてほしいのか」と聞いたお言葉にくらべるとずいぶん水準を下げた問いかけです。この問には、答えは「はい、なおりたいです」と答えるだけでよいと思うのに、この男は
 「誰も私を水に入れてくれません」
 と問われもせぬ事を言い、責任を他に負わせ、不平不満たらたらです。
 こうして、自己憐憫の人は一歩も動こうとせず、不平不満の中にすわりこむ悪いくせがあるのです。
 
四、イエスのあわれみ
 聖書の他の場所をさがすと、イエス様はたいてい、いやしの前に信仰を求めています。特にこの男は過去に犯した罪の故に病気になっていたらしいのですが、イエス様はこの男に悔い改めも信仰も求めず、ただ彼の長い病気の悩みに目をとめられました。これは実に特別な恩寵であります。悔い改めて信じて救われるのが正常な入信の道でしょうが、イエス様の直接の救の道は時折ケタはずれでありまして、常道をとびこえて救われるのであります。
 
五、起き上れ
 イエス様は、その男に悔い改めも信仰も要求しなかったかわり、三つのことを命じました。第一に起き上ること、第二に床のマットを取り上げてかつぐこと、第三に歩くこと。
 こういう時、イエス様は手を取ってやることがよくありますが、この時はなさいません。この男がまず自力で起き上るのを待っています。じっと見つめています。男は御言によって一人で起きました。起きればマットを持つことも割合かんたんです。そしてドンドン歩いて行ってしまいました。イエス様のお名前さえ聞かずに。
 自己憐憫の人に最も必要なことは、この起き上ることです。坐りこまないで、動きはじめることです。為すべき小さなことにでも、早速手をつけることです。心の耳をすましてごらんなさい。ほら!「今、たち上りなさい」と主があなたにも言われているでしょう。(一九七九・七・一二 中野家集会にて)
 (1979.7.15週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-17 09:19 | 日岡だより

No.772 《聖書のことば》4題(「人の罪過を見出したとき」ほか) 2016.10.30

《聖書のことば》
人の罪過を見出したとき

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」
(ガラテヤ六・1)
 
 姦淫の女を責めたてているユダヤ人らに、イエス様のなさった態度もこれでした。
「あなたがたの中の罪のない人がこれを打て」
 本気で自分を反省すれば、相手を責める気はなくなります。かえって「何か改善の方法はないか」と、相手を正しくしようとする優しい配慮すらわくでしょう。こういう態度なくては、人は変りません。
 (1979.7.8週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
聞こう

「耳のある者は聞くがよい」
(マタイによる福音書一三・9)
 
 だれも耳は持っている、その故に世の声を聞くことはやさしい。しかし、神の声をきくことはむつかしいのです。
 今、私の住んでいる処は低い土地で、二、三メートルも地面を掘ると水が出ます。しかし良い水ではありません。ところが三十数メートル掘ると醸造用にも使える良い水が出ると故老は言います。
 イサク(族長、アブラハムの子)はすべてのいさかいが終り平和に仇が去った日、新しい井戸をみつけました(創世記二六・32)。
 あなたの心の耳からも、すべての喧騒と紛争を去らせ、深い神の声を汲み上げましょう。
 (1979.7.15週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
縁(えん)

「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」
(ヨハネによる福音書一五・3)
 
 キリストの言葉(あるいは聖書のことばと言ってよい)にふれるということは、人生にとって最大の機会です。これは神にむすびあわされる、神よりの撰別の時と言ってよいからです。
 日本人には、こういう時、「縁」という言葉が分りやすいかもしれません。ただし、無媒介的な偶然の縁ではなくて、神よりの御意志として撰別された縁なのです。
 この縁を「ありがたい」(有ることむつかしい)機会として、初めて聖書にふれた方も是非大事にしてほしいものです。
 (1979.7.29週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
言葉は生命である

「きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ……」
(申命記三二・46)
 
 人間の脳の中でも言語野は他の動物と全く異る。これが人間を人間たらしめる。
 言語こそ、ものごとを抽象化し、それを論理的に収納し展開する思想の道具である。
 人間の生命が、動物的生命をぬきんでるのは、この言語的生命をもつからです。
 そして、聖書は、まことの言葉が神から出て、これが肉体化して人間の中に宿ると言っています。
 キリストの言葉が、私の中に宿る時、私の生命はキリスト化し、私の肉体はキリストの枝となるのです。
 (1979.8.5週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-10-31 23:00 | 日岡だより

No.771 意志を強くする秘訣 2016.10.23

意志を強くする秘訣

 たいていの人は、「自分は意志が弱い」と思っています。しかし、それは誤解です。人間は、意志が強固な存在です。ただ残念なことに、多くの場合、人々の意志はマイナスの方向に強烈に働くのです。
 最も強いのは「生への意志」です。次に「快楽への意志」です。ただしこれが、食うこと、飲むこと、バクチや身を飾ることなどにのみかたむく。そしてだれがとめても、止まらない、ということが多いのです。マイナス的方向に意志が強固なのですね。
 
 かって、私(釘宮)の家であったこと。ふと気がつくと子供たちはみんな、夜寝る前に歯をみがくという良い習慣がついていました。私は決して夜歯をみがいたことなどありませんのに。夜おそく、私が甘いものをほおばりながら、子供たちにすすめると
「歯をみがいたあとだから、もういらないよ」
 と言います。私ひとり、カッコわるくお菓子をたべているという、家庭の風景が一時ありました。
 これは大変有益な教訓でした。甘い食べものは、生の欲望と快楽の欲望のむすびついた大変強固な欲望のはずです。しかし一度歯みがきしてすがすがしくなった口からは、「見るにうるわしく食べるにおいしそうな」お菓子の誘惑にも乗ぜられない更に強い意志が働くようでした。(聖化論のよい材料ですよ)
 
 私はこの時、この良い習慣が気に入ったものですから、早速子供たちの真似をして歯みがきを始めました。時々、忘れる夜もありましたが、ともかく続けました。そして今ではすっかり私の習慣になっています。さて、この時大切なことは、一回でも歯みがきを忘れた時です。この時、
 「ああ、おれは意志の弱い男だ。とうとう歯みがきを忘れてしまった。恐れていたんだ、こうなるのを。いつも俺はこうなんだ。決心して、やり始めるが、失敗する。ああ、もうだめだ。やめた、やめた」
 と言う人はいないでしょうか。歯みがきくらいのことならそんな人はまさかいないでしょう。しかし、タバコをやめる、というような事になると、もうぼつぼつ頭をかく人がいはしませんか。まして、セールスに行って玄関で断られた。見合して破談になった。また職をしくじった。こうなるともう完全にさき程のせりふを心の中でつぶやいているような人が多いのではないでしょうか。
 ここで問題を要約します。
 第一、意志を転換(もしくは選択)すること。
 第二、その意志を持続しつづけること。たとい途中失敗があっても気落ちせずに維持することです。
 これが、意志を強くする秘訣です。
 
 〔附言〕
 人間の魂の根底にある罪の意志に気づき、これを転換させて神に対して従順な道を選択するとき、それを回心と言います。
 (神様の側から言えば、いろいろ手だてを講じ、衝撃的な神秘体験を与えて回心を迫ることもありますが、要するに必要な事は本人の意志の転換です)。
 この根底的な意志転換がないと、人間の罪に深く根ざした悪習や罪の生活からの脱却は不可能です。まして神に対する罪は許されません。
 この回心をもたらすもの、また極度に困難な意志の転換を要する時、私たちを助けてくれるもの、それはキリストです。
 キリスト自身、御自分の意志を父なる神の意志に従わせようとして、血の汗を流して祈ったことがあります。その祈りの最後は、「私の意志ではなく、あなたの御意志をなさってください」と言うのでした。死と恥辱と身代りの罰を受けなさることは、キリスト自身、血を流して祈るほどつらいことでした。
 このキリストの血を今、私たちの心にいただき、このキリストに頼るならば、どのような意志転換も可能です。(一九七八・一二・一〇礼拝メッセージより)
 (1979.7.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-10-29 14:43 | 日岡だより

No.770 《聖書のことば》2題/あなたも燃えて生きないか 2016.10.16

《聖書のことば》
御言(みことば)の力

「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブの手紙一・21)
 
 人生の夕ぐれ、年老いて病み、痴呆症状態となってやってくる人々を迎える、ある老人医療施設で。言葉のかなわぬ人や、失語症の人に言語治療士が指導にあたる。
 その言語治療士がクリスチャンだった。時を見計らって聖書の言葉を読んで聞かせる。その時、老人達の心に大変化がおこった。
 何でも忘れてしまう彼らだのに、聖書だけは忘れない。集会の時間を今やおそし、と待ちかまえている。素朴な愛の行為をつくして、しかし、それはやはり、けろりと忘れ果ててしまう。
 今年の「あかし文学」入選作の一つにある実話――、おどろくべき御言の力!
 (1979.6.24週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
家族のための箱船

「信仰によって、ノアは……家族を救うために箱船を造り、……」(ヘブル一一・7)
 
 ノアは家をよく治め、家族を愛していましたから、神様もノアとその家族を愛して下さいました。ノアは神の言葉を信じ、山の上に巨大な帆もなくかじもない舟を造りました。
 なぜなら、それは航行する為のものではなく、山をもおおいつくす大洪水の上に浮ぶためのものだったからです。このばかげた大工事に家族もノアを信じてよく従いました。この大浪費に妻も一言の文句もありませんでした。
 「あなたもあなたの家族も救われる」ためには(使徒行伝一六・31参照)、単にセンチメンタルな信仰ではなく、箱船を造るほどの信仰と、家族の信頼が必要なのであります。
 (1979.7.1週報「キリストの福音」より)


あなたも燃えて生きないか

 最近、出版された本に、「なぜ燃えて生きないのか」というのがありました。まさに、最近は、燃えない、シラケた、冷えた人々の時代なのですね。
 さて、聖書の神は、燃える火のような神です。アブラハムとの契約に火、モーセを導くのも火、預言者エリヤを天に迎えるのも火。
 キリストは言われました。「わたしは地上に火を投じるために来たのだ」(ルカ一二・49、50)と。キリストご自身、火のような方です。
 そして遂に、キリストの十字架と復活ののち、五十日程たって、彼の霊(聖霊)は百二十人の弟子達に一人一人に分れて下りました。あたかも火の舌のように。これが、教会のはじまりです。
 以後、各時代の聖者や、偉大な宣教者たち、すべてはキリストの火に燃える人々でした。火は燃え移ります。元火はたとえ小さくても、燃える材料があれば、いくらでも燃えひろがっていきます。
 火はすべてを焼いて、過去を消し去ります。火はあたたまりをもって人を集めます。火はあかりとなって周りを照らします。火は金属をとかしてこれを精錬します。火は燃えて野獣を恐れさせます。
 さて、この時代は燃える人を期待しています。利得や肉欲のためではなく、神と人のために燃える人です。今は火のない、暗黒と乾燥の時代です。だからこそ、自ら燃えて、人を燃やす人が必要なのです。
 あなたが、キリストの霊にふれるなら、あなたは本当に燃える人になるのです。(一九七九・六・三主日説教「聖霊があなたに下る時」の要約)
 (1979.6.17週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-10-22 12:51 | 日岡だより

No.769 私はすでに死んでいるのです 2016.10.9

私はすでに死んでいるのです

 本間俊平、彼は明治、大正、昭和にかけて非行少年の父、秋吉台の聖者とうたわれ、その元気のよい著書は当時のベストセラーとなりました。
 ナマの日本人が熱血をむき出しにして、学歴なき労働者のあらくれ魂でキリストを信じたらどんな人間になるか、そのよい見本が彼でありました。
 本間俊平が、そういうすぐれた人物に成長した原因の一つは、彼の両親の死にあるようです。
 青年俊平は誤解をうけて失職し北海道小樽で両親と別れ東京に出ます。当時明治二十七年日清戦争のさなか、大倉組に拾われて軍需労務にたずさわり朝鮮にわたります。それは軍事行動の一環ですから当然極秘とされ、両親には音信不通。その間老いた両親は小樽より函館までトボトボと無銭旅行の末、十一月十二日寒風吹きすさぶアイヌ漁村の小屋の軒下で手を取り合って凍死するのです。
 戦争が終って日本に帰った俊平はこれを聞いて号泣しました。この悲惨な両親の死をその後夢の間も忘れることができなかったでしょう。この事が本間俊平の人生に発奮をうながした事は疑いもありません。
 
 太平洋戦争直後、フィリピンで戦犯となって逃げていた男、ある処で親友と二人でかくれていました。そこへMPと現地民にふみこまれ、思わず彼Aは親友Bをすてて逃げ去りました。
 その後Aはどさくさにまぎれて日本に帰りましたが、占領下の日本では戦犯として安じて眠る処もなく、故郷にも帰れず、Bのことで良心もとがめて気分も重い、ついに放浪と淪落の人生。山谷のドヤ街でアル中で倒れている時、浮浪者伝道のK牧師に会いました。
 K牧師はAの口から彼の名を聞いておどろいて言いました。
「Aさん。私はあなたをずっと探していましたよ。もうあきらめていましたがね。あなたはB君を知っているでしょう。」
「B君! どうして彼の事をあなたは?」
「彼はフィリピンの刑務所で死にました。私はその時、死刑執行の立会人だったのです。死刑の寸前、彼は言いました。私の本名はBです。私の事を日本に帰ったら、私の親と、そしてAに知らせて下さい。私はAの名で捕えられ、Aの名で死んでいきます。これは自分で承知でした事です。彼は親友でしたからね。彼に安心するように伝えて下さい、と。」
 Aは茫然として声も出ません。牧師は言う、
「だからAさん、あなたはもうBさんの死刑と同時に死んでいるのですよ」
「ホントです。―――すると、今ここに生きているのは?」
「あなたではなく、Bなのですよ」
 実は、このフィリピンの身代り戦犯の話は架空の物語です。しかし、終戦当時としては、よくありがちな事でした。
 
 さて、キリストの死はこのB以上の事です。彼は親友のために死にましたが、キリストは不信不義のもののために死んでくれました。
 キリストの十字架において、私も同時に死んでいます。これは「死んでいる」という実感以上に、一種の「法的事実」なのです。
 「現に私は生きているけれど、生きているのは私ではなくて、私の中にキリストが生きているのだ」
 これを肉体的生命感覚として捉えようとすると分らなくなります。しかし、私のために死んで下さったキリストを慕い、痛悔し、感動し、感謝し、従い、仕える熱情のおこる時、私の中に新しい人格が形成されます。それが内なるキリストです。あたかも、本間俊平が両親の死を生涯胸に抱いて生きたであろうように。
 テレビの機械に電気がいり、その回路がウォーミングアップされる時、遠くのTV局の映像がブラウン管に写ります。私どもの胸にキリストを思う心の熱くなる時、キリストの生命は私どもの心にはっきり写ります。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙二・19下~20中)
 (一九七九・六・七夜 中野家家庭集会にて)
 (1979.6.10週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-10-15 14:56 | 日岡だより

No.768 《聖書のことば》4題(「きかない薬」ほか) 2016.10.2

《聖書のことば》
きかない薬

「彼ら(記者註・偽預言者、偽宗教家どものこと)は、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ書六・14)
 
 戦後すぐ、私の母が突然高熱を出し、頭が痛いといって床につきました。医者につれていくと、「これは丹毒だ」と言って、黒い液体のイヒチョールという薬をぬってくれました。
 「間もなくなおる、そのうちよくなる」と医者が言うので安心していました。ところが、それでは駄目でした。その後よい薬が手に入りまして、すぐ快復しましたが、あのままでしたら、母は死んでいたかもしれません。
 この世の宗教家や道徳家は処世のための心がまえ身がまえを教えてくれます。良い事ではありますが、重病にはきかないのです。
 (1979.5.27週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
聖霊の力

「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」
(ゼカリヤ書四・6)
 
 キリスト教の全体を像を一言で言えば「神の栄光」です。しかし、私どもに最も身近く接する教理として言えば「十字架によるあがない」です。
 ところが、私たちの中に信仰を実現させる力としてのキリスト教の重要な武器は「聖霊」です。キリスト教は聖霊の宗教だと言っても、あながち過言ではないでしょう。
 聖書を読むとき、聖書の教えを聞く時、祈るとき、賛美を歌うとき、瞑想する時、そして日常生活のすべての時に、神は聖霊をもってあなたの心と霊に働きかけるのです。
 (1979.6.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
燃える人生

「お互の心が内に燃えたではないか」
(ルカによる福音書二四・32)
 
 最近ある仏教の人が「なぜ燃えて生きないのか」という本を出しました。現代は燃えない時代なのでしょうか。
 百年ほど前、電気の法則で有名なファラデーが(その時すでに七十才の老人でした)、少年少女を相手に「ローソクの科学」というお話をしました。
 日本のローソクはシンに穴があって燃えやすいのだというようなお話から始まって、人間の生命の燃焼にまで及ぶわけです。
 少年少女の未来よ、炎のように燃えて輝けと、この老人は熱望したのでした。
 人間を本当に燃やすものは、聖書です。
 (一九七九・六・二毎日新聞「変化球」を参考に)
 (1979.6.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
めざとく ほめる

「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」
(ルカによる福音書二一・3)
 
 イエス様は宮のさいせん箱のそばで、金持たちがたくさん投げ入れるのを見、また貧しいやもめが銅貨を二枚入れるのを見て、右のように言ったのです。
 心からする謙遜な献金は少額でも、高慢な心で見せびらかしてする多額な献金にまさります(日本の教会は、むかしから献金の個人額を公示しませんが、これはよい習慣だと思います)。
 この時、イエス様は、小さいことに目をとめて、これをほめて下さいました。かくれた良いことを目ざとく見つけて、それを賞賛しましょう。人を育てる秘訣です。
 (1979.6.17週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-10-08 14:17 | 日岡だより

No.767 《聖書のことば》ほほえむ/イエスは神である 2016.9.25

《聖書のことば》
ほほえむ
 
「あふれるばかり感謝しなさい」
(コロサイ人への手紙二・7)
「いつも感謝していなさい」
(コロサイ人への手紙三・15)
「すべての事について、感謝しなさい」
(テサロニケ人への第一の手紙五・18)
 
「ものが言えない私は
ありがとうのかわりに ほほえむ
朝から何回も ほほえむ
苦しい時も 悲しい時も
心から ほほえむ」(水野源三)
 強度の脳性麻痺で身動きできず手足も動かぬ水野源三さん。この三十年間まばたきすることと、ほほえむことだけの生活。信仰が輝いて溢れている。その彼の詩です。
 (1979.5.20週報「キリストの福音」より)



イエスは神である 

 新約聖書のマルコ一〇・17~31を見ると、そこにある青年がイエス様にたずねているところがあります。
「よき師よ、永遠の生命を受けるためには何をしたらよいですか」
 イエス様がユダヤ古来の十戒を教えますと、「イエス様、私はその殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ……、そのようなことはみんな守っております」
 日本人で言うなら、「わしは教育勅語のとおりにまっすぐに生きとる。信仰なんか不要だ。信仰などは、意志の弱い人間のすることだ」という具合です。
 そこでイエス様は一喝される。
「お前には、もう一つすることが残っている。お前の全財産を売って貧しい人々にほどこせ。そして私について来い」
 これで青年はおったまげて帰っていくのです。ここが、この青年の足らない処で、せっかく人生の良師に会いながら、自分の至らなさを見せつけられると、ざんげして更に随身の道を問うべきなのに、一目散に逃げていくのです。
 
 ところで、この時このありさまを見ていた弟子たちの反応が面白いのです。口々に言う、
「それなら、だれが救われる事ができるでしょう。大変なこった」
 
 イエス様は彼らをじっと見て
「人には出来ないことも、神には出来る――」
 第一の弟子ペテロは、はっとして叫びました。
「そうだ。現にぼくらはこうしてイエス様についてきているではないか。親父も商売も捨ててついてきているではないか」
 みんなも、目がさめたように一切をすててイエス様に従ってきている自分達に気づきました。
 それなら、なぜあの青年はイエス様から逃げていったのでしょう。
 
 あの青年がはじめイエス様に「よき師よ」と問いかけた時、イエス様の返事は実にそっけないのです。
「なぜ私を、よき師よと呼ぶのか。神ひとりのほか善きものはないのだ」
 この返事は実に逆説的です。クリスチャンとはイエスを神と信じる者。そうすると、このイエスのお言葉は実に不思議で、禅僧が好んで使う謎のような「反対ことば」だと思っています。
 ペテロが最初の出会いでイエス様にふれた時、その神性にびっくりして
「主よ、私を離れ去ってください。私は罪ふかいものです」
 とひれ伏したものです。ペテロはイエスの神性にふれて一言のつべこべも言わずに従って行きました。「よき師よ」などと言っている、あの青年はイエスを当り前の人間、ただし一級の教師ぐらいに思っていましたから、けっして従って行き得ませんでした。
 イエスは神であります。その彼の神的わざが働かなければ、だれもすべてを捨てて彼に従うなど出来るわけがないのです。
 (一九七八・一二・一七礼拝説教「樹は熟した実を人に与える」より、吉田一行兄筆記、釘宮編)
 (1979.5.20週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-09-30 23:00 | 日岡だより

No.766 聖書のことば4題(「事実」ほか) 2016.9.18

《聖書のことば》
事実

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネによる福音書一一・25)
 
 キリストを信じた者も、信じない人と同じように、病床や交通事故や戦争や、はたまた老衰などで死んで、そして再び生き返りはしないように見える。この限りでは前述のイエスの言葉はウソのように見える。
 しかし使徒パウロは言う、「事実、キリストは……死人の中からよみがえったのである」と。パウロは当初のキリストの復活を肉眼で見たわけではなかったのに、キリストの復活は「事実」であると証言する。死んでも死なない永遠の生命が、自分の中にあることを、事実としてパウロは握っていたのである。
 (1979.4.15週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
実をむすべ

「ひでりの年にも憂えることなく、
絶えず実を結ぶ」
(エレミヤ書一七・8)
 
 作物(さくもつ)にとって、ひでりは大患難であります。地中にどれ程栄養分があっても水分がなければ少しもそれを吸うことができません。ところで、そばに川がある木は根をいっぱいにのばして水と栄養を吸い上げるのです。実は絶えずみのります。
 この世にはたくさんの「神がよしとされる」栄養分がたくさんあります。物も金も地位も学問もそうです。それらが真に朽ちることなき実をうんで、それを永遠の彼方まで持っていけるかどうか。それは神の生命の水があなたにあるか、無いかにかかっています。
 (1979.4.29週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
キリストの形ができるまで
 
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」
(ガラテヤ四・19)
 
 クリスチャンは、キリストの花嫁であります。しかしあまりに幼い時は、インドの幼い婚約者のように、ままごと遊びに打ち興じるだけで、受胎能力もなく、まして胎児の形もできません。
 クリスチャンが、一人前のキリストの花嫁として、彼の心の内にキリストの似姿をみごもるまで、魂の義父であるパウロは産みの苦しみをすると、ここで訴えているのです。ただ、悲しいことなのは、多くのクリスチャンがキリストの種をすでに受胎しているのに、そのことを自覚しない事であります。
 (1979.5.6週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
神は悪を良きに変えられた
 
「……神はそれを良きに変らせて……」
(創世記五〇・20)
 
 次のようなイメージを、あなたの頭の中に絵をかくように、えがいて下さい。
「地球がある。地球に大きなポンプがすえてある。ポンプの下は、どろどろした真っ黒な汚水。そのポンプを押すと、あにはからんや、きれいな水がジャブジャブ出てくる」
 これは現在やっている聖書研究会での宿題の一例。創世記第五〇章の主要テーマ「神は悪を良きに変えられた」を記憶する為の便利なイメージ法です。
 地球は創世記を示し、ポンプは第五〇章のことなのです。真っ黒のドロドロの汚れが、きれいな水にかわってほとばし出る、神は悪を良きに変えられるのです。
 (1979.5.13週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-09-24 15:32 | 日岡だより