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No.780 《聖書のことば》4題(「心の深みまで新しくされよ」ほか)

《聖書のことば》 
心の深みまで新しくされよ

「あなたがたが心の霊において新しくされ……」
(エペソ四・23)
 右の聖句は日本聖書刊行会の新改訳。日本聖書協会の口語訳によると「心の深みまで新たにされ」。傍点の「深みまで」は意訳であるがなかなかの名訳。しかし、やはり直訳の方が間違いがない。
 心は、いわゆる表面意識である。霊は心の源であって、人間の実存そのものである。そこは無意識界とも言える。意識が大きすぎて片々たる人の心に捉えにくいのだとも言えよう。その霊が罪を負っている、死んでいる、自由を失っている、と言うのが聖書。
 その心の源よりして救われ、新しくされ、清くされる事、それが福音だ。
 (1979.10.21週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
祈る人

「彼はいま祈っている」
(使徒行伝九・11)
 
 使徒パウロは、もともと行動的な人であった。また、よく物事を考える人であった。その後、神の光に照らされてより、よく祈る人に変った。「見よ、彼は今祈っている」とはパウロについてのキリストの証言である。
 動くだけで考えない人は、頭のカラッポな人間である。考えるだけで行動のない人は、ノイローゼになるだろう。よく考え、よく行動する人は、この世で成功する。しかし、愛のない、不遜な、狭い、暴力的な人間になりやすい。
 祈る、考える、行動する、この三拍子がそろった時、クリスチャンとしての人間像は完成する。
 (一九七九・一〇・二五原家集会にて)
 (1979.10.28週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
喜びのあまり

「一行は喜びのあまり、木の枝を振りかざし、神様の前で、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルなど、ありとあらゆる楽器を鳴らして、思いっきり踊りました。」
(サムエル下六・5リビングバイブルによる)
 
 これはダビデ王の一行が、神の箱をエルサレムに運ぼうとしたときの、彼らの喜びの様の描写です。ここには敬虔な宗教的雰囲気はありません。あるのは、日本のお祭りのおみこしかつぎのようなにぎやかさです。
 これも又、信仰生活の表われの一面です。神の子らが、幼児のように神の臨在を喜ぶ時、かくあるのも当然でしょう。
 隠者のような瞑想的静かさも、又必ずあるべきであるのも勿論です。
 (1979.11.4週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
キリストに接木せよ

「根がきよければ、その枝もきよい」
(ローマ人への手紙一一・16)
 
 良い木には良い実がなり、悪い木には悪い実がなる。なすに瓜はならず、オリーブにいちじくはできぬ。―――そこで、人間はうまい手を発見した。しぶ柿には甘柿の若木を接木し、西瓜はかぼちゃの根につなぐ。根からの養分を吸って、接木したおのおのは自分の果をそれぞれ産む。
 ところで、神様のなさる接木は植物栽培のそれとまったく反対、その結果がちがう。罪人をキリストという根に接木し、枝である罪人は自分の実をむすばず、根であるキリストの実をむすぶようになる。
 「聖霊の実」をむすべ。(ガラテヤ五・22参照)
 (1979.11.11週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-30 16:48 | 日岡だより

No.779 ただ、この儘で…… 2016.12.18

ただ、この儘で……

一、ただ、このままで、一言の申しわけもせず、
  あなたの血汐が、私のために流され、
  そして「我にきたれ」と私に命じ下さるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
二、ただ、このままで、一つの黒い汚点すら、
  私の魂より取り去られるのを待たず、
  あなたの血が、すべての汚れを潔め得るゆえ
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
三、ただ、このままで、悩みあるまま、
  多くのもだえと、多くの疑いと、
  内には戦いと、外には恐れと。されど、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
四、ただ、このままで、貧しく弱く、目も又見えず、
  されど、視力も、富も、心のなぐさめも、
  そうです、私の必要なものすべてを、あなたに見出すべく、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
五、ただ、このままで、あなたは私を受け入れ、
  喜びむかえ、許し、きよめ、救い下さる、
  そのあなたの約束を私は信じるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
六、ただ、このままで、あなたの無限の愛が、
  あらゆるとりでを打ちくだき、
  今や、私はあなたのもの、しかり、唯一あなたのものであるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
(シャーロット・エリオット女史の名歌。原田美実先生の訳詞を参照して口語訳した。讃美歌二七一番、聖歌二七一番の原歌である)
 
  • 先週の説教「百%を求める神は、又百%許す神」では上掲のシャーロット・エリオットの詩を紹介しながら語りたかったのです。百%の許しの神を知っていないと、人間は失敗した時に立ち上がれません。
  • 聖書はクリスチャンに百%の完全さを要求します。その良い例が、山上の説教と呼ばれるマタイ五章~七章です。「情欲をいだいて女を見るのはすでに姦淫をしているのです」とか、「汝の敵を愛せよ」とか言うところです。ガンジーやトルストイを感激せしめた有名な聖書の箇所であります。
  • しかし、たとえクリスチャンがどれ程信仰を燃やし精進したとしても、彼らもやはり人の子、必ず失敗します。そして、善良で真剣な人であればある程、その失敗に苦しみます。
  • 宗教改革者マルチン・ルターは「クリスチャンの生涯は、日々悔い改めの生涯であるべきである」と言いました。これは、クリスチャンになる時の唯一回的回心あ(日本語聖書では悔改めと訳してある。多少とも誤訳である)のことではありません。クリスチャンになって以後の、毎日の悔い改めをさすのであります。―――ということは、裏返して言えば、「クリスチャンとは毎日罪を犯すものの事である」とも言えます。
  • そんなバカな、と思われるかもしれませんが、気高き聖者程そのように自覚しています。「私は決して罪を犯していません」と言い張る人は、刑務所や大臣や議員諸君の中に多いのですよね。人は聖まれば聖まる程自己の罪を自覚し、汚れた自分を悲しみます。
  • しかし、クリスチャンとはそれだけではないのです。そのような私を百%根こそぎ許して下さる神の愛を信じ、その愛の許しに生かされるのです。
  • それが口先だけの信心、幻想的許しではない証拠に、クリスチャンは日々許されて、逆転的に聖潔にして完全なる勝利的人生を送るのです。百%の完全を求めた神は、又百%の許しを与えて下さる神です。そのようにして百%許されたクリスチャンは百%完全なる人生を送るべき目標をあらためて与えられます。
  • この完全なる人生を、全く完遂したとは決して言えないのだが、それを大胆に求め肉迫する生涯の実例を私供は聖パウロに見ることができます(ピリピ三・12~14)。論理としては循環論法的で矛盾して聞こえるでしょうが、実際にキリストの血により日々許される信仰生活を体験すると、よく分ります。
  • 浄土真宗や、遠藤周作氏の「弱さに徹する」式の信心と違います。現実の生活で勝利し、生きたクリスチャン・ライフを送る男性的信仰であります。
  • 生れつきの気質をあきらめてはいけません。キリストの血により、気質も必ず転換されるものです。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)
















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by hioka-wahaha | 2016-12-27 09:24 | 日岡だより

No.778 《聖書のことば》4題(「地下教会は今も」ほか) 2016.12.11

《聖書のことば》 
地下教会は今も

「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした」
(ヨハネの黙示録一三・17)
 
 これは、終末時の地上の経済制度の一端を示す聖書の予言です。戦争中の統制経済を体験している人は、このこわさがよく分る。政府は今、国民の税金や預金にコンピューターをつけて国民総背番号を打とうとしている。時代は刻々二四時に近づいている。共産主義国などでは教会迫害がおこって一部の教会は地下にもぐっている。日本には信教自由の憲法があるので、伝道も信仰も法律的には自由である。しかし、月給と終身雇用制で管理されている多数の日本人国民には本当の信仰と伝道の自由はない。日本にも一種の地下教会が必要である。
 (1979.9.16週報「キリストの福音」より)
 
  
《聖書のことば》 
神を見た者

「神を見た者はまだひとりもいない」
(ヨハネによる福音書一・18)
 
 「神なんてあるものか。あるんなら。あるんなら見せてくれ。この目で見たら信じるよ」などという。こういう人に限って自動車の内や外に神社のお守りやお札をつけたり、下げたりしているものだが……
 地球の引力なるものを目で見た人はまだひとりもいない。地球の引力とか、物質のエネルギーとかは、目には見えぬし、手でもさわれぬ。しかし、その真理をニュートンやアインシュタインは明らかにしてくれた。
 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいますひとり子の神(キリスト)だけが、神をあらわしたのである」。
 (1979.9.23週報「キリストの福音」より)
 
 
 
《聖書のことば》 
集まりましょう

「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」
(マタイによる福音書一八・20)
 
 たった二、三人でもよい、イエスを信じる者が、イエス様をあがめて集るとき、そこにイエス様の霊は居(い)るのである。そこにすでに教会があるのです。
 一人では、一本のろうそくのように消えやすいが、みんなの群の中にはいると、信仰の火も益々元気よく燃えるものだ。
 ですから、信仰を決心して、これから教会にも行きたいと思った方は、その決心をどうぞ実行されて、日曜礼拝に出席して下さい。教会はいわば、信者にとって母なる家庭であるのですから。
 (1979.10.7週報「キリストの福音」より)
  
 
《聖書のことば》 
三つの愛

「……神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、……はるかに大事なことです」
(マルコによる福音書一二・33)
 
 ひとりの律法学者は、この返事をしたゆえに、イエス様から大変ほめられている。適切な答であったのです。ここには三つの愛がある。(1)神を愛する、(2)自分を愛する、(3)人を愛する。
 ここで言う「自分を愛する」とは、いわゆる利己愛、エゴイズムのことではありません。自分自身の本当の我、神の生命につらなる実存を真理に沿って愛することです。自分を愛することを知らねば、人を愛することができません。そして、神を愛せねぱ、自分をほんとうの意味で愛し得ません。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-20 08:54 | 日岡だより

No.777 牢獄の賛美 2016.12.4

牢獄の賛美

「常(つね)に喜べ、絶えず祈れ、凡(すべ)てのことに感謝せよ」
 これは新約聖書テサロニケ人への第一の手紙五・16~18にあるお言葉です。
 ある時、使徒パウロが、ピリピという町で悪人にいつわりの訴えをされて、無実の罪で牢屋に入ったことがあります。シラスという弟子も一緒でした。ムチで打たれ、足かせをはめられ、石の牢にくさりでつながれ、その牢は一番奥の(多分地下牢)最もひどい所でありました。
 パウロとシラスは、その牢の中で泣いたりわめいたり、ため息をついたりなどしませんでした。ムチ打ちの刑は痛いものです。当時のローマのムチには肉をえぐり取るような金具さえついていましたから。傷も相当ひどかった筈です。その傷から来る発熱で体中がほてっていたでしょう。
 そういう二人でしたが、イエス様のために受ける迫害のゆえに、二人にとってそれは喜びであり、感謝でありました。自然、彼ら二人の唇には、賛美の歌が溢れ出ました。それは決して、やせがまんの、これ見てくれ、というような引きつった声ではありません。本当に喜びと感謝にみちた、しかも神秘な霊的な声でしたから、獄中の囚人たちがみんな静まりかえって聞いていたのです。
 その時、突然地震がおこりました。その監獄の土台はゆれうごき、戸は全部ひらき、みんなのくさりは解けてしまいました。牢番の獄吏はびっくりしてやってくると、このありさま、もうてっきり囚人達は逃げ出したものと思いこみ、責任を感じて剣をぬいて自殺しかけました。パウロは内から叫びました。
「早まってはいけない。みんな逃げずにここにいるよ」
 獄吏はかけ込んでみました。なんと囚人達はみんなおとなしい羊のようにパウロとシラスのそばに逃げもせずにすわっているではありませんか。
「これは神の人だ」
 思わず二人の前にひれ伏しました。早速二人を外に連れ出し、傷を洗い、今度はその水で獄吏は家族一同と共にバプテスマをうけたのでありました。
 
 昭和十九年の秋、私は福岡刑務所(この前までTVでやっていたマー姉ちゃん一家の住んでいた百道海岸のすぐそばにありました)の北一舎六二房にいました。私の囚人番号は九〇二番、厳正独居という奴で、絶対他の囚人と話を許されません。一日二回、看守に返事をするだけ、あとは口をきくこともありません。そのような日々の一日、十一月二十三日でしたが、その日の夕刻、神様の言葉が私の心に下り、私は一瞬にして私の国籍が神の国にある事が分りました。
「愁い多き獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」
 この時、思わず口ずさんだ短歌です。その時から、私の心にこみ上げてきて、とまる事のない感謝と賛美がありました。看守も同囚の雑役も「あんたのような人は見た事がない」とおどろいた程、独りを慎しみ、且つ歓喜に溢れている囚人生活であったわけです。
 私は、その時このパウロやシラスの信仰が少し分ったような気がしました。私は戦争中に刑期を終えて白眼視の世間の中に出てきたのですけれども、その中でも一向悪びれもせず、感謝の歌声はたえなかったように思います。
 今でも不思議に思いますが、青年という青年が戦地にひっぱられている時代に、二十三才の「非国民」の青年が召集も受けずに終戦まで市民生活をしたなど夢のようではありませんか。運動不足、栄養不足の刑務所上がりの身で、当時の軍隊にまわされて、私の刑歴を見られたら、いっぺんに叩(たた)きのめされて死んでしまった事でしょう。
 信仰は感謝をうみ、賛美をわかせます。賛美の歌のある処、運命の転回があり、悪運よりの解放がおこります。そして、ますます人生の自信をわかせるものです。
 (一九七九・一〇・四、佐藤家聖書集会にて)
 (1979.10.7週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-10 16:10 | 日岡だより

No.776 恐れるな 2016.11.27

恐れるな
   ――マルコ福音書第五章三六節――
 
 戦後、日本の山間僻地、津々浦々に、公民館なるものが出来ました。方々にある、あの小さな公民館は日本の社会史にある程度の評価を残すことでありましょう。ところで、二千年前のユダヤにあった会堂というのも、この部落公民館のように町々村々にあったらしくあります。この会堂によって、聖書をよみ説教を聞く、現在の教会礼拝の原型が出来上がっていたのであります。ただし、会堂には専属の聖職者はなく、その代りに会堂の管理人がいました。それはその地方に住む相当の名望家であったらしくあります。
 さてここにヤイロという会堂管理人がいました。彼の幼い娘が重病にかかって死にかけていました。そこでイエス様のところに来て、その足もとにひれ伏して切に願いました。「どうぞ、この子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。当時の上流階級の人々は大体において新進宗教家イエスに対して反感を示していましたので、このヤイロの態度は特筆してよいのであります。
 
 イエス様はこころよく承諾してヤイロの家に来てくれることになりました。ところが途中で、「十二年長血を病んだ女」の飛び入りがあって(マルコ五・25?34)、時間はどんどん経過し、ヤイロはいらいらした事でしょう。やっと長血の女の一件が落着して気を取り直して歩き始めた時、ヤイロの家より使いの者がきました。
 「ご主人様、お嬢さんはなくなりました。もう、先生に来て下さらなくてもよいのではないでしょうか。」
 その使いの者の言葉を聞き流して、イエス様は力強く言うのでした。
 「ヤイロよ、恐れるな。ただ信じるのみだ」
 
 このお言葉は、よく考えてみると、不思議なお言葉です。イエス様を信じ、イエス様にお願いし、イエス様にお供してここまで来た彼に、娘の死の知らせです。そのガクンときているに違いないヤイロに向って、
 「がっかりするな、絶望するな。信じ続けよ」
 と言うのなら分ります。ところが、なぜ「恐れるな」と言うのでしょうか。この時、イエス様はヤイロの深層心理に深く喰い込んで洞察しているのであります。ヤイロは、たしかに娘の死のしらせを聞いて、がっかりし、絶望もしました。しかし、その根にはもっと深い恐怖心があったのです。
 「おれの運命はいつもこうなのだ。
  おれの一生はいつも手おくれであった。
  又、例の悪運がめぐってきたのだ。
  おれの一家は悪霊にとりつかれているのだろうか。
  娘もついに死んだ。
  こんどは何がくるというのだ。
  ああ、たまらない、たまらない」
 
 悪い知らせを聞いたとたんに、心が凍りついてしまって、その事態の好転を予測したり、評価を転換したりすることがへたな人が多いのです。そして、いたずらに前途を悲観して、恐怖心で一杯になるのです。
 私が印刷会社を営んでいる時、ある営業員が大切な原稿を失ってしまいました。彼は顔をまっさおにして今にも鉄道自殺しかねない様子です。人様が一夜かかって書き上げたような書き原稿は他人ではどうにも償ないようのないもので、気の小さい営業員だったら本当に死にたくなるような事件なのです。しかし、私はこういう時こそ、お得意さんと腹を打ちわって話しあえる絶好の機会と知っているから、勇気百倍して出かけるわけです。こういう時に、しばしば心の友、生涯の友が出来るものです。絶望もくそもないのです。神を信じているものなら、恐れず大胆に、信仰一つをもって相手にぶつかっていくのです。そこに、解決のメドがつくものです。
 ヤイロは、イエス様について行きました。すでに娘は死んでいました。しかし、間もなくイエス様の一言によって娘は生きて起きあがり、奥さんは早速、娘のために食事の用意をせねばなりませんでした。
 「死」を聞いても「生」を信じ、「生」を期待しましょう。病気になっても、得意の原稿を失っても、商売が破産しかけても、「恐れるな!」。恐怖をすてると、良い智恵や、良い方法が見つかるものです。
 (一九七九・九・二二説教「最善を神に期待せよ」の一部を筆記)
 (1979.9.30週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-11-30 23:00 | 日岡だより

No.775 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな 2016.11.20

悪をなす者のゆえに、心を悩ますな

 ユダヤ人の祖先の一人に、ヨセフという人がいます。ヨセフは少年の時、あまりに父に愛されて他の年長の兄弟十人ににくまれます。そしてとうとうエジプトに奴隷として売りとばされ、その上売られたさきで又も無実の罪を負わされて牢屋に入れられてしまいます。しかしヨセフは兄弟をうらまず神様につぶやかず、行く先々で人に愛され、神の栄光をあらわし、遂にエジプトの宰相となるのであります。
 時に、ユダヤの地ではききんとなり、あの十人の兄弟たちはエジプトに穀物を買いに来て、ヨセフに対面しますが、あまりに出世したヨセフの姿を見て、だれ一人それと気づきません。ヨセフは彼らの良心を呼びさますべく一計を案じます。彼らはその計略にはまってヨセフの前にひれ伏し、「青草のようにしおれ」(詩篇三七・2)ました。この物語は教会学校の生徒に大変喜ばれるお話しであります。
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。……彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」(詩篇三七・1?2)
 
 昭和二十年代だったと思います。大分市竹町の商店街で、売り出しの抽選券を持って景品場に行きました。私の四、五人前の人が特等を当てて大さわぎになりました。その時、すぐ次の人がわめき始めました。
「ああ、イヤだ、イヤだ。こんな気持のわるい日はない。なんとイヤな日だ。こんちくしょう。」
 とぷりぷりおこっているのです。なる程、前の人が特等を当てれば、もう今日のくじ箱にいいくじが残っている筈もなく、よく考えれば夢も望みも前の人に先取りされたことになりますから、その気持は分からぬではないが、余りに子供じみた直情さに呆れたことがあります。
 ねたむ心は、同じものを欲しがる心から生じます。その欲望がおさえつけられると、怒りにまで発展するのです。政治家や財界人の不義をいかって共産主義運動の先頭に走っていた男が、一転して大分に来て文芸活動の旗をふって同好者の資金をごっそり持ち逃げした事件がこの前おこりました。
「不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。……怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ」(詩篇三七・1、8)。
 
 人が悪をなし、不義を行うて成功しているように見えても、それは一時的の事です。
 「主に信頼して善を行え」(詩篇三七・3)、迷わず疑わず、あなたの善き道を歩み続けなさい。
 人に打たれ、迫害される時も、
 「主によって喜びをなせ」(詩篇三七・4)、万事を見通し給う神様を信じる時、喜ぶ事も出来ます。
 いかに困難を感じても、マラソンの選手が一着を求めて苦しいコースを走るように忍耐して走るのです。
「あなたの道を主にゆだねよ。……耐え忍びて主を待ち望め」(詩篇三七・5、7)。
 これは、聖書では預言者的忍耐といって、積極的忍耐心をさします。ウジウジした消極的忍耐とは違います。
 
 冒頭に紹介したヨセフという人は、最後に十人の兄弟を前にしてこう言いました。
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」(創世記五〇・20)
 悪を良きに変らせる、宇宙の主宰者、ただ一人の神様を信じましょう。
 (一九七九・九・一三、中野家家庭集会にて語る)
 (1979.9.23週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-29 14:31 | 日岡だより

No.774 《聖書のことば》4題(「小事に忠実なれ」ほか) 2016.11.13

《聖書のことば》 
小事に忠実なれ

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」
(ルカによる福音書一六・10)
「わずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」
(マタイによる福音書二五・21)
 
 人びとはよく大きな金塊をさがします。しかし、めったにそんなに大きな金塊は見つからぬものです。慣れた人は砂の中から、小さな小粒の金を砂といっしょにすくって、鍋でより分けます。そしてそれらの小粒の金をとかして大きな金塊にするのです。
 突然、映画会社にスカウトされて一躍スターになったり、遠戚のおばあさんの莫大な遺産がころがりこんだり、一夜にして聖者に生れかわったり、そういう大金塊の夢はすてて目前の小さな仕事をやりとげなさい。
 (1979.8.19週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
いっしょに喜びたい

「女の人が銀貨を十枚持っていました。ところが、どうしたことか一枚なくなってしまったのです。この女はランプをつけ、家の中をすみからすみまで掃除して、その一枚を見つけるまで、必死で捜し回るでしょう。そして見つけ出したら、一人ではもの足りず、友達や近所の人を呼び、いっしょに喜んでもらうでしょう。」
(リビング聖書より、医者ルカの記録
一五・8~9)
 
 こういう女の人は、甚だひとりよがりで、はた迷惑な感じもします。
 しかしもし、その銀貨一枚を捜した熱心さで、私の失せものをも一緒に捜してくれたらどうでしょう。彼女は多分、喜びのあまり、又捜しものの自信も手伝って、それをやってくれるでしょう。
 伝道とはあたかもそういうことではないでしょうか。
 (1979.8.26週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
イエスの賞賛

「この女はできる限りの事をしたのだ」
(マルコによる福音書一四・8)
 
 ベタニヤ村のマリヤという女性が、イエス様に高価な香油をそそいだのです。
 そばで見ていた弟子がおこりました。「何という浪費だ。これを貧乏な人達にほどこせばよいのに。」こういった弟子達の非難を制して、イエス様はこのマリヤの行為を喜んで受けられました。
 「これは私の十字架の死のよき準備(象徴的予表)である」と受けとめて、「あなたは、できる限りの事をしてくれたのだ」とマリヤをほめなさったのです。
 人のした事に難クセをつけるのは悪魔ですね。イエス様は逆に、本人も気づかぬ意味をその行為に汲み取ってほめて下さるのです。
 (1979.9.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の前に正しいかどうか

「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか……」
(使徒行伝四・19)
 
 元中核派闘士Kという男、横領罪で大分に逃げてきて、同人誌「文芸大分」なるものの中核にすわり、又も金と人妻を持ち逃げ(?)して行方不明との事。大した共産くずれ。
 共産主義というもの、最大の人間信頼派であるのだが、事実は最も人間不信の人間をつくりあげている。
 ヒューマニズム、ヒューマニズムというが、神なきヒューマニズムほどこわいものはない。神なき文化、神なき科学、神なき芸術、神なき哲学、神なき人間尊重、すべては、その主張する処に反して人間に逆き、人間を破壊する結果を招くのです。
 (1979.9.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-19 10:57 | 日岡だより

No.773 今、立ち上れ 2016.11.6

今、立ち上れ

一、自己憐憫(自己をあわれむ)は自殺行為の一つである。
 「兄弟にむかって愚か者と言う者は裁判にわたされ馬鹿ものと言う者は地獄に投げこまれるであろう」とイエス様は言われました。それなら、自分に対して、「おれは馬鹿だ、、私はダメだ」と言う人は、自分に対して殺人罪(つまり自殺)を犯しているのに等しいのではないでしょうか。
 聖書は「友のために生命をもすてる」大いなる愛を説いてはいますが、これは肉体的生命のことであって、決して自身の霊性を滅し、又損傷することをすすめているのではありません。かえって「自分自身を憎んだものは一人もいない」(エペソ五・29)と言い、「自分を愛するように人を愛しなさい」と言って、自分以上に人を愛せよとは言っていないのです。人はまず神を愛した次には自分自身の霊性を尊重し愛さねばなりません。
 自分を憐れみ、時には自分をのろいさえする人もありますが、これは自己自身に対する反逆であり、ひいては人間を造り、これに霊の息を吹き込みたもうた神様への反逆であります。
 
二、自己憐憫の人は他人に迷惑である。
 新約聖書のヨハネ五・1~9を読みましょう。ここに出てくる人物は自己憐憫の標本のような男であります。彼は三十八年間病気をわずらい、遂にこのベテスダの池に来ました。この池に天使が来て水をかきまぜる時、一番早く水に入るものは病気がなおると言うのです(今で言うなら間歇泉で新しく湧き出る水にはラジウム線が強いので病気によく効くとでも言うことでしょうか。ともあれ、聖書を学ぶ時、こういう合理的解釈にあまり時間をかけないほうが良いのです)。
 しかし、この池に来たものの誰も彼をかかえて水に入れてくれる者がいない。そこで彼の心には三十八年来のにがにがしい気持、不平、不満が一杯になって言うこと為すこと一切が周囲をいらいらさせ、人を遠ざけてしまう。自己憐憫の人は、人を傷つけようとする悪意は一つもないのだけれども、事実は周りの人に迷惑な存在になってしまうものなのです。
 
三、自己憐憫の人は行き止まりの人である。
 この三十八年病気の人に、イエス様は「なおりたいか」とお聞きになる。これはエリコのバルテマイに、「どうしてほしいのか」と聞いたお言葉にくらべるとずいぶん水準を下げた問いかけです。この問には、答えは「はい、なおりたいです」と答えるだけでよいと思うのに、この男は
 「誰も私を水に入れてくれません」
 と問われもせぬ事を言い、責任を他に負わせ、不平不満たらたらです。
 こうして、自己憐憫の人は一歩も動こうとせず、不平不満の中にすわりこむ悪いくせがあるのです。
 
四、イエスのあわれみ
 聖書の他の場所をさがすと、イエス様はたいてい、いやしの前に信仰を求めています。特にこの男は過去に犯した罪の故に病気になっていたらしいのですが、イエス様はこの男に悔い改めも信仰も求めず、ただ彼の長い病気の悩みに目をとめられました。これは実に特別な恩寵であります。悔い改めて信じて救われるのが正常な入信の道でしょうが、イエス様の直接の救の道は時折ケタはずれでありまして、常道をとびこえて救われるのであります。
 
五、起き上れ
 イエス様は、その男に悔い改めも信仰も要求しなかったかわり、三つのことを命じました。第一に起き上ること、第二に床のマットを取り上げてかつぐこと、第三に歩くこと。
 こういう時、イエス様は手を取ってやることがよくありますが、この時はなさいません。この男がまず自力で起き上るのを待っています。じっと見つめています。男は御言によって一人で起きました。起きればマットを持つことも割合かんたんです。そしてドンドン歩いて行ってしまいました。イエス様のお名前さえ聞かずに。
 自己憐憫の人に最も必要なことは、この起き上ることです。坐りこまないで、動きはじめることです。為すべき小さなことにでも、早速手をつけることです。心の耳をすましてごらんなさい。ほら!「今、たち上りなさい」と主があなたにも言われているでしょう。(一九七九・七・一二 中野家集会にて)
 (1979.7.15週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-17 09:19 | 日岡だより

No.772 《聖書のことば》4題(「人の罪過を見出したとき」ほか) 2016.10.30

《聖書のことば》
人の罪過を見出したとき

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」
(ガラテヤ六・1)
 
 姦淫の女を責めたてているユダヤ人らに、イエス様のなさった態度もこれでした。
「あなたがたの中の罪のない人がこれを打て」
 本気で自分を反省すれば、相手を責める気はなくなります。かえって「何か改善の方法はないか」と、相手を正しくしようとする優しい配慮すらわくでしょう。こういう態度なくては、人は変りません。
 (1979.7.8週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
聞こう

「耳のある者は聞くがよい」
(マタイによる福音書一三・9)
 
 だれも耳は持っている、その故に世の声を聞くことはやさしい。しかし、神の声をきくことはむつかしいのです。
 今、私の住んでいる処は低い土地で、二、三メートルも地面を掘ると水が出ます。しかし良い水ではありません。ところが三十数メートル掘ると醸造用にも使える良い水が出ると故老は言います。
 イサク(族長、アブラハムの子)はすべてのいさかいが終り平和に仇が去った日、新しい井戸をみつけました(創世記二六・32)。
 あなたの心の耳からも、すべての喧騒と紛争を去らせ、深い神の声を汲み上げましょう。
 (1979.7.15週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
縁(えん)

「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」
(ヨハネによる福音書一五・3)
 
 キリストの言葉(あるいは聖書のことばと言ってよい)にふれるということは、人生にとって最大の機会です。これは神にむすびあわされる、神よりの撰別の時と言ってよいからです。
 日本人には、こういう時、「縁」という言葉が分りやすいかもしれません。ただし、無媒介的な偶然の縁ではなくて、神よりの御意志として撰別された縁なのです。
 この縁を「ありがたい」(有ることむつかしい)機会として、初めて聖書にふれた方も是非大事にしてほしいものです。
 (1979.7.29週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
言葉は生命である

「きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ……」
(申命記三二・46)
 
 人間の脳の中でも言語野は他の動物と全く異る。これが人間を人間たらしめる。
 言語こそ、ものごとを抽象化し、それを論理的に収納し展開する思想の道具である。
 人間の生命が、動物的生命をぬきんでるのは、この言語的生命をもつからです。
 そして、聖書は、まことの言葉が神から出て、これが肉体化して人間の中に宿ると言っています。
 キリストの言葉が、私の中に宿る時、私の生命はキリスト化し、私の肉体はキリストの枝となるのです。
 (1979.8.5週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-10-31 23:00 | 日岡だより

No.771 意志を強くする秘訣 2016.10.23

意志を強くする秘訣

 たいていの人は、「自分は意志が弱い」と思っています。しかし、それは誤解です。人間は、意志が強固な存在です。ただ残念なことに、多くの場合、人々の意志はマイナスの方向に強烈に働くのです。
 最も強いのは「生への意志」です。次に「快楽への意志」です。ただしこれが、食うこと、飲むこと、バクチや身を飾ることなどにのみかたむく。そしてだれがとめても、止まらない、ということが多いのです。マイナス的方向に意志が強固なのですね。
 
 かって、私(釘宮)の家であったこと。ふと気がつくと子供たちはみんな、夜寝る前に歯をみがくという良い習慣がついていました。私は決して夜歯をみがいたことなどありませんのに。夜おそく、私が甘いものをほおばりながら、子供たちにすすめると
「歯をみがいたあとだから、もういらないよ」
 と言います。私ひとり、カッコわるくお菓子をたべているという、家庭の風景が一時ありました。
 これは大変有益な教訓でした。甘い食べものは、生の欲望と快楽の欲望のむすびついた大変強固な欲望のはずです。しかし一度歯みがきしてすがすがしくなった口からは、「見るにうるわしく食べるにおいしそうな」お菓子の誘惑にも乗ぜられない更に強い意志が働くようでした。(聖化論のよい材料ですよ)
 
 私はこの時、この良い習慣が気に入ったものですから、早速子供たちの真似をして歯みがきを始めました。時々、忘れる夜もありましたが、ともかく続けました。そして今ではすっかり私の習慣になっています。さて、この時大切なことは、一回でも歯みがきを忘れた時です。この時、
 「ああ、おれは意志の弱い男だ。とうとう歯みがきを忘れてしまった。恐れていたんだ、こうなるのを。いつも俺はこうなんだ。決心して、やり始めるが、失敗する。ああ、もうだめだ。やめた、やめた」
 と言う人はいないでしょうか。歯みがきくらいのことならそんな人はまさかいないでしょう。しかし、タバコをやめる、というような事になると、もうぼつぼつ頭をかく人がいはしませんか。まして、セールスに行って玄関で断られた。見合して破談になった。また職をしくじった。こうなるともう完全にさき程のせりふを心の中でつぶやいているような人が多いのではないでしょうか。
 ここで問題を要約します。
 第一、意志を転換(もしくは選択)すること。
 第二、その意志を持続しつづけること。たとい途中失敗があっても気落ちせずに維持することです。
 これが、意志を強くする秘訣です。
 
 〔附言〕
 人間の魂の根底にある罪の意志に気づき、これを転換させて神に対して従順な道を選択するとき、それを回心と言います。
 (神様の側から言えば、いろいろ手だてを講じ、衝撃的な神秘体験を与えて回心を迫ることもありますが、要するに必要な事は本人の意志の転換です)。
 この根底的な意志転換がないと、人間の罪に深く根ざした悪習や罪の生活からの脱却は不可能です。まして神に対する罪は許されません。
 この回心をもたらすもの、また極度に困難な意志の転換を要する時、私たちを助けてくれるもの、それはキリストです。
 キリスト自身、御自分の意志を父なる神の意志に従わせようとして、血の汗を流して祈ったことがあります。その祈りの最後は、「私の意志ではなく、あなたの御意志をなさってください」と言うのでした。死と恥辱と身代りの罰を受けなさることは、キリスト自身、血を流して祈るほどつらいことでした。
 このキリストの血を今、私たちの心にいただき、このキリストに頼るならば、どのような意志転換も可能です。(一九七八・一二・一〇礼拝メッセージより)
 (1979.7.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-10-29 14:43 | 日岡だより