カテゴリ:日岡だより( 618 )

No.785 私のうちに満ちみつるキリスト 2017.1.29

私のうちに満ちみつるキリスト

「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」
(ガラテヤ人への手紙四・19)
 
 この聖句の中の「形ができる」という言葉は、イザヤ四四・2を思い出させます。そこでは、「形づくる」という言葉が胎児の成長のこととして用いられていたのでした。
 イエス様は、ヨハネ三・3で信仰の始めを「新生」と呼んでいます。ところで、さきの聖句はパウロによって導かれたガラテヤ教会の人々にあてられたもので、彼らはすでに新生しているのですし、あれ程パウロから叱責されているとしても、決して「もはや捨てられた」人々ではありません。そこで、私たちは最初の新生とは異なる別の誕生(or胎児の成長)をパウロが願っていることを知るのです。
 A・Bシンプソンは、こう言っています。「クリスチャンは、キリストにあってひとたび生れた。そして、もう一つ大事なことは、今度はキリストがあなたの中に生れることである」と。そうです。これがキリストの内住です。
 
 これまで私はキリストの内住ということは分っているつもりでした。又、分っていたと言ってもウソではありません。(これまでのキリストの内住の信仰については、昨年の週報四八号より五一号までの「わたしの中に宿るキリスト」という連載説教を読んで下さい)ところでその後、妻の断食等を通して次々に信仰が開かれてきたのです。新しい神様の教えは、私にはおどろくべき事ばかりでした。その一つがキリストの個性的人格的内住です。
 「御子は、見えない神のかたちであって……」とコロサイ一・15にあるのですが、これはイエス様がパレスチナ御在住の時のみの事でしょうか。いいえ、そうではありません、「すべての造られたものに先だって」(コロサイ一・15)生れて以来このかた、「罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれ」(ヘブル一・3)ている今日に至るまで「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ」(ヘブル一・3)るし、又、未来も永遠に神の本質の表現者として個性的に実在されることでありましょう。
 
 れっきとした、神の子キリストの誕生として、私の中に生れ、その後、確固として私の中に定住して下さる御子!このことに目がさめたとき私の心には私の中に王国を造り、王の王として君臨して下さるキリストの姿が見えました。このお方に、私のすべてをささげ、彼の支配力の下におく時、「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(第一コリント一四・33)から、私の一切が神の尊い秩序の下におかれるのです。
 
 このような王の王キリストの君臨をお迎えする玉座は、エペソ三・16、17によると聖霊により強められた内なる人の信仰です。この信仰により、キリストは私どもの心のうちに住むのです。
 のみかは、「キリストには神性の充満が肉体化している。それであなたがたもキリストにあって神性に充満されるのである」(コロサイ二・9、10私訳)とありますから、私は「キリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ一・23)と大胆にも信じられるのでありました。
 今も個性をもって天界に、又、私のうちに生きておられるキリスト、こう書けば何も変哲もない昔ながらのキリスト告白だが、一月三一日を以て、私はすっかり変った感動をもって、これを言うのです。(一九八〇・二・二〇 釘宮義人)
 
 〔附記〕参考図書 金田福一「キリストの内住」、ウォッチマン・ニー「霊の解放」、A・B・シンプソン「内住のキリスト」、メーベル・フランシス「聖霊に満たされてから」
 (1980.2.24週報「キリストの福音」より)


















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by hioka-wahaha | 2017-01-31 23:00 | 日岡だより

No.784 《聖書のことば》4題(「すべてが新しくなる」他) 2017.1.22

《聖書のことば》 
すべてが新しくなる

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(コリント人への第二の手紙五・17)
 
 変りたい、新しくなりたい。それが、多くの人の願いえはないでしょうか。ヘアー・スタイルを変え、着物をかえる。家具をかえ、インテリアを変える。それでも変らない。魂が変らないからです。
 キリストに心をむけなさい。キリストを受け入れなさい。キリストのことばを味わいなさい。その御ことばのように生きなさい。
 あなたは一新されます。変ります。
 あなたの周囲も変りはじめます。
 (1980.1.6週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
悪魔に立ちむかえ

「神に服(したが)え、悪魔に立ち向(むか)え、さらば彼なんじらを逃げ去らん」
(ヤコブ書四・7 文語文)
 
 一月八日、吉良先生(私の父母に親しくしていただいた老牧師)の新居を別府の山手に訪ねた。石がかさなり、木々おいしげり、程よい広さの屋敷に簡素なたたずまい。私の最も好きな型の家である。しかし実は、ここは石垣原合戦で戦死した大友家の七人の将士たちの塚があり、幽霊が出るといって人が寄りつかず荒れ果てていた家だそうである。そこに先生老夫婦にこやかに悠然と住んでおられる。近所の人が「先生、幽霊出ませんか」という。出ません。幽霊、あるいは実在するだろうが、神の子の前には逃げ去るのである。
 (1980.1.13週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
日常的な罪をも

「彼は我らの罪(複数)を、あの木の上にて彼の肉体の中に、自ら運び上げて下さった。それは我らが罪に死に、義に生きる為である。彼の鞭の傷により汝らはいやされたのである」
(第一ペテロ二・24の私訳)
 
 右のように、直訳的に訳してみた。第一行の「罪」が複数で表わされてあるのが、ありがたいのである。私の原罪としての単数的罪を許されているのみならず(これはクリスチャンとしての根本的救いである)、日常的もろもろの罪を、主イエスによって処理されてしまっていること、それが、彼の自発的能動的な私たちへの働きかけによるのであること(「自ら」という言葉で表されている)、そこがありがたいのである。
 (1980.1.20週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
イエス・キリストの血

「……小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」
(ヨハネ黙示録七・14)
「キリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き……」
(ヘブル人への手紙九・14)
 
 今日の教会学校は、出エジプト記の過越の祭の話。主要な題目はキリストの血である。
  (字(じ)のない本(ほん)のうた)
 罪(つみ)によごれ くらい心(こころ)も
 主(しゅ)イエスさまの 血(ち)であらえば
 白(しろ)い雪(ゆき)のように きれいになり
 かがやく天(てん)の 国(くに)に行(ゆ)ける
 
 輸血で瀕死の命が救われるように、イエス・キリストの血(生命)が人を罪と悪とけがれより救い、神の子として生き返らせて下さるのである。
 (1980.1.27週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-01-31 22:00 | 日岡だより

No.783 キリストの光塵(こうじん) 2017.1.15

キリストの光塵(こうじん)

 この正月三か日、折にふれて見聞きしたラジオやテレビの番組は、やはり平素よりは多かったようです。心に残ったいくつかの番組を紹介します。

一、秩父困民党の生き残り、井上伝蔵
 一月一日夜、カーラジオで聞き始め、家に帰って後半ば録音したのが、このNHK文化講演、色川大吉氏「民衆史について」の一部分です。
 明治16年におこった自由民権運動の大暴動、有名な秩父困民党事件は、数千人の逮捕者をうみ、その中心人物はすべて死刑となりました。ところで、この運動の中でも有力な指導者であった井上伝蔵という人は、ほら穴にかくれひそみ、遂に逃げおおせ、北海道の北見に行って、そこで伊藤房次郎と名をかえて土地の女性と結婚して子供も出来、その地の振興の大恩人として人徳と共にたたえられて大往生したのです。それは大正六年のことで、実に三十五年の間、死刑囚としての汚名をかくし、官憲の追求をのがれる、いわば日陰ものとして生きながら、実に堂々と開けっぴろげに、地方の有力者としてすごしたわけです。その子供たちの記憶によると、「自分の親のことを、こんなにほめるのははずかしいですが、こんな人徳のある人間は日本中どこをさがしてもいないのではないでしょうか。どんな時にも顔色をかえず、人を責めず、おだやかで、悠然と芝居をたのしみ、俳句をつくり、夜眠っている時にも、夢をみているのでしょうか、義太夫をやり、歌をうたうのですよ」といった風情(ふぜい)です。
 「どこか、天の一角がつき抜けたような人でした」
 これが三十五年間、過去の秘密をかくして生きた人間の生きざまだったとすれば、実に驚嘆しますね。色川大吉氏いわく、「これは真実、死地を通りぬけた人間でないと、到達できない境地でしょうか」。
 こういう人物はしたわしいですね。クリスチャンでなくても、こういう人は知らずして受肉以前のキリストの光をうけて輝いているのです。青空も、朝やけも、夕やけも、すべて空気中の無数の塵が、太陽の光をうけて反射屈折することでおこる美しさだそうですが、この井上伝蔵などもキリストという太陽の光に映えるすばらしき宇宙塵の一つでありましょう(こういう時、この井上伝蔵はキリストを信じていなかったのだが天国に行っているかどうかなど、あまり詮索せぬことです。天国に行けるか、どうかはまず自分自身の問題であります。人のことはあとまわしにしなさい)。

二、野猿(石川県白山)のボス、母
 一月二日朝NHKテレビ。百匹の群のリーダーとして心血をそそぐボス。氷雨の中で集団を指導しつつ、とうとう挫折を感じたらしい。ボスの姿は見えなくなる。もう一つの話題、生後六ヶ月の仔猿を死なせた母親猿、群が去る時、死んだ仔を残すこともならず連れても行けず思いまどう母性愛、その悲しそうなうつろな目が印象的でありました。
 私の感想。群を生かす為、より強く、より良心的な人物(or動物)が、他の弱い者たちの為、先んじて苦しみ死んでいく。産んだものは産まれし子の為に愛をそそぐ。ここには弱肉強食、適者生存の進化論ではなく、弱いもの、愛されるものが生きのこる、〝贖罪的進化論〟がある、と思いませんか。

三、林竹二氏と水上勉氏の対談
 一月三日朝NHKテレビのかねてより尊敬している前宮城教育大学長の林竹二氏が、作家水上勉氏の真摯な質問にやわらかに答えていました。すべて〝イエス・アンド・イエス〟話法で多少水上氏に気をつかいすぎているのかと思っている中に、最後に水上氏が「分りました」と言って、紅潮した顔で(この時の水上氏の顔の美しさ!)、教育者の手法の原点に気づいていく、林先生の〝授業〟のみごとさ。名言三つ。
 「先生は、各自、自分の授業を作らねばならぬ」
 「最低の一人に努力をそそげ、他の生徒も自然についてくる」
 「先生が変らねば生徒は変らぬ」

四、戦艦ヤマト「テレサの死」
 一月三日、教会学校の子どものために取ってあったビデオ〝戦艦ヤマト〟のおしまいの処をみました。もう万事ダメかと言う時、ある星の王女(?)テレサは超次元の能力を発揮しつつ、自分の生命力を使い果たして、地球の敵である悪巨大戦艦を滅ぼします。美しい場面でして、涙が出ますね。―――さて、人類を滅ぼそうとして我々の周囲をめぐる執拗な悪魔に対し、生命をすてて救いの御業を為し給いしイエス・キリストこそ、宇宙最高のドラマです。
 この美しいアニメーション〝戦艦ヤマト〟にも私はキリストの光塵を見出した心地して感動したことです。あるいは異教的だとして、批難されるかもしれませんが、しかし時にテレビを見るのもいい事ですね。(釘宮)
 (1980.1.6週報「キリストの福音」より)












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by hioka-wahaha | 2017-01-24 15:32 | 日岡だより

No.782 《聖書のことば》3題(「さがせ!」ほか) 2017.1.8

《聖書のことば》 
さがせ!

「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」
(マタイによる福音書七・7)
 
 信仰とは、何も努力しないで、棚からボタ餅式に、何かをもらえることとばかり思っている人もいる。しかし、人が、神様より与えられている能力や知識を十分に用いつくすことは、神の喜び給う処である。
 今日、東京に行こうと思って、早天祈祷で飛行機に三人の席があるよう祈った。あとで電話すると、東亜国内航空は本日は一つも空席なしという。一瞬まどう。そばで妻が全日空は?と言う。全日空は一日一便しかない。あきらめていたのだが、二女がすぐ電話する。―――ところが、あきらめかけた席が、そこにあったのだ。「捜せ・・・」(11/28朝)
 (1979.12.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
嘆きのとき、いかに祈るべきか

「あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしのまわりに集まるでしょう」
(詩篇一四二・7下)
 
 詩篇一四二篇は、嘆きの祈りです。メソメソなげくのではない。声をあげ、叫び呼ばわる豪傑の祈りです。自分の弱さ、孤独、悲惨の現状を包みかくさず訴える、これ祈りの秘訣の第一です。次に、自分の逃げ込み場処、助け手としての神様を信じ、私はあなたの息子です、あなたの豊かな所有はみな私のものです、と告白します。神信頼の言い表わし、これ祈りの秘訣の第二です。そして、遂には私のまわりに正義の人々が多数あつまって大集団、大家族になるでしょう、と大なる期待を言い表わす。これ秘訣の第三です。
 (1979.12.9週報「キリストの福音」より)
  
 
《聖書のことば》 
主イエスよ、きたりませ

「「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ」
(ヨハネの黙示録二二・20)
 
 いよいよ、八〇年代に入る。
 一九八二年には太陽系において、九つの惑星のすべてが太陽の片側に寄ってしまい、しかも一直線に並ぶことが、天文学上の予測としてはっきり分っています。月の引力だけでも、潮の満干が地球におこります。まして、木星をはじめとするすべての惑星の片寄りです。科学者達は大地震、異常気象等地球上におこる不安な未来を予測しています。その時の惨状は石油不足などの比ではないかもしれません。今こそ、地球と人類の救主イエス・キリストを待ち望むべき時ではないでしょうか。
 (1979.12.30週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-01-17 10:38 | 日岡だより

No.781 自分を愛するように隣人を愛せよ 2017.1.1

自分を愛するように隣人を愛せよ
 
 精神分析学の創始者フロイトの弟子であり、学問の友でもあったと言えるA・アドラーは、心理学を実用的に研究し、それを成功せしめた人としては、先駆的な恩人です。彼に言わせれば、多くの感情障害の患者たちの問題は、その自己中心主義にあるのでした。彼らに「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という古くからの聖書の教えを与えると、そのほとんどがなおってしまうのでした。
 ある医師が憂鬱症の患者を診察していましたが、それが終るとこう言いました。
「一日だけ実験してもらいたいことがあるのですがね。明朝、目がさめたら、一日中できるだけ自分のことは考えないようにして下さい。そしてあなたの奥さんや子供たちを大いに幸せにしてあげようと、そのことを口にし、又それを実行しながら一日を始めてみて下さい。会社へ行ったら、同僚や部下や上司の人々の役に立つことを実行してみて下さい。これを一日やってみて、あなたにどんな変化があらわれるかをためして下さい。そしてその結果を来週私に教えてほしいのです」
 その翌日の夕刻、その患者から電話がかかってきました。
「先生、来週までなど、とても待っておれません、今日ほど幸福な日を送ったことはありません。こんなにすっきりとした、生き生きとしたことはありません。もう私は大丈夫です。どうすればよいか、よく分りました」
 与えよ、さらば与えられん、と聖書は教えます。人を愛する者は、自分も運命に愛しかえされるのです。
 
 だいぶ前、朝日新聞の投書欄に出ていた話です。ある奥さんの投書で、その奥さんのご主人がアル中だったそうです。題して「私は負けた」
「また夫は外で酒をのんで帰って来た。そして更に酒を出せという。私がいやがると、遂に自分でしょうちゅう瓶を探し出してきて、それをのみ始めた。私はがまんしきれずに泣いて、夫に訴えはじめた。その時、小学校五年生の娘がとび出してきて、夫の体にかじりついた。
『父ちゃん、酒をやめてや。父ちゃん、酒のんだらアホになるで。こら、酒出ていけ。父ちゃんが悪いんやない。酒が悪いんや。酒、出て行け。こら父ちゃんから、出て行け』
と、泣きながら夫の体をびちゃびちゃたたくのです。夫は胸をつかれ、青ざめてコップを手にしたまま、それっきり酒をやめてしまいました。
思えば、酒をやめさせようとして流す涙は、私の涙も小五の娘の涙も同じです。しかし、私は心の底で『このろくでなし。もう別れてしまいたい。あいそがつきた』と、うらみと怒りの涙です。しかし、娘の涙はひたすら父ちゃんを愛する子供の愛の涙です。私はこの娘の愛に負けたと思いました。」
 このような愛は、いかなるカウンセラーや精神病医にもまさる絶妙な「治療」をしています。愛は人を生かします。
 
 旧約聖書の創世記に出てくるヤコブという男は、利己心のかたまりのような人物です。彼は兄エサウの弱みにつけこんで長男の権利を奪い取り、目のわるい父イサクをだまして兄に与えるべき祝福を横取りしてしまいます。その結果、ヤコブは毒へびとさそりのすむ荒野へと孤独の旅(体のいい追放です)に出ることになってしまうのです。
 この苦難の旅は、ヤコブの心を反省させ、謙虚にもさせたのでありますまいか。一夜、神様は荒野の只中で仮寝するヤコブの夢枕に立って、彼の生涯を祝福し元気づけるのでありました。神の愛はヤコブにそそがれました。愛される価値なき者と自覚しているだけに、彼の感激はいかばかりでしたでしょう。彼の士気はいやが上にもあがり、勇気百倍して荒野をわたり、母の兄ラバンの地に辿りつくのであります。そこで美しい従妹ラケルに出会い、彼女のために結納がわりの十四年の労働をただ数日のように思われたという程、愛しとおしたのであります。
 神様の愛に感じてより、ヤコブは人を愛することを知りました。
 
 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と聖書は教えます。あなたも行って、そのようにしましょう。もし愛し得ないような人に会ったら、あなたの為に、神のひとり子イエス・キリストは十字架にかかられたことを思いおこして下さい。
 (一九七九・一〇・一四日曜説教「自分を愛するように隣人を愛せよ」を骨子にして)
  (1979.10.21週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-01-06 11:41 | 日岡だより

No.780 《聖書のことば》4題(「心の深みまで新しくされよ」ほか)

《聖書のことば》 
心の深みまで新しくされよ

「あなたがたが心の霊において新しくされ……」
(エペソ四・23)
 右の聖句は日本聖書刊行会の新改訳。日本聖書協会の口語訳によると「心の深みまで新たにされ」。傍点の「深みまで」は意訳であるがなかなかの名訳。しかし、やはり直訳の方が間違いがない。
 心は、いわゆる表面意識である。霊は心の源であって、人間の実存そのものである。そこは無意識界とも言える。意識が大きすぎて片々たる人の心に捉えにくいのだとも言えよう。その霊が罪を負っている、死んでいる、自由を失っている、と言うのが聖書。
 その心の源よりして救われ、新しくされ、清くされる事、それが福音だ。
 (1979.10.21週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
祈る人

「彼はいま祈っている」
(使徒行伝九・11)
 
 使徒パウロは、もともと行動的な人であった。また、よく物事を考える人であった。その後、神の光に照らされてより、よく祈る人に変った。「見よ、彼は今祈っている」とはパウロについてのキリストの証言である。
 動くだけで考えない人は、頭のカラッポな人間である。考えるだけで行動のない人は、ノイローゼになるだろう。よく考え、よく行動する人は、この世で成功する。しかし、愛のない、不遜な、狭い、暴力的な人間になりやすい。
 祈る、考える、行動する、この三拍子がそろった時、クリスチャンとしての人間像は完成する。
 (一九七九・一〇・二五原家集会にて)
 (1979.10.28週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
喜びのあまり

「一行は喜びのあまり、木の枝を振りかざし、神様の前で、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルなど、ありとあらゆる楽器を鳴らして、思いっきり踊りました。」
(サムエル下六・5リビングバイブルによる)
 
 これはダビデ王の一行が、神の箱をエルサレムに運ぼうとしたときの、彼らの喜びの様の描写です。ここには敬虔な宗教的雰囲気はありません。あるのは、日本のお祭りのおみこしかつぎのようなにぎやかさです。
 これも又、信仰生活の表われの一面です。神の子らが、幼児のように神の臨在を喜ぶ時、かくあるのも当然でしょう。
 隠者のような瞑想的静かさも、又必ずあるべきであるのも勿論です。
 (1979.11.4週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
キリストに接木せよ

「根がきよければ、その枝もきよい」
(ローマ人への手紙一一・16)
 
 良い木には良い実がなり、悪い木には悪い実がなる。なすに瓜はならず、オリーブにいちじくはできぬ。―――そこで、人間はうまい手を発見した。しぶ柿には甘柿の若木を接木し、西瓜はかぼちゃの根につなぐ。根からの養分を吸って、接木したおのおのは自分の果をそれぞれ産む。
 ところで、神様のなさる接木は植物栽培のそれとまったく反対、その結果がちがう。罪人をキリストという根に接木し、枝である罪人は自分の実をむすばず、根であるキリストの実をむすぶようになる。
 「聖霊の実」をむすべ。(ガラテヤ五・22参照)
 (1979.11.11週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-30 16:48 | 日岡だより

No.779 ただ、この儘で…… 2016.12.18

ただ、この儘で……

一、ただ、このままで、一言の申しわけもせず、
  あなたの血汐が、私のために流され、
  そして「我にきたれ」と私に命じ下さるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
二、ただ、このままで、一つの黒い汚点すら、
  私の魂より取り去られるのを待たず、
  あなたの血が、すべての汚れを潔め得るゆえ
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
三、ただ、このままで、悩みあるまま、
  多くのもだえと、多くの疑いと、
  内には戦いと、外には恐れと。されど、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
四、ただ、このままで、貧しく弱く、目も又見えず、
  されど、視力も、富も、心のなぐさめも、
  そうです、私の必要なものすべてを、あなたに見出すべく、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
五、ただ、このままで、あなたは私を受け入れ、
  喜びむかえ、許し、きよめ、救い下さる、
  そのあなたの約束を私は信じるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
六、ただ、このままで、あなたの無限の愛が、
  あらゆるとりでを打ちくだき、
  今や、私はあなたのもの、しかり、唯一あなたのものであるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
(シャーロット・エリオット女史の名歌。原田美実先生の訳詞を参照して口語訳した。讃美歌二七一番、聖歌二七一番の原歌である)
 
  • 先週の説教「百%を求める神は、又百%許す神」では上掲のシャーロット・エリオットの詩を紹介しながら語りたかったのです。百%の許しの神を知っていないと、人間は失敗した時に立ち上がれません。
  • 聖書はクリスチャンに百%の完全さを要求します。その良い例が、山上の説教と呼ばれるマタイ五章~七章です。「情欲をいだいて女を見るのはすでに姦淫をしているのです」とか、「汝の敵を愛せよ」とか言うところです。ガンジーやトルストイを感激せしめた有名な聖書の箇所であります。
  • しかし、たとえクリスチャンがどれ程信仰を燃やし精進したとしても、彼らもやはり人の子、必ず失敗します。そして、善良で真剣な人であればある程、その失敗に苦しみます。
  • 宗教改革者マルチン・ルターは「クリスチャンの生涯は、日々悔い改めの生涯であるべきである」と言いました。これは、クリスチャンになる時の唯一回的回心あ(日本語聖書では悔改めと訳してある。多少とも誤訳である)のことではありません。クリスチャンになって以後の、毎日の悔い改めをさすのであります。―――ということは、裏返して言えば、「クリスチャンとは毎日罪を犯すものの事である」とも言えます。
  • そんなバカな、と思われるかもしれませんが、気高き聖者程そのように自覚しています。「私は決して罪を犯していません」と言い張る人は、刑務所や大臣や議員諸君の中に多いのですよね。人は聖まれば聖まる程自己の罪を自覚し、汚れた自分を悲しみます。
  • しかし、クリスチャンとはそれだけではないのです。そのような私を百%根こそぎ許して下さる神の愛を信じ、その愛の許しに生かされるのです。
  • それが口先だけの信心、幻想的許しではない証拠に、クリスチャンは日々許されて、逆転的に聖潔にして完全なる勝利的人生を送るのです。百%の完全を求めた神は、又百%の許しを与えて下さる神です。そのようにして百%許されたクリスチャンは百%完全なる人生を送るべき目標をあらためて与えられます。
  • この完全なる人生を、全く完遂したとは決して言えないのだが、それを大胆に求め肉迫する生涯の実例を私供は聖パウロに見ることができます(ピリピ三・12~14)。論理としては循環論法的で矛盾して聞こえるでしょうが、実際にキリストの血により日々許される信仰生活を体験すると、よく分ります。
  • 浄土真宗や、遠藤周作氏の「弱さに徹する」式の信心と違います。現実の生活で勝利し、生きたクリスチャン・ライフを送る男性的信仰であります。
  • 生れつきの気質をあきらめてはいけません。キリストの血により、気質も必ず転換されるものです。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)
















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by hioka-wahaha | 2016-12-27 09:24 | 日岡だより

No.778 《聖書のことば》4題(「地下教会は今も」ほか) 2016.12.11

《聖書のことば》 
地下教会は今も

「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした」
(ヨハネの黙示録一三・17)
 
 これは、終末時の地上の経済制度の一端を示す聖書の予言です。戦争中の統制経済を体験している人は、このこわさがよく分る。政府は今、国民の税金や預金にコンピューターをつけて国民総背番号を打とうとしている。時代は刻々二四時に近づいている。共産主義国などでは教会迫害がおこって一部の教会は地下にもぐっている。日本には信教自由の憲法があるので、伝道も信仰も法律的には自由である。しかし、月給と終身雇用制で管理されている多数の日本人国民には本当の信仰と伝道の自由はない。日本にも一種の地下教会が必要である。
 (1979.9.16週報「キリストの福音」より)
 
  
《聖書のことば》 
神を見た者

「神を見た者はまだひとりもいない」
(ヨハネによる福音書一・18)
 
 「神なんてあるものか。あるんなら。あるんなら見せてくれ。この目で見たら信じるよ」などという。こういう人に限って自動車の内や外に神社のお守りやお札をつけたり、下げたりしているものだが……
 地球の引力なるものを目で見た人はまだひとりもいない。地球の引力とか、物質のエネルギーとかは、目には見えぬし、手でもさわれぬ。しかし、その真理をニュートンやアインシュタインは明らかにしてくれた。
 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいますひとり子の神(キリスト)だけが、神をあらわしたのである」。
 (1979.9.23週報「キリストの福音」より)
 
 
 
《聖書のことば》 
集まりましょう

「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」
(マタイによる福音書一八・20)
 
 たった二、三人でもよい、イエスを信じる者が、イエス様をあがめて集るとき、そこにイエス様の霊は居(い)るのである。そこにすでに教会があるのです。
 一人では、一本のろうそくのように消えやすいが、みんなの群の中にはいると、信仰の火も益々元気よく燃えるものだ。
 ですから、信仰を決心して、これから教会にも行きたいと思った方は、その決心をどうぞ実行されて、日曜礼拝に出席して下さい。教会はいわば、信者にとって母なる家庭であるのですから。
 (1979.10.7週報「キリストの福音」より)
  
 
《聖書のことば》 
三つの愛

「……神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、……はるかに大事なことです」
(マルコによる福音書一二・33)
 
 ひとりの律法学者は、この返事をしたゆえに、イエス様から大変ほめられている。適切な答であったのです。ここには三つの愛がある。(1)神を愛する、(2)自分を愛する、(3)人を愛する。
 ここで言う「自分を愛する」とは、いわゆる利己愛、エゴイズムのことではありません。自分自身の本当の我、神の生命につらなる実存を真理に沿って愛することです。自分を愛することを知らねば、人を愛することができません。そして、神を愛せねぱ、自分をほんとうの意味で愛し得ません。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-20 08:54 | 日岡だより

No.777 牢獄の賛美 2016.12.4

牢獄の賛美

「常(つね)に喜べ、絶えず祈れ、凡(すべ)てのことに感謝せよ」
 これは新約聖書テサロニケ人への第一の手紙五・16~18にあるお言葉です。
 ある時、使徒パウロが、ピリピという町で悪人にいつわりの訴えをされて、無実の罪で牢屋に入ったことがあります。シラスという弟子も一緒でした。ムチで打たれ、足かせをはめられ、石の牢にくさりでつながれ、その牢は一番奥の(多分地下牢)最もひどい所でありました。
 パウロとシラスは、その牢の中で泣いたりわめいたり、ため息をついたりなどしませんでした。ムチ打ちの刑は痛いものです。当時のローマのムチには肉をえぐり取るような金具さえついていましたから。傷も相当ひどかった筈です。その傷から来る発熱で体中がほてっていたでしょう。
 そういう二人でしたが、イエス様のために受ける迫害のゆえに、二人にとってそれは喜びであり、感謝でありました。自然、彼ら二人の唇には、賛美の歌が溢れ出ました。それは決して、やせがまんの、これ見てくれ、というような引きつった声ではありません。本当に喜びと感謝にみちた、しかも神秘な霊的な声でしたから、獄中の囚人たちがみんな静まりかえって聞いていたのです。
 その時、突然地震がおこりました。その監獄の土台はゆれうごき、戸は全部ひらき、みんなのくさりは解けてしまいました。牢番の獄吏はびっくりしてやってくると、このありさま、もうてっきり囚人達は逃げ出したものと思いこみ、責任を感じて剣をぬいて自殺しかけました。パウロは内から叫びました。
「早まってはいけない。みんな逃げずにここにいるよ」
 獄吏はかけ込んでみました。なんと囚人達はみんなおとなしい羊のようにパウロとシラスのそばに逃げもせずにすわっているではありませんか。
「これは神の人だ」
 思わず二人の前にひれ伏しました。早速二人を外に連れ出し、傷を洗い、今度はその水で獄吏は家族一同と共にバプテスマをうけたのでありました。
 
 昭和十九年の秋、私は福岡刑務所(この前までTVでやっていたマー姉ちゃん一家の住んでいた百道海岸のすぐそばにありました)の北一舎六二房にいました。私の囚人番号は九〇二番、厳正独居という奴で、絶対他の囚人と話を許されません。一日二回、看守に返事をするだけ、あとは口をきくこともありません。そのような日々の一日、十一月二十三日でしたが、その日の夕刻、神様の言葉が私の心に下り、私は一瞬にして私の国籍が神の国にある事が分りました。
「愁い多き獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」
 この時、思わず口ずさんだ短歌です。その時から、私の心にこみ上げてきて、とまる事のない感謝と賛美がありました。看守も同囚の雑役も「あんたのような人は見た事がない」とおどろいた程、独りを慎しみ、且つ歓喜に溢れている囚人生活であったわけです。
 私は、その時このパウロやシラスの信仰が少し分ったような気がしました。私は戦争中に刑期を終えて白眼視の世間の中に出てきたのですけれども、その中でも一向悪びれもせず、感謝の歌声はたえなかったように思います。
 今でも不思議に思いますが、青年という青年が戦地にひっぱられている時代に、二十三才の「非国民」の青年が召集も受けずに終戦まで市民生活をしたなど夢のようではありませんか。運動不足、栄養不足の刑務所上がりの身で、当時の軍隊にまわされて、私の刑歴を見られたら、いっぺんに叩(たた)きのめされて死んでしまった事でしょう。
 信仰は感謝をうみ、賛美をわかせます。賛美の歌のある処、運命の転回があり、悪運よりの解放がおこります。そして、ますます人生の自信をわかせるものです。
 (一九七九・一〇・四、佐藤家聖書集会にて)
 (1979.10.7週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-10 16:10 | 日岡だより

No.776 恐れるな 2016.11.27

恐れるな
   ――マルコ福音書第五章三六節――
 
 戦後、日本の山間僻地、津々浦々に、公民館なるものが出来ました。方々にある、あの小さな公民館は日本の社会史にある程度の評価を残すことでありましょう。ところで、二千年前のユダヤにあった会堂というのも、この部落公民館のように町々村々にあったらしくあります。この会堂によって、聖書をよみ説教を聞く、現在の教会礼拝の原型が出来上がっていたのであります。ただし、会堂には専属の聖職者はなく、その代りに会堂の管理人がいました。それはその地方に住む相当の名望家であったらしくあります。
 さてここにヤイロという会堂管理人がいました。彼の幼い娘が重病にかかって死にかけていました。そこでイエス様のところに来て、その足もとにひれ伏して切に願いました。「どうぞ、この子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。当時の上流階級の人々は大体において新進宗教家イエスに対して反感を示していましたので、このヤイロの態度は特筆してよいのであります。
 
 イエス様はこころよく承諾してヤイロの家に来てくれることになりました。ところが途中で、「十二年長血を病んだ女」の飛び入りがあって(マルコ五・25?34)、時間はどんどん経過し、ヤイロはいらいらした事でしょう。やっと長血の女の一件が落着して気を取り直して歩き始めた時、ヤイロの家より使いの者がきました。
 「ご主人様、お嬢さんはなくなりました。もう、先生に来て下さらなくてもよいのではないでしょうか。」
 その使いの者の言葉を聞き流して、イエス様は力強く言うのでした。
 「ヤイロよ、恐れるな。ただ信じるのみだ」
 
 このお言葉は、よく考えてみると、不思議なお言葉です。イエス様を信じ、イエス様にお願いし、イエス様にお供してここまで来た彼に、娘の死の知らせです。そのガクンときているに違いないヤイロに向って、
 「がっかりするな、絶望するな。信じ続けよ」
 と言うのなら分ります。ところが、なぜ「恐れるな」と言うのでしょうか。この時、イエス様はヤイロの深層心理に深く喰い込んで洞察しているのであります。ヤイロは、たしかに娘の死のしらせを聞いて、がっかりし、絶望もしました。しかし、その根にはもっと深い恐怖心があったのです。
 「おれの運命はいつもこうなのだ。
  おれの一生はいつも手おくれであった。
  又、例の悪運がめぐってきたのだ。
  おれの一家は悪霊にとりつかれているのだろうか。
  娘もついに死んだ。
  こんどは何がくるというのだ。
  ああ、たまらない、たまらない」
 
 悪い知らせを聞いたとたんに、心が凍りついてしまって、その事態の好転を予測したり、評価を転換したりすることがへたな人が多いのです。そして、いたずらに前途を悲観して、恐怖心で一杯になるのです。
 私が印刷会社を営んでいる時、ある営業員が大切な原稿を失ってしまいました。彼は顔をまっさおにして今にも鉄道自殺しかねない様子です。人様が一夜かかって書き上げたような書き原稿は他人ではどうにも償ないようのないもので、気の小さい営業員だったら本当に死にたくなるような事件なのです。しかし、私はこういう時こそ、お得意さんと腹を打ちわって話しあえる絶好の機会と知っているから、勇気百倍して出かけるわけです。こういう時に、しばしば心の友、生涯の友が出来るものです。絶望もくそもないのです。神を信じているものなら、恐れず大胆に、信仰一つをもって相手にぶつかっていくのです。そこに、解決のメドがつくものです。
 ヤイロは、イエス様について行きました。すでに娘は死んでいました。しかし、間もなくイエス様の一言によって娘は生きて起きあがり、奥さんは早速、娘のために食事の用意をせねばなりませんでした。
 「死」を聞いても「生」を信じ、「生」を期待しましょう。病気になっても、得意の原稿を失っても、商売が破産しかけても、「恐れるな!」。恐怖をすてると、良い智恵や、良い方法が見つかるものです。
 (一九七九・九・二二説教「最善を神に期待せよ」の一部を筆記)
 (1979.9.30週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-11-30 23:00 | 日岡だより