カテゴリ:日岡だより( 630 )

No.797 《聖書のことば》あなたの人生に奇蹟を/聖句暗記のおすすめ(6)/私の信仰記(5) 生、それは悪か 2017.4.23

《聖書のことば》聖書暗記コースA~7 
あなたの人生に奇蹟を

祈り「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ一五・7)
 
 一少女の言葉が、ある時、一瞬に青年の心をとらえ、その後の生涯を方向づけ、一生の活動エネルギーの源泉となる、というような「純愛物語」がよくある。(ダンテにおけるベアトリーチェのごとし)
 聖書の言葉(その片言隻句でも)が、聖霊によって心にとびこんでくる時、そしてその言葉が、こばみがたい定着力をもってあなたの魂にとどまる時、あなたの人生におどろくべき奇蹟がおこるであろう。
(1980.5.18週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(6)

 五月一一日の主日礼拝の証詞の時間に、O姉はこう証ししました。「記憶力のまったく零にひとしくなっていたと思っていた私が、先生の言われるとおり聖句暗唱をしていたら、どんどん覚えられるようになり、今ではほんのすこしの時間で覚えられるようになりました。聖書の言葉は、まことの食物です。これを食べて、血と肉にしましょう」。
 またS姉も言いました。「牧師先生が今、聖句暗唱を熱心に提唱されています。これには神様よりくる深い意味があるのだと思います。こうした教会の流れに乗って、スナオに実行すれば、それだけ得るものがあります。私は始めのうち、正直いってそれ程の効果を期待していなかったのですが、先生のおっしゃるとおりバカ正直に、手振り身振り詩篇を暗唱しているうちに、御言葉は血となり肉となり、私の全身全細胞が躍動しているような心地がしています。聖句暗記をぜひおすすめします。特に、体の所作をつける全身暗唱をおすすめします。」
 〔注意〕聖句暗記を律法的におすすめしているわけではありません。これをしなければ救われないとか、信仰が成長せぬとか、そんな事は絶対にありません。
 (1980.5.18週報「キリストの福音」より)


生、それは悪か
――私の信仰記(5)――
釘宮義人
 
 私の少年時代から青年期にかけて、二人の親友がいました。一人は安部君といって、胆力といい、とっさの判断力といい、交渉力、記憶力、すべて抜群。特務将校として平服でフィリピンに単身赴任、山下将軍の直属に入った、というきり、消息不明。今でも、どこからか、「よおっ」と現れてきそうで、私たちにそう思いこませている幻の怪物。もう一人は、荒巻君といって、これは女性的繊細さ、直感と詩情に富む天才児。彼は病を得て、父君の建ててくれた別府市山の手の別荘に、ばあやと二人で保養の生活。昭和十六年初夏の頃、私は彼を訪ねたのですが、その時、彼の様子がそれまでと一変していたのです。
「おい、人間はなぜ生きねばならぬのだろう。俺達は生きていれば生きている程、悪をおかす。今、死んでそれで、これまでの悪業がつぐなえるわけはないが、少なくともこれで悪業のピリオドを打つことはできる。人間は生きねばならぬ、ともかく生きているんだから……と、これを前提とする、生は善だという哲学ほど卑怯な考えはない。死こそ、善いことだ、こういう哲学が生れぬものかねえ」
 私は、その時、彼の内面におこっている葛藤の深刻さに驚倒しつつも、少年期をまだ脱せぬ若者の無頓着さで、答えたのです。
「そのような死の哲学が出来上がったら君、死ということの性質上、論文など書くヒマも見えも気負いもない、その人は、即刻死んでしまうじゃないか」
 その時、彼は黙っていました。そして私達は別れました。「おい、又会おう」。しかし、その夜、彼はガス管を引き込んで自殺したのです。
 彼の深刻な罪悪意識は、彼を遂に死においやりました。私の最後の言葉は彼の自殺行を更にドライブ・アップしたことでしょう。
 私は、その時まで少女趣味とも言うべき詩や小説をひねりまわしている文学青年でした。しかし、その時より、私は文学をすてました。生と悪と死の問題は、私の脳裏を四六時中離れませんでした。
 罪意識のゆえに死をさえ選んだ親友のきびしい人生感覚が私を圧倒して、罪意識に苦しむというよりは、私は自分の罪意識の浅薄さに苦しむという奇妙なことになって来ました。当時は戦争の時代です。私は生と死、罪と救いの問題を敬遠して、非戦主義と平和論に頭を没入させました。一つの逃避だったのです。そうして第一回の記事のような事になるのです。
(1980.5.18週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-04-30 22:00 | 日岡だより

No.796 《聖書のことば》繁栄の秘訣/無力の底で……/証しについて 2017.4.16

《聖書のことば》聖書暗記コースA~6 
繁栄の秘訣

みことば「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(ヨシュア一・8)
 
 これは詩篇第一篇と共に、人生繁栄の秘訣と、呼んでよい所です。
 スポーツをやる人は、正しい身のこなしでルールを正しく守って、勝利する。
 人生の競技場でも、正しいルールに従い、正確・迅速・力づよい身心のこなしが必要。そのためには、聖書を昼も夜も思う(新改訳では口ずさむ)のが最も身近で、たやすい訓練法です。聖句を暗唱しよう。
(1980.5.11週報「キリストの福音」より)


無力の底で・・・・・・

 神が生きていて下さる、という、
 これよりすばらしいことはない。
 私の身の周りに、何がおころうとも
 私は、神の御計画の中にある、という
 これにまさることはない。
 
 私の人生の過去も、未来も、すっかり、
 神の御手にゆだねてしまい、
 御心のままになるように、と祈るばかり。
 
 今、ここに在って、
 主の霊の力と愛が、上より溢れてくだる。
 私は、ただただ無力になって、
 主を仰ぎ、主にゆだねるばかりだ。
 
 私は、無力そのものだから、
 がんばらない、あせらない。
 流れる時間に身をゆだね、
 魂の主に、魂の行くてをゆだね、
 ささやかれる御ことばに
 一歩一歩、従うだけだ。
 それで効果があろうと、なかろうと、
 失敗であろうと、成功であろうと、
 人間の目に見える所に拘泥せぬ。
 無力な私は、しかり、
 今更、拘泥する余力もない。
 
 生かされて、生きている私は
 罪も過失も、今は神の忘却の中へ・・・・・・
 悔い改めも、つぐないも、
 かの篤信の人々のようには、
 私の力では、うまく行きませんでした。
 この最悪最低の人間を
 生かす力は、あなたの臨在なのです。
 
 私が悔い改めて、私が信じて、
 天国に行くような具合には、
 私は行きませんでした。
 私はただ、私にかわって、
 信じ、祈り、死に、生きて下さる、
 キリスト様、
 あなたを信じるのです。
(一九八〇・四・三〇・くぎみや・よしと)
 (1980.5.11週報「キリストの福音」より)
 
  
証詞について

 いつも、礼拝時には良い証詞をして下さって、感謝しています。特に、先週の聖日礼拝においては、ぞくぞくと七人の兄姉らが壇上に立たれ、それも皆、真摯な喜びと勝利にみたされた証詞で、本当にうれしかったのです。今後も、どんどん前に出て、皆さんの信仰の証し、神様への感謝、祝福と勝利の実例等を大胆に発表して下さい。(感想発表や研究発表といった形式にならぬよう、神様へのささげものと言った気持で、真剣な態度で語るのが好ましい)
 人数が多いと、時間をとられて礼拝時間ものびる可能性はありますが、心配せずに語って下さい。慣れないと、異常に短くて尻切れトンボになるか、同じ事をくり返してくどくなるか、どちらかになりやすいが、慣れぬ間は当然なことです。まず前に出ることに意義があり、次に心底を発表することに意義があります。遠慮せずに出て、あなたの証詞を神と会衆の前に発表しましょう。
 自分の証詞は、必ずあとでテープで何度も聞いて下さい。言いまわしのへたな所や、方言や文法は気にする必要なし。内容の貧しさ、表現の誇張、度のすぎた卑下、下品な笑い、不信仰な言葉、語り口に不平や空虚な感じ無きや等に耳をとがらせよ。(釘宮)
(1980.5.11週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-04-28 09:40 | 日岡だより

No.795 《聖書のことば》信仰生活を建て上げる為に/聖句暗記のおすすめ(5)/ 神の救出作戦 2017.4.9

《聖書のことば》聖書暗記コースA~5 
信仰生活を建て上げる為に

みことば「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(第二テモテ三・16)
 
 聖書の第一の目的は、「キリストについて証しする」ことにあると思います(ヨハネ五・39)。キリストという土台を抜きにしては、いくら善行愛業をはげんでも砂の上の家のように倒れ流される日が必ず来るのであります。
 しかし、キリストの証しが、あなたの霊に植えつけられているのなら、その上に健全な信 仰 生 活(クリスチャンライフ)を建て上げることができます。その時に必要な最大の設計書と手引書は、やはり神の霊感の書、聖書なのであります。
(1980.5.4週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(5)

 朝晩十分間、全身全霊で練習しよう。
 先週、礼拝のとき、証詞の時間にS姉が詩篇第一三九篇の暗唱をした。立木稠子さん主宰の心理音声学研究会でやっているパントマイムの訓練の成果で、みごとな手振り身振りつきの朗々たる暗誦である。前にも書いたが、この手振り身振りが良いのです。これは余分な負担になるどころか、かえって早く印象ぶかく覚えられるはずです。へたでよい、自由発想の身振りでよい、霊舞でもやるつもりで試みて下さい。もう一つ大事なことは、声。細々と遠慮した声でなく、堂々と腹の底から出る声で、朗々と練習して下さい。
 聖句暗記のために、夜寝る前に十分間、朝おきた時にもう一度十分間、時間を取って下さい。この間は精神を集中して下さい。精神集中ということは、ことばだけ聞くとむつかしく感じますが、具体的に実行すればかんたんです。要するに、聖句カードを手にした時、その聖句の意味を一句一句よく考え、味わいましょう。そして、目は文字を見る、指はその文字を追う。声を出して読み、その声を耳は聞く。その時、体をはずませ、首も振るようにしてリズムを取るのです。こうしてあなたの肉体、精神のすべてを使って覚えようと、心を方向づけるのです。実行してみて下さい。
 (1980.5.4週報「キリストの福音」より)


神の救出作戦
   ──カーター大統領への進言──
 
「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」(ヘブル二・17)
 昨日(四月二六日)の新聞によれば、アメリカがイランにおける人質救出作戦に失敗した、という大変衝撃的なニュースがありました。私は、こういう時、すぐ信仰的な事を考えてしまいます。
「さよう、このように、相当に訓練したはずの大国の軍隊でも失敗してしまう。しかし、神様は何事でも決して失敗なさらない」
 私たち人間は悪魔の手中に捕えられ、あたかも人質のごとく罪の中に呻吟していたが、神はその救出作戦に成功されたのだ。聖書はヘブル三・一七で「罪をあがなう」と書いてありますが、このあがなうという言葉は、ドレイを買いもどし捕虜を奪還するという言葉です。サタン(悪魔)のドレイであり捕虜であった私たちを救出するために、イエスは私たちと同じ姿となり傷を負われ、命をすて、地獄にまで侵入して、あらためて復活され(死の大王であるサタンに勝ったのです)天にがいせんされた。こうして、私たちはサタンの手中より解放されたのです。
 さて、そこで私はしろうとでありますが、声が届くならカーターさんにこう言いたいのです。
 カーターさん、大統領の地位はもう捨てる覚悟でいなさい。後事は、副大統領なり、政敵ケネディやリーガンさんにまかせて、あなては単身イランにとびなさい。人質の身代りになって、まず人質を解放させなさい。武器も護衛もつけず丸腰でホメイニやイランのトップに会いなさい。殺されれば殺されてもいいと覚悟しなさい。真実と愛をもって交渉しなさい。対イラン政策における、これまでのアメリカの罪も、あなたの正直に感じるまま(おどされ、妥協してではない)告白しなさい。かつて、チェンバレン英首相がヒトラー相手に人のいい交渉をしてウカウカと失敗した、あんな二の舞をする必要はない。アメリカの国益と世界の平和の為に充分腰の強い外交をしなさい。勝利しなさい。
 今あなたに必要な事は、この最大の非常事態にあたって、イエスのように十字架を自分の身に負い、罪人と同じ姿になって捕らわれの身となり、おのれの民を救い、命を捨てて敵に当ることです。
 カーターさん、あなたはすばらしいクリスチャンだそうです。私の言う処が分ってくれると思います。(一九八〇・四・二七テレホン聖書より 釘宮義人)
 (1980.5.4週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-04-21 19:57 | 日岡だより

No.794 《聖書のことば》御ことばを貯えよ!/聖句暗記のおすすめ(4)/私の信仰記(4)入る息に、呼く息に 2017.4.2

《聖書のことば》聖書暗記コースA~4 
御ことばを貯(たくわ)えよ!

キリストへの服従「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネによる福音書一四・21)
 
 子はだれでも父を愛します。それが本性というものです。しかし、父の言葉を聞かず、これを守らないものは、しだいに父を遠ざかり、父を愛することが苦しくなります。そして本来愛すべき父もにくらしく思え、父の愛は又かえって怒りに見えてきます。
 キリストの言葉を聞き、これを心に貯えなさい(コロサイ三・16)。御言はこうじ菌のように発酵して、あなたの心を変えます。
(1980.4.27週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(4)

 心を変えよ
 記憶力のことについて、もう一つ言いそえます。これまで記憶力が悪いと思っていた人の多くは、記憶することを大儀なことだと思って、記憶しようとする意志を投げすてていたにすぎないのです。悔い改めて(心の向きをかえる)、「必ず覚えよう」と心の態度をかえなさい。祈って喜んで、記憶カードに向いなさい。決して、大変容易であるとは保証しませんが、案外たやすく覚えられるものです。
 聖句暗記は神のご命令である。
 申命記六・六を見て下さい。「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め」。新改訳では「……あなたの心に刻みなさい」。つづく同章七節、八節では、これらの御言を子どもに教え込み、家でも道でも唱えなさい。これをしるして手にむすび、額におき、門や柱にしるしなさい、などと念には念を入れて、教えてくれています。
 聖句を暗記することは、神様の御心であり、命令であります。そして、その暗記するための方法(心に刻み、教え、口に唱え、手にカード、壁や柱に聖句色紙等)さえ具体的に教えてくれているのです。
 (1980.4.27週報「キリストの福音」より)


入る息に、呼く息に
――私の信仰記(4)―― 
釘宮義人 
 
 昭和一九年二月、私は大分刑務所より福岡刑務所へ押送(当時の行刑用語)されました。大分検事局で、「お前のような非国民は刑務所に送って使い殺してやる」と検事にどなられましたが、いよいよその本番の刑務所行きでしょうか(大分の刑務所は当時は小さくて、仮収容所という感じでした)。
 青色の囚人服(獄中では普通赤着物です。外に出る時は青着物をくれます。青色の方が、少しは位が上なのです)を着て、顔を寒風にさらして、生れ故郷の大分駅のプラットホームに立つことは、さすがにつらい事でした。たまたま、同町内で顔見知りの婦人がホームにいて、刑縄につながれている私を見て見るに忍びなかったのでしょう。顔をそむけてくれました。
 しかし、汽車に乗って連れられていく囚人の心は、存外恥かしさも忘れて嬉しいものであります。それ程外の様子がなつかしいのです。一つには、囚人というドン底の位置に据えられると、人間は居なおったように腰もすわるという事ですね。パウロの言う「キリストの囚人」という時、どこかそれに似た感慨があると思います。
 さて、福岡の刑務所にきた私は、本来厳正独居房に入れられるべきだったんでしょうが、一時あやまって雑居房(囚人が八人から十数名くらい収容されている)に入れられ、そこから昼間は工場に行く(刑務所用語で、おりる、という)のです。工場では、最初軍用の落下傘に使うズック地の袋縫い、次に飛行機製造用のジュラルミンのナットの修正作業でした。作業台のそばに立って、今にも崩れおちてヘタヘタと坐りこみそうな、空腹と衰弱の故に、私は目も舞いそうでした。
 私はその時、橋本鑑という牧師の「福音的称名序説」という本を思い出しました。それは仏教の念仏のように「インマヌエル・アーメン」と主の御名を呼び求めるという、とてつもない教えでした。私は後年、一燈園に行って、そこの鈴木八重造さんに会って、当初橋本先生が、その「称名的キリスト信仰」に入るきっかけになった人物の事などを聞きました。ともかく、私は監視のきびしい行刑工場の中で一瞬一瞬吸う息にキリストを念じ、呼く息に御名を呼びました。そのようにして一ヶ月ほどした時、担当看守が私を呼びました。
 「お前は変っとるのう、今日から役付にしてやる」
 雑役囚をとびこえて平の囚人の人事(?)を看守が扱うのは珍しい事です。ともあれこうして、私は役付(食事がふえる役得あり)になったのでした。
 (1980.4.27週報「キリストの福音」より)
 


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-04-14 15:01 | 日岡だより

No.793 《聖書のことば》献身/聖句暗記のおすすめ(3)/私の信仰記(3)窮地に徹する 2017.03.26

《聖書のことば》聖書暗記コースA~3 
献身

キリストへの服従「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」
(ローマ人への手紙一二・1)
 
 礼拝のプログラムに献金という時間がある。これは本当は、「献身」とすべき所ではないかと、よく思う。お金を献げさえすればそれで良い、というものではない。真の礼拝は、この生きた体を神に供えることにある。
 パウロの手紙、この文章の冒頭、原文ではパラカロー(勧告する)!、強い言葉です。信者になった者に対する、パウロの真剣なアッピール(英訳)なのであります。
(1980.4.20週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(3)

 自信をもて
 記憶力が無いということに自信のつよい人が多い。案外、小学校時代に九九の掛算や漢字の学習に難渋したなどという経験が、そういう記憶不安を生み出している事が多いのです。記憶するには記憶するためのコツがあります。映像法や歌誦法はいい例です。映像法は今、ベテル聖研でやっていますね。歌誦法の好見本は掛算の九九(世界に類を見ない日本独得のもの?)や、鉄道唱歌の曲で歌う聖書名目づくし等です。
 筋肉を使うことにしろ(すべて技術は筋肉のわざである)、頭脳を使うことにしろ(すべての技術は脳のわざである)、そのコツは案外簡単だからして人づてに習得するのが得策です。しかし、その基本に最大に必要なのが自信です。聖書→「信ずる者には、すべてが可能である」(マルコ九・23英訳)。わたしたちは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ四・13)。
 つけ加えたいのが攻撃精神です。天国でさえも激しく攻めるものが、これを奪うのです(マタイ一一・12)。さあ聖句暗唱に取りくみましょう。激しく熱心に取りくむと自信もまた、湧いてきます。
(1980.4.20週報「キリストの福音」より)


窮地に徹する
――私の信仰記(3)――
 釘宮義人 
 
 昭和一八年一二月の中頃、私は警察より大分刑務所の未決監に移されました。さっそく木綿の囚人服、いわゆる赤着物を着せられました。すぐに、母が面会に来ました。その翌日、母からの差し入れで、かすりの着物が届きました。ところが、その着物というのが、うすい肌着と、ひとえの着物と羽織です。母は多分あの赤着物の上に、かすりを重ねて着ればいい、と思ったのでしょう。しかし、看守はそうはさせてくれないのです。規則か意地悪か知らぬが、これまでの官のものは全部脱ぐのだと言います。母からの着物の差し入れで、やれ嬉しや、思ったのが、とんでもない。看守からせきたてられて、あわてて着かえて、監房でひとりホッとして座ったトタン、寒気に身ぶるいして、私は「大変なことになった」と気づいたのです。木綿の洗いさらしの官衣の方が余程あたたかかったのです。
 十二月の寒さ。空気抜けから雪のふりこむ監房に、勿論火の気はない。おまけに、私の体は長い留置場生活のおかげで衰えきっている。気をゆるめたら、いっぺんに風邪をひいてしまうでしょう。夜、寝ている間も、たとえ眠っていても一瞬も気をぬかれません。二十四時間、緊張をつづけて私は寒さと戦いました。二、三日して、母はこの事を知って驚き、あわてて下着や丹前などをもって来ました。そのあたたかい衣類にくるまって、極楽に行ったような気分になったことを、今でも忘れる事は出来ません。ガンバリズムのきく人には何でもない事かもしれませんが、生来体が弱く、おまけに母に甘やかされて育って、柔弱であった私には貴重な経験でした。
 同じ頃、奥歯の大臼歯がムシ歯で痛み出し、看守に訴えるけれども、
「非国民のくせに、何をぜいたく言っているんだ。第一ムシ歯ぐらいで、死にはせん」
 相手にしてくれません。ああ、これはもうあごの骨までくさってしまうまでは取りあってくれないな。それまでは二年でも三年でも歯の痛みはガマンするより仕方ないな。そう覚悟したら、その晩ぐっすり眠ってしまい、翌朝少しも痛みません。その歯は大きな穴をあけて、ついこの前まで私の口の中にありました。
 人間は逃げ場の無い所に押しつめられると、徹しきるほかありません。そして窮地に徹するということは信仰に入る手前の最も良い訓練の学校であります。
 少年時代、軟弱に育った私には、信仰の事は抜きにしても非常によい鍛錬の場所であった事はたしかです。
 (1980.4.20週報「キリストの福音」より)



[PR]
by hioka-wahaha | 2017-03-31 23:00 | 日岡だより

No.792 《聖書のことば》生きているキリスト/聖句暗記のおすすめ(2)/イエスの断食 2017.3.19

《聖書のことば》聖書暗記コースA~2 
生きているキリスト

キリストが中心「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人への手紙二・20)
 
 禅の世界的紹介者であった鈴木大拙はこの聖句の前半をとって、これこそすべての宗教の真髄である、と言いました。しかし、この御言葉の持っている真理は禅以上です。鈴木大拙の未だ知らぬ所です。
 キリスト様、神のひとり子なる、あのお方が、個性的に、人格的に、私の内に生きて下さること、この事実こそ、キリスト教です。
(1980.4.13週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(2)

 暗記は暗唱から。暗唱は熱烈反復、声と身ぶりで。
 学問することを、日本人は「勉強」という。「強(し)いて勉(つと)める」わけだ。始めから、学問はつらい事と恐れている。――さて、ユダヤ人は学問することを「ミシュナー」と呼ぶ。反復・復唱のことである。ユダヤ人は、数千年前の昔から、聖書を反復して、その文字に指をあて、目で読み、口で唱え(抑揚をつける)、その声を自分の耳で聞き、体をゆりうごかし、全身全心を用いて暗唱する。これがユダヤ人の秘訣である。
 脳のシナプス作動は、反復するほど、電気抵抗をへらして微電流の流れが良くなる。記憶力は筋肉に似て訓練で必ず強くなり巧みになる。覚えかたが上手になるのである。今、日本語をしゃべれている人なら心配はない。記憶力は充分である。自信をもって聖句暗唱を始めなさい。
 毎日、少時間の練習。継続が大事。腹の底から、しっかり声を出す。熱烈に感情をこめよ。手ぶり身ぶりを加えよ。一句一句をマスターして次の一句に移る小刻み前進だ。一度覚えた聖句は何度も反復暗唱して脳に刻みこむ。人に聞いてもらえ。お世辞でもよい、ほめてもらえ。早速未信者に語って聞かせよ。(1980.4.13週報「キリストの福音」より)

 
イエスの断食

荒野
 人は、一人前になるためには、訓練を必要とする。「全き人、イエス」は、その例外ではない。聖霊はイエスを荒野へ追いやり(マルコ一・12)、サタンは彼を試みる。荒野は神の子の教室である。失敗、貧乏、病気、離散、すべて、これ人生の荒野である。
 荒野という言葉は、ヘブル語では元来「語る」という動詞から出ているのだ、と言う。荒野とは人も居らず、声も無い所のはずであるが、そこである少数の人人は神の声をきく(沢崎堅造「新の墓にて」一七一頁)。しかし、その前に、まずイエスが聞いたのは、サタンの試みの声であった。それが、やはり、荒野というものであろう。

餓死直面
 イエスの四十日四十夜の断食は、パンも水も口に入れぬ徹底的断食ではなかったかと思われる。健康法や精神統一のための計画的断食ではない。聖霊に追いつめられ、荒野の真っ只中でさせられている断食である。その後にくる空腹は、二、三日断食して「おなかがへった」という程度の空腹なのではない。餓死寸前の恐るべき断食である。私たちが時々やる、断食祈祷とはおよそケタの違う断食、死に直面した断食なのである(マタイ四・2)。

石をパンに
 「石をパンにせよ」とは、イエスにとっては空想的誘惑なのではない。神の子キリストにとって実行可能な「石をパンに」という誘惑であって、すぐにも手が出そうな誘い文句なのである。出来もせぬことを、幻想して白日夢のように脳裏に描いているのとは違うのである。

パンによらず・・・・・・
 「人はパンだけで生きるものではない」、この言葉を、餓死に直面してイエスが使われる時、そこに、異常な緊迫感と拒否権発動の示威を感じる。今にも死に崩れいきそうな体を、神の言のみで生かそうとするイエスの決意が見られる。「人はパンも必要である。神の言も必要である」と言う、二股かけての言い方をして一面、肉体人間の現実を了解しつつも、御自分の身の処しかたとしては、パン必要主義に一歩もくみしない、イエスの中にある「荒野の声」が、ここに聞える。

一つ一つの神の言
 ここで、神の言というのは、単なる聖書の言葉というより、神の口から直接語りかけられる──それはけだし、荒野こそ、それが語られる最もふさわしい場所である──一つ一つの、体験と具体性に即し、身魂に刻みこまれる神の語句(レーマ)なのである。この神の語句(レーマ)こそ、クリスチャンの真のパンである。(一九八〇・四・六祈祷会)
(1980.4.13週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-03-31 10:30 | 日岡だより

No.791 すべてが新しくなる/聖句暗記のおすすめ/苦痛の意義 2017.3.12

《聖書のことば》聖書暗記コースA~1 
すべてが新しくなる

キリストが中心「 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」
(コリント人へ第二の手紙五・17)
 
 今、沖縄の那覇市ですばらしい伝道をしている田中菊太郎牧師。少年時代はひどい非行を重ねて、ついに少年刑務所入り。そこでも悪事をたくらんで、医者をだまして病気になりすまし、病舎でなまけていました。そこで暇つぶしのつもりで読んだのが、聖書。短いキリストの御言葉の一句が、彼の心を捉えました。彼の良心はめざめ、一気にキリストの御胸にとびこみました。そして、全く新しい人、神の子として生れかわったのです。
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(1)

 今週より、巻頭の《聖書のことば》に、国際ナビゲーターという宣教団体によるカリキュラムに従って、信徒である方々に、ぜひ暗記してほしい聖句六〇句を、毎週載せることにします。一週間に一句ずつ暗記することにしたいのです。いかがです、さっそく始めませんか。
 聖句の上に書いている短い言葉(この号の例で言えば、「キリストが中心」)を主題(テーマ)と呼びます。このテーマと、本文の聖句と、引照箇所(この号の例では、コリント第二書五の一七)の三つをいっしょに覚えて下さい。
 あなたも必ず聖句暗記が出来る
 聖句暗記はこれまで何度もやろうと思って始めてみたが、結局失敗した。継続的努力は苦手である。私は記憶力がバツグンに悪い。そうお思いの人も、今回はぜひ始めてみて下さい。必ず、やれます。お手伝いもします。さァ、決心しましょう。秘訣の第一、まずカード(名刺型カード、教会にあり、無料であげます)に書いて英語単語式に手もとにおいて復習する。第二は二、三人のグループを作って一緒に練習する。(記憶力増進法を来週書きます)
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)


苦痛の意義

 苦痛の持っている問題点の第一は、もちろん、その痛みそれ自身です。現に今、痛くてたまらぬ、という痛みの現実性です。「手軽に傷をいやして、……平安、平安と言う」(エレミヤ六・14参照)という手合が多いのです。そういう気安めのなぐさめ言葉に、「なぐさめられるのも厭(いと)う」(マタイ二・18文語)ほど苦痛の中にいる人は痛むのです。まして、心無い人々の快活な歌声は、「傷の上に酢をそそぐよう」(箴言二五・20)なものであります。
 苦痛の第二の問題点は、それが当人にとって不公平に見えるということであります。なぜ、世の人が私よりも幸福であるのか、なぜ私のみ患難にあうのか、私よりも悪人と見える人が、ぬくぬくと安穏な人生に喜んでおり、神様に忠実に従おうとしている自分が、こんなひどい目にあっている、神様の私へのなさりかたは不当である、神様の手は不公平である、この不平、不満、うらみの心が魂にいっぱいになるのであります。
 にもかかわらず、聖書は詩篇第一一九篇七一節で「苦しみにあったことは、私に良い事です」と告げます。なぜか。神を信じる者にとって苦痛は次のような良さ(意義)を生み出してくれるからです。
 第一。その人を成長させます。単なる知識や技術であるならば、苦労なしに(遊びと興味による教育という幼稚園方式です)身につけさせることも出来るでしょう。しかし、「愛、寛容、平和……」などという人格的成熟は試練なしには与えられません。患難は忍耐を生み、忍耐は生きる能力を上達させます(ローマ五・3~4)。然り、苦痛に対処する最大の態度は忍耐であります。忍耐さえしていれば、何ごとかが生れてくるものであります。
 第二。他の苦しむ人をなぐさめる力を得ます。コリント第二書一・4~6をご覧下さい。そこで、パウロは、「自分が患難をうけて神様よりなぐさめられる、その力で他をなぐさめることが出来る。私が大きな苦しみにあうのは、あなたがたのなぐさめと救いの為である」とさえ言っています。
 第三。故に、苦痛はキリストからのこされた「遺産」の一部であり(コロサイ一・249、苦痛をとおしてクリスチャンは、神の民であるのみならず、祭司と呼ばれ得る(黙示録一・6)ものになるのであります。
 第四。尚、苦痛は、その故に神をのろい、つぶやく罪をさえ自戒すれば、罪を犯すことを止める、良き防錆剤であります(ペテロ第一書四・1)。(一九八〇・三・三〇主日礼拝説教「キリストの苦難はあなたのため」より抜粋)
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)












[PR]
by hioka-wahaha | 2017-03-25 23:55 | 日岡だより

No.790 「信念」のむなしさ―私の信仰三段とびの記(2)― 2017.3.5

「信念」のむなしさ
――私の信仰三段とびの記(2)――
釘宮義人 
 
 よく山の頂上や、中腹にお寺やお宮があって、その前に長い石段があることがありますね。八十段とか、百段とかあって、たいそうにきつい坂が多いものです。私どもの信仰の道も、本来はそんなもので、百段も二百段もふみ越えて行かねばならぬのか、と思います。パウロは言います。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ三・12)と。信仰は、そういう意味では、「永遠の求道」であります。私はその道程の中で、やっと今、三段くらいとびこえてきた(というより、やっと這い上って来させて頂いた)という実感がいたします。その貧しい体験を少々お証ししたいと思って、この連載記事を始めたのであります。この前の記事の最後に、「これで私の助走期は終った」と書きましたが、その助走期とも言うべき信仰以前の思い出を、もう少し書きたいと思います。
 
 実は獄中で、私の心の中に大きな変化がおこりました。それはこうです。私のそれまで持っていた非戦主義の考えが突然、くずれたことです。「戦争は悪ではあるがこの人間のつくる世界では止むを得ない。どんなことがあっても正義の戦争などと呼べるものはあり得ない。にもかかわらず、それを見逃さざるを得ないこともある。どの程度の軍備、どのような戦争なら止むを得ない、というのか。そんな基準は客観的にきめにくいことだ。神の恩寵によって、許しを乞い求める祈りの中で与えられる微妙なバランス感覚によってきめるしかない」。実に、人には言い表しにくい、一種の弁証法的止揚とも言える考え方でして、そのようにして非戦主義は私の中で自壊していきました。
 何とかして刑務所を早く出たい一心で、こういう事を考えつくのかも知れませんが、表面意識のことではないから、自分では本気です。偽装した転向ではないのですから、転向という表面の卑しさにかえって苦しむのです。ガリレオが宗教裁判にあって法廷では自説を撤回しながら、その法定を出る時、「それでも地球は動いている」とつぶやいたそうです。そのガリレオがうらやましくてなりませんでした。私は、当時の島木健作などという一連の転向作家の、まじめに本気で転向して、なおその上うしろめたい気持でいる辛さが、よく分るように思いました。
 私は、自分の信仰を折ったという屈辱感と、信念というものが一夜で自壊するというはかなさに、まったく自信を失いました。自己に忠実であろうとすれば、転向者。意地を張って古い自説を固守すれば、二重人格。その頃、倉田百三の「治らずに治った話」を読みました。倉田氏が恐怖症になって、理性による自我抑制が不可能になり、有名な「出家とその弟子」に見られるような信仰の修辞学はいっぺんに消しとんでしまうのですね。そのあと、森田正馬博士の「ありのままを受け入れる」身心療法で解決して行くのですが、この時、私は初めて、人間の理性主義にもとづく信念のはかなさを、理論的にも教えられるのです。
 いわゆる「信念」ではない、キリストに絶対委托の「信仰」に入るのは、それからしばらくして前に書いたとおり、一九四四年一一月二三日のことであります。
 
 〔附言〕戦争に関する私個人の現在の考えは、右の文中の表現とあまり変りません。少年時代、ある立派な金持が、「人に悪心をおこさせてはいかぬから」と言って窓に丈夫な鉄柵を作っているのを見て不愉快だったことがありますが、やはりそれは致し方のない正論で、特に隣りの大国エゴイズムをそそるような、無防備丸腰はダメだと思います。とは言え、いくら軍備をせりあった処で、ソ連などには敵わぬことなのですから、程々にすべきです。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)

【参考】後年の義人牧師は「日本よ世界のカントリーとなれ」との理想を、「大風呂敷」と頭をかきながらも以下のように書いていました。
 「私は願っている。この日本国の国民のすべての人がクリスチャンになるのを。
 (中略)
 そうなれば、もちろん私の「日本絶対非武装、非戦平和国家論」も実現する。そうなると、日本は世界のカントリーになる。
 日本は、神様のため、福音のため、世界の幸福、平和のための祈りをもって立国する。世界中の人たちをこの日本に招きたい。そして、キリストの福音を語り合いたいし、その現実化を見たい。
 製鉄工場も自動車工場もコンピューター工場も何もない日本。ただあるのは緑の森と、田園と畑、牧場。そこに温かな信仰の交わりがある。人々を招き入れ、団欒の時をもてなす。どこの家でも見知らぬ外国の人を喜んで迎え、温かく食事の交わりに招き入れる。
 どの家庭でも、そこには隠れた招待主イエス様が居られる。多くの外国からの客人たちは喜んで、又、友人を連れてこの国に来たいと言う。こんな国には戦争など起こりようもない。」日岡だより2007.5.27号より http://hiokadayor.exblog.jp/5507877/


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-03-18 11:27 | 日岡だより

No.789 《聖書のことば》4題(「しののめを呼びさませ」ほか) 2017.2.26

《聖書のことば》 
しののめを呼びさませ

「 神よ、わたしの心は定まりました。
わたしの心は定まりました。
わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします。」
(詩篇五七・7、8)
 
 神様は、人間に命の息を吹き入れて下さいました。それで人間の心は、動物の心と違って、自分自身に言いきかせ、決心することができるのです。これは偉大な力でして、人間に大なることなさしめる源泉であります。
 この力を悪魔に利用させず、善きことのためお使い下さい。無力・怠惰・沈滞ムードの頭脳に「しののめ(東雲・朝やけ雲)を呼びさまし」、善き決断をなさしめよ。
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
信じることだけではなく

「 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」
(ピリピ人への手紙一・29)
 
 キリストが病気に苦しみ、貧乏になやんだとは、私は夢にも想像できない。にもかかわらず主は、自らすすんで人間苦のすべてを味わって下さったと信じる。
 クリスチャンも然り、病気や貧乏を主の御心と称して我慢する必要はない。健康と、繁栄のための英智を神よりいただけ。
 しかし、信仰の生活は必ず迫害を生む。この苦しみを恐れるな。この苦しみは更に信仰を増進拡大させる神様の恵みである。無用な摩擦はさけよ。しかし迫害を喜びなさい。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
深い穴から

「 主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました」
(哀歌三・55)
 
 明るい昼でも、深い井戸を掘って、その底から空を見上げると、星が見えるそうです。
 深い穴に落ちこんで、たとえフタをされて空の星は見えなくなっても、神様の御名を呼び得るものは幸いです。
 「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」第一ペテロ五・6)
と聖書にあります。苛酷な人生を、不幸、不運、悪魔のわざかとおびえて小さくならず、神の御手の下にあると信じて、明るく大胆に待ち望みなさい。人生の深い穴を、星を仰ぐ事の出来る聖堂としましょう。「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」のです。
 (1980.3.23週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の子の武器

「 悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」
(エペソ人への手紙六・13)
 
 神の子の、持つべき品性については、他の箇所に「愛、喜び、……柔和、自制」(ガラテヤ五・22、23)とある。これは内なる人の性格、魂のかおりである。しかし、地上にあって悪の力と戦う時に、取るべき武器は「真理、正義、……」(エペソ六・14、17)等というように強面(こわおもて)である。弱い者を戒める時は、真理を愛で装って語らねばならぬが、悪と戦う時は愛や柔和を内に秘めて、神の強い武器で戦わねばならぬ。愛とか柔和という言葉は相手につけ入る口実を与えやすい。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)















[PR]
by hioka-wahaha | 2017-02-28 23:00 | 日岡だより

No.788 戦争と求道者―私の信仰三段とびの記(1)― 2017.2.19

戦争と求道者
――私の信仰三段とびの記(1)――
釘宮義人 
 
 私はクリスチャン・ホームに育ちました。父母の属した日本基督教会に行ったり、伯父の無教会の集会に行ったりしていました。内村鑑三が好きでした。戦争の時代です。私は非戦主義に心をうばわれました。内村鑑三のほか、トルストイ、ガンジー、ロマン・ロラン、矢内原忠雄などの影響でありました。
 そんなふうでありながら、どうしてもかんじんの信仰を持てませんでした。決して信仰を嫌ったのではないのです。いいえ、それどころか、熱烈に信仰にあこがれたのです。しかし、あこがれれば、あこがれる程、信仰は遠のきました。神の存在を認め、キリストの奇蹟を信じることは、私には早くより当然なことでありました。十字架も復活も、教理としては分りました。当時流行のバルトや高倉徳太郎の本をよみました。知的には何とか理解できました。
 問題は、実感ということにありました。どうしても自分の罪が実感として感じられませんでした。キリストの十字架の贖罪が、教理としてはともかく、自分の事として実感できませんでした。パウロ、アウグスチヌス、ルター、ジョン・ウェスレー、そして私の父などの明確な回心経験を私はうらやみました。その頃、熱読したのは石原兵永の「回心記」です。この本の回心の一瞬の空行を、何度も歎息してみつめたものです。
 その頃、外界は戦争の時代です。ある時、無教会の藤本正高先生を招いて集会をひらきました。先生は、口をひらいて、ずばり「西にはヒトラー、日本では軍部、悪のはびこる今の時代でありますが……」、静かな声でしたが、私の心は恐怖と感激でおどりました。
 私は、非戦主義への傾斜を早めました。教会の会合や、友人・後輩を集めての会合で、一種の英雄・預言者気取りで、やや気負って語りました。しかし、私の内面はみじめでした。私は魂の平安を求めていましたが、それは与えられませんでした。満たされぬ私の魂にとり非戦主義的口吻は、ひとつのアヘンでした。
 その破局はすぐ来ました。私に軍隊の召集が来たからであります。その時、非戦主義者として国や軍に対し正面きって戦うという気力は出ないのでした。そのわけは、当時の皇国思想というものが私の中に多分に生きていたからです。天皇の命令にあからさまに逆うという考え方が出来ません。吉田松陰流の「君主の過誤には死をもっていさめる」という、今の人にはとうてい分ってもらえないような倫理観が心の底にあったのです。もう一つはキリスト信仰がついに掴めないので、霊魂上の絶望感が非常に深刻だったのです。そこでついに自殺を決意するに至りました。
 その時、私は、服毒したのですが、薬物が多すぎたのか、少なかったのか、自殺は失敗しました。その事はすぐ特高に知れ、捕えられてしまいました。(新教出版社「戦時下のキリスト教運動(3)」参考)。そこまで行きつくと、人間も度胸はきまるものです。警察や検事局、裁判所ではあまり卑怯未練な言動はしないですんだと思います。それどころか、相当派手なやりとりもありました。そして、判決、服役、福岡刑務所へ押送です。
 福岡の刑務所では、戦時色一色でした。厳正独居の私に与えられる仕事が、軍用手袋や軍用品袋の縫製です。現代の戦争は国をあげて国民の総力態勢でやります。百姓でも商人でも小学生でも戦争協力から逃れることは出来ません。まさに終末の時代、「国と国、民と民」の戦争の時代であります。刑務所まで来ても、やはり戦争協力か?私の魂は絶望と無力感にあえぎました。
 その時、私の魂は、思わず私自身を徹底的に追いつめていました。私は悲鳴をあげて、私の不信仰を告白しました。地獄でした。私の目は地獄の火を見ました。――そして三日、私に回心の一瞬が訪れました。一九四四年一一月二三日、私は満二二才。ついに私の「信仰三段とび」の助走期が終ったのであります。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-02-28 22:00 | 日岡だより