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No.790 「信念」のむなしさ―私の信仰三段とびの記(2)― 2017.3.5

「信念」のむなしさ
――私の信仰三段とびの記(2)――
釘宮義人 
 
 よく山の頂上や、中腹にお寺やお宮があって、その前に長い石段があることがありますね。八十段とか、百段とかあって、たいそうにきつい坂が多いものです。私どもの信仰の道も、本来はそんなもので、百段も二百段もふみ越えて行かねばならぬのか、と思います。パウロは言います。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ三・12)と。信仰は、そういう意味では、「永遠の求道」であります。私はその道程の中で、やっと今、三段くらいとびこえてきた(というより、やっと這い上って来させて頂いた)という実感がいたします。その貧しい体験を少々お証ししたいと思って、この連載記事を始めたのであります。この前の記事の最後に、「これで私の助走期は終った」と書きましたが、その助走期とも言うべき信仰以前の思い出を、もう少し書きたいと思います。
 
 実は獄中で、私の心の中に大きな変化がおこりました。それはこうです。私のそれまで持っていた非戦主義の考えが突然、くずれたことです。「戦争は悪ではあるがこの人間のつくる世界では止むを得ない。どんなことがあっても正義の戦争などと呼べるものはあり得ない。にもかかわらず、それを見逃さざるを得ないこともある。どの程度の軍備、どのような戦争なら止むを得ない、というのか。そんな基準は客観的にきめにくいことだ。神の恩寵によって、許しを乞い求める祈りの中で与えられる微妙なバランス感覚によってきめるしかない」。実に、人には言い表しにくい、一種の弁証法的止揚とも言える考え方でして、そのようにして非戦主義は私の中で自壊していきました。
 何とかして刑務所を早く出たい一心で、こういう事を考えつくのかも知れませんが、表面意識のことではないから、自分では本気です。偽装した転向ではないのですから、転向という表面の卑しさにかえって苦しむのです。ガリレオが宗教裁判にあって法廷では自説を撤回しながら、その法定を出る時、「それでも地球は動いている」とつぶやいたそうです。そのガリレオがうらやましくてなりませんでした。私は、当時の島木健作などという一連の転向作家の、まじめに本気で転向して、なおその上うしろめたい気持でいる辛さが、よく分るように思いました。
 私は、自分の信仰を折ったという屈辱感と、信念というものが一夜で自壊するというはかなさに、まったく自信を失いました。自己に忠実であろうとすれば、転向者。意地を張って古い自説を固守すれば、二重人格。その頃、倉田百三の「治らずに治った話」を読みました。倉田氏が恐怖症になって、理性による自我抑制が不可能になり、有名な「出家とその弟子」に見られるような信仰の修辞学はいっぺんに消しとんでしまうのですね。そのあと、森田正馬博士の「ありのままを受け入れる」身心療法で解決して行くのですが、この時、私は初めて、人間の理性主義にもとづく信念のはかなさを、理論的にも教えられるのです。
 いわゆる「信念」ではない、キリストに絶対委托の「信仰」に入るのは、それからしばらくして前に書いたとおり、一九四四年一一月二三日のことであります。
 
 〔附言〕戦争に関する私個人の現在の考えは、右の文中の表現とあまり変りません。少年時代、ある立派な金持が、「人に悪心をおこさせてはいかぬから」と言って窓に丈夫な鉄柵を作っているのを見て不愉快だったことがありますが、やはりそれは致し方のない正論で、特に隣りの大国エゴイズムをそそるような、無防備丸腰はダメだと思います。とは言え、いくら軍備をせりあった処で、ソ連などには敵わぬことなのですから、程々にすべきです。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)

【参考】後年の義人牧師は「日本よ世界のカントリーとなれ」との理想を、「大風呂敷」と頭をかきながらも以下のように書いていました。
 「私は願っている。この日本国の国民のすべての人がクリスチャンになるのを。
 (中略)
 そうなれば、もちろん私の「日本絶対非武装、非戦平和国家論」も実現する。そうなると、日本は世界のカントリーになる。
 日本は、神様のため、福音のため、世界の幸福、平和のための祈りをもって立国する。世界中の人たちをこの日本に招きたい。そして、キリストの福音を語り合いたいし、その現実化を見たい。
 製鉄工場も自動車工場もコンピューター工場も何もない日本。ただあるのは緑の森と、田園と畑、牧場。そこに温かな信仰の交わりがある。人々を招き入れ、団欒の時をもてなす。どこの家でも見知らぬ外国の人を喜んで迎え、温かく食事の交わりに招き入れる。
 どの家庭でも、そこには隠れた招待主イエス様が居られる。多くの外国からの客人たちは喜んで、又、友人を連れてこの国に来たいと言う。こんな国には戦争など起こりようもない。」日岡だより2007.5.27号より http://hiokadayor.exblog.jp/5507877/


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by hioka-wahaha | 2017-03-18 11:27 | 日岡だより

No.789 《聖書のことば》4題(「しののめを呼びさませ」ほか) 2017.2.26

《聖書のことば》 
しののめを呼びさませ

「 神よ、わたしの心は定まりました。
わたしの心は定まりました。
わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします。」
(詩篇五七・7、8)
 
 神様は、人間に命の息を吹き入れて下さいました。それで人間の心は、動物の心と違って、自分自身に言いきかせ、決心することができるのです。これは偉大な力でして、人間に大なることなさしめる源泉であります。
 この力を悪魔に利用させず、善きことのためお使い下さい。無力・怠惰・沈滞ムードの頭脳に「しののめ(東雲・朝やけ雲)を呼びさまし」、善き決断をなさしめよ。
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
信じることだけではなく

「 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」
(ピリピ人への手紙一・29)
 
 キリストが病気に苦しみ、貧乏になやんだとは、私は夢にも想像できない。にもかかわらず主は、自らすすんで人間苦のすべてを味わって下さったと信じる。
 クリスチャンも然り、病気や貧乏を主の御心と称して我慢する必要はない。健康と、繁栄のための英智を神よりいただけ。
 しかし、信仰の生活は必ず迫害を生む。この苦しみを恐れるな。この苦しみは更に信仰を増進拡大させる神様の恵みである。無用な摩擦はさけよ。しかし迫害を喜びなさい。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
深い穴から

「 主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました」
(哀歌三・55)
 
 明るい昼でも、深い井戸を掘って、その底から空を見上げると、星が見えるそうです。
 深い穴に落ちこんで、たとえフタをされて空の星は見えなくなっても、神様の御名を呼び得るものは幸いです。
 「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」第一ペテロ五・6)
と聖書にあります。苛酷な人生を、不幸、不運、悪魔のわざかとおびえて小さくならず、神の御手の下にあると信じて、明るく大胆に待ち望みなさい。人生の深い穴を、星を仰ぐ事の出来る聖堂としましょう。「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」のです。
 (1980.3.23週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の子の武器

「 悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」
(エペソ人への手紙六・13)
 
 神の子の、持つべき品性については、他の箇所に「愛、喜び、……柔和、自制」(ガラテヤ五・22、23)とある。これは内なる人の性格、魂のかおりである。しかし、地上にあって悪の力と戦う時に、取るべき武器は「真理、正義、……」(エペソ六・14、17)等というように強面(こわおもて)である。弱い者を戒める時は、真理を愛で装って語らねばならぬが、悪と戦う時は愛や柔和を内に秘めて、神の強い武器で戦わねばならぬ。愛とか柔和という言葉は相手につけ入る口実を与えやすい。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)















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by hioka-wahaha | 2017-02-28 23:00 | 日岡だより

No.788 戦争と求道者―私の信仰三段とびの記(1)― 2017.2.19

戦争と求道者
――私の信仰三段とびの記(1)――
釘宮義人 
 
 私はクリスチャン・ホームに育ちました。父母の属した日本基督教会に行ったり、伯父の無教会の集会に行ったりしていました。内村鑑三が好きでした。戦争の時代です。私は非戦主義に心をうばわれました。内村鑑三のほか、トルストイ、ガンジー、ロマン・ロラン、矢内原忠雄などの影響でありました。
 そんなふうでありながら、どうしてもかんじんの信仰を持てませんでした。決して信仰を嫌ったのではないのです。いいえ、それどころか、熱烈に信仰にあこがれたのです。しかし、あこがれれば、あこがれる程、信仰は遠のきました。神の存在を認め、キリストの奇蹟を信じることは、私には早くより当然なことでありました。十字架も復活も、教理としては分りました。当時流行のバルトや高倉徳太郎の本をよみました。知的には何とか理解できました。
 問題は、実感ということにありました。どうしても自分の罪が実感として感じられませんでした。キリストの十字架の贖罪が、教理としてはともかく、自分の事として実感できませんでした。パウロ、アウグスチヌス、ルター、ジョン・ウェスレー、そして私の父などの明確な回心経験を私はうらやみました。その頃、熱読したのは石原兵永の「回心記」です。この本の回心の一瞬の空行を、何度も歎息してみつめたものです。
 その頃、外界は戦争の時代です。ある時、無教会の藤本正高先生を招いて集会をひらきました。先生は、口をひらいて、ずばり「西にはヒトラー、日本では軍部、悪のはびこる今の時代でありますが……」、静かな声でしたが、私の心は恐怖と感激でおどりました。
 私は、非戦主義への傾斜を早めました。教会の会合や、友人・後輩を集めての会合で、一種の英雄・預言者気取りで、やや気負って語りました。しかし、私の内面はみじめでした。私は魂の平安を求めていましたが、それは与えられませんでした。満たされぬ私の魂にとり非戦主義的口吻は、ひとつのアヘンでした。
 その破局はすぐ来ました。私に軍隊の召集が来たからであります。その時、非戦主義者として国や軍に対し正面きって戦うという気力は出ないのでした。そのわけは、当時の皇国思想というものが私の中に多分に生きていたからです。天皇の命令にあからさまに逆うという考え方が出来ません。吉田松陰流の「君主の過誤には死をもっていさめる」という、今の人にはとうてい分ってもらえないような倫理観が心の底にあったのです。もう一つはキリスト信仰がついに掴めないので、霊魂上の絶望感が非常に深刻だったのです。そこでついに自殺を決意するに至りました。
 その時、私は、服毒したのですが、薬物が多すぎたのか、少なかったのか、自殺は失敗しました。その事はすぐ特高に知れ、捕えられてしまいました。(新教出版社「戦時下のキリスト教運動(3)」参考)。そこまで行きつくと、人間も度胸はきまるものです。警察や検事局、裁判所ではあまり卑怯未練な言動はしないですんだと思います。それどころか、相当派手なやりとりもありました。そして、判決、服役、福岡刑務所へ押送です。
 福岡の刑務所では、戦時色一色でした。厳正独居の私に与えられる仕事が、軍用手袋や軍用品袋の縫製です。現代の戦争は国をあげて国民の総力態勢でやります。百姓でも商人でも小学生でも戦争協力から逃れることは出来ません。まさに終末の時代、「国と国、民と民」の戦争の時代であります。刑務所まで来ても、やはり戦争協力か?私の魂は絶望と無力感にあえぎました。
 その時、私の魂は、思わず私自身を徹底的に追いつめていました。私は悲鳴をあげて、私の不信仰を告白しました。地獄でした。私の目は地獄の火を見ました。――そして三日、私に回心の一瞬が訪れました。一九四四年一一月二三日、私は満二二才。ついに私の「信仰三段とび」の助走期が終ったのであります。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-02-28 22:00 | 日岡だより

No.787 信仰とはむつかしいものか 2017.2.12

信仰とはむつかしいものか

 先日、伯父釘宮徳太郎の昇天四四年記念集会があって本家にまねかれ、その司式と説教をさせて頂き、まことに光栄、また感慨無量でありました。次のように言うのは、余りにたかぶった言葉で、人に対しては非礼であるかもしれませんが、「伯父は家名をM子さんに、事業をR兄に、集会をK先生とその後の別府集会に、そして信仰をこの私にのこしてくださった」と思うのであります。親族一統、又、別府集会の方々等三十名ほど集って、「直線的かつ多面的」(当時の原田美実先生の評のよし)なる伯父の信仰人物像をしのび、集会後の座談もなかなか豊富でありました。さすがにこういう席上らしく、クリスチャンでない方々からでも信仰的な話題ばかりで、大変良い交わりとなりました。ただし、しばしば「信仰はむつかしい。信仰はむつかしい」という言葉が出てきて、私は大変気になったのでありました。
 私どもの間では余り聞かれない言葉だものですから、多少奇異に思い、二、三日して、ある集会の時「みなさん、私にかくれてひそかに信仰はむつかしいネ、など言っているのではありませんか」と聞いてみたところ、そういうことはないそうです。けれども、口には出して言わぬけれども、実際は心の中で「信仰はむつかしいなァ」と、思っている人があるかもしれません。求道中の方は特にそうでしょうね。
 信仰がむつかしい、というのには次の三つがあると思います。
①聖書や教会で使うコトバがむつかしくて分らぬ。
②聖書や教会のお話はそれは立派な事ばかりで結構だが理想主義空想論で実行はできそうもない。
③神の存在や、キリストの十字架の贖罪など、信じたいと思っても信じられぬ。信じられる人がうらやましい。
 
 第一のコトバのむつかしさ。これは魚を食べる時のように、食べれる身のところから食べて、おいおいハラワタや骨の方も味わうがよい。聖書のむつかしい処は、大学の教授でも博士さんでもむつかしいのですから。
 第二の実行のむつかしさ。これは、もっともでありまして、聖書の教えには、個人的聖者でなければ実行不可能なような金言名句訓戒説話が豊富です。これらの言葉を遠くよりながめて、他人事のように「むつかしいですなァ」と嘆賞するむきもあります。深刻なのはそういう人と違って、血みどろになってそれらの聖書の言葉を実行しようとして、刃折れ矢つきて絶望に至る人です。人間のあらゆる業(わざ)につきまとう利己心につき当って、人間悪の深淵にあえぐのです。しかし、ここにいつまでもいる必要はありません。
 第三の信仰のむつかしさは、信じられぬ非合理な教理をむりやりアタマで承認し、信じることにしよう、思いこむことにしようとするタイプ。あるいは、信じたいと熱望しつつ信じられぬ自分の魂のガンコさに悩むタイプ。いずれにせよ、自力で信じようとすれば、無理です。仏教風に言えば「仏の方よりもよほされ」、神の賜物として信仰が与えられるのです。たいていの場合、この信仰を頂くためには、第二の深淵は必要路で、この死の蔭の谷をとおって、信仰の峯に辿り行くことが出来るのです。
 信仰は自力ではない、絶対他力である、と言えば、これはもともと真宗的用語ですから問題があります。信仰とは本当は人の心と、神の霊の協同作用のような所があります。この神の霊にもよほされて信仰のおこる時、むつかしい事は何一つありません。
 なお又、信仰を実際社会(家庭、職業、経済、肉体等)の問題に適用して平和、成功、繁栄、健康を得る事は(こういう事は新興宗教の一手独占販売である筈がない)、天地の造り主、唯一のまことの神様を信じる者に能わぬ筈がないのであります。(二・二九・釘宮)
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-02-22 14:20 | 日岡だより

No.786 《聖書のことば》4題(「内なる人、強くされよ」ほか) 2017.2.5

《聖書のことば》 
内なる人、強くされよ

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」
(エペソへの手紙三・16)
 
 健康も富も大切なものであります。しかしそれよりも心の強さは更に大切であります。
 およそ、万人が万人と言ってよい程、多くの人が病気や貧しさで心くじけるのです。病気や貧しさは人の力でどうにもならない外からの力による事がありますが、心の力のある無しは、その人の責任です。
 と、言ってしまえば苛酷な精神主義になりそうです。そうであってはならない。父なる神より溢れくる霊的栄光の力によって、内なる人は強くされるのですから。
 (1980.2.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
サタンの霊縛を解け

「そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。」
(ルカによる福音書一三・11)
「サタンに縛られていた、……この女」
(同・16)
 
 近代人にとっては信じにくいことだろうが、イエス様の言葉によれば、病気の仕掛人はサタンである。強盗が縄で人をしばるように、サタンは病気の霊で人をしばる、というのである。
 とすれば、この病気の霊の縄目をとくにはどうしたらよいか。御言の剣を用いるのである。エペソ六・14~17によると神の武具類の中で御言の剣はただ一つの攻撃的武器である。御言葉によっていやされよ(詩〇七・20)。地上で解くことは天でも解かれるのである。(マタイ一六・19)
 (1980.2.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
キリストに似る

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」
(コロサイ人への手紙一・15)
 
 私はこれまで、見えない神のかたちを表わしたのは、あのパレスチナに生れ、パレスチナで生活されたナザレ人イエスである、とは信じてきた。しかし万物創造以前より今に至るまで、また後の世までも永遠に変らざるキリストが常に見えない神のかたちである、とはあまり考えてみたことはなかった。しかし、今、天界にいまし、又、私どもの中に生きて下さる主イエス・キリストこそは、実に形をとって神を表して下さる唯一のお方であると分った。その故に、彼を宿す私どもは人格的に個性的にキリストに似ざるを得ないのである。(釘宮)
 (1980.2.17週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
ノストラダムスの予言

「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」
(ヨハネの第一の手紙四・1)
 
 又も、テレビでノストラダムスの予言の番組をやっていた。こういう好奇心や恐怖心しか生まない予言は、真の預言ではない。第一あのノストラダムスには、何とでも解釈できるあいまいな表現が、まだ別にいくらでもあると聞いている。より大切なことは、人類がいつ滅亡するかという事ではなくて、どうしたらその日から逃れ得るかという事だ。ノストラダムスには、かしこい五人の乙女の求める油はない。目をさまして主の日を待とう。
 (1980.2.24週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-02-11 17:40 | 日岡だより

No.785 私のうちに満ちみつるキリスト 2017.1.29

私のうちに満ちみつるキリスト

「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」
(ガラテヤ人への手紙四・19)
 
 この聖句の中の「形ができる」という言葉は、イザヤ四四・2を思い出させます。そこでは、「形づくる」という言葉が胎児の成長のこととして用いられていたのでした。
 イエス様は、ヨハネ三・3で信仰の始めを「新生」と呼んでいます。ところで、さきの聖句はパウロによって導かれたガラテヤ教会の人々にあてられたもので、彼らはすでに新生しているのですし、あれ程パウロから叱責されているとしても、決して「もはや捨てられた」人々ではありません。そこで、私たちは最初の新生とは異なる別の誕生(or胎児の成長)をパウロが願っていることを知るのです。
 A・Bシンプソンは、こう言っています。「クリスチャンは、キリストにあってひとたび生れた。そして、もう一つ大事なことは、今度はキリストがあなたの中に生れることである」と。そうです。これがキリストの内住です。
 
 これまで私はキリストの内住ということは分っているつもりでした。又、分っていたと言ってもウソではありません。(これまでのキリストの内住の信仰については、昨年の週報四八号より五一号までの「わたしの中に宿るキリスト」という連載説教を読んで下さい)ところでその後、妻の断食等を通して次々に信仰が開かれてきたのです。新しい神様の教えは、私にはおどろくべき事ばかりでした。その一つがキリストの個性的人格的内住です。
 「御子は、見えない神のかたちであって……」とコロサイ一・15にあるのですが、これはイエス様がパレスチナ御在住の時のみの事でしょうか。いいえ、そうではありません、「すべての造られたものに先だって」(コロサイ一・15)生れて以来このかた、「罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれ」(ヘブル一・3)ている今日に至るまで「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ」(ヘブル一・3)るし、又、未来も永遠に神の本質の表現者として個性的に実在されることでありましょう。
 
 れっきとした、神の子キリストの誕生として、私の中に生れ、その後、確固として私の中に定住して下さる御子!このことに目がさめたとき私の心には私の中に王国を造り、王の王として君臨して下さるキリストの姿が見えました。このお方に、私のすべてをささげ、彼の支配力の下におく時、「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(第一コリント一四・33)から、私の一切が神の尊い秩序の下におかれるのです。
 
 このような王の王キリストの君臨をお迎えする玉座は、エペソ三・16、17によると聖霊により強められた内なる人の信仰です。この信仰により、キリストは私どもの心のうちに住むのです。
 のみかは、「キリストには神性の充満が肉体化している。それであなたがたもキリストにあって神性に充満されるのである」(コロサイ二・9、10私訳)とありますから、私は「キリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ一・23)と大胆にも信じられるのでありました。
 今も個性をもって天界に、又、私のうちに生きておられるキリスト、こう書けば何も変哲もない昔ながらのキリスト告白だが、一月三一日を以て、私はすっかり変った感動をもって、これを言うのです。(一九八〇・二・二〇 釘宮義人)
 
 〔附記〕参考図書 金田福一「キリストの内住」、ウォッチマン・ニー「霊の解放」、A・B・シンプソン「内住のキリスト」、メーベル・フランシス「聖霊に満たされてから」
 (1980.2.24週報「キリストの福音」より)


















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by hioka-wahaha | 2017-01-31 23:00 | 日岡だより

No.784 《聖書のことば》4題(「すべてが新しくなる」他) 2017.1.22

《聖書のことば》 
すべてが新しくなる

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(コリント人への第二の手紙五・17)
 
 変りたい、新しくなりたい。それが、多くの人の願いえはないでしょうか。ヘアー・スタイルを変え、着物をかえる。家具をかえ、インテリアを変える。それでも変らない。魂が変らないからです。
 キリストに心をむけなさい。キリストを受け入れなさい。キリストのことばを味わいなさい。その御ことばのように生きなさい。
 あなたは一新されます。変ります。
 あなたの周囲も変りはじめます。
 (1980.1.6週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
悪魔に立ちむかえ

「神に服(したが)え、悪魔に立ち向(むか)え、さらば彼なんじらを逃げ去らん」
(ヤコブ書四・7 文語文)
 
 一月八日、吉良先生(私の父母に親しくしていただいた老牧師)の新居を別府の山手に訪ねた。石がかさなり、木々おいしげり、程よい広さの屋敷に簡素なたたずまい。私の最も好きな型の家である。しかし実は、ここは石垣原合戦で戦死した大友家の七人の将士たちの塚があり、幽霊が出るといって人が寄りつかず荒れ果てていた家だそうである。そこに先生老夫婦にこやかに悠然と住んでおられる。近所の人が「先生、幽霊出ませんか」という。出ません。幽霊、あるいは実在するだろうが、神の子の前には逃げ去るのである。
 (1980.1.13週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
日常的な罪をも

「彼は我らの罪(複数)を、あの木の上にて彼の肉体の中に、自ら運び上げて下さった。それは我らが罪に死に、義に生きる為である。彼の鞭の傷により汝らはいやされたのである」
(第一ペテロ二・24の私訳)
 
 右のように、直訳的に訳してみた。第一行の「罪」が複数で表わされてあるのが、ありがたいのである。私の原罪としての単数的罪を許されているのみならず(これはクリスチャンとしての根本的救いである)、日常的もろもろの罪を、主イエスによって処理されてしまっていること、それが、彼の自発的能動的な私たちへの働きかけによるのであること(「自ら」という言葉で表されている)、そこがありがたいのである。
 (1980.1.20週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
イエス・キリストの血

「……小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」
(ヨハネ黙示録七・14)
「キリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き……」
(ヘブル人への手紙九・14)
 
 今日の教会学校は、出エジプト記の過越の祭の話。主要な題目はキリストの血である。
  (字(じ)のない本(ほん)のうた)
 罪(つみ)によごれ くらい心(こころ)も
 主(しゅ)イエスさまの 血(ち)であらえば
 白(しろ)い雪(ゆき)のように きれいになり
 かがやく天(てん)の 国(くに)に行(ゆ)ける
 
 輸血で瀕死の命が救われるように、イエス・キリストの血(生命)が人を罪と悪とけがれより救い、神の子として生き返らせて下さるのである。
 (1980.1.27週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-01-31 22:00 | 日岡だより

No.783 キリストの光塵(こうじん) 2017.1.15

キリストの光塵(こうじん)

 この正月三か日、折にふれて見聞きしたラジオやテレビの番組は、やはり平素よりは多かったようです。心に残ったいくつかの番組を紹介します。

一、秩父困民党の生き残り、井上伝蔵
 一月一日夜、カーラジオで聞き始め、家に帰って後半ば録音したのが、このNHK文化講演、色川大吉氏「民衆史について」の一部分です。
 明治16年におこった自由民権運動の大暴動、有名な秩父困民党事件は、数千人の逮捕者をうみ、その中心人物はすべて死刑となりました。ところで、この運動の中でも有力な指導者であった井上伝蔵という人は、ほら穴にかくれひそみ、遂に逃げおおせ、北海道の北見に行って、そこで伊藤房次郎と名をかえて土地の女性と結婚して子供も出来、その地の振興の大恩人として人徳と共にたたえられて大往生したのです。それは大正六年のことで、実に三十五年の間、死刑囚としての汚名をかくし、官憲の追求をのがれる、いわば日陰ものとして生きながら、実に堂々と開けっぴろげに、地方の有力者としてすごしたわけです。その子供たちの記憶によると、「自分の親のことを、こんなにほめるのははずかしいですが、こんな人徳のある人間は日本中どこをさがしてもいないのではないでしょうか。どんな時にも顔色をかえず、人を責めず、おだやかで、悠然と芝居をたのしみ、俳句をつくり、夜眠っている時にも、夢をみているのでしょうか、義太夫をやり、歌をうたうのですよ」といった風情(ふぜい)です。
 「どこか、天の一角がつき抜けたような人でした」
 これが三十五年間、過去の秘密をかくして生きた人間の生きざまだったとすれば、実に驚嘆しますね。色川大吉氏いわく、「これは真実、死地を通りぬけた人間でないと、到達できない境地でしょうか」。
 こういう人物はしたわしいですね。クリスチャンでなくても、こういう人は知らずして受肉以前のキリストの光をうけて輝いているのです。青空も、朝やけも、夕やけも、すべて空気中の無数の塵が、太陽の光をうけて反射屈折することでおこる美しさだそうですが、この井上伝蔵などもキリストという太陽の光に映えるすばらしき宇宙塵の一つでありましょう(こういう時、この井上伝蔵はキリストを信じていなかったのだが天国に行っているかどうかなど、あまり詮索せぬことです。天国に行けるか、どうかはまず自分自身の問題であります。人のことはあとまわしにしなさい)。

二、野猿(石川県白山)のボス、母
 一月二日朝NHKテレビ。百匹の群のリーダーとして心血をそそぐボス。氷雨の中で集団を指導しつつ、とうとう挫折を感じたらしい。ボスの姿は見えなくなる。もう一つの話題、生後六ヶ月の仔猿を死なせた母親猿、群が去る時、死んだ仔を残すこともならず連れても行けず思いまどう母性愛、その悲しそうなうつろな目が印象的でありました。
 私の感想。群を生かす為、より強く、より良心的な人物(or動物)が、他の弱い者たちの為、先んじて苦しみ死んでいく。産んだものは産まれし子の為に愛をそそぐ。ここには弱肉強食、適者生存の進化論ではなく、弱いもの、愛されるものが生きのこる、〝贖罪的進化論〟がある、と思いませんか。

三、林竹二氏と水上勉氏の対談
 一月三日朝NHKテレビのかねてより尊敬している前宮城教育大学長の林竹二氏が、作家水上勉氏の真摯な質問にやわらかに答えていました。すべて〝イエス・アンド・イエス〟話法で多少水上氏に気をつかいすぎているのかと思っている中に、最後に水上氏が「分りました」と言って、紅潮した顔で(この時の水上氏の顔の美しさ!)、教育者の手法の原点に気づいていく、林先生の〝授業〟のみごとさ。名言三つ。
 「先生は、各自、自分の授業を作らねばならぬ」
 「最低の一人に努力をそそげ、他の生徒も自然についてくる」
 「先生が変らねば生徒は変らぬ」

四、戦艦ヤマト「テレサの死」
 一月三日、教会学校の子どものために取ってあったビデオ〝戦艦ヤマト〟のおしまいの処をみました。もう万事ダメかと言う時、ある星の王女(?)テレサは超次元の能力を発揮しつつ、自分の生命力を使い果たして、地球の敵である悪巨大戦艦を滅ぼします。美しい場面でして、涙が出ますね。―――さて、人類を滅ぼそうとして我々の周囲をめぐる執拗な悪魔に対し、生命をすてて救いの御業を為し給いしイエス・キリストこそ、宇宙最高のドラマです。
 この美しいアニメーション〝戦艦ヤマト〟にも私はキリストの光塵を見出した心地して感動したことです。あるいは異教的だとして、批難されるかもしれませんが、しかし時にテレビを見るのもいい事ですね。(釘宮)
 (1980.1.6週報「キリストの福音」より)












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by hioka-wahaha | 2017-01-24 15:32 | 日岡だより

No.782 《聖書のことば》3題(「さがせ!」ほか) 2017.1.8

《聖書のことば》 
さがせ!

「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」
(マタイによる福音書七・7)
 
 信仰とは、何も努力しないで、棚からボタ餅式に、何かをもらえることとばかり思っている人もいる。しかし、人が、神様より与えられている能力や知識を十分に用いつくすことは、神の喜び給う処である。
 今日、東京に行こうと思って、早天祈祷で飛行機に三人の席があるよう祈った。あとで電話すると、東亜国内航空は本日は一つも空席なしという。一瞬まどう。そばで妻が全日空は?と言う。全日空は一日一便しかない。あきらめていたのだが、二女がすぐ電話する。―――ところが、あきらめかけた席が、そこにあったのだ。「捜せ・・・」(11/28朝)
 (1979.12.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
嘆きのとき、いかに祈るべきか

「あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしのまわりに集まるでしょう」
(詩篇一四二・7下)
 
 詩篇一四二篇は、嘆きの祈りです。メソメソなげくのではない。声をあげ、叫び呼ばわる豪傑の祈りです。自分の弱さ、孤独、悲惨の現状を包みかくさず訴える、これ祈りの秘訣の第一です。次に、自分の逃げ込み場処、助け手としての神様を信じ、私はあなたの息子です、あなたの豊かな所有はみな私のものです、と告白します。神信頼の言い表わし、これ祈りの秘訣の第二です。そして、遂には私のまわりに正義の人々が多数あつまって大集団、大家族になるでしょう、と大なる期待を言い表わす。これ秘訣の第三です。
 (1979.12.9週報「キリストの福音」より)
  
 
《聖書のことば》 
主イエスよ、きたりませ

「「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ」
(ヨハネの黙示録二二・20)
 
 いよいよ、八〇年代に入る。
 一九八二年には太陽系において、九つの惑星のすべてが太陽の片側に寄ってしまい、しかも一直線に並ぶことが、天文学上の予測としてはっきり分っています。月の引力だけでも、潮の満干が地球におこります。まして、木星をはじめとするすべての惑星の片寄りです。科学者達は大地震、異常気象等地球上におこる不安な未来を予測しています。その時の惨状は石油不足などの比ではないかもしれません。今こそ、地球と人類の救主イエス・キリストを待ち望むべき時ではないでしょうか。
 (1979.12.30週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-01-17 10:38 | 日岡だより

No.781 自分を愛するように隣人を愛せよ 2017.1.1

自分を愛するように隣人を愛せよ
 
 精神分析学の創始者フロイトの弟子であり、学問の友でもあったと言えるA・アドラーは、心理学を実用的に研究し、それを成功せしめた人としては、先駆的な恩人です。彼に言わせれば、多くの感情障害の患者たちの問題は、その自己中心主義にあるのでした。彼らに「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という古くからの聖書の教えを与えると、そのほとんどがなおってしまうのでした。
 ある医師が憂鬱症の患者を診察していましたが、それが終るとこう言いました。
「一日だけ実験してもらいたいことがあるのですがね。明朝、目がさめたら、一日中できるだけ自分のことは考えないようにして下さい。そしてあなたの奥さんや子供たちを大いに幸せにしてあげようと、そのことを口にし、又それを実行しながら一日を始めてみて下さい。会社へ行ったら、同僚や部下や上司の人々の役に立つことを実行してみて下さい。これを一日やってみて、あなたにどんな変化があらわれるかをためして下さい。そしてその結果を来週私に教えてほしいのです」
 その翌日の夕刻、その患者から電話がかかってきました。
「先生、来週までなど、とても待っておれません、今日ほど幸福な日を送ったことはありません。こんなにすっきりとした、生き生きとしたことはありません。もう私は大丈夫です。どうすればよいか、よく分りました」
 与えよ、さらば与えられん、と聖書は教えます。人を愛する者は、自分も運命に愛しかえされるのです。
 
 だいぶ前、朝日新聞の投書欄に出ていた話です。ある奥さんの投書で、その奥さんのご主人がアル中だったそうです。題して「私は負けた」
「また夫は外で酒をのんで帰って来た。そして更に酒を出せという。私がいやがると、遂に自分でしょうちゅう瓶を探し出してきて、それをのみ始めた。私はがまんしきれずに泣いて、夫に訴えはじめた。その時、小学校五年生の娘がとび出してきて、夫の体にかじりついた。
『父ちゃん、酒をやめてや。父ちゃん、酒のんだらアホになるで。こら、酒出ていけ。父ちゃんが悪いんやない。酒が悪いんや。酒、出て行け。こら父ちゃんから、出て行け』
と、泣きながら夫の体をびちゃびちゃたたくのです。夫は胸をつかれ、青ざめてコップを手にしたまま、それっきり酒をやめてしまいました。
思えば、酒をやめさせようとして流す涙は、私の涙も小五の娘の涙も同じです。しかし、私は心の底で『このろくでなし。もう別れてしまいたい。あいそがつきた』と、うらみと怒りの涙です。しかし、娘の涙はひたすら父ちゃんを愛する子供の愛の涙です。私はこの娘の愛に負けたと思いました。」
 このような愛は、いかなるカウンセラーや精神病医にもまさる絶妙な「治療」をしています。愛は人を生かします。
 
 旧約聖書の創世記に出てくるヤコブという男は、利己心のかたまりのような人物です。彼は兄エサウの弱みにつけこんで長男の権利を奪い取り、目のわるい父イサクをだまして兄に与えるべき祝福を横取りしてしまいます。その結果、ヤコブは毒へびとさそりのすむ荒野へと孤独の旅(体のいい追放です)に出ることになってしまうのです。
 この苦難の旅は、ヤコブの心を反省させ、謙虚にもさせたのでありますまいか。一夜、神様は荒野の只中で仮寝するヤコブの夢枕に立って、彼の生涯を祝福し元気づけるのでありました。神の愛はヤコブにそそがれました。愛される価値なき者と自覚しているだけに、彼の感激はいかばかりでしたでしょう。彼の士気はいやが上にもあがり、勇気百倍して荒野をわたり、母の兄ラバンの地に辿りつくのであります。そこで美しい従妹ラケルに出会い、彼女のために結納がわりの十四年の労働をただ数日のように思われたという程、愛しとおしたのであります。
 神様の愛に感じてより、ヤコブは人を愛することを知りました。
 
 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と聖書は教えます。あなたも行って、そのようにしましょう。もし愛し得ないような人に会ったら、あなたの為に、神のひとり子イエス・キリストは十字架にかかられたことを思いおこして下さい。
 (一九七九・一〇・一四日曜説教「自分を愛するように隣人を愛せよ」を骨子にして)
  (1979.10.21週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-01-06 11:41 | 日岡だより