カテゴリ:日岡だより( 627 )

No.804 《聖書のことば》代償者キリスト/ 聖句暗記のおすすめ(12) 2017.6.11

《聖書のことば》聖書暗記コースB~2
代償者キリスト

すべての人は罪を犯した「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」
(イザヤ書五三・6)
 
 預言者イザヤは、イエス・キリストより七百年ほど前の人ですが、イエス様の苦難と死をあたかも目の前に見ているように、その様子を、予言しています。右の文はその一節です。ここには二つの主題があります。人はみな神の前に罪を負っているということ。第二には、神は人間の罪をイエス・キリストに負わせ、キリストに代償の血を要求される、ということ、この二つです。あなたも、あなたの罪を認め、それをキリストに委ねましょう。
(1980.7.6週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(12)

聖句の瞑想について
 瞑想というと、日本人は無念無想のことだと思うのです。無念無想はたしかにすぐれた瞑想法の一つですが、だれにも出来ることではありません。日本人は言葉による精神集中の瞑想法を、多く知らないのです。
 先日、K君という幼年期に高熱で小児まひになって学校にも通えず、文字を覚える機会を失った青年に会いました。彼は、少年時代にきいた日曜学校の聖書物語をよく記憶していました。今でも聖句をすぐ暗記できるのです。「ぼくは、コトバを聞く時、立体的に聞くんです」と言うのです。一つの単語でも、そのコトバの中に入り、裏にくぐりぬけ、全体を見渡すというように、動的に、視覚的に、聞いているのです。彼は、おのずから瞑想的にコトバを聞いているわけです。
 言葉の一つ一つの味わいや、各語の関係を、たんねんに感じとり、それを全聖書的に、また私自身や教室や社会にあてはめて考えてみる。御言葉を中心にして、コトバを用いて思いめぐらす(ルカ二・一九)、これが精神集中です。御言葉をひねもす思う(詩一一九・九七)、これは持続的集中です。このようにして御言葉は心に深く宿る(コロサイ三・一六)のであります。
 (1980.7.6週報「キリストの福音」より)














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by hioka-wahaha | 2017-06-21 11:25 | 日岡だより

No.803 《聖書のことば》聖書はきびしい/聖句暗記のおすすめ(11) 2017.6.4

《聖書のことば》聖書暗記コースB~1
聖書はきびしい

すべての人は罪を犯した「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
(ローマ人への手紙三・23)
 
 神が全能の神であるなら、なぜ人間を罪を犯し得ないように造ってくれなかったのか。又、罪を犯さぬよう、人間を守ってくれなかったのか。
 私には、その理由は充分には分らない。しかし、神は人間をロボットとして造らなかった。又、飼犬が悪いことをすれば、鎖につないでしまうようには、人間を束縛はされなかった。その事はあきらかである。
 天皇もソクラテスも、清純な乙女も、天使のような幼児も、すべて罪を犯していると、聖書は告げる。聖書は本当にきびしい。
(1980.6.29週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(11)

 四月六日の週報より、聖句暗記のおすすめを書きつづけてきました。そして、その号より第一頁に、暗記聖句を紹介してきました。この選択は、国際ナビゲーターのテキストによります(山本和萬先生の御教示で、このすぐれた国際的団体のテキストにふれました。この団体の創始者D・トロットマンの事については本日の説教でふれるつもりです)。
 先週まででA群の聖句を終りました。これはクリスチャンとしての生活の基本を示してあります。
 A①②キリストが中心 第二コリント五・17 ガラテヤ二・20
 A③④キリストへの服従 ローマ一二・1 ヨハネ4一四・21
 A⑤⑥みことば 第二テモテ三・16 ヨシュア一・8
 A⑦⑧祈り ヨハネ一五・7 ピリピ四・6、7
 A⑨⑩交わり マタイ一八・20 ヘブル一〇・24、25
 A⑪⑫あかし マタイ四・19 ローマ一・16
 右の通りです。復習してみて下さい。あなたのクリスチャン生活の再吟味ができます。さて、今週よりB群。B群の聖句は、伝道に用いられる最前線用武器です。これらの御言を剣として用いて、個人伝道に出て行くのです。あなたの信仰の最底基盤を再検討するのにもよい試金石となります。
 (1980.6.29週報「キリストの福音」より)











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by hioka-wahaha | 2017-06-10 15:35 | 日岡だより

No.802 《聖書のことば》キリストを誇れ/聖句暗記のおすすめ(10)/私の信仰記(7)獄窓の回心  2017.5.28

《聖書のことば》聖書暗記コースA~12
キリストを誇れ

あかし「わたしは福音(ふくいん)を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ人への手紙一・16)
 
 福音という言葉は、もっと分りやすく訳せば「良い知らせ(グッドニュース)」と言うのであります。けれども、そう訳すよりも「キリスト」と、端的に言葉を入れかえて読む方が、かえって全体の意味がよく分るように思います。
 戦前はもちろんでしたが、今でもキリスト教と言えば、やや冷笑されそうな気配を感じることがあります。けれども、私たちは大胆に、私たちの信仰を誇るのです。弱気も強きも、智者も愚者も、キリストの前には同じく罪人であり、共に救われるのでありますから。
(1980.6.22週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(10)

暗記の能力に自信をもて
 なんども言いますが、聖句の一節を記憶することは、やってみれば案外やさしいのです。多くの人は、やりもしない中から、「私は暗記はだめでして」と、逃げ腰です。自信をもたず、無気力に暗記しかけてみると、何度やっても覚えきれず、そして「私はやっぱり暗記力はないのだ」とマイナスの自信をつよめてしまうのです。頭の悪そうな(失礼!)流行歌手でも、自分の歌はもちろんの事、人の歌でもたくさん覚えていてステージで歌っているではありませんか。

感情をこめて読む
 聖書の言葉を、あなたの信仰告白として、一語一語に力をこめ、感情をこめ、口でハッキリ言うとよいのです。言うというより叫ぶのです。何度もやって、その聖句と気持がぴったりするまでやるんです。聖句を暗記するためではなく、信仰育成のための訓練と思ってやるのです。そうすると、たしかにフツフツと心の中に信仰がおこってきます。そして聖句暗記はいつの間にか完成していますよ。黙読はいけません。詩吟のように、しっかりと声に出すのです(詩吟の人は、よくむつかしい漢詩を覚えているでしょう)。
 (1980.6.22週報「キリストの福音」より)


獄窓の回心
――私の信仰記(7)――
釘宮義人 
 
 五月二五日の週報に書きましたように、私は獄中で、自分の「信仰」を探して、「不信」の自己を発見し、絶望のどん底におちこみました。
 それは、「魂の死」とでもいうように表現できましょう。徹底的絶望感覚でありました。かつて自殺しようとした事が、その時、我ながらうらやましく思えました。自殺する人は、ともかく自殺することの意義と、その実行力を持ち合わせている。ところが、絶望した人間は、死ぬ事にも意義も見出せず、死のうとしても、意思が脱力症状を呈して何も出来ない。
 そのようにして、四日すぎます。独居の囚人にとり、四日間は長い。その間、死んだような気分。そして、一一月二三日がきました(ああ、それは後で知ったことですが、パスカルの回心の日です)。この日は、当時「神なめ祭」といって旗日で、休業。私は終日、ただ坐して焦燥しました。
 夕刻になりました。窓べの樹々に雀たちが、にぎわしく帰ってくる頃です。私は手もとの聖書をひらきました。次の一句が、私の目を射たのです。
 「一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり」(コリント後書五・一四)
 ――私は、それ以上読もうとも思わず、その必要もなかった。この節を読み終わった瞬間、いわば平安の光というべきものが、私の心にそそぎこまれ、すべての疑問の闇は消え去ったからである。と、これは、アウグスチヌスの回心の時の告白ですが、私の感懐も、それと少しも変りません。
 これはたしかに御聖霊様の働きです。御聖霊様の働きの特徴は、聖書の言葉(その著者は御聖霊様です)を、私どもの中に、そのまま実現するという事です。その時、私に取り、一人の人、キリストの死が、私の死である、ということが、突然事実となった、つまり私の古き人が死んでいる事がよく分ったのです。
 パウロのような光も、ウェスレーのような胸のあたたまりも、フィニーのような電気ショックもありませんでしたけれども、私はそれで充分でした。今や、私の中にキリストの生命がありました。私の肉はキリストの内に死んで、古きは過ぎ去り、すべては新しくなっていました。パウロも、アウグスチヌスも、ルターも非常に身近かに思えました。
 こうなると牢獄も宮殿です。うすい囚人ぶとんの中ででも、私は主の血潮のあたたかさを感じて、嬉し泣きによく泣きました。
 (1980.6.22週報「キリストの福音」より)





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by hioka-wahaha | 2017-05-31 23:00 | 日岡だより

No.801 《聖書のことば》網の中の魚/シモンとガリラヤ湖のぬし 2017.5.21 

《聖書のことば》聖書暗記コースA~11
網の中の魚

あかし「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」
(マタイによる福音書四・19)
 
 イエスは比喩の名手です。漁師には、人間をとる漁師になれ、と言われます。羊飼いには、迷える羊の話などをします。商売人には宝を得るために、全財産を売る話をします。女にはパン種の話。百姓には種まきの話。そしてパリサイ人には汚れたる墓の話。
 さて、最後にあなたに一言。あなたは、漁師の網にかかる魚ではないでしょうか。神の網に生け捕られ、神の言で生かされるほかはない、あなたは魚(魚はギリシャ語で初代教会の信徒の象徴語でした)なのです。
(1980.6.15週報「キリストの福音」より)


〔童話ふうに……〕
シモンとガリラヤ湖のぬし
 
 その晩は、一晩中、シモンとアンデレの兄弟は、舟にのって網を打っていたのです。けれども、魚は一匹もとれないのでした。さて、その網というのは、投網(とあみ)といって、舟の上から水面にむかって、うまく放り投げると、網は大きなスカートのように、ぱっとひろがって水の中に沈んでいきます。それを片手でゆするようにして水面から引き上げながら、もう一つの手で繰り上げていくと、網の底の方に魚がつかまっている、といったようなものです。シモンたちの網はもう大分傷んでいましたが、それでも大切に扱うものですから、まだまだ相当使えそうでした。
 そこはガリラヤ湖という湖(みずうみ)でありました。イエス様の大好きな、きれいな湖でありますが、しかし、その底には、たくさんの汚(けが)れたものが沈んでいましてね(日本でも海の底はヨミといって死人の行く所と思っていたそうですが)。ガリラヤ湖の底の一番深いところに、実はガリラヤ湖のぬしがすんでいました。その主(ぬし)が、ガリラヤ湖中の魚や生きものを集めて、大会議をひらいていたのです。だから、シモンやアンデレがいくら網を打っても、魚はとれないはずですよね。
「おい、みなの者。この頃どうもいけないよ。ヨルダン川から流れこんでくる水に、あのおいしい汚れ物が少くなった。このままでは、みんな栄養不足になってしまう。あの川の水は、この頃、えらいキレイになってしまって、お互の体によくない」
「それは、王さま。イエスという人が、バプテスマを始めてからです。そのバプテスマの水が、すべて最近の悪いことの原因です」
「なるほど、それでよく分った。しかし、どうしたらいいだろう」
 ガリラヤ湖の底の国会は一向にはかどりません。その頃、シモンとアンデレは、もう漁をあきらめて、舟を陸にあげて、網を洗っていました。
「シモン君」
 はっとして声の方を見ると、シモンの舟にイエス様が乗りこんでいました。
「シモンよ、アンデレよ。あの海岸の大勢の人数を見給え。あの人達に神の国の話をしてやりたいのだ。私の伝道の加勢をしてくれたまえ。私をのせて、舟を、あの群衆の前の水面にこぎ出してくれたまえ。私は舟の中から、彼らに話をしてやりたいのだ」
 シモン兄弟は、今さら何を言えましょう。腹の中では少しは仏頂面でしたけれども、とにかく人目には喜んでイエス様の付人(つきびと)のようにして、舟をこいで皆の前に出たのです。みんなはざわめきました。
「おや、シモンとアンデレじゃないか」
 二人は顔をまっかにしました
 さて、しばらくしてイエス様のお話は終りました。たくさんの人だかりは消えて、舟にはシモンとアンデレが残りました。
「シモンたちよ、よいことを教えよう。引き網をもってきなさい。そして、あの一番水の深いところに行きなさい。網をできる限りひろくひろげて魚をとりなさい」
 山奥の村のナザレの大工であったというイエス様に、漁のことをかれこれ指図されるのは少し嫌でした。
「先生、ゆうべ一晩中かかっても一匹もとれなかったのですよ。しかし、先生のお言葉のとおりに引き網をもってきて、おろしましょう」
 その時、みなさん、湖の底ではガリラヤ湖中の魚たちが集って会議中でしたからね、魚はもちろんいっぱいとれました。シモンが、網を引いて最後を見ると、ギョロリと目をむいた、こわい、みにくい、ぬしのようなやつがシモンをにらみつけました。
「ひえーッ」
 シモンは自分の汚れ、罪、わるい所をみんな、にらみつけられたように思って、思わずイエス様にしがみついて、「許して下さい」と叫んだのでした。
(1980.6.15週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2017-05-27 19:02 | 日岡だより

No.800 《聖書のことば》パチパチ燃えよう/聖句暗記のおすすめ(9)/天の父、永遠の乳房 2017.5.14

《聖書のことば》聖書暗記コースA~10
パチパチ燃えよう

交わり「愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
(ヘブル人への手紙一〇・24~25)
 
 ここで聖書が、信徒たちの定期的な集会を奨励している事はあきらかです。病気とか、任地の関係で参加することが困難な人に、無理に集まれ、と言っているのではありません。しかし出来る限り努力して日曜礼拝のみならず、それぞれの集会に出席しましょう。
 たきぎは一本では燃えにくい。二、三本、いやもっとたくさんだと、パチパチ威勢よく燃えます。あなたもパチパチ燃えて下さい。
(1980.6.8週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(9)

聖書の言葉をたくさん、あなたの心に貯えましょう(コロサイ三・16)
御言葉は神の民の攻撃的武器であります(エペソ六・17)

①御言葉はサタンを撃退する。
 イエス様がサタンの誘惑にあわれた時、つねに用いた武器。「聖書にこう書いてある」と言って、聖句を用いられました(マタイ四・四、七、一〇)。これは私たちに残された実際的教訓です。

②あなたの生涯を清め、罪を止めさせる。
 あなたがもし罪を犯そうとするなら、その時あなたの心の中にある御言葉は鐘をならして、あなたの良心に警告を発するでしょう。その上、又、あなたが積極的御言葉を告白しつづけるなら、悪を行わず、かえって善を行う精神力を奮起させてくれるでしょう(詩篇一一九・九、一一)。
 
③クリスチャンを更に教育、訓練、完成する。
 聖書は、神の人が、あらゆる良いわざを行えるよう、十分に準備され、完全に装備される為に、教育、訓戒、矯正、義人に仕立て上げる為、最も役立つ神の教具であるのです(第二テモテ三・一六、一七)。
 (1980.6.8週報「キリストの福音」より)



天の父、永遠の乳房
 
 明治、大正の讃美歌に次のようなのがあった。
 
一、花よりも愛(め)でにし わが子よ
  のこしし衣(ころも)だに いとなつかし
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 花ちる暮(くれ)
 (おりかえし)
  わが子よわが子よ 速(と)く帰り
  心ゆく祈りを 共にせずや
 
二、かすむまで送りし わが子よ
  み空(そら)かける雁(かり)に 便り寄(よ)せよ
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 月澄(す)む夜半(よわ)
 
三、神の使(つか)いと見し わが子よ
  汝(な)が父はおとろえ 母は老いぬ
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 雪のあした
 
 遠くに出て帰らぬ子を恋うる歌として、日本人の心情にぴったりだから、よく歌われた。昭和六年改訂版で木岡栄三郎の曲になってからは、さっぱり歌われなくなり、現在の版ではとうとう歌詞の方も消えてしまった。残念である。明治版では、フォスターのスワニー河の曲でうたっていたのだが、子を想う情、いかにも切々としてよかった。別所梅之助の名訳である。
 この歌は、勿論、ルカ一五章の放蕩息子の物語を下敷にしている。しかし、人間の情が強すぎて、あの放蕩息子の物語りに出てくる父なる神の愛を表現できていない。そういう所が現在の讃美歌から追い出された原因かもしれない。
 親という字は、木の上に立って見る、と書く。家出した子を持つ親は、毎日、木の上に立って、かなたの道を待ち望む気持ちであろう。それと同じように、神は、十字架という木の上に立って、人類の帰ってくるのを待っている。
 万葉の歌人、山上憶良は歌う。
 
しろがねもこがねも玉も何せむにまされるたから子にしかめやも
 
 この親の愛に、神の姿の片影を見ることができる。イエスは、神を私の父と呼び、旧約聖書は永遠の乳房と呼んだ。この親のもとに帰ろう。
(1980.6.8週報「キリストの福音」より)















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by hioka-wahaha | 2017-05-19 18:59 | 日岡だより

No.799 《聖書のことば》小さい群れよ/聖句暗記のおすすめ(8) 2017.5.7

《聖書のことば》聖書暗記コースA~9 
小さい群れよ

交わり「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」
(マタイ一八・20)
 
 イエス様は、他の所でこうも言っています。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と。
 また、こうも言っています。「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」と。
 強調点は、あなたがたであり、群れです。初代教会の特色の一つは、「ひたすらな信徒の交わり」なのでした。そこにキリストが生き、神の国があるのですから。
(1980.6.1週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(8)

この聖句の暗記はどのように役立つか
①伝道のとき、確信をもてる。
 友人に自分のイエス・キリスト様への信仰を証ししたい。そう思って必死になっても、もどかしいほど口は動かず、何を話してよいか分らない。こういう経験をされる方は多いでしょう。
 特に個人伝道は、決して容易なことではありません。しかし、やってみると案外にやさしいのです。それは、聖句を武器として持つことです。おどろくべき結果を得ます。多くの活動的クリスチャンが、主要聖句を暗記していたために、沈黙からまぬがれ、効果的な伝道(証し)ができた、という事を聞きます。聖書の御言葉自身に人の心を変える能力があるのです。
②あなたを力づける。
 暗記できた聖句を、夜ねる時、朝おきた時、朗々と暗唱してみて下さい。これを二、三日もつづける時、元気が出、不安がなくなっている自分を発見するでしょう。クリスチャンは時に砂をかむような霊的生活におち入り、あるいは罪に負ける事も多々あります。このようなサタンの勢力に対して勝利する為には、この聖句暗唱──つまりいつも申し上げる「御言葉の告白」が有力な一手段であります。
 (1980.6.1週報「キリストの福音」より)















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by hioka-wahaha | 2017-05-19 16:40 | 日岡だより

No.798 《聖書のことば》思いわずらう前に/聖句暗記のおすすめ(7)/私の信仰記(6)魂の泥沼・絶滅 2017.4.30

《聖書のことば》聖書暗記コースA~8 
思いわずらう前に

祈り「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」
(ピリピ人への手紙四・6~7)
 
 どんな小さな事でも、世俗的なことでも、卒直に神様に祈りなさい。思いわずらう前に祈りはじめなさい。具体的に問題をぶちまけて、神様に子どものようになって訴えなさい。それでも心に平安が来なかったら、再び祈りなさい。何度でも祈りなさい。神様の前ではかみしもをぬいで遠慮せずに語りなさい。
(1980.5.25週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(7)

 この「聖句暗記のおすすめ」も、早いものでもう七回目になってしまいました。こんなにくどく書きつづけると、これまで聖句暗記に取り組んでいなかった人々や、一度やりかけて途中で挫折した人々には、この欄が重荷になりはせぬか、やる気もなくしてしまいはせぬかと心配になり始めました。
 人生、挫折する時がよくあります。一心貫徹式の人生指導書や、実践力行型の伝記類にはげまされるのはよいが、遂に気押されてしまって、「自分はあんなことはできません。あの人達は特別です。私は、平凡ないや劣等型の人間です。到底、あんな事は出来ません」と、ひらたくなってしまって、一切の努力を放棄してしまう人が多いのです。
 私は元来、薄志弱行で三日坊主の熱しやすくさめやすいタイプですから、その気持がよく分ります。こんな時必要な事は、何度失敗・挫折しても、こりずに厚かましくもう一度やり始めることです。自分を責めず失敗にこりず、何度でもやりなおすのです。このコツを掴むと、万事、性格矯正が楽になります。
 一度やりかけて挫折し、忘れ果てていると思っていた事を(聖句でも他の勉強や技術でも)、やり直し始めると、その時突然思い出して、あらためてしっかり身につくことを経験する人は多いはずです。
 (1980.5.25週報「キリストの福音」より)
 


魂の泥沼・絶滅
――私の信仰記(6)――
釘宮義人 
 
 この連載ものの第一回目、その終りの所にちょっぴり書いた、私の獄中回心記を、もう一度振り出しにもどって、くわしく書いてみましょう。
 一九四四(昭和一九)年一一月一九日(日)、その日は刑務所用語でいう免業日で、仕事が休みです。独居囚人にとっては、仕事のあるほうが余程うれしいのですが、その日ばかりは私はホッとしました。どんなかんたんな仕事でもする気はせず、出来る事なら食事も休みたいくらいでした。
 その日、聖霊は私の魂に、照準をあてていたに違いありません。そして、御言葉を私の脳中めがけて発射したのでしょうか、この御言葉です。
「人の義とせらるるは……、唯キリスト・イエスを信じる信仰に由るを知りて、キリスト・イエスを信じたり」(ガラテヤ二・16)
 その時、この御言葉が、私を生かしも殺しもするという予感がしました。私は神に義とされたいのでした。あの荒巻君の自殺によって触発された私の罪意識は、しだいに私の魂をおおい始めていました。私は、私の罪の性質に目を開かれて苦しみました。虚勢をはる心や、性欲が最も自分を苦しめたのでした。その上、人におびえ、その恐怖心が居直ると、今度は逆に自暴自棄になって神冒涜の思いや言葉が出てくる。しまいには妙な精神障害さえおこってくる。私は魂の泥沼の中であがきもだえました。
 先程の聖書の言葉、ガラテヤ二・一六の前半「人の義とせらるるは……、唯キリスト・イエスを信じる信仰に由るを知りて」の知りてという言葉が、私にとり象徴的でした。たしかに、私はキリスト教の教理を大体正確に知っていました。現在の私のもっている教理の知識の大半は、その時に得たものです。それは知性による知識収集であり、単に普遍的な真理としての承認にすぎなかったのであります。
 そこで、私の問題は、それが「私の事」として信じられない、という点にあります。人様のこととしては承認できますが、いざ自分のこととしては、あてはめられない。結局「自分はこの救の真理を信じていないのだ」と自認するほかない。丸一日、汗びっしょりかいて考えぬいて、その結論を出しました。そのとたん、私の魂は地獄にころげおち、地獄の火が地面を割り獄舎の床をわって燃え上がってくるのを見ました。石原兵永の言う「絶滅」であります(同氏「回心記」八八頁を参照)。その絶望のまま四日間すぎました。
(1980.5.25週報「キリストの福音」より)













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by hioka-wahaha | 2017-04-30 23:00 | 日岡だより

No.797 《聖書のことば》あなたの人生に奇蹟を/聖句暗記のおすすめ(6)/私の信仰記(5) 生、それは悪か 2017.4.23

《聖書のことば》聖書暗記コースA~7 
あなたの人生に奇蹟を

祈り「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ一五・7)
 
 一少女の言葉が、ある時、一瞬に青年の心をとらえ、その後の生涯を方向づけ、一生の活動エネルギーの源泉となる、というような「純愛物語」がよくある。(ダンテにおけるベアトリーチェのごとし)
 聖書の言葉(その片言隻句でも)が、聖霊によって心にとびこんでくる時、そしてその言葉が、こばみがたい定着力をもってあなたの魂にとどまる時、あなたの人生におどろくべき奇蹟がおこるであろう。
(1980.5.18週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(6)

 五月一一日の主日礼拝の証詞の時間に、O姉はこう証ししました。「記憶力のまったく零にひとしくなっていたと思っていた私が、先生の言われるとおり聖句暗唱をしていたら、どんどん覚えられるようになり、今ではほんのすこしの時間で覚えられるようになりました。聖書の言葉は、まことの食物です。これを食べて、血と肉にしましょう」。
 またS姉も言いました。「牧師先生が今、聖句暗唱を熱心に提唱されています。これには神様よりくる深い意味があるのだと思います。こうした教会の流れに乗って、スナオに実行すれば、それだけ得るものがあります。私は始めのうち、正直いってそれ程の効果を期待していなかったのですが、先生のおっしゃるとおりバカ正直に、手振り身振り詩篇を暗唱しているうちに、御言葉は血となり肉となり、私の全身全細胞が躍動しているような心地がしています。聖句暗記をぜひおすすめします。特に、体の所作をつける全身暗唱をおすすめします。」
 〔注意〕聖句暗記を律法的におすすめしているわけではありません。これをしなければ救われないとか、信仰が成長せぬとか、そんな事は絶対にありません。
 (1980.5.18週報「キリストの福音」より)


生、それは悪か
――私の信仰記(5)――
釘宮義人
 
 私の少年時代から青年期にかけて、二人の親友がいました。一人は安部君といって、胆力といい、とっさの判断力といい、交渉力、記憶力、すべて抜群。特務将校として平服でフィリピンに単身赴任、山下将軍の直属に入った、というきり、消息不明。今でも、どこからか、「よおっ」と現れてきそうで、私たちにそう思いこませている幻の怪物。もう一人は、荒巻君といって、これは女性的繊細さ、直感と詩情に富む天才児。彼は病を得て、父君の建ててくれた別府市山の手の別荘に、ばあやと二人で保養の生活。昭和十六年初夏の頃、私は彼を訪ねたのですが、その時、彼の様子がそれまでと一変していたのです。
「おい、人間はなぜ生きねばならぬのだろう。俺達は生きていれば生きている程、悪をおかす。今、死んでそれで、これまでの悪業がつぐなえるわけはないが、少なくともこれで悪業のピリオドを打つことはできる。人間は生きねばならぬ、ともかく生きているんだから……と、これを前提とする、生は善だという哲学ほど卑怯な考えはない。死こそ、善いことだ、こういう哲学が生れぬものかねえ」
 私は、その時、彼の内面におこっている葛藤の深刻さに驚倒しつつも、少年期をまだ脱せぬ若者の無頓着さで、答えたのです。
「そのような死の哲学が出来上がったら君、死ということの性質上、論文など書くヒマも見えも気負いもない、その人は、即刻死んでしまうじゃないか」
 その時、彼は黙っていました。そして私達は別れました。「おい、又会おう」。しかし、その夜、彼はガス管を引き込んで自殺したのです。
 彼の深刻な罪悪意識は、彼を遂に死においやりました。私の最後の言葉は彼の自殺行を更にドライブ・アップしたことでしょう。
 私は、その時まで少女趣味とも言うべき詩や小説をひねりまわしている文学青年でした。しかし、その時より、私は文学をすてました。生と悪と死の問題は、私の脳裏を四六時中離れませんでした。
 罪意識のゆえに死をさえ選んだ親友のきびしい人生感覚が私を圧倒して、罪意識に苦しむというよりは、私は自分の罪意識の浅薄さに苦しむという奇妙なことになって来ました。当時は戦争の時代です。私は生と死、罪と救いの問題を敬遠して、非戦主義と平和論に頭を没入させました。一つの逃避だったのです。そうして第一回の記事のような事になるのです。
(1980.5.18週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-04-30 22:00 | 日岡だより

No.796 《聖書のことば》繁栄の秘訣/無力の底で……/証しについて 2017.4.16

《聖書のことば》聖書暗記コースA~6 
繁栄の秘訣

みことば「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(ヨシュア一・8)
 
 これは詩篇第一篇と共に、人生繁栄の秘訣と、呼んでよい所です。
 スポーツをやる人は、正しい身のこなしでルールを正しく守って、勝利する。
 人生の競技場でも、正しいルールに従い、正確・迅速・力づよい身心のこなしが必要。そのためには、聖書を昼も夜も思う(新改訳では口ずさむ)のが最も身近で、たやすい訓練法です。聖句を暗唱しよう。
(1980.5.11週報「キリストの福音」より)


無力の底で・・・・・・

 神が生きていて下さる、という、
 これよりすばらしいことはない。
 私の身の周りに、何がおころうとも
 私は、神の御計画の中にある、という
 これにまさることはない。
 
 私の人生の過去も、未来も、すっかり、
 神の御手にゆだねてしまい、
 御心のままになるように、と祈るばかり。
 
 今、ここに在って、
 主の霊の力と愛が、上より溢れてくだる。
 私は、ただただ無力になって、
 主を仰ぎ、主にゆだねるばかりだ。
 
 私は、無力そのものだから、
 がんばらない、あせらない。
 流れる時間に身をゆだね、
 魂の主に、魂の行くてをゆだね、
 ささやかれる御ことばに
 一歩一歩、従うだけだ。
 それで効果があろうと、なかろうと、
 失敗であろうと、成功であろうと、
 人間の目に見える所に拘泥せぬ。
 無力な私は、しかり、
 今更、拘泥する余力もない。
 
 生かされて、生きている私は
 罪も過失も、今は神の忘却の中へ・・・・・・
 悔い改めも、つぐないも、
 かの篤信の人々のようには、
 私の力では、うまく行きませんでした。
 この最悪最低の人間を
 生かす力は、あなたの臨在なのです。
 
 私が悔い改めて、私が信じて、
 天国に行くような具合には、
 私は行きませんでした。
 私はただ、私にかわって、
 信じ、祈り、死に、生きて下さる、
 キリスト様、
 あなたを信じるのです。
(一九八〇・四・三〇・くぎみや・よしと)
 (1980.5.11週報「キリストの福音」より)
 
  
証詞について

 いつも、礼拝時には良い証詞をして下さって、感謝しています。特に、先週の聖日礼拝においては、ぞくぞくと七人の兄姉らが壇上に立たれ、それも皆、真摯な喜びと勝利にみたされた証詞で、本当にうれしかったのです。今後も、どんどん前に出て、皆さんの信仰の証し、神様への感謝、祝福と勝利の実例等を大胆に発表して下さい。(感想発表や研究発表といった形式にならぬよう、神様へのささげものと言った気持で、真剣な態度で語るのが好ましい)
 人数が多いと、時間をとられて礼拝時間ものびる可能性はありますが、心配せずに語って下さい。慣れないと、異常に短くて尻切れトンボになるか、同じ事をくり返してくどくなるか、どちらかになりやすいが、慣れぬ間は当然なことです。まず前に出ることに意義があり、次に心底を発表することに意義があります。遠慮せずに出て、あなたの証詞を神と会衆の前に発表しましょう。
 自分の証詞は、必ずあとでテープで何度も聞いて下さい。言いまわしのへたな所や、方言や文法は気にする必要なし。内容の貧しさ、表現の誇張、度のすぎた卑下、下品な笑い、不信仰な言葉、語り口に不平や空虚な感じ無きや等に耳をとがらせよ。(釘宮)
(1980.5.11週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-04-28 09:40 | 日岡だより

No.795 《聖書のことば》信仰生活を建て上げる為に/聖句暗記のおすすめ(5)/ 神の救出作戦 2017.4.9

《聖書のことば》聖書暗記コースA~5 
信仰生活を建て上げる為に

みことば「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(第二テモテ三・16)
 
 聖書の第一の目的は、「キリストについて証しする」ことにあると思います(ヨハネ五・39)。キリストという土台を抜きにしては、いくら善行愛業をはげんでも砂の上の家のように倒れ流される日が必ず来るのであります。
 しかし、キリストの証しが、あなたの霊に植えつけられているのなら、その上に健全な信 仰 生 活(クリスチャンライフ)を建て上げることができます。その時に必要な最大の設計書と手引書は、やはり神の霊感の書、聖書なのであります。
(1980.5.4週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(5)

 朝晩十分間、全身全霊で練習しよう。
 先週、礼拝のとき、証詞の時間にS姉が詩篇第一三九篇の暗唱をした。立木稠子さん主宰の心理音声学研究会でやっているパントマイムの訓練の成果で、みごとな手振り身振りつきの朗々たる暗誦である。前にも書いたが、この手振り身振りが良いのです。これは余分な負担になるどころか、かえって早く印象ぶかく覚えられるはずです。へたでよい、自由発想の身振りでよい、霊舞でもやるつもりで試みて下さい。もう一つ大事なことは、声。細々と遠慮した声でなく、堂々と腹の底から出る声で、朗々と練習して下さい。
 聖句暗記のために、夜寝る前に十分間、朝おきた時にもう一度十分間、時間を取って下さい。この間は精神を集中して下さい。精神集中ということは、ことばだけ聞くとむつかしく感じますが、具体的に実行すればかんたんです。要するに、聖句カードを手にした時、その聖句の意味を一句一句よく考え、味わいましょう。そして、目は文字を見る、指はその文字を追う。声を出して読み、その声を耳は聞く。その時、体をはずませ、首も振るようにしてリズムを取るのです。こうしてあなたの肉体、精神のすべてを使って覚えようと、心を方向づけるのです。実行してみて下さい。
 (1980.5.4週報「キリストの福音」より)


神の救出作戦
   ──カーター大統領への進言──
 
「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」(ヘブル二・17)
 昨日(四月二六日)の新聞によれば、アメリカがイランにおける人質救出作戦に失敗した、という大変衝撃的なニュースがありました。私は、こういう時、すぐ信仰的な事を考えてしまいます。
「さよう、このように、相当に訓練したはずの大国の軍隊でも失敗してしまう。しかし、神様は何事でも決して失敗なさらない」
 私たち人間は悪魔の手中に捕えられ、あたかも人質のごとく罪の中に呻吟していたが、神はその救出作戦に成功されたのだ。聖書はヘブル三・一七で「罪をあがなう」と書いてありますが、このあがなうという言葉は、ドレイを買いもどし捕虜を奪還するという言葉です。サタン(悪魔)のドレイであり捕虜であった私たちを救出するために、イエスは私たちと同じ姿となり傷を負われ、命をすて、地獄にまで侵入して、あらためて復活され(死の大王であるサタンに勝ったのです)天にがいせんされた。こうして、私たちはサタンの手中より解放されたのです。
 さて、そこで私はしろうとでありますが、声が届くならカーターさんにこう言いたいのです。
 カーターさん、大統領の地位はもう捨てる覚悟でいなさい。後事は、副大統領なり、政敵ケネディやリーガンさんにまかせて、あなては単身イランにとびなさい。人質の身代りになって、まず人質を解放させなさい。武器も護衛もつけず丸腰でホメイニやイランのトップに会いなさい。殺されれば殺されてもいいと覚悟しなさい。真実と愛をもって交渉しなさい。対イラン政策における、これまでのアメリカの罪も、あなたの正直に感じるまま(おどされ、妥協してではない)告白しなさい。かつて、チェンバレン英首相がヒトラー相手に人のいい交渉をしてウカウカと失敗した、あんな二の舞をする必要はない。アメリカの国益と世界の平和の為に充分腰の強い外交をしなさい。勝利しなさい。
 今あなたに必要な事は、この最大の非常事態にあたって、イエスのように十字架を自分の身に負い、罪人と同じ姿になって捕らわれの身となり、おのれの民を救い、命を捨てて敵に当ることです。
 カーターさん、あなたはすばらしいクリスチャンだそうです。私の言う処が分ってくれると思います。(一九八〇・四・二七テレホン聖書より 釘宮義人)
 (1980.5.4週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-04-21 19:57 | 日岡だより