No.392 主の御名を呼ぼう 6 2009.7.12

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 6

 そこで、雲の輝きをクレヨンで書き写そうなどと愚の骨頂である、と初めて気がついた。あの美の直覚をそのまま写す方法はない。1を1として数字で世間に流通させるような、ある代替法が必要だ。そんな事を幼い頭で考えていた。
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 さて、私がもともとふれたかった問題点は直覚である。大分県は園田高弘氏の尊父の絶対音感教育の発唱の地として、音楽県として自讃していい県であるが、この絶対音感というやつ、我々音痴には全く、前述の「理屈で分かって実感し得ぬ無限感覚論」に似て手がつけられない。赤を赤と知り、青を青と知るように、どうしてA音をA音と分かり、G音をG音と分からないのであろうか。詩にしても、絵にしても、人がいいというのに一向にこちらにピンと来ぬことがある。何を美と言うのであろう、何を詩と言うのであろう。
 この直覚力を伸ばす教育というのが、今、日本にはないのだ。いや、世界にもないのであろう。あるのはただ通俗的迎合的規格的機械反動的人間をつくる教育ばかりである。すべての天才をおしつぶし、学校と家庭と社会のミキサーにかけて、型押し機でブロックを作るように、次代の青少年を作っていく。少々言いすぎとは思うが、さりとて九〇%真実の評であろう。しかし、これ以上どうしようというのだ、教育界は悲痛な声をあげるであろう。今のままでやっとだし、今のままでいけば一応問題なし、混乱も起こらず、バランスもくずれない、これ以上の事をすれば必ずや大混乱、百鬼夜行の教育界になりはせぬかとの御心配である。もっともである。
 そこで私は何度か訴えた。文部省くそくらえという教育事業を始めようじゃありませんか。第一今の無味乾燥な学科目はやめてしまえ、少なくとも小学校中学校までは。それならどんな学科にするんです。「曰く、探険科、発明科、SF科、演劇科、おしゃべり科、……」ここまでくると誰もまじめに聞いてくれない。
 そこで仕方なく、相変わらずのキリスト教伝道一本やりであるが。さて、はじめの直覚という事にペンを戻そう。
 アダムスキーという人の本に「空飛ぶ円盤同乗記」というのがある。畏友久保田八郎氏の名訳である。高文社という出版社から出ていたが、今もあるかなあ。その中に、宇宙人たちの名前をつけるところがある。今、手許に本が無いので(今私は入院中であるので)うろ覚えのまま引照する。
「この金星から来た男を私は仮にファーコーンと呼ぶことにする。実はもっと別な、本質的な名の呼び方があるのだが、今はその事にふれない」
 そういって、アダムスキーは何人かの他の星の人々の名を仮名で呼ぶ。何故、実名を呼ばないのであろう。その訳は、
「彼ら宇宙人の間では、名のつけ方、名の呼び方、名のあり方が、地球人の我々と全く違うからである」
 とある。彼ら宇宙人たちは、テレパシーの達人でもある。ある人が存在する。その人の人格そのものの色、香り、波動が、赤は赤、青は青、モーツアルトの音色はモーツアルトの音色というように明確なのである。その個性がその人の名である。その存在そのものがその人の名である。その名を呼ぶとき、その存在がテレポーテーションして眼前にやってくる、そういう世界なのであろうと私は察した。こういう直覚の世界を私は赤ん坊が乳房を望むように夢みるのである。
 我々は名前をフチョウのように心得て、かんたんに子供に名付けする。シモンもそのように、かんたんに漁師の父親につけてもらった事であろう。しかし、それをイエスは訂正してみせる。「汝ケパ(訳せばペテロ)ととなえらるべし」と。
 私は何も姓名学者の言うように名を変えればいいというのではない。私自身、今のところ名前を変える気はない。この地球上の正しくフチョウにすぎぬこの名前、刑務所の囚人番号みたいなもので、それこそどうでもいいことだ。しかし、我々自身の内部の人格の名、それを何と呼んでもらえるか。
「神はもろもろの万象を、名を以て呼び出だし給う」
 ヨハネ黙示録にある生命の書にのせられるという、その我々の名、それが大事なのだ。そして、その事の逆の真理は、我々の唇が主の御名を呼ぶということにある。
 エリコにおいてイエスに盲目を癒された乞食の名は、バルテマイ、つまりテマイの子である。アンテオケよりパウロを連れに来た執事はバルナバ、つまり慰め(ナバ)の子である。我々は、我々が主と呼ぶものの子であろう。それが我々の名である。新しい名である。本当の名である。我々が神を呼ぶとき、我らは神の子である。反対にイエスはご自身を人の子と呼ばれた。人の子として死ぬべきであったからである。
 聖霊によらざればイエスを主と呼ぶことはできないとパウロは言う。また、聖霊によりて初めて人は神をアバ父よと呼ぶと言う。この事の真意は、主の御名を呼び、アバ父よと神の御名を呼ぶことは、聖霊の働きであり、故にまたここで言われる「御名」はさきに述べられた本質的根源的実存的な名、それ自身、それ自身の存在である名である、という事が分かる。呼べば、すぐその実体がここにやってくる神秘な名である。直覚的に把握すべき実存者それ自身なのである。
 私はかつて、小学校六年の時、人間には無限、永遠感覚はないのだと絶望したと書いた。しかし今、我らが主の御名を呼び求める時、彼、永遠者の臨在が我が内にのぞむのである。無限の能力に打たれるのである。
 ペテロ、ヨハネが美わしの門で、生まれながらの足なえの男をいやした時、このいやしの力は、ただ「イエス・キリストの御名による」と証明した。この時、ペテロもヨハネも、まやかし、ハッタリ、心理学的言いかえ、比喩を言っているのではない。彼らは正しく、イエス・キリストの霊的臨在を確信しているのである。「イエス・キリストの名によりて歩め」というのは、単なるおまじないではない。正しく、イエス・キリストの御臨在により、イエス・キリストの能力によりて歩めという事である。
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「主の御名を呼び求むるものはすべて救われん」
 とは言っても、内的直覚で主を何と知っているかが問題となる。サタンも光の天使の装いをして人をだます事、しばしばである。その偽天使をおがみつつ「イエス・キリストさま」と呼びまつっていれば、これはいけない。逆に大日如来さまだの、天地大父母さまだのと、口に称える名はそれぞれなれど、内的直覚で真実主を呼び奉っている人もあろう。赤を赤と直覚すれば、それを赤と呼ぼうとレッドと呼ぼうと、なんと呼ぼうとかまいはしない。
 かく知る時、宗教の普遍的救いというテーマで我々は知的満足を得るけれども、我々自身の持っている信仰については、私の今求め信じている主は、まことの主なりやという疑惑を生じる。しかし、ここで私は先に述べた「聖霊によらざればイエスを主なりという能わず」というパウロの言葉に帰る。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-07-14 17:03 | 日岡だより
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