No.388 主の御名を呼ぼう 3 2009.6.7

主の御名を呼ぼう 3

(一九六八年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
 そこで、カインは意外にも安定する。町をさえ建てた。当時で言えば一国の王である。妻をめとった。それは旧人類への勝利のしるし、また旧人類よりの人質、そして実はカインのさらに激しい、けもの族への傾斜と、混血を示すのである。何故、彼は妻をめとるべくその父の国に帰らなかったのであろうか。アブラハムがその子イサクの嫁さがしに示した執念(創世記第二四章)を思うとき、カインの意地っ張りと、その淡泊さが惜しまれる。やむを得ぬなりゆきではあろうが。
 神はアダムを自分のかたちに創造された。アダムの妻に旧人類の女を連れてくることはできない。神は創造を二度くりかえさないようである。創造されたものの中より新生命の生れることを望まれる。そんなわけで、アダムの妻はアダムのあばら骨で造られたという。そこでアダムはこの妻をよろこび、
「これこそ我が骨の骨
我が肉の肉」
 と歌ったという。
(キリストを第二のアダムと呼べば、我らは第二のエバであろうか。キリストの花嫁なる我らは、キリストのあばら骨で造られたのである。彼のあばら骨はゴルゴタの十字架上で一兵士の鎗にくだかれ、彼は三日の間、陰府にふかく眠り、その間に我らは再創造されたのである。これこそ我が骨の骨、我が肉の肉と、キリストもまた我らを喜ばれるであろう。)
 そのあと、有名なアダム夫妻の堕罪と楽園追放がある。そして、カイン、アベル、セツと次々に子供が生まれる。それらの子供は、神のかたちも残っていようが、厳密にはアダムのかたちにかたどられていた(創世記第五章一~三)。けもの族に非ず、神の子に非ず、アダムの子なのである。それが神のイスラエル(選民)である。他はけもの族との混血種族である。これを異邦人という。この異邦人の救いがキリストの新契約の一眼目でもある。私は何もここで民俗学的な血の種別を言っているのではない。あくまでも霊的比喩であるのだが。
 さて、有名なアダムとエバの堕罪物語であるが、エデンの園には重要な木が二つある。一つは生命の木、一つは善悪を知る木である。「この善悪を知る木からは何も食ってはならぬ、それを取って食えば必ず死ぬ」こう言われれば、食べてみたくなるのが人の常で、ここを読むとどう考えても、アダムとエバが可哀そう―――というのは私たちにもアダムとエバの気持ちが充分共感できるので―――神の方が人間心理を無視した無理な戒めを出しているとしか思えない。この私たちの不思議なアダムへの親近感こそ、私たちがアダムの子である事の証拠である。
 この天地創造神話は古代バビロニヤより捕囚中のヘブル民族の聖典にくり入れられるまで、脈々として各民族の伝承の中を濾過して来たった、すぐれた一大民話である。これは人類の頭脳の古い皮質にこびりついているアダム族の潜在意識を表現する「夢」なのである。
 何千年も語りつたえられるこの失楽園の物語を聞きながら、各時代の人々のすべてはため息をついたであろう。神にとめられればとめられる程、それを覗いてみたくなる人間の気質。芸術であろうと科学であろうと、はたまた酒、女、バクチであろうと、そういうものを止めなさいと、もし神に言われれば素直にハイとやめられる気質が我らにはないのだ。そういう天の邪鬼の気質が身内にうずくのだ。
 失楽園の物語を聞いたって、我らの本心はアダム・エバを悪いとは思えやしない。彼らは可哀そうある。サタンは利口だなと思う。神は何という分からず屋の爺かと思う。それに第一、何故「善悪を知る」ことが悪いのであろうかと思う。「善悪を知る」はいいことではないのか。
 旧約神話の主眼は、人間を愚者たらしめんとするにあるのかと毒づきたくもなる。これは多分素朴にして当たり前の人間が失楽園物語を読んだときの偽らざる感想ではなかろうか。
 「善悪を知る」これは大事なことである。エデンの園の中央に生えさせられたということは、それがエデンの園のよって立つ基本原理の一つであったことがわかる。善悪を知る木は、人間をわざと誘惑するために、見せびらかしにつくった神のいたずらなのか、そうではない。目に付きやすい園の中央に生えていれば、取ってみたくもなる。しかし、戒めれば天の邪鬼に出る人間の性質を考慮に入れつつも、その従順と意思もまた期待して、「これを取るな」と戒めざるを得ない神の側の苦衷を思おう。
 「悪を捨て善を選ぶ」(イザヤ第七章一五)は智慧の始めである。しかし、「善悪を知る」ことと「善を選び悪を捨てる」ことの間には大きな格差がある。このイザヤ書はメシヤ預言の有名なところであるが、「見よ、おとめみごもりて子をうまん。その名はインマヌエルと称えられん」第一のアダムが母なくて神の手で造られ、第二のアダムは父なくて処女マリヤより生まれる「その子が生長して善を選び悪を捨てる事を知る頃になって凝乳と蜂蜜を食べる……」
 人間は幼い頃は、善悪の区別を知らない。それでいいのである。ほかの果実と共に、生命の木の果実をも食って、どんどん生長してほしいのである。その中に家畜を飼い、バターやチーズ生産を覚え、痛い蜂の巣より甘い蜜を取ることも知り、そういう風に人類の外面的の生長が順調にのびていく頃には、内面的にも善を選び悪を捨てる力を得るであろう。前述のイザヤ書ではインマヌエル(キリスト)の生長がそのように順調にすすむことを示している。その時こそ、善悪を知るの木の実を食っていい頃である。それまで待たなくてはならない。善を選び悪を捨てる力なくて、善悪を知ることのみ知って何になる。その事の果ては死ではないか。
 パウロがローマ書前半で言う「人に生命を来たらせるべき律法が、かえって死を来たらせる」ということと全く同じである。パウロはまた言う(やはりローマ書で)、「では律法は悪いものであろうか、決してそうではない。この木は聖なるものである」と。同じように善悪を知るの木は悪いものであろうか、決してそうではない。この木は聖なるものである、と今もなお我々はこの創世記の物語の処にはっきりと脚注しておくべきである。
 神話は何でも擬人化して民話風に語りつがれる。罪をおかしたアダム夫婦は神によってエデンの園から追い出されるというふうに伝えられている。しかし、真実のところ、アダムの方から逃げ出して来たに相違ない。豚はいくら洗っても残飯のところに集まり、犬もまた砂の上にまろぶ、同様に今やアダムは楽園エデンにはいたたまれないのである。エデンの園はすばらしい処ではあるが、これからアダムらと共に成熟していくべき未完の聖地、生命とビジョンの溢るる処である。ところが、アダムらは、妙にものの区分秩序の智慧ができ、しかもその秩序を自分で破らずにはおれないようなヘンテコでコチコチの人間になってしまったのである。
 以前のアダム夫婦だったら、働かずにのうのうと果実をつまみ食いして生きておれた。しかし、今は律義もの夫婦になって、夫婦二人だけでも裸では恥ずかしいと思う、そのくせ情欲は一日中体内にうずく、その上ただ食いはできぬ、農耕に精出す、クワをつくる、スキをつくる、もみを保管する、夜が来る、性的夜が来る、カインが生まれる、アベルが生まれる、セツが生まれる、(故にアダムの子らはアダムのかたちなのである)。
 こういうふうだから、アダムたちは、神に追い出されるまでもなく、エデンの園を逃げ出さずにはおれない(神の裁きとは、すべてこの型に準じる。死後、罪人が地獄に行くというのも同様である。地獄に追いやられるのでなく、自分ですすんで地獄の穴にもぐりこんでいくのである)。
 ヘブル民族は農耕は不得手である。彼らは牧畜の民族である。アダムがエデンの園を出て以後、農耕生活に入ったということは、この物語の始めは農耕民族シュメール人たちの間に伝承されていたことを示している。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-06-16 18:04 | 日岡だより
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