No.387 主の御名を呼ぼう 2 2009.5.31

主の御名を呼ぼう 2

 この時、ペテロは、「私がいやすのではありません」と言って、一切の責任をイエス・キリストの御名におっかぶせて按手、「無為の為」を意識的に行動する不思議な業をする。そしてその按手という接触で老女のライ病はきよまるのである。その老女の主観的いやされゆく過程は、体験したものでなくては書けないものである。(この「無為の為」を意識的に行為するという意識と無意識とが止揚された無為的行為こそ教育や伝道における最も大事な点であるが、今はこれにふれない。)
 主人公ベン・ハーが若い時、刑場にひかれゆくイエスに、イエスと知らずして水を汲んでいくところがある。その時、イエスは澄んだ目でベン・ハーをごらんになる。その一瞥がベン・ハーの魂に重いいかりのように落ち込むのである。イエスの眸にみいられたもの、それこそベン・ハーである。そして私たちではないか。
 こういう接触(ふれあい)こそ、人間を作っていく。人間を情緒的に育てていく第一の接触は母親の乳房とその肌である。人間が親をはなれて、異性を求めあう時にも、その愛をたしかめるものは皮膚接触である。純情な大正時代の男女は、互いに髪の毛が頬にふれたり、小指がさわったりするくらいで、心臓がときめいたものであるが、今の人はどうであろう。それはともあれ、母親は子供を一日に何度かほっぺをさわったり、指きりゲンマンしたりしてさわりなさい。父親も一日に一度は大きくなった子供でも肩を叩くなりして接触しなさい。時にはすもうでも取るのが一番いい。夫婦の間では、まして一日一度は接触の時があっていい。これは何も性的な意味で言っているのではない。西洋流のキッスはその点では本当にいい風習である。
 内村鑑三が「あるものの胸にやどりしその日より輝きわたるあめつちの色」とうたったそのある日とは何か。
 インドのタゴールが、ある日突然目ざめる如くしてヒマラヤのふもとに立つ時、目に入ってくる万象すべて神秘な輝きにみちていたという。
 ロマン・ロランが若い日突然、太陽ならぬ太陽の如き白光にふれる。それを「ジャン・クリストフ」の終りの方に書いてあるが、あれも神秘経験したことのあるものでないと読み得ない処だ。
 そういう、霊的接触にふれて目ざめる思いのする時、それを回心といい、悟りという。
 ニコラス・ヘルマンは木の芽を見て回心したという。支那のある禅師は瓦の音を聞いて悟ったという。そういう何気ない自然のしぐさの中に、人間革命の拠点を得るという事、これこそ自然の無意図的教育であろうか、はたまた、神の無為の為であろうか。
 かくて、我らは神との接触に目ざめる。宗教生活とはつまり神との肌のふれあいなのである。
 
  アダム一家 
    主の御名を呼ぶ日まで 

 
 アダムは祖父になった。その子セツは父になった。セツの妻にエノスが生れたからである。その時セツは百五才、アダムは二百三十五才である。アダムは九百三十才まで生きたそうなので、おじいさんになったとはいえ、まだまだ若い、今で言えば壮年期である。
 アダムは、以前二人の子供がいた。兄をカインと言い、弟をアベルと言う。カインの名は有島武郎の小説で、日本でもよく知られている。このカインは根は正直ものだが、カッとくる方である。神への捧げもののことで、アベルを恨んでこれを殺した。何故、カインはアベルを殺したか、心理小説を書くとよい中編ものでもできそうだが、そこは聖書はカンタンである。何故って? そりゃカインは悪くアベルは善人だったからさ(Ⅰヨハネ第三章一二)。「故に、アベルの血よりザカリヤの血に至るまで今の代は糺(ただ)さるべきだ(ルカ第一一章五一)」と、イエスの言葉の端にさえ上ってくる。
 そんなわけで、カインはアダムのそばから逃げていく。
 カインは急に気弱くなって「私は今追放されて地上の放浪者となろうとしています。わたしを見つける者はだれでも私を殺しはしないでしょうか」と神に祈る。そのとき人類の父祖アダムとその妻エバと、当のカインのほかには地上に人はいない筈であるのに、誰が彼を見つけて殺すというのか。誰でも気付く聖書の矛盾であるが、雄大な聖書物語の構想はそんなことでたじろぐものではない。それどころか、あつかましくもその記事のすぐあとには、カインの妻のことを書いてある。そのカインの妻というのは一体どこから出て来たのであろうか。
 私自身計算したことはないので正確には言えないが、聖書の中の系図だけをたよりにして計算すると、アダムの造られた(生れたのではない)のは、大体BC四千年である。BC四千年というと人類の歴史では銅石器時代で、シュメール人などが文字を発明しかけた頃である。だから、アダムがクロマニヨン人だのネアンデルタール人だのとさかのぼって、遂に猿の従兄弟にちかいところあたりの人であろうと想像するのは、科学的には勿論まちがっているが、聖書的にもおかしいのである。
 生物学的に言えば、人類は霊長族の一種であって、動物進化の最先端を行っている(と自分で自惚れている)。それを聖書の目で見よう。創世記の第一章に出てくる天地創造の物語の第五日目、「神は地のけものを種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うもの種類にしたがい造られた」とある。このときの第一日、第二日を今の二十四時間の一日のことであると素朴に思い込む人はそう多くはいないであろう。それは地球上の十万年とか百万年とか一億年とかいう長い時のきれめをさす言葉であろう。さて、ダーウィン流に言うならば、今の人類は、この第五日目の地のけものたちの一種族のなれの果てである。創世記第六日目に出てくる、わざわざ神の手により造られ、神のかたちに似せて造られたという人類の祖とは、第五日目の地のけもの族の人類とは全く異質のものなのである。
 キリストは第二のアダムであると言われる。同じ血肉をまとっているけれども彼はこれまでの人間とは違う異質の新人類のあけぼのなのである。同じようにアダムもそうであった。(Ⅰコリント第一五章四五)猿人以降、旧石器時代をとおして地球上にはびこって来た二足直立のこの動物、それと外観上は少しもかわらないかもしれないけれども、聖書はわざわざ第六日目をあげてアダムの創造を特記しなくてはならなかったのである。神はアダムに息を吹き入れ、アダムは活ける者となった。それまでの猿から一歩も抜け出ていない死んだ人間ではない。そして人類の歴史に文明が始まる。BC四千年の頃である。人類の文明については聖書は前述したカインの子らにその栄光と責めを負わせている。牧畜も、音楽も、鉄器の製造も。そこには、文明というものが、神の子らの知恵によることを承認しつつも、またその中に殺人者カインの血の混じっていることを、そしてカインの妻の血の混じっていることを匂わせている。
 カインの妻は、アダムの子ではないのである。カインは、さきにのべたように他の土地に追放され、放浪する身となった。彼は他国の旧人類(けもの族)をおそれたけれども、神はカインを守られた。アベルの故にあれ程怒って追放を決行しつつも、これをあらゆる仇より守ろうとされる親分肌の神の愛は、のちに似たような形でアブラハムの妾ハガイとその子イシマエルに示される(創世記第二一章八~二一)。それはともかく、カインは新人類の祖アダムの長子として、旧人類に対し一等ぬきんでるあるものがあった。神が彼に、だれも彼を打ち殺すことのできないような一つのしるしをつけられたからだという。人類が火を持つことにより他の猛獣の恐怖から救われたように、カインもまた何か一つのものを与えられたのであろう。それはたしかにのちのち牧畜、音楽、鉄器という文明開発への基礎となるあるものであったと思われる。(つづく)
(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
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by hioka-wahaha | 2009-06-02 11:28 | 日岡だより
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