No.386 主の御名を呼ぼう 1 2009.5.24

主の御名を呼ぼう 1
 
     は し が き
 
 一九六八年七月八日のことですが、ぜんそくの発作が起こり、生れて初めて入院治療ということになりました。調べたら心筋梗塞だの糖尿病だのを続々発見、出るに出られず、二週間の病院生活を送りました。
 当時は忙しくしていたので、入院で多方面に迷惑をかけ申し訳なくも思いましたが、自分としては修道院に入っている気持ちで有り難く時を過ごしました。
 以下は、そのときに、思いつくまま書きしるした文章です。
                                  釘 宮 義 人

 
 
    神 は 愛 な り 

 世に幾多の宗教あろうとも「神は愛なり」(ヨハネ第一書第四章十六節)の一語に尽きると思う。聖書もコーランも仏典もつきつめればこの一語に煮つまるにちがいない。仏教者は無だの空だのと言うて、神などあるものかなどと言うかしれないが、そう言っておれるのもおシャカ様の掌の上の孫悟空のようなもので、みな神の愛の掌中で屁理屈をこねているだけの事である。
 聖書六十六巻、無ければ無いでよい、これすべて「神は愛なり」の一語に尽き、展開すれば、天地創造譚より新天新地の預言にまで至る。
 故に思う。また、切に願う、この「神は愛なり」の一語が本当に分かりたい。魂の底がぬけるように分かりたい。
 文法に、第一人称、第二人称、第三人称というのがある。
 第一人称が、我、私、僕、おれ
 第二人称が、汝、あなた、君、お前
 第三人称が、彼、あの人、あいつ、あれ、それ……
 ということだ。この時「神は愛なり」という語句の中の、神は第三人称であろうか。神が第三人称の方として語られるとき、それは教科書に書かれている教義、教条的真理である。それはひからびた標本か、硬直した化石のような真理である。学者が黒板の前で語るにはもってこいの真理であるが、前の道を通る魚屋の大将を活かす真理ではない。それではこの神を第二人称(汝)を以て呼ぼうか。「神(汝)は愛なり」。これはまさしく詩篇の主調音であると思う。第三人称の神を語るときには、神を客体化して、語る我と聞く汝が別にいます。それは講義されている神であり、噂されている神であります。ところが、第二人称の神と語るとき、こちらに我があるだけで、第三者の入りこむすきがありません。対面する神!、そこで我の愛が問われ、我の応答が問われます。これはまた預言者の宗教でもありますね。ここに、この頃流行の言葉「対話」が成り立つかもしれない。対話の宗教―――それが祈りである、と言えるかもしれない。
 話題を転じるが、二人の男女が真に愛しあっているとき、二人はただ共にいるというだけで無言のまま何時間すぎても喜びと平和はつきまい。対話がないと、時間を持てあましているイライラするというのはそこに愛がない証拠。汝と我が愛に於て一体化するとき、そこに退屈、葛藤、遠慮はない。
 同様に、神が第二人称として受け取られている信仰もすばらしいけれど、それ以上に、第一人称として受けとめられていると、凄いと思う。「神(我)は愛なり」。と、こう言う時、私はこの第一人称を絶対的第一人称と呼ぶ。我も彼も汝もあれも、一切を含めて神は「我」である。この大我にこの小さな私も没落してしまったとき、「神は愛なり」という宇宙音がきかれるのである。
 この時、「愛」という言葉もまた客体化されたあるものではない。愛とは我の代名詞なのである。その愛の中に没落して生きる、これが宗教である。
 「我が愛におれ」(ヨハネ伝第一五章一〇節)これはバックストンが日本を去るときの遺訓の由であるが、まことに聖徒バックストンの、その弟子たちにのこした言葉としてすばらしいと思うのである。
 さて、これまでの文章は、少々理窟っぽかったかもしれぬ。本当はそれ程ややこしく考えぬでもよろしい。ただ
 「神は愛なり」
 この一語を冥想したまえ。真に、神が愛であるなら、我ら何一つおそれる事もひるむ事もない。一切を神の愛として受け入れ、変革し、前進し、完成する雄大な人物になり得るのである。
 (一九六八・七・二四、井上内科にて)
 
 
    ふ れ あ い 

 私の副業は(はたまた本業か)印刷屋である。最近T先生の「教育に於ける虚像について」という論文を刷らせてもらった。そのおかげで、その内容にふれる事ができたのであるが、その第二章に「意図的教育だけが教育だとする虚像」というのがあって、言いなおせばそういう錯覚であるが、そこにその錯覚である例として無意図的に実現された教育効果の一事例をあげている。
「今から十五年前、S小学校の指導に行ったことがある。そして一時間飛び入りの音楽の授業をさせられたことがあった。五年生の女子組である。その中にHさんという、日鉱社員の子どもがいた。その時以来、その子は、中学に入り、後に東京に転住し、大学を卒業しても、毎年便りをくれた。………私はこの子に何をしたというのであろう。僅か四十五分のただの一度の授業をとおして、おそらくこの子は、担任の先生とは別に、私に親しみをもっているのではあるまいか。その子は、私の教え子のように思えてくるのである。この子もまた、私を先生と思いきめている様子である。」
 だから意図的教育が無駄だというのではない。教育はあくまで意図的に、計画的に、積極的になされるべきであろう。にもかかわらず、一個の人間の前途の分岐、人格転換のポイントが、教師の何気ない構えのない言行で左右されることがある。こういう教育のできる人を私は尊いと思う。それを老子は「無為の為」と呼ぶ。君子は何も為さざるに似て万事を為すのである。意図的官製教育はどうしても、教養の詰め込み、職業技術の押し込みに終わりがちだ。それはそれでよい、仕方のないことだ。しかしやはりもう一本筋ならぬ筋のとおった教育がほしい。教育課程に書いてなく、教案に書くことができず、教育効果として教師自身その時自覚できず、まして校長の勤務評定表にも上ってこないようなあるものが。
 イエスが何気なく歩いている姿を見て、洗礼者ヨハネは言った。
 「視よ、これぞ神の小羊」
 目を見はらずにはおれないあるものが、野を歩きたもうイエスの身辺にあったのである。そこで二人の弟子がイエスに従ったとある。
 「ベン・ハー」というイエス外伝のような通俗小説がある。この小説は大スペクタル映画になって日本にも来たことがあるので見られた人も多かろう。この小説を読んだとき、私には小説の文学的価値のいかほどかは分からなかったが、ただこの作者は宗教を知っていると思った。宗教体験が無ければ書けない表現がある。
 主人公の母親がライ病になってペテロに救われるところがある。その時、ペテロは、
「私がいやすのではありません。我らの主イエス・キリストの御名によりていやされるのです。」
 そう言って彼の手をその母親の額にあてた。その時、すずやかな戦慄が彼女の全身を走り、言いようのない静けさと平安が全身に波紋のようにひろがり、そして満ちた。そばにいた女中が発見する。
「奥さま、病気がなおりました。お肌がきれいです。」(つづく)
 (1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
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by hioka-wahaha | 2009-05-26 11:00 | 日岡だより
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