No.385 預言といやしの聖会2 2009.5.17

預言といやしの聖会2
 
 ところが、ある老婦人が道を歩いている時に、急に足が痛くなった。歩けません。そこでその老姉妹突然言った。
「釘宮先生の信じるキリストの神様、この足の痛みをトットと追い出してください。」
 そうすると、一方の足の痛みが無くなった、バアチャン言わく。
「釘宮先生の信じるキリストの神様、一方だけじゃ困ります。2本の足、一緒にポーンと治してください。」
 これを言うや否や、本当に2本の足、一緒にポーンと治った。バアチャンびっくりして釘宮先生の家にまっしぐら。ちょうど私の家では祈祷会の最中。
 「センセーイ。足が治った、足が治った」
 と、息も喘ぎ喘ぎ、私に報告である。さあ、それを聞いた祈祷会の皆さん、祈りがワーッと燃え上がる。その頃、私の家は2階住まい、熱い祈りが持ち上がると、家は震動するんです(笑)。
 その後、このオバアチャンは、足の神経痛の祈りの専門になりましたがね。
 その当時、日本には私の知る限り、東京に一人、神戸に一人、神癒専門の先生がいらっしたが、その他には知りません。私は全くのしろうと、大先生がたが病気の人のために祈って治す現場を見たこともありません。ただ、聖書を振りかざして、「聖書にこう書いてある。聖書にこう書いてある。病気は必ず癒される、必ず癒される」と言うばかりです。
 しかし、こう言い続けていると、少しずつ、ひとりでに軽い病気や、重い病気も、治り始める。私は戸惑いながらも、祈ってさしあげるうちに、癒される人も多くなるし、私にも祈れば神様が癒されるという自信が湧いて来たのです。こうして、分かって来たことは、信仰の言葉を(本当の信仰もないままに)信仰の言葉を言い続けて行くと、その言葉が実現するし、私にも信仰が湧くのだということです。(終り)《く》
 

私の初期の伝道の頃
 
 実は、私の初期の集会(まだ教会と呼ぶのは恐れ多くて、集会と呼び習わしていました。昭和30年頃です)その頃、すでに癒しの事実は起こっていました。これは私にその信仰があったからではなく、まさに「言葉」の力でした。
 その頃は、まだ「説教」ということも、やはり恐れ多くて言えません。聖書講義と呼んでいました。私は神学校も出ていない、しろうと伝道者です。まだ30歳をちょっと出たばかりの若造です。しかし、熱気がありましたから、たぶん出席者の心を打ったのではないかと思います。
 私より先輩の萱島兄が、「今の釘宮さんの聖書講義、大分のクリスチャン、皆に聴いて貰いたいですよ」とよく言ったものです。
 当時の私はまだ義認信仰一点ばりでした。聖潔の信仰にはあこがれていましたが、まだ掴めていませんでした。また、問題は聖潔信仰を持っているというクリスチャンで、当時の私の周辺にいた人たちは、どうも本当の信仰は持っていなかった。私の体験している義認の信仰すらも、言葉としては知っているけれども、その真実を掴んでいなかった(これは本能的に分かります)。
 ましてや、聖潔信仰や、また今でいうカリスマ的聖霊信仰などもちろん知りもしない。一切格好をつけているだけの見せかけ信仰です。その悲劇たるや、そのことをその方々が自覚していなかったこと、それが最大の悲劇です。
 
 私の当時の信仰を説明すると、義なるキリスト様が私の内に移入してくださったという体験、これが第一です。昭和19年11月23日、22歳の秋のことでした。
 次は、人格としてのイエス様が私の内に移住して下さった、と言うより、「侵入」してくださった。しかも、その翌日の朝、多少その信仰体験を自ら疑いかけている私に向かって「われ更になんじを去らず」(ヘブル13:5下)とカラカラ笑っておっしゃるイエス様を拝見、私の信仰ははっきり決まってしまったのです。昭和23年3月30日から4月3日にかけてのことです。その頃は、今は大分市に編入されている鶴崎の町で伝道していました。
 これは、「イエス様により義とされた」という信仰を越えて、義なるイエス様が私の中にお住みになってくださった、しかも永住されるのだという感覚です。この信仰を頂くことは正に祝福です。
 それから、私は伝道拠点を大分市に戻し、大分市の都心にある、県庁のすぐ裏の町村会館で集会を始めます。その頃から、私は厚顔にも洗礼式を執行し始めます。
 私は如何なる宗教団体からも洗礼執行の資格は与えられていませんでしたが、マタイ28章18節の「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、……」とあるお言葉に従って、恐れることなく、洗礼をほどこしました。
 当時の礼拝では出席者は30人は越えていたと思いますね。その時の洗礼式は、今、大野三重市に居られる私と同姓ですが釘宮保兄が加勢してくれて慣れない私は心強かったです。保兄は東京で神学校を卒業していたので、そういうことにも手なれていたし、心強い祈祷をしてくれる人で有り難かったです。
 以上、昭和23年ころのことだったと思います。ぼつぼつ、当時のことは忙洋として掴みがたく、記憶が薄れかけています。その頃のことは、前述の保兄にでも確かめねば思い出せませんね。《く》


春の信徒一泊セミナー (上木兄の報告文より)

 去る5月3日(日)、主日礼拝を恵みの中で終えた後、釘宮牧師先生以下約20名の兄弟姉妹と共に、目的地の別府照波園へ。この場所での一泊セミナーは昨年につづき2度目のせいか、聖会開始までの時間、ゆとりをもって、庭園内にある木々の緑の薫り、海から風に運ばれてくる潮の香りを満喫し、兄弟姉妹の顔は自然にほころび笑顔で満ちていた。
 まず、このような恵みの時間を過ごし、第一聖会が予定どおり午後3時に開会された。
 釘宮牧師先生がイザヤ書25章1節、創世記1章1~2、ヨハネの福音書1~3、これらの御言葉を丁寧に解き明かしてくださった。特に、信仰、聖霊様についての事を表現する人々の言葉は各自の内実より言葉を作り出す言語であり、この言葉を与えたのは、創造者(神)であると語ってくださった。以上のメッセージをいただいた我々は、あらためて言葉の大切さ(言葉は命)を認識したことである。
 メッセージの後、釘宮牧師先生から兄弟姉妹に、信仰について経験や教えられたことを自由に語ってくれとの要望があった。数名の姉妹がそれぞれ各自の信仰体験や生活の中での思いを語ってくださると、それに応える証しが出たり、呼応する聖書の言葉が導き出されたりして、互いに支え合い、よき分かち合いの時間となった。この最初の聖会で、自由な和気藹々とした雰囲気が生れ、今回のセミナーの性格を形作る基礎になったように思う。
 夜7時半より第二聖会。箴言より数ヶ所を拝読。31章10~31節の御言葉により、自分の顔のセルフ・イメージを作ることを語ってくださる。笑顔に満ちている顔や、自分の理想とするしゃべり方、歩き方などに対するイメージをもって黙想。
 いったん終了し、なごやかなブレイクタイムの後、自然に祈りに導かれ、祈祷会に。自由でリラックスした聖霊様との交わりのすばらしい時間となった。
 翌朝、午前5時半より早天祈祷会。集会中に水平線に昇る朝日が見られるはずだったが、あいにくの雨模様。詩篇49編1~4節をとおして学び、兄弟姉妹と朝一番の祈りの時を持つ、恵みの時間。
 朝食後、午前8時半より最後の聖会。エゼキエル書47章1~13節。釘宮牧師先生よりジョン・ウェスレーの宗教改革、救世軍による社会革命などの貴重なメッセージをいただく。
 チェックアウトのため、午前10時に解散するが、聖会の余韻濃厚で去りがたく、別れがたく、照波園のロビーにてぐずぐずした後、残った者たちで記念撮影をした。一人一人が、解放された良い笑顔で写っている。おそらく先に帰った方々も同様であったことだろう。
 以上、本当に恵まれた1泊2日のセミナーでした。心から主に感謝します。
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by hioka-wahaha | 2009-05-19 11:21 | 日岡だより
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