No.383 事業を活かす信仰 10 2009.5.3

事業を活かす信仰 10

 僕はそれまで家族を扶養する義務を捨てていた。僕は神様のために一生をささげる。僕と、僕の家族の生活のことは、主よ、あなたにお頼りします。―――そんなふうだったのだ。そのような僕が、子どもを養おうと思い立つ。
 考えてみると、その胎動は半年ほど前からあった。その前年のクリスマス、僕は集会でこんな説教をした。「僕はこれまで伝道者として、みなさんの中で、最低の生活をしようと思っておりました。みなさんの中で、僕よりも貧乏な生活をしている人がおると、こんな申し訳ないことはないと思っておりました。しかし、来年からは違います。僕が貧乏の真似をしている限り、みなさんも貧乏くさい不活発でじめじめした生活より抜け出せないのです。今度は僕が先頭とは行かないまでも、中ほどの生活をして、みなさんを引っ張っていきます。」
 僕は即座に立って家に帰り、こどもを妻に預ける。中古の自転車に乗って旧大分市内に出る。知り合いのK氏の店による。K氏はタイプ印刷屋をしている。
 「あなた、奥さんにタイプを覚えてもらってはどうです。あなたの本も印刷できるし、私の方の下請けでもしてくだされば生活のたしになりますよ。」
 そうかねエと僕はさほど気にも止めず、もう一人の知人Y氏を訪ねる。Y氏は優秀な経営コンサルタントである。この人も、僕がなにも言わぬさきに
 「あなた、タイプをしませんか。あなたの内職としては、イメージも悪くないし、粗利の大きい仕事ですから――。」
 僕はまたそうですかねエと、首をふりふり自転車乗って家に帰りかけた。今でも覚えている。大分川にかかっている舞鶴橋をわたりつつ僕は思う。僕が働こうと思い立っている事など一言も口外せぬのに、何であの二人、口をそろえてタイプをすすめるのであろう。そのとき、脳天より尻の骨にひびくように、
 「すべて正しきことは二人の証人によりてたしかめられる」
 という聖書のお言葉がひらめいてきた。「よし、きた」―――ものすごい力が僕の内側にわくのである。
 この直後、僕は三つのことをした。
 第一に、その日より、集会や、対面の席で、僕はタイプをやって生活する。生れてはじめて、食わんがための仕事を始めるよと公言した。
 第二に、全国に散っている少数の信仰上の友人たちに、当面の資金を借りることにした。具体的には無利子出世払いのタイプ債券を発行して買ってもらう。
 第三に、例の大阪の中島氏に手紙を出して、どういう機種がよいか、タイプライターの専門的なことにつき質問した。
 折り返し、全国の友人たちより少しずつ送金してくれた。まことに申し訳ないが、この金は実はさっそく生活費にまわってしまった。それらの金に先立って、大阪の中島氏より速達が来ていた。
 「奥さんにタイプをしてもらう由、何よりです。機械は中古でよかったら手頃なのがありますから、タダで送ります。」
 よろしい、タダより安いものはない。気の早い僕はただちに電報「タイプオクレ」。
 三日ほどしたら、運送店が大きな荷物を五個配達してきた。開いてみたら、みなタイプライター。
 「どうせ機械を送るのなら、ついでにと思い、五台送りました。奥さんが打ってもかまいませんが、いっその事、タイピストを雇って、大阪から送る原稿を打たせてくれませんか、貴兄は編集と校正でもしてくれると幸甚」とある。びっくりした。それから、続けざまに五万、十万と開設資金を送ってくれて、僕の今の事業の神話時代が始まる。
 僕が働こうと決心して一週間したときには、もうタイプライターが五台並んでいた。先週の集会で、まだ海のものとも山のものとも分からぬさなかで、大風呂敷をひろげる僕に毒気を抜かれていた連中は、一週間した次の集会では、もう万事が軌道にのりはじめている事態の見事さに唖然としたものである。
 ああ、あれからもう七年たつ。僕の生涯の中で最も長い職業経験である(ろう学校の教員が六年であった)。その間、今の事業の恩人である中島氏とも資本的には縁を切って独立し、近く株式会社に組織替えする。内的には昨年よりいちじるしい信仰的進展を示しており、伝道上の活動もいよいよはげしくなってきた。このときにあたり、僕は目下の事業に関連させて、さして売れる見込みのない信仰図書の出版を営みたいと思い立った。大量出版の可能な図書は中央できれいに刷り上げて中央で売りさばけばよい。しかし、信仰的良書にして、しかもその内容の傾向、あるいは著者のネームバリューの欠如等よりして少量出版を余儀なくされる図書を出版していきたいのである。
 読者諸賢の、今後のご協力をお願いする。
 あわれみに富み給う主のご援助を祈りつつ。また、諸君の上に恵福を祈る。
 なお、最近オフセット印刷機を導入したので、今後はもっと本格的印刷に向上できるはずである。
 (二月五日夜)   (連載終り)
 ※以上の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しました。
 

聖霊の賜物について 1
 
 神様から人類に与えてくださる最大の賜物はイエス様ご自身です。(ヨハネ3:16参照)
 イエス様によって神様が人類に与えてくださる最大の賜物は永遠の生命です。(ローマ6:23参照)
 クリスチャンとは、その永遠の生命を頂いた者の名前です。日本語にすれば「キリスト者」と言うのが端的に良い訳です。
 キリスト者として、自分で自覚出来る一番の保証は聖霊です。パウロはそれを「証印」だと言います。(エペソ1:13、4:30参照)
 尤も、最初に聖霊を賜物として頂いた時は、それと自覚出来ないかもしれません。
 ペテロの最初の説教を聞いて、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と救いを求めてきたユダヤ人たちにペテロが答えた言葉こうでした。「悔い改めなさい。そして、……罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるでしょう」(使徒行伝2:38)。
 水のバプテスマを受けて、その場で聖霊様を感じる人もいますが、多分それは少数です。たいていの人は感情的に感動するにしても、聖霊様をじかに感じる人は少ないものです。作家の椎名麟三は何も感じなかった、とあっけらかんとした感想をあちこちに書いています。しかし、ペテロが言うとおりに、その時、確実に聖霊様を受けているのだと私は信じます。
 椎名麟三はその後、どれほどたってからだったか、たしかエマオへ行く道で復活のイエス様に会った2人の弟子たちの聖書の個所を読んだ時、ハッと分かったと書き残しています。自分がイエス様に捉えられていることが分かったのです。
 信仰とは聖書の言葉の真実(レアリティ)が一瞬フッと分かるというような所があります。それがイエス様のおっしゃる「この聖書は私について証しをするものである」(ヨハネ5:39)ということです。
 前述の使徒行伝2:38の「聖霊の賜物」という言葉、第一コリント12章、14章の「聖霊の賜物」というのとは違うのです。前者で言うのは「賜物としていただけた聖霊様、そのもの」のことをさしています。後者はその聖霊様によって特別にいただける能力的特別な賜物、ただでいただけるプレゼントです。
 この特別な賜物について、第一コリント12章、14章は特にくわしいと思います。以下に簡単に説明してみます。
        *
 ところで最初に、ちょっと注意しておきたいことがある。第一コリント12章1節に「兄弟たちよ、霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない」とあって、3節には「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない」という有名な言葉が続くのである。《く》(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-05-05 12:26 | 日岡だより
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