No.382 今、この教会に欲しいもの 2009.4.26

今、この教会に欲しいもの

 今、この教会で、足らないものは何か。
 第一、日曜学校である。昔から教会と言えば、まず、日曜学校賛美歌を歌っている、子どもたちの元気のいい声であった。次に、
 第二、あるようで、無いのが青年会である。青年が殆ど居ない。元気のいい、はつらつとした信仰を持った青年の群れがない。
 壮年クラスは無いことは無い。壮年クラスがもっと青年らしい元気を出して活動するとよいのかも知れない。壮年男子諸君、青年の気分を思い出せ。
 一応、盛んなのは婦人会である。これはどこの教会も同じであろうか。何よりも教会は女性が多い。そこで、食事やお掃除や、体を使って尊いご奉仕をなさって下さる。男子諸君、これに甘えてはならぬ。
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 さて、この奉仕部門というか、活動部門というか、目を広げ、手を広げてみたい。大分ゆふみ病院や、警察や、市の社会課などに問い合わせると意外に為すべき協力部門が沢山あることだろうと思う。
 相良姉妹がされているが、人生相談の電話での応答の奉仕、これはさぞ難しかろうと思う。特別な能力も必要ですが、聖霊のお助けを祈りましょう。
 かつては、行旅病者の介護、その病人が死んだ場合の、いわゆる「おくり人」の奉仕というのがあった。今はどこでしているのだろうか。
 私はかつて仏崎の海岸に流れついた海難か自殺か分からないが、その死者を運び上げて上野の墓地に死体のまま土葬したことがある。当時、大分市社会課長だった(後の大分県知事)立木さんが「おい、みんな、こんなことをしてくれるのは何も関係のない釘宮さんだけだ」と大きな声で課員一同に告げていたのを、この原稿を書きながら思い出した。《く》
 

事業を活かす信仰 9

 当時の僕の信仰は、聖化論に苦しんでいた。その線を突破したときの心境は、「我さらに汝を去らず」という文章に残した。
 信仰者といえども金の問題にはつまずきやすい。その峠を越すために、思いあまって一灯園に行ったこともある。一灯園風の生活は、ろう学校の教員をしながらもずっと続いた。神癒信仰に入ったのもその頃で、風邪になってもアスピリン一錠飲まぬ徹底ぶり。妻が乳癌になって苦しんだとき手術せよという医者のすすめを断って、妻に死んでもよい、手術は受けてくれるな、俺が祈ってやると頭を下げた。妻はつねに僕のよき伴侶者であり、僕の聴罪僧であり、僕の十字架の負い手であった。
 乳癌や盲腸や赤痢や、そういう難病が不思議に癒された。家出の父を呼び返したり、行方不明の精神病の息子を救ったり、そういう奇蹟的実話の多かった時代である。伝道者としての自惚れも出てきた。遂に教員をやめて独立にふみきった。今思えば甘い決心ではあるが、当時は大変な決意であったのである。
 ここで神はとんでもないことをなさる。僕を原始福音の手島先生に会わせたのである。この怪物級の伝道者に会った時、僕の自惚れはいっぺんに吹き飛んだ。それまで僕を世界一の伝道者と思っていた妻も、世の中は広いもの、えらい人物がいるものだとびっくりしたそうだ。僕は遂に手島先生を師匠として、その集団に信者さんを連れてとびこんだ。
 二年ほどして、僕は先生につまずいた。つまずく僕が悪いのか、つまずかせる先生が悪いのか、ともかく我の強い者同士が角をつきあわせたのである。
 僕はほうほうの体で逃げ出す。こういう時、手島という人は疾風の如き軍師ぶりを発揮する。一級伝道者を送って、信者さんを奪い去り、僕を独りぼっちにしてしまう。彼らはこれを「愛のムチ」と呼ぶ。職を捨ててまで伝道に専心しようとした僕が、信者さんを奪い取られてしまって、さあ、何をして食っていく?
 僕は、僕の生涯で目で見る事のできる師として二人の人を持つ。一人は一灯園の西田天香師、一人は手島先生。前者より無一物生活を学び、後者より霊的信仰を学んだ。お二人に対する尊敬と感謝は今も変わらない。
 僕は手島先生を離れて以来、数年間精神的放浪生活を送る。キリスト教以外の諸宗教に身を以てふれた。いろんな新興宗教の教祖さんが僕を幹部に欲しがって居候させてくれるのでさまざまの勉強ができた。霊媒や空飛ぶ円盤に興味を持ったのもその頃のことである。その頃、僕は十菱麟という妙な名前の人と知り合って、AZ運動という奴のお先棒をかついだ。その時の雑文に「ケチな根性じゃ救われません」というのがある。今読んでも面白い。
 僕は、とっくに、父がのこしてくれていた財産はたった一つを残して、食いつぶしていた。そのたった一つ残っていた財産というのは、借り手がひどいやくざな男で、そのような借り手が居住権を盾にとって居座っている以上、売ろうにも買い手がつかないという因縁つきの家である。その男が集会中の僕に出刃包丁をつきつけてきて僕に小さなケガをさせる、警察沙汰になる、というなりゆきで遂にその男が家を出て行った(人間的には憎めぬいい男でしたがね)。
 そこで僕は、その家を売った。金が手に入る。それをまた居食いする。当時の僕の信条は、好きなことだけする。嫌いなことは死んでもしない。命がけのわがまま生活、気迫に満ちたのらくら生活。伝道とは言っても、二、三人残った信者さんを相手に時折集会するだけ。そこで暇が多い。午後三時になると近所の銭湯に行く。大の字になって寝ている。その銭湯で奇妙な老人と知り合った。
 老人は僕のことを心配して、郊外に土地を買って家を建てろと言う。
 「よかろう、建てましょう。」
 「あっしにまかせるか。」
 「うん、まかせる。」
 老人は翌日より、外に出て土地をさがし、大工を連れて来、建築を始め、昭和三十六年の二月十一日、家ができたから早く移れと言う。
 新居に移転してすぐ、東京の十菱君よりAZ講演会を開くから来て話をしてくれないかと言う。同時に、K夫人が旅費を送るから是非上京してくれと言う。僕は承諾して妻と二人で東京行きの急行に乗った。
 出発する時、当時生れて満一才の末の娘をかの老人に子守りしてくれるよう頼んだ。そしていわく、
 「さてじいちゃん、じいちゃんの名前は何というの。」
 僕はそれまで、その老人の名を知らなかったのである。それから母に二万円か三万円の金をわたした。それが僕が家を売って残していた金の最後であった。僕は東京行きの切符だけ手にして旅に出たのである。
 当時の上京中の話は省略する。いよいよ、大分に帰ることとなる。途中、大阪におりた。会いたい人が五、六人いたのだが、みな都合が悪くて会えない。たった一人、スブドという宗教団体で名前を知り合っていた中島という人を訪ねてみた。孔研社というタイプ印刷屋でまったく忙しい。ほとんど話すひまはない。二十分そこそこで「サイナラ」と別れた。
 久しぶりに我が家に帰ってみると、金はもうまったく無い。近くの米屋や乾物屋などに、もうだいぶ借金をつくっている。この前こそ、家を建てて移ってきたこの一家に、金は一円も無いとはいかな街の商売人たちも思いもよるまい。そう思うと、おかしさがこみあげる。
 そんなある日、僕は末の娘をだいて小学校の運動場にあそびに行った。ぶらんこに乗ってゆれている時、僕の心に天啓のごとくひらめく思いがあった。
 「この子のために働こう。俺はこの子を養わねばならない。」(つづく)
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
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by hioka-wahaha | 2009-04-27 13:25 | 日岡だより
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