No.381 「塩狩峠」と旭川リバイバル 2009.4.19

「塩狩峠」と旭川リバイバル

 今日の日付のクリスチャン新聞ですが、礼拝室の後ろの棚においておきました。その3頁に、このタイトルに頂いた「『塩狩峠』と旭川リバイバル」と題した記事が載っています。
 作家の三浦綾子さんの出世作は朝日新聞の一万円懸賞小説の「氷点」ですが、更に三浦さんの文名を高め、確固たるものにしたのはこの外ならぬ「塩狩峠」だったでしょう。
 三浦綾子さんの偉いのは、最初から堂々と「キリスト教の福音を証詞するために書いた小説です」と当選時のインタビューの新聞記者にも語っていた姿勢です。ここまではっきり言う人は少ないですよ。
 もともと純文学の人たちは「……の為に小説を書く」なんて、目的小説を書くことを嫌います、恥とも思うでしょう。そこを「いいえ、私は福音宣教のために書いたんです」というのですから、文学界からは三浦さん、きっと異端視されたでしょうね。
           *
 「氷点」も「塩狩峠」も、イエス様を信じる信仰の故に、この世の遭難事故に処して、ある意味ではさして縁もゆかりもない、ただ乗り合わせただけとのいう人々のため命を捨てるという驚嘆すべき物語です。
 こういう「お涙頂戴」式の内容は、却って文学としては書きにくいものです。そこに体ごと、ぶっつかって書く三浦さんの作家魂には、並々ならぬ勇気を感じます。
 こんな事を、私が言えるのは私自身、恥ずかしながら、若いとき文学少年の一人だったからかも知れません。事実、あの朝日新聞の一万円懸賞には、私も応募しようかと心を燃やしたものですよ(笑)。《く》

 
事業を活かす信仰 8

A 兄
 第四信を送ります。
 西多摩の旅館は二月末完成の予定の由でしたね。ご成功を祈る。溢るるばかりのイエス様のご祝福を信じます。一切のものを豊かに、ゆすり入れる程めぐみ給う主を信じます。
 「利潤追求と社会福祉の両面のバランスをとって目的を果たせる事業をしたい」云々と書いてありましたお手紙に、ちょっと刺激されて第一信、第二信、第三信と書きつらねてしまいましたが、或いは連日食傷気味であったかもしれませんね。
 さて、お尋ねの土地の件、やはり別府の背後地より飯田高原にかけてが良いでしょうね、今いくら位の値段しているか近日専門家に聞いてみましょう。飯田高原で思い出したが、私の理想はああいう処に全寮制の学校をつくる事です、いつか実現したいですね。
 ところで、今この手紙を終わるに当って、最も残念なのは社会科学的な視点よりしての日本の中小企業のおかれている立場とか、またそういうモノゴトに目ざめている中小の事業家たちが、この歴史の中で自身をどのように認識し、かつどうあろう、或いはどうなろうとすべきなのか、という問題につきふれ得なかったことです。
 こういった面については、学者たちも活動家たちも不勉強のようです、なかんずく「目ざめたる事業家は何を為すべきか」という哲学が生れていないようです。さらに、それをもう一歩つき込んでクリスチャン事業家はいかにすべきかという問題にふれ得なかったという事です。
 では、A兄! 主にある平安をいのりつつ
    一月十七日 夜
 
  あ と が き 

 僕は商家に生れた。父は本当にすばらしいクリスチャンだったが早く死んだ。父の兄にあたる伯父も無教会派の豪の者だった。
 この伯父は、父が死んだあとの我が家の商売を無私なる心で後押ししてくれて、僕がどうにか少年期を終える頃に死んだ。僕の母は善良だが根ががんこな、そしてぐちの多い教会信者。僕は母の故に教会信仰を嫌い、父や伯父の気風を受けついで預言者風の信仰を求めた。
 僕はひとりっ子として育ち、ひとりっ子らしく気弱い惰弱な人間だったと思う。そしてわがままだった。僕は小説家になりたくって進学を嫌った。
 母は僕を商科系の学校に入れたかったのだが僕はそれを避けた。進学しようと思えば、どうにか試験に受かるだけの学力はあったと思う。母はいつまでもそれを惜しがる。
 僕はそんな時に、否定的な態度をとることにがんこであった。気弱な人間が無理に豪傑らしく振る舞おうとするとそんなふうになるのらしい。
 はじめに書いた無教会の伯父は、大きく店をはっていた。伯父が死んで、僕の従兄がそのあとをついだ。従兄と言っても親子ほど年の違う人で、今考えれば本当に僕のためによくしてくれたと思う。その従兄の店に僕は商売の見習いに行った。商売の世界は僕にはなじめなかった。一年ほどすると、まったく息もつけないような気持になって家出をしたことがある。
 少年時代以来の親友M君が厭世哲学におちいって、敢然と(と僕にはそう見えた)自殺したのもその頃のこと。その影響から僕はますます暗い人間になった。折から日本は太平洋戦争に突入するという時代。僕は内村鑑三やガンジーやシュバイツアーの文章にあおられて反戦論者となる。
 僕が刑務所に入れられたのは、兵役法違反と出版言論集会結社取締法違反。いったい何をしたのですかと問われると、いつも困る。兵隊に行きたくないので自殺しかけたのだが、そう白状するのはまるで意気地なしのようでどうも恥ずかしい。
 僕が自殺するについては、吉田松陰などの影響もあって天皇や為政者への諫死という気分が多分に強かったのだが、そういうことを今言っても人は分かってくれまい。
 刑務所の中で僕は回心する。「愁いある獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」―――とうたった、僕のあの経験を今も忘れ得ない。
 僕の父は破産した逆境のさなか、きたない倉庫の中でむしろをしいて祈っている時、火事になったかと驚かされるほどの不思議な光芒の中に主の臨在を拝して回心したという。それほどの濃密な霊的風光ではなかったにしても、僕の当時の回心は明確であった。
 戦争がおわる。「お前のような非国民は刑務所に送って使い殺してやる。」とどなった検事は追放になった。僕の刑を判決した裁判所はアメリカ機の空襲で焼失していた。
 僕は職業を求めなかった。食うことに興味がなかったのだ。僕は駅で、客に食を乞いもとめる戦災孤児たちを見た。
 僕は彼らの兄になろうと思った。子どもたちと共に駅のベンチに寝る、凍死しているルンペンを葬ってやる。白痴の少女の妊娠を知って中絶手術に連れて行ってやる、そういうことをしている間は僕は活動的であった。
 しかし社会事業というものは、所詮事業であって、僕にはなじめない。僕は伝道に志す。僕は祈る、そして「鶴崎に行け」という声を聞く。僕は鶴崎伝道にのりだす。
 鶴崎とは当時大分市郊外の小さな町で、今は大分市に合併されている。僕はその鶴崎に行くためにそこの高等学校の事務官になった。その後、ろう学校の教員に転任するが、とにかく不思議に職業は向こうからやって来た。僕はそれ以後伝道一本に生きた。職業は食うための内職ではあったが、その職業のために節をくっすることはなかった。悲壮ではあったが、雄々しかったと言える。(つづく)
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
[PR]
by hioka-wahaha | 2009-04-21 09:46 | 日岡だより
<< No.382 今、この教会に欲... No.380 イースター(復活... >>