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No.380 イースター(復活節) ハレルヤ! 2009.4.12

イースター(復活節)ハレルヤ!

 「イースター ハレルヤ!」と心から叫びたい。私の伯父釘宮徳太郎はこのイースター(復活節)が大好きだった。一般の教会のクリスマスの行事のように、盛大にこの日を祝った。伯母は小学校の先生をしたこともあっただけに、子どもの扱いも上手で、その上、東京のどこかの神学校に短期編入学をさせてもらって日曜学校の運営についても研究したらしかった。
 そこで、近所の子どもたちを沢山集めて賑やかにイースター行事をした。帰りにはドッサリ、おみやげの「復活節」と名前入りのお菓子を持たせて「ハレルヤ!ハレルヤ!」と帰すのである。《く》


事業を活かす信仰 7

 イエスの信仰の第三眼目は何か、
 『主の臨在が我らを救う』ということであります。それを裏打ちして我らの側からできることで言うなら『主の御名を呼び求むるものは救われる』であります。
 救いという言葉は、内的な魂の救いは勿論、外的、この世的、具体的な患苦逆境よりの解放を示します。パウロが「心に信じて義とされ口に言い表して救われる」と言っているのがこの事です。「心に信じて義とされる」―――この義認論的救い、まさしく親鸞的救いですが、それが世に勝つ信仰―――具体的現実的事態を改変していく力になるためには「口で言い表す」という事が必要です。
 この「口で言い表す」ということは信仰告白のことなのですが、信仰告白とは世に対しては前節で述べたような戦いと、主に向かっては御名を呼び求め、かつ、讃美することの二面の意義を持っています。そして世との戦いについては、すでに申しましたから、主に対する面を少しくわしく書きます。世に対しては、戦えば必ず勝つ、そういう必勝の原理があるのだと申しました。しかしその必勝の原理を、そのように顕現し得る力はイエスの臨在であります。イエスが我らと共にいます、イエスが我らの内にいます、イエスが我らの上にいます。そのような状況にあるからこそ我らは勝つのです。そのイエスの臨在を我らに実現せしめる秘訣、それはイエスを呼び求める事にのみあります。
 私はここでロマ書第一〇章一三節を引用します。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる。」主の御名を呼ぶとは、空虚なる処に向かって主の名前のみをカラ呼びするのではない。主の実存を呼び求めるのであります。私たちが子供の名を呼ぶとき、ただ口なぐさみに独り言するわけではない。「太郎さん」と名を呼んで、その当人の来る事を期待します。同様に、私達が主の御名を呼ぶときも、主ご自身のご来臨を求めて呼ぶのであります。
 「マラナ・タ(主よ来たりませ)」(コリント第一書第一六章二二節)これは初代教会の人々の日常挨拶語にさえなっていた言葉だそうですが、日常生活の事毎に、主よ来たりませ―――と祈って生きる信仰こそ、真に生きた信仰と申さねばなりません。私は今ここに、昭和十七年十一月に出版された古びた小冊子を持っています。「福音的称名序説」と題する本でして、橋本鑑という若い先生の「インマヌエル・アーメン」と称名して信仰に励んだいきさつや神学的洞察に富んだ文章を内容としています。この橋本先生は「信仰生活修練の行的一面のきわめて不十分なプロテスタント教会」の牧師としてその欠けたるを補わんとして一灯園(西田天香さん主宰)に身を托したことがあるそうです。そうそうA兄、貴君も私のすすめに従ってあの一灯園に、しばし身をよせましたねエ。私もその後何度かあの山科の一灯園に行って修行させてもらいましたが、お互いになつかしい事ですね。一灯園はご存じのように禅的色彩の強い処ですから、排他的気分の強いキリスト教の世界から、一灯園生活に飛び込むには単に形式的なことにこだわるようだけれども(読経とか座禅)勇気がいりますね。私もそれを経験したことですので、それだけに当時の橋本先生の真理探究の精神の激しさに感心するのです。さて、その一灯園の畑の小舎と称する生活水準最低の道場の主任、鈴木八重造さんより聞いた一言が機縁となり、遂に「インマヌエル・アーメン」の称名となったそうです。そのいきさつを私は鈴木八重造さんに会って直接きいたこともあります。
 さて、この「インマヌエル・アーメン」のこと。昭和十八年の秋、私は兵役法違反、出版言論集会結社等取締令違反で特高にとらえられ、刑務所に入れられました―――。食料不足と強制労働のきびしい囚人生活の中で、私を救ったのは、この「インマヌエル・アーメン」の称名でありました。一瞬一瞬、栄養不足と疲労の中で気が遠くなりそうな状況の時、長々しい祈りなど出来ません。入る息に主を念じ、吐く息に御名を呼びまつる、そのようにして一息一息に称名讃仰の生の営みをつづける時、看守や同囚の人々はみるみる私を驚嘆と畏敬と愛情をもって見るようになりました。私は、この事につき深く深く橋本先生に感謝したいと思います。その後、この「福音的称名序説」という本が再刊されて、日本キリスト教界に非常な反響をおこしたそうです。
 私が今度実際に、「御名を呼びまつる」ことを始めたのは、この橋本先生の本が大きい影響を与えています。私にはしかし実際に御名を呼びまつる時、「インマヌエル」という言葉はよそよそしすぎました。神学した人でなくては思いつかない呼び方です。それで、私は端的に
 『イエス・キリスト様アーメン』
 と呼びます。イエス・キリストの御名を呼び、その御臨在を乞い求める、そしてその御臨在がたしかに我に「然り」となり給う。そのような信仰告白でもあります。形式にはこだわりませんから、「イエス・キリスト様××君の病をいやし給え、アーメン。」などと短く希求の語が挿入される事もあります。声に出す事もあり、声に出さない事もあります。声に出す時は、遠慮せず腹の底からドッシリした声で「イエスキリスト様」と呼びます。「アーメン」は、刀で胸もとめがけてつき込むような気合で唱えます。私は「アーメン」は、あらゆるサタンの軍勢を退けしめる破魔の剣だと思っています。
 実行してみると分かるのですが、御名を呼びまつる毎に、不思議な静寂と、力が我が内に上よりそそがれ満たされていく事がわかります。こういう事は形式化すると、生命をなくし無力となりますが、心をこめて信仰をもって行動すると、すばらしい生活力の源泉となります。
 日毎の生活の一刻一刻に信仰の勝利を得るため、機にあう主の不思議な助けを期待して、タナボタ式の恩恵ならず我が内を通して働く神力を日夜経験するために、この福音的称名讃美の行は大いに力あるものであります。これが、第三の眼目の実際的方法論であります。さきに述べた、第一眼目、第二眼目が、この実際的方法を用いると、即座に我がものになりやすいのです。ですからこれは、実際経験に即しての信仰上の具体的すすめであります。(反面の真理、御名を呼びまつるというこういう行をしなければ救われない!という事は絶対にない!)
 A兄、これで第三信を終わります。これらはこの一月一日より一週間程、日毎に主より示された教えであります。今年になって、私の説教が単純明快になってきました。イエスの福音がいかに単純で、力あるものかが分かってきたからです。集会の霊的レベル・アップが目に見えて顕著になってきました。今年はいよいよ、勝利、前進の年である事が確信されてきました。そしてその勝利が、事業や経営の上にもとみに現れてくるでしょう。第二信に書いたような事業繁栄の道は、こういう「イエス・キリスト様アーメン」と事毎に称名讃美して一切を勝利、前進に導かれる新生涯の上にあると思います。
 A兄。今日は一月十五日、成人の日で、店は休みです。昨夜来、今日の午後三時まで書いてきました。願わくば、希望の神、イエスキリストの御名により来臨あそばして我らをめぐみ給え。
 愛してやまぬ貴兄と、御一家の上に主の御めぐみ豊かでありますように。祈りつつ。(一月十五日)(つづく)
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
by hioka-wahaha | 2009-04-14 09:57 | 日岡だより
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