No.379 受難週を迎える 2009.4.5

受難週を迎える

 教会暦では、今日から受難週に入ります。イエス様のご受難の週にはいるのです。そして次週の第一日の日曜日が復活節(イースター)の日であります。
 私の両親たちの時代には、この日から克己(こっき)週間とも呼んでいたように覚えています。イエス様のご受難を偲んで、私たちも些かでもご苦難のほどを味わおうということです。
 そこで、大抵は第一日に断食、そして続く6日間も慎ましく節食の日々を過ごしたのでした。子どもながらも、私も少しくイエス様がお苦しみを背負いなさる愛の深さを思って、御身代わりの愛が少しく、分かったように思えたものです。《く》


事業を活かす信仰 6

 イエスが、この酒杯を飲めと言われるとき、それはイエスの血潮であり、イエスの苦難の杯であり、また今日我らが人生途上で会うイエスの名の故の迫害、苦患であり、また人生一般の苦悩、患難をもイエスにあずかる酒杯の中に投げ込み委託して飲み干すそれであるというふうにいろいろですが、それらの一切、イエスの名によって受け取る時、イエスの生命であるという事であります。
 ここらあたりで、私のペンはイエスの宗教の第二眼目に入りましょう。それは第一眼目がどちらかというと内的な霊的救いというような面に力を入れておりましたのに比し、第二眼目はすこぶる処世的能力の問題であります。曰く
『イエスは一切を肯定的、生命的に再創造する力である。これを一切アーメン化の原則と呼ぼう。』
 一切アーメン化の原則とは私の造語ですからちょっと説明を要します。アーメンという言葉は、確信、誓約、承諾、納得を意味します。それを更につきつめると「然り」であります。私はそれを「絶対肯定の霊語」と呼びます。
「然りと言うことはキリスト・イエスによりて成りたるなり。神の約束は多くありとも、然りということは彼によりて成りたれば、彼によりてアーメンあり、我ら神に栄光を帰するに至る(コリント第二書第一章十九、二十節)」
 ここを説明するとき、前述したイエスの十字架の血潮の項の最後の処を一緒にお学びください。いかなる最悪の事態、悲運、逆境をも、それをそのまま然りたらしめる、それはイエスの臨在の力です。
 別な見方からすれば、人生のあらゆる悲境を、キリストよりの酒杯として飲み干すならば、それがたちまち神の国にかわる。
 化学実験などで、ある液体に少量の添加物を加えると、みるみる色がかわったり、透明になったりすることがある。
 ああいうふうに、悲境、苦患という酒杯をイエスの手に委ねると、イエスから出る放射線がその苦い酒の味を甘い味へと一変させてしまうのです。
 かく一切の事を、悪より善へ、悲しみより喜びへ、暗黒より光明へ、惨敗より勝利へ、消失より獲得へ、後退より前進へ、孤立より伝道へ、俗物より聖化へと一変させたもうイエスのアーメンたらしめる力、これがイエスの宗教の力です。
 そういう革新の力の源泉は、イエスの十字架より来ます。十字架というと、何かメソメソした屈辱的な悲惨なものを感じさせやすいが、私の言う十字架はそういう情けない十字架ではない。私が唱える十字架は「勝利の十字架」であります。
 ちょっと横道にそれますが、私はここにアンリ・ペレイブ(一八三一~一八六五フランス)というあまり世には知られていない人の、すばらしい文章を引用します。
     *     *     *
「人もし我に従い来たらんと思わば、己をすて、日々おのが十字架を負いて我に従え。」
 このお言葉は、弱き我らにとり絶望的な響きを持っている。しかし、
「……我がクビキは易く、わが荷は軽ければなり。」
 かく仰せ給う主のお言葉を思い返す。かくて我は叫ぶ………
 「今こそ主の御言葉におたよりいたします」と。かくてあれほど嫌悪し逃げ隠れていた十字架を取り上げ、主に従います時に、私の心は直ちに歓喜にあふれ勇躍し始めます。
 私が十字架を負うや否や、主の御手が私を支えます。重き荷を背負うや否や、あなたがその荷の重さを取り去ります。私の小さき信仰に対し、無限の恩恵を賜ります。
 かくて私は悟ります。主の十字架を負うことこそ、この世における勝利の秘訣であると。
     *     *     *
 要約しますと、一切アーメン化の法則とは、十字架による一切の転質の法則―――つまり一切を勝利、獲得、前進、伝道、聖化へと革命する法則であります。
 私が今年の一月一日の朝、除夜の鐘を聞きながら、主の前に祈って、示され、且つ誓わされたことは、
「今年を勝利の年とする。」
 ということでありました。
「汝ら世にありては悩みあり。されど雄々しかれ、我すでに世に勝てり。」
「世に勝つものは誰ぞ、イエスをキリストと信ずるものならずや。世に勝つ勝利は我らの信仰なり。」
 これらのみ言葉が私に迫ってきました。
 私は思いました。さよう、我らは今年世に勝つのだ、世に勝つという前提には世と戦うということがある。
 戦わずして勝つといえるほど、世は甘くない。世と戦うということは、世を逃避しない―――ということだ。修道院のような処に逃げこまないで、この世の力、風俗、習慣の中にまみれて戦うのであります。
 「世に勝つ、世に勝つ」といくら心に信じて力んでみても、現実に世に出て行き、世と戦わなくては、その力は発揮できません。
 そんなふうにして折角持っているキリストの実力を発揮できず、無力をかこち、どうして自分の信仰はだめなんだろうとしおれている人が多いのです。
 弱い相手に勝ったところでどれほどの勝利の喜びがありましょう。強い相手に全力をつくして勝ってこそ、本当に勝利の喜びがあるのです。それをこそ「凱旋的勝利」と言うのです。さあ、諸君、前線におどり出られよ、これが今年の第一声でした。
 これは一面から言うと、商売をしてこの世とつきあいの多い私なればこそ、主の取り給う私への課題であったかもしれません。第一信に書いたような「ソロバン片手の聖者」になろうと思えば、多分こういう勝利の秘訣を身につけなくてはなりません。
 さて、ここで最大の注意を喚起したい。それは、「世と戦い、世に勝つ」というと、世間なみの戦争や勝負事と同じように見て、力まされば勝つ、力おとれば負ける―――そのような勝負事のように誤解しやすい。そうではない、決してそうではない。戦えば必ず勝つ、そういう必勝の原理なのです。
 生の法則が死の法則に打ち勝つとき、必ずやそういう必勝の原理が働きます。一度水泳を覚えたら、二度と忘れません。生来は水に溺れるという人間の性質に、新しい「泳げる」という法則の獲得をもって打ち勝つのです。これは水に飛び込み水にまみれ「溺れるぞ」という法則との戦いを経験しなければ獲得されません。
 しかし、挑戦して練習すれば百人が百人泳げるようになります。というふうに、実は「戦う」だの「勝つ」だのいう言葉はおかしい程、スンナリした真直なる信仰生活の道なのです。
 しかし、実際の経験としては、「戦い」と呼びたいほどの決意を要します、故にまた獲得すると、「勝利」と呼びたいほどの感激を与えられるのであります。(つづく)《く》
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
[PR]
by hioka-wahaha | 2009-04-07 14:48 | 日岡だより
<< No.380 イースター(復活... No.378 事業を活かす信仰... >>