No.378 事業を活かす信仰 5 2009.3.29

事業を活かす信仰 5

 「親切受けるも親切の一つ」という言葉があります。同様に、前述のように本心における辛さをおこさせないようにするのも真の愛であります。それこそ「ひとにせられんと思うことを人になせ」の実行であります。「ゴールデン・ルールを実行すると、商品をただにして配っても足りますまい、そんな事は人生に不可能」などと言うのは、重大な誤りであります。客と商人が、社長と従業員が利損相反する、立場が矛盾するというのは完全な見方ではありません。そういう見方は、一見客観的で真理の一つであるが、現に、商売する時、ここで工場で働くとき、現実におこさないですむ事であります。たしかに矛盾を来たしやすい関係であるが、尚かつ矛盾させないですむ方法があります。ヤジロベエのように、危なっかしくとも、バランスを取りながらどちらも辛いことなく、どちらも立っていける道があるはずです。
 「御言葉うちひらくれば光を放ちて愚かなる者をさとからしむ」です。凡ての事態において、アーメンと肯定力を持つイエスの真理が働く時、今まで暗黒のようであった矛盾の場も光を放ち、我々のようなおろかな者をして、大学の智者にまさる智慧を開き給う。そのような矛盾解決の智慧を与えられて、企業の現場を聖化していく事、これが我々に与えられた「使命」であります。
 
A 兄
 だいぶ、字が乱れてきました。こんな事で読めますかねエ。書き直す元気もないのでこのまま出します。あしからず、ご判読ください。今日は経営学でした。今度は世に勝つ信仰の秘訣を書こうと思います。ではまた。   (一月十三日 午前一時半)

 
  第三信   絶対的勝利の信仰

A 兄
 第三信を送ります。昨夜は、土曜日の夜でしたので、日曜集会のための準備がいります。そんなわけでこの手紙を書くことを休みました。今日は、午前十時半より日曜集会、八、九人の出席で数の上ではまったくわびしい小さい集会。しかし本当に素晴らしい集会でしてね、出来るものなら一度来て参加してほしいものです。今日は集会後、子供を連れてスケート場へ。まだ、たった二回でして、すべっては転び、すべっては転び(こういう時、大分では「こける」と言います、どうです懐かしいでしょう。)―――あっちこっち「あいたた、あいたた」と言いながら、今夕飯を終わったところです。
 さて、第二信では経営問題にふれて経済的な具体的な事柄を書いてみました。ああいう方法論については、私の思い違いもあるかもしれない、考えの行き届かない処があるかもしれないと思います。しかし、その基礎となる信仰的な思想には大誤はないと信じます。今日はそういう基本的な信仰について書いてみたいのです。
 今朝の集会のテキストの一つに、マタイ伝二三章二六節を用いました。
 「盲目なるパリサイ人よ、汝まず酒杯の内を潔めよ、さらば外も潔くなるべし。」
 という処です。これは念を入れて読むと面白いイエスのお言葉です。外だけ美しくしておいて、内を汚れたままにしておくパリサイ流の偽善に腹を立てるイエスのお気持ちはよく分ります。しかし、かと言って、「酒杯の内さえ美しくすれば外も美しくなる」というのはイエスの比喩の行きすぎではないでしょうか。そんな不思議なサカズキがあったら一度お目にかかりたいものですね。たしかにいくらイエスのお言葉といえども、そんな不思議妙チキリンなサカズキはこの世の中にはありません。しかし、それに似たものはあります。それは生命を持ったものです。赤ちゃんをごらんなさい。内に病気があると外の血色もよくありません。内が健康だと外も素晴らしい色ツヤになります。血液がにごってくると、吹き出物だの何だので肌が荒れてしまいます。血液をきよめると外の肌も美しくなります。動物を見ても、植物を見ても、内を潔くすれば外も潔くなる真理が働いていることが分ります。生命を持ったものは凡てそうなのです。
 人間だけは、同じ動物の中でもたった一つ狂った体質を持っているバカな存在です。内がにごっていても、外側だけ化粧していれば人には分りません。そんな「腹の黒い、血液のにごった」人間がうようよしています。そういう魂の血液のにごった人間を外側から、精神修養や何ぞで救えるものではありません。魂を人間の内臓に例えるなら、心はその肌であります。魂がにごると、その肌である心もすさみます。すさんだ心を、肌を厚化粧でかくしてきれいに見せかけるように、修養や訓練できれいそうに見せかけることはできます。しかしそれは本物ではありません。いつかは、化けの皮がはげます。生命のない物質の世界では、内を潔くすれば外も潔くなるという法則はなりたちませんが、生命の世界―――特に高度に生命的の世界、生命的に革新された人間においてはそれがスッキリなりたちます。
 人間はそういう存在であります。そして、そういう人間の革新され方が、イエスの教えのなりたつメソッドであります。イエスの宗教の第一眼目は何か。
『イエスの生命力が我らの内にそそがれ、イエスの生命が我が生命となり、我らの内から罪がすすがれ、罪の力より解放されて本来の神の子の姿となる。』
 ということです。これを救いというのです。この救いを完成する力はイエスの十字架より流るる血潮に象徴されます。イエスは十字架につけられる前夜
『イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えていわれた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。」また杯を取り、感謝して彼らに与えていわれた、「みなこの杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ伝第二六章二六・二七節)』
 イエスは食事の時、後に聖餐式の型となったこの詩的言動をのこされた。この時、イエスはその翌日十字架上にて、肉を裂き血を流し給うことを、しかと予見なさりつつ語った言葉だと思うと意味は深い。
「私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与える私の肉である。よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」
 とヨハネ伝でイエスは言われる。その肉、その血を、イエスは最後の晩餐で、無理にでも弟子たちに、食わせよう飲ませようとなさるが如くであります。それが十字架の意味なのであります。それは我らの内にそそがれて我らの新しい肉となり、新しい血となるのであります。それはイエスの生命でもあるが、また我々自身の生命である、そういう不二の生命に日々更新されるのです。それが、イエスの救いであります。日毎の生活の秘儀であります。
「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それはキリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(ロマ書第六章三・四節)」
 とパウロが言うように、(イエスの生命であるその肉と血が我らに生きるという経験を「イエスにあずかるバプテスマ」とパウロは呼ぶ)イエスの生命を我らの内に実現させるという事態は、イエスの死を我らの身に負うということと表裏の一事実なのであります。(つづく)

 ※この文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。(連載中)
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by hioka-wahaha | 2009-03-31 11:47 | 日岡だより
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