No.377 事業を活かす信仰 4 2009.3.22

事業を活かす信仰 4

 ある事業が、一個の企業としての生命を得るためには、まずチャンとした背骨が必要です。それは目的ないし思想であります。思想性を確立した事業の経営、それがないと背骨のないクラゲのような事業になります。どこでもよい、波の流れに身をまかせて身近な餌で身を養おうとします。どうにか生きているには生きています。このたぐいには食いっぱぐれはないようですが、いつまで経っても浮草稼業です。食わねばならぬから何かしている―――この形態を「生業」と呼びます。
 普通、こうしたどうにか食っていけるというマイクロ事業を「生業」と呼びます。しかし私はそういうふうに、経営の現状や表面の形だけで「生業」かどうかを論じたくはないのです。私は、もっと目に見えない処にある目的性、思想性に目をとめます。従業員を千人もかかえて立派にやっているように見えるいわゆる「中」企業でも、中身はその日暮らしの、あてどない「生業」である処があるかもしれません。あるいは、現状はカアチャンと二人で食うや食わずの極小企業でも心では決して生業でない立派な企業であるという処がありましょう。
 よく経営コンサルタントが「こんな事じゃ生業なみじゃありませんか。早く奥さんにも十分の給料を出し、社長もロータリークラブで交際をひろげるぐらいの企業になってくださいよ」などとニコポン式に名前だけの社長連を激励しおだてあげるのは、よくある図。何とか食っていけます―――が生業、ゆっくりもうけて人をたくさん使っております―――が企業、という素朴な区分なのですね。
 私はそんなふうには分けないのです。さきに書いたように、食うや食えずの単一体の事業でも、生業でなくて企業である場合がある。
 企業とはまず何かを企てます。最初に社会の要求を探知します。それが市場(マーケット)です。市場の必要に応じ、それに対して与え得る商品なりサービスの供給を企画します。そこから企業が生じます。その時、当然見込み利益を考えています。何の社会連帯性を持った企画性なく利益のみ追求するなら、前に申したとおり生業で終わります。(もし利益の追求など全然眼中になく、ただ社会の要求にのみ応えようとするのは純粋企業で、社会事業、教育事業、土木事業等、国家や宗教団体等が手を出す事があります。)しかし、今我々が考えるのは一般市民が己が生活のための利益回収も予想した上での事業の企画であります。こういう考え方からすれば純粋な生業者も案外少ないのです。
 企業とは、社会の相互依存的連帯組織の中の、まだ満たされていないスペースを埋めて、より連帯的利益を図るところに生じる一小組織です。そこに事業の使命があります。その目的性をはっきり把握していないと、事業は中途半端な成長をしても、途中で萎縮して却って社会全体に害を与え、自らも枯渇してしまう例が多い。
 事業は社会の必要から生れます。そしてその必要を積極的にみたしてやろうと献身的に情熱的に奮闘した事業に繁栄が訪れます。こう書くとアメリカ的出世読本の線に近くなってイヤだけれども事実であります。
 アメリカの一時代前の異例な成功者群―――カーネギー、フォード、シューメーカー等―――の横顔を見ます時、彼らが善意と熱意と努力と着想の人たちだった事、特にアメリカ人らしいプロテスタント的善き人々であった事を疑うわけにはいきません。彼らがいかに善人であれ、社会主義流に言えば彼らは独占資本家でしょうが、それはそうに違いありますまい。しかし人間が天国に行った時(という事は本質的に見ればということ)彼らが資本家であったから神様に忌み嫌われ、一方がプロレタリアであったから愛されるという事はありますまい。どちらも一様に、彼が善人であったか悪人であったかという事でさばかれます。
 近代社会において、資本の自己充足的貪欲ぶりは、既に資本家をも手玉に取っているのです。資本の爆発的拡大貪欲性は資本家にとり「原罪」的であります。しかも彼らは、資本家側に属する経営者たちではありましたけれど真の資本家といえますかどうか。
 モルガンだの何だのという金融資本家たちに比べると、まだまだ随分と健康な香りがします。ともあれ、彼らの成功には、ホンモノの栄光があります。資本主義的原罪は背負っているけれども、尚かつ成功するに当然な健全な要素があります。社会の要求に応えて彼らはその全力を傾投したのでありますから。
 夏目漱石の言葉に「人は損をせん程度には、人に良い事をしたいものだ」というのがあります。僕は若い時はこういう生半可な言い方が嫌いで、この一句ある為に漱石の凡てを嫌悪して読まなかったくらいですが、今になるとこの言葉の深みもよく分ります。
 人間には個体的にも自己保存本能があり、種族的にもそれがありますから、自分の生活や、己れの家族、ひいては我が社の社員というふうに保存本能が働いて、損をしたくないのが当たり前です。しかしまた、それと同じくらい人にも損をさせたくない、人に気の毒な思いをさせたくない、人にも適当にもうけさせたい、とこう思っているものなんです、心の奥の方で。
 商売をしていると、お客、仕入れ先、銀行、従業員というふうにそれぞれの相手ができます。金を中心に考えるとこれらの相手さんと私とは凡て利損が相反して、腹の内を本当に見せてたらケンカになってしまいそうです。お客は少しでも良い品を安くほしい、私の方は少しでも悪い品を高く売りつけたい。従業員はできるだけ仕事を休んで賃金はできるだけ多くほしい、私の方は従業員をできる限りウンと働かせて給料はミミっちく払おう、とこういうふうに戯画化して表現すると、みんなそうだそうだと思うでしょう。お互い腹の内が見すかされたらケンカだよと述懐するような事になるのです。しかし本当にそうでしょうか、それは偽悪的な慨嘆で―――、そう言いつつ、そうありたくないのです。もっと心の芯までさぐってみますと、案外に心やさしき性根が出てきます。さきほどの夏目漱石の言葉のように、人間は案外親切好きなのです。いい事をしたいのです。人に損はさせたくないのです。いくら、値切るのが好きな人でも、それで向こうが本当に損をするのだと知ったら「辛い」でしょう。
 この「辛い」という言葉は日本人らしい表現だと思うのです。向こうをケおとすか、こちらがケ落されるか、そういう勝負の瀬戸ぎわで遂に向こうをケ落してこちらが商売に勝ったとしますね。すると辛いんです。辛いんならこちらが負ければいいではないか、と言われてもそうは行かない。それが辛いところです。辛いながらもその辛さをこらえて勝負していく、そういう処から商人同士が競争見積りの時「談合」して順番に分け取りして、辛さを克服してどちらもうまく行く道をさがす智慧が生じてくるのです。「談合」の法律上の善悪は別とします。
 ですから、商売人が本当に損をしていると知ったら、お客さんはその品物を買いながら心の中では辛いでしょう。商売人の方だって破損品を高く売りつければ、してやったりとほくそ笑むかもしれませんが、「本心」はやはり辛いのです。
 そういう辛い思いを相手にさせるのはやはりいけないでのす。ペニーのいわゆるゴールデン・ルール「凡て人にせられんと欲する事を人にしなさい」という御言葉に従う時、向こうさんの心の第一表皮でずるがしこく考えているような心に迎合するのでなく、そのもう一つ奧の、善い「本心」に従って、堂々と勝負すれば良いのです。
 そういう気持だからこそ、あの好本督は債権の一つ一つをタンネンに督促できたのです。狡くたちまわって、債権をうやむやにさせ、善人を苦しめて、悪人が舞台裏でニタニタ笑っているというような、そのような悪因縁の循環中に相手をそのまま残しておけるかという熱情がそれをするのであります。それでこそ、借金取り立て即伝道でありました。ここに生活と一枚の信仰があります。(つづく)
 ※この文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。(連載中)

 〔あとがき〕
約40年前の文章でありますから、時代感覚にやや齟齬するところがあり、御了赦ください。この文章を書いた頃の小生は零細企業の新米のおやじさんで、その創業そのものが奇蹟でした。その中で主様に導かれ、教えられ、掴んだことを、そのまま書いています。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-03-24 23:38 | 日岡だより
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