No.376 事業を活かす信仰 3 2009.3.15

事業を活かす信仰 3

 日本の松下幸之助氏などそうですが、アメリカでも有名な立志伝的実業家たち、カーネギー、ワーナメーカー、ペニー、カイザー等々、社会構造のゆがみに目をとめないで、自分が成功してきた道に、善意と社会奉仕意識と信仰をからませて、絶対自信を捨てない人たちがいます。それでつい私たちも、ひがんでしまって彼らの凡てを否定したくなります。しかし、それはよろしくない。
 松下氏が、天理教の広大な本殿建築におどろき、そして社会の為に役立つ事業でなければ本当に成功しないと信念を持ったという話がある。これは、いろいろ批判しないで素直に感心して聞いていい話であります。私は、それは本当だと思うのです。
 ペニーが世界一の連鎖店を作った時、その商売の成功の秘訣はゴールデン・ルールの実行にあると言った。ゴールデン・ルールとは「人にせられんと欲することを人にほどこせ」というイエスのお言葉であります。これを聞くと私たちはまず噴き出したくなる。そして次に腹が立ってくる。なぜなら「何言ってやがんでえ。本当に人にしてほしい事を人にしてやっていたら、商売の品物なんかみんなタダにしてしまって、いっぺんに倒産さ。いかなる上手な事を言ったって、現に世界一の連鎖店を作っているという事が、それだけ人をだまして、金をしこたま儲けたという事じゃないか。笑わせやがるねえ。第一、なんてこうもアメリカ人は心の内省度が浅いのだろう。売った商品に傷があったら替えてやった位でゴールデン・ルールの実行をしたなどと、臆面もなくうぬぼれ、自己義認するする奴らだからナ」と思うからです。しかし、もう一度退って考えてみると、ペニーたちが、それほど頭のしかけの簡単な男とも思えない、もっと深い思想がありはしなかったか、と私は思うのです。
 ペニーなどは大体弁証たくみなドイツ哲学風の表現にはなれないアメリカの単純明快な男たちです。内的には、実際いろいろ苦しんだとしても、表現は「ゴールデン・ルール実行」一本槍でアヤも味もない。しかし、「人にして欲しい程、人にしてやっていたら、こちらがつぶれてしまう」というような子供でも気づくような問題に、よもや気がつかぬ筈はあるまい。この手痛い矛盾にマトモにぶつかり、これを超えていく世界を彼らは掴んでいるのではあるまいか、と私には思えたのです。
 大体、信仰には「あれか、これか」とキェルケゴールの本の名前ではないが、二者選一の決断を迫る面と、「あれも、これも」と二者を許容して矛盾せぬ高い境地があります。イエスのお言葉にも、時と場所によりこの両面を使い分けられるので、上っ面の言葉通りイエスの言葉を読むと、その矛盾に困るのですね。
 だから、金銭に対して聖フランシスのような絶対的発想法を取ると、それはそれなりに生き生きとしてきます。一灯園流の無一物生活はそれです。その一灯園の天香さんが宣光社として、物を預かり、金を活かす道を考える時、そこに「あれも、これも」の世界が生じます。「あれも、これも」の方が「あれか、これか」より思想的にはむつかしく複雑で、しかも行動的にはサタンにつけ入れられやすく、また行動を綱領化しにくいものなのです。
 「あれか、これか」の世界に生きるとき、人は彼を聖者のごとく敬ってくれます。しかし「あれも、これも」の世界に生きると、人は彼を偽善者と呼んだり、二重人格と呼んだり怪物と呼んだりします。人のみでなく、彼自身も人に呼ばれるが如くではなかろうかと思い惑うくらいです。ペニーなども、そういう人物の一人ではなかったろうかと思います。これは私の買い被りでしょうか。
 商売とは、人を押しのけ突き飛ばし、人を傷つけたぶらかし、奪い取り盗み取りする事と、人々は心のすみっこの何処かでそう考えています。「何故あんたワイを倒すんやと言うたら、後の人がワイを倒すさかい仕方ないんじゃと言う、まるでショーギ倒しです。」と西田天香は言う。人を倒さねば自分が倒されるから人を倒すんだと言う、この言い逃れで多くの人はそこから先を考えないことにしています。いっそのこと、もうワイ一人倒されっぱなしで玉砕しようか、そういう人も出てきます。
 私も若いときはそう考えました。終戦直後、米の無い時、私は日本国民の中、誰かが飢えて死ぬのなら、私が一番に死のうと思いました。そう思って「有り米」残らずはたいて戦災孤児たちに食わせてしまったら、それから後は、戦災孤児たちが私を食わせてくれました。死ぬはずの私がこうして生きているのは、あの時の戦災孤児たちのおかげです。だから、そういう玉砕的大死一番の生き方は、宗教経験に入る良い突破口であります。けれど、それだけに終わるなら、一種の厳酷主義に陥ってしまい、しまいには頑固で冷たい人間になってしまいがちです。
 そういう厳酷主義から脱出して、金銭の世界を真理の光を以て照らして生きようとすると、どうしても巨視的人間にならざるを得ません。
 視野を少しせまくして、人の事や金のからくりのことをあまり考えず、私一人が(または私一家)生きていければいいとすれば、スピノザがレンズをみがき、パウロがテントづくりをしたようにすればよいかもしれません。今でも素朴な宗教家が職業観を語るとき、右のような手職や単純労働を考えて、カンタンに「職業は神聖なり」とやるけれど、現実の職業はもっと複雑に社会的にからみあっていて、原罪的罪悪の網の目より脱けられなくなっています。(例えば学校の先生が、PTAや組合や補習教育や文部省の圧迫を逃れてゆく余地は厳密にいうとどこにも無いということです。)
 このような思想的迷路より脱却する道が必ずある筈であります。それを発見せずんば、ソロバン片手の巨聖にはなれません。
 A兄、貴君が旅館を始められると聞き、非常に喜んでいます。貴君が巨いなるものに成長されるよう、主がかえりみられている事を信じます。そこで、嬉しくなり、私の商売観を書いている中に、まだ稿半ばなのに時間がありません。今朝五時十分、徹夜で書いてしまいました、続きはまた書きます。
 みなさんによろしく、ひとりひとり、顔を想い起こしつつ祈っています。 (一月十二日)

 
  第二信   信仰的企業の可能性

A 兄
 第二信を送ります。
 昨日は、お手紙もらって本当に嬉しかったのです。殊に、いよいよ旅館経営に関連して、老人ホーム等今後の夢を聞くことは、本当に嬉しかったのです。相変わらずの貴兄の特質、お世辞をいうようでイヤですが、少年のような夢、青年のような実行性、壮年のような企画性、老人のような老練さを伺い得て、我が事のように誇らしげに思ったからです。貴兄の生来の着想の良さと行動力(一種の猪突性)には、「卵」以来カブトをぬいでいます。「卵」とは、まだ療養後間もない身で、鶴崎方面から別府の旅館街へと卵の仲買人みたいな事をしていた事です。あの着想はその後チャンと企業化されて今では農協や幾つかの会社が活動していますからね。とまれこうして昔への回想が始まると、貴兄との交わりの歴史には万感無量のものがありますね。
 それはさておき、貴兄の事業の夢を共々に僕も見ているうちに、僕の最近考えている事業観、経営観を書いてみたくなったのです。平常バラバラに考えていることも、この際、運良くまとまってくれるかもしれないし、まとまらずともバラバラのままでも今の貴兄に何らかの面でも少しでも役立ちはしないかと思われますし、運良くどうにかまとまってくれればコピーを取って公開的なものにするかもしれません。その時はあしからずご了承ください。
 前便を書き始めて半分ほどになった時フトこれは面白い、コピー取ろうかなと思い始めたのですが、さてどうなりますか、この際、この第二信からが大事な処ですので、うまく行くも行かぬも今日のこれからの文章にかかっています。(つづく)
     
1968年発行「事業を活かす信仰」より連載中

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by hioka-wahaha | 2009-03-17 11:37 | 日岡だより
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