No.375 事業を活かす信仰 2 2009.3.8

事業を活かす信仰 2

 商売の世界に於ては、商人自身の卑下感が余りに深く、或いはまた偽りの商業聖職論みたいなものでお茶をにごしてきたから、今まではうまく行かなかったがこれからは違う。さきに述べたような事を悟れば、真理への道は甚だたやすい。百姓や鍛冶仕事以上に、修養しやすい場所が商売にはあるのだ。僕は信じる。宗教の世界に聖者がいるように、お茶の世界には茶聖が生れ得る。また実際生れ得たのだ。同じように剣の世界にも剣聖があり得る。それと同じように、商売の世界にも「商聖」が住み得る。単に「暴利をむさぼらず、適正な利得を得て、以て貯めた財産の大半を慈善事業にばらまく――」というような中途半端な善人になる事を指すのではない。もっと怪物級の巨人級の商聖が出ていいはずである。僕はそのような商聖を切に待つ。待つ以上に、僕自身がそういう商聖でありたいと思う。』
 この文章を書いたのは四、五年前の事でして、現在の私の考えはこの文章ほど激しくはないが、根本の思想はかわりません。
 現在の私は、右の文章より少々やわらかくなっていますけれど、それはどういう点かというと、「何がなんでももうけねばならぬ、まずもうけることが第一条件」―――そうまでは言わなくなったということです。それについては一つの転機がありました。昨年の十一月末の資金繰りの苦しさは、昨年の中では最もきつかった。イギリスのポンド引下げの影響でしょうか、私のような小さい処にも微妙にひびいてきて今まで楽に割れていた手形を銀行が急に突き戻してくるのです。それをまた銀行が不親切にも(そういう時には得てして周囲の事情が凡て不親切な姿を呈するものです)金の要る日の直前に言ってくるのですからね、こちらは逆上しそうです。その最中に、会員のT兄も金が百万円足りません、祈ってくださいと青い顔をしてくる。このT君のことは他で書くつもりですが、工場がつぶれるかどうかの瀬戸際を祈って勝ちぬいてきた祈りの勇者ですけれども、この勇者がこんな顔をしているようではタイヘン、これもまた我が問題だ、一緒にかかえ込んで祈りぬいてあげなければと、私も真剣でしたね。そういう中で、日曜集会をさせられるのですから、説教者もつらいです。死にかけた我が子を居間に放っておいて手術室に駆け込んで人の子の手術をしているような気分です。その翌日の朝、T兄がまず「何とか通過しました、これで我が方は月末は大丈夫。先生の方はいかがです、え、いかんですねエ。」てなことで、センセイ心細い限りです。しかし嬉しい事です。これでT君の方の一関門は通過、まずは負い目は果たせたという気分でしてね、さあこれからだ。それから私は半日、部屋に引き籠もって祈りつめました。私はその時、囲碁の坂田名人の文章を思い出しました。おぼろな記憶ですのでもう一度読みたいと本棚をさがしてみたら、講談社から出ている「勝つための条件」という新書版の本でした。坂田さんは名人戦のタイトルマッチで二勝ののち三連敗して、つぎの一局を失えば敗北というカド番に立たされます。三連敗のあとですので、気分はすっかりめいっていて、もう勝てるという気は全然しなかったそうです。そこで気も落ちつかず、かといって何かじっとしておれない。そこで、これまでろくに見もしなかった昔の偉い碁打ちの棋譜を開きました。そうです。坂田さんの文章をそのまま引用しましょう。
「本に書かれている事は、たいへん幼稚で、その昔、棋聖といわれた人でも、今の技術には及ばない。しかしよくみると、昔の人はどんな息のつまるような大勝負をしているときにも、実に正々堂々と戦っているということでした。奇策をもてあそんでいない。こせついた処がない。これだ!と私は思いました。こんど落とせば四連敗、じたばたしても始まらない。そうだ、勝敗はもう問題ではない。ただ正々堂々と自分の力いっぱいの碁が打てればそれでいい―――。そのとき私の心は不思議に澄みわたりました。」
 かくして坂田さんの堂々たる奇蹟の逆転劇が生れるわけです。それを読んでいるとき、私の心もまた不思議と澄みわたりました。
「よっしゃ来た。俺も正々堂々とやろう。やるだけの事は力の限りやろう。それで倒れればそれも本望である。それ以上の事はこの俺には出来ないのだから………神さま、見ていてください、力の限りやりますから。負けた時は骨を拾ってください。ただ恥ずかしい負け方は、させないでください。勝っても負けても男らしくやらせてください。」
 とつぶやきました。その時から私のうちに新しい力がわきました。何も奇蹟的に大金が降ったり湧いたりして私は助かったのではありません。その時より私の内に、私のものでない或る新鮮な力、時々刻々私の内より泉のようにふき出し、にじみ出してくる力、その力が生れてきて、私を行き詰まりの谷間より救い出してくれたのでありました。
 右のような経験が、「シャニムニもうけねばならぬ」という破壊的な程の四、五年前の私の言い方を少しやわらげさせてきたのですが、つまる処、本筋は同じですね。よく考えると、山岡静山の「道」、鉄舟の「勝敗利損にびくつくな」とみな同じことを衝いているようであります。
 内村鑑三の「商売成功の秘訣」という凡そあのヒゲの先生にふさわしからざる題名の文章に曰く「……即ち成功を度外視して商売に従事することであります。そうすれば成功するものならば真正に成功します。失敗するものなら立派に失敗します。成功必ずしも名誉ではありません。失敗必ずしも恥辱ではありません。」内村先生の職業観はまだ古い西欧流の聖召観みたいなものに立っていて社会科学的苦悩の洗礼をあびていないから、我々から見ると少々甘すぎて気にはなりますが、然し言葉としては、間違いのないところです。
 ルターは「労働は祈祷なり」という有名な言葉を吐きました。ルターが考えていた労働とは、たぶん畑を耕したり、鍛冶屋がトンテンカンするような事であったでしょう。商人が、品物を運んだり並べたりすることは労働と考えても、売掛金を落さないよう付き合わせしたり、利子計算したり、執達吏をさしむけたり、自ら借金の取り立てに行ったり、そんな事を「労働」の中に入れていたでしょうか。私だって、そういう商人らしい働きの中に「労働」という概念を無理にあてはめようとは思いません。しかし、そこに「祈祷」があり得る事は疑えません。
 昔、法然聖人に狩人や漁夫たちが信心と生活の矛盾を問いただしました。当時、狩人や漁夫たちは仏教の殺生戒をおかす罪ふかい職業であると訓えられていましたので。その時法然聖人は答えました。「念仏しつつ、狩をしなさい、漁をしなさい。凡て念仏申さるるが如く生きなさい。」これは何という日本の宗教家の智慧ある賢い答えでありましょう。
 だから、私はルターの口まねをして言いましょう。「商売も祈祷である」と。そして法然の口まねをして言いましょう「祈らるるが如く商売しなさい」と。
 戦前イギリスに好本督という人がいました。途中失明して盲人運動などにも力をつくしたクリスチャン実業家でした。この人が日本の支店の番頭の不始末か何かで、巨額の取り立て不能債権ができて破産の危機にひんした事があります。その時、好本氏は日本に帰って何年かがかりでその債権を一銭のこらず回収した事があります。
 その時の好本氏の戦法はただ祈りと誠意でした。法律的にはもう払わなくてもいいかに見えるあやふやな債権かもしれない。しかし先方に良心があるなら、いつかは払ってくれる筈の債権である。私は今、ただ単に金を払ってくれと念ずるものではない。先方にまず良心の目ざめがおこり、人間が革命されよと祈る。いつかは彼が人間としての真正の心にもどるであろう。その時、おのずから債権も払われる事であろう。それが何よりも彼の為にも最善の事なのである、このような確信のもとに、祈りと伝道をたゆまず続けたそうである。こういう借金取りにはさすがに名うての「借り倒し屋」も降参したという事である。この熱心な道徳的確信、これが実業家好本氏を立たしめたのです。見習うべきものであると思います。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-03-10 12:45 | 日岡だより
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