No.374 事業を活かす信仰 1 2009.3.1

事業を活かす信仰 1

 日常のあくどい生活から遊離せず、この生活に密着して、この生活を聖化し栄化する信仰はないか。特に商売とか事業といわれる切ない金の世界が、信仰に於て、いかにして可能であるか。また、そのような強力なる信仰のその特質――そういったものにつき、A君という信仰の友に書き送った手紙のコピーである。
   昭和四三年一月十五日 夜    くぎみや



  第一信   商聖待望論

A 兄
 お手紙ありがとう。ご一家のみなさんお元気ですか。早いものでこの前お会いしてからもう七年になります。あの年に私は今の印刷稼業を始めまして既に七年たってしまいました。本格的に自分の事業と思って活動し始めてからも、もう三年たちました。最近になって事業をすることのコツが少しはわかりかけてきたように思います。借金に借金を重ねて、やりつけない事をやるのですからタイヘンですが、これが目下の使命と思い、ヤケにもならず、くたびれもせずやって来ました。
 「使命」というのはこうです。私の生涯の使命は伝道であると思っていますけれど、私は同じ伝道者でも商売の事が分る伝道者になりたい。日本の多くの牧師さん方は、自分が教会から月給をもらっているサラリーマン牧師でありますから、サラリーマンの気持はよく分ります。サラリーマンの家庭の指導はうまいし牧師夫人もまたサラリーマンの奥さん方の家計のやりくりの話なら見当がつくのです。しかももし信者さんが事業を始めたりすると、その人生経験がないから話し相手にされない。その月暮らしの月給取り根性では、その月の家計費が足りないという苦労話は分っても、月末の手形五百万円が落とせずに困っていて、おつきあいの新聞広告に三万円も払っているというような事は理解できないのです。何故あんなにお金があるのに(タマに訪問してみると一万円の札束を数えていたりしますからね)献金を沢山してくれないんだろうと心でつぶやくようなことになるのです。
 サラリーマン牧師では、どうしてもスケールが小さくなります。本来牧師には大商人のような、大事業家のような素養がいるのです。そういう素養づけの学校としては、今の商売はとてもありがたいのです。
 いつか書いたことですが、私は今、「信仰」と「事業」を二元的に分けて考えられないのです。倉田百三がかつて「生活と一枚の宗教」と言ったことがありますが、そういうことです。信仰と一枚の事業というのは、讃美歌を唱って朝礼をし正直一途に神様に叱られないような模範的事業をやり、もうけは社会の為に寄付していますというような、そんな形式的優等生型の事業を言っているのではないのです。金が一円もないような処から事業を始めた場合、そのような優等生型のようなことは言っておれないでしょう。虚々実々、剣ヶ峰に足をかけるような危ない処を通るでしょう。そのさなかにもチャンと生きているような信仰でないといけない。
 私が事業を営むに当って、最も感銘を受けたキリスト教の先輩は、本間俊平であります。この人の伝記が出ていますので、是非お読みください(福音館書店刊「本間俊平の生涯」)。これを読むとき、キリスト信仰を以て熱烈な事業―――それは秋吉台で大理石を掘るという山師的な側面を持つこの世の仕事です―――を営む明治の一クリスチャンの英姿がまざまざとまぶたに浮かびます。本間俊平は、大正より昭和にかけて何冊かの本を実業之日本社より出版して日本の大小の実業家たちにその思うところを訴えましたが、それらは忽ち当時のベストセラーになってしまいました。それらの本には世間を知らぬ牧師、神学者らの冷たい文章と違って、この世のつらさ、きびしさ、金のみにくさ、金の不思議な力を血と汗と涙で学びとった者のみが持ち得るアッピールがあったからでしょう。
 本間俊平という人は非常にユーモアのあった人で、面白い説教がいくらでもある。私が今でも覚えているのは
「諸君、道というものは大事なものです。道を外しては事業はやっていけない。しかるに多くの人はそりゃ反対だという。道という字は首が坂道にさしかかって苦しんでいる字である。道なんぞ大切にしていると首がまわらなくなってしまうという。そういう根性では本当の大事業人にはなれません。」
 よくこういうシャレをいって気焔を上げたものです。道といえば、山岡静山という人が言った。「人間の行為は道によってすると勇気が出てくる。しかし、少しでも策をめぐらすと、いつの間にか気ぬけするものである」と。この静山という人は山岡鉄舟の養父であります。この鉄舟の実話がまたおもしろい。
 鉄舟が剣禅一如の極所を得るに至った手がかりは、ある商人の言葉にあります。その商人(平沼専蔵という男ですが)の話すには「はじめの中は、物価下落のうわさを聞いてはあわてて売り急いで大損、その次にはどんどん相場が上がってきて、もっと高く売ろう、もっと高く売ろうと手控えているうちに結局大損してしまう、そんなことをしているうちに、私はハタと商法の気合というものを会得したように思われました。これから大きな商売をしようとするには、勝敗利損にびくついていてはだめだと思いましたよ。」この最後の言葉にガク然とした鉄舟はそれより座り続けて六日目ついに入悟して無刀流の極意を開いたのだということです。そうだ剣禅一如というが、商人にも商禅一如というべき境地があるに違いない、そんな事をこの実話は考えこませてくれましたね。
 私がある雑誌に「ソロバン片手の巨聖出でよ」と書いたのもそういう気持からでした。
 引用すると、『商売の世界にふみこんでみて感じるのだ。「士農工商」などと言っていやしめられた封建時代からの商人への不信感・不潔感は戦前派の僕らには今でも若干無きにしも非ずだ。そして、実際に複雑怪奇な商売の現実の中に生きてみると、いやらしくてたまらぬような事も多分に見聞きする。そのような中で、僕自身もまた結構かけ引き術策を弄しているというような始末―――。しかし、商人が偉そうに口をきく為には、「商売は社会流通機関の重要な存在として正当なる職業であり、商人は社会の公器である――云々」というような似而非商人道を奉じなくてはならぬというようなことはない。しばしば商人は、商売が人をだますタヌキかキツネ流の悪どい稼業と心得てその為に潜在的コンプレックスに陥り、却ってその故に反動的な見せかけの正当化、口先だけの義認化に浮身をやつす事がある。そういう子供らしいごまかし作戦はやめよう。(ごまかしというのは人をごまかしているというのでなくて、まず自分の心に対して偽っているのである。)
 商人はまずもうけるべし。宮本武蔵が如何に人物ができていても、剣術に弱ければ話にならぬ。まず剣術に強い事が剣道の達人となる第一条件である。商売の達人もまた第一に金もうけの名人であるべし。金もうけを恥じてはならない。また、金もうけにまつわる一種の臭気にへこたれてはならない。人間の(人も我も含めて)欲心のむきだしの裸になれて、僕らは実に真理を求めるには好都合な道場をそこに発見できるのだ。
 剣道はもともと、刀剣で人を斬り殺す「人斬り稼業」の連中がその無残な目標にかかわらず(いや却ってその非情冷酷の世界の故にか)、生命がけの真剣白刃の下でぬきさしならぬ求道の末に到達したものである。人を殺すのはいい事か悪い事かなどという倫理学上の問題は生命がけの白刃の下では吹っ飛んでしまう。そして彼の魂は一挙に「善悪・生死」の彼岸へ求道の道を天がけるわけである。
 最近、僕はひしひしと感じる。悪とか罪とか(いわれるような)の世界こそ、求道の場でありやすいものらしい。不思議に貴族づらした高級社会では容易に近づき得ない「真理」への近道がそこにひらけているような気がする。(つづく)

 *これは40年前に書いた小冊子「事業を活かす信仰」です。私の零細企業体験記みたいなもの、連載します。ご愛読ください。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-03-10 12:41 | 日岡だより
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