No.373 キリストを真似る 2009.2.22

キリストを真似る

 聖書を読みましょう。使徒行伝第9章32~43節です。
 ペテロはイエス様の第一の弟子です。「あなたの上に私の教会を立てよう」と、主が言われたのはただごとではありません。
 聖書を見ると、初代教会の最初の統領はイエス様の肉の兄弟ヤコブのようです。しかし、使徒行伝全体を読むと、どうもその大半はパウロの大活躍場面です。それに引きかえペテロはパッとしません。
 しかし、そうだからこそ、イエス様は前もって、ペテロを教会の基礎だと予言されておいたのだろうかと、私は考えるのです。
 聖書を見ると、ペテロはそそっかしくて早合点する人物に見えます。でも本当は、多分ベッサイダでは網元級の親方か兄貴分だったでしょう。人を統率できる、義理人情に厚い男だったと思います。
 彼はイエス様に愛され、信頼されました。ですから、イエス様のご生涯の重要場面ではかならず、ヤコブ、ヨハネと共にその3人組の筆頭として彼が現れているのです。
 ペテロという人の使徒的生涯の基盤は、彼がイエス様に従い、イエス様をよく見てきた人物であったことにあると思います。彼はヤイロの娘の復活や、中風の男の癒し、そうしたあらゆる現場に居合わせました。
 彼は目をこらしてイエス様のなさることを驚歎しながら見ていたはずです。そして、そのイエス様の生きた通りに生きようとしました。それが又、彼の人生の最大の秘訣であったと思います。
 彼は、ただ一度だけ「イエスなんて俺は知らない」と主を裏切りました。しかし、それからはもう、ひたすらにイエス様を慕い、イエス様の足跡にしたがい、そしてイエス様の真似をするだけでありました。
 イエス様の復活の知らせをマリヤから聞くと、もう一目散かけだし、若いヨハネを押しのけて墓の中に飛びこむ有様でした。また、ガリラヤ湖の浜辺に立つ復活のイエス様を見た時、とっさに上衣をまとって水に飛びこむひたむきさもペテロでした。
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 さあ、冒頭にあげた使徒行伝9・32~43を読みましょう。そこには多分、思わず知らずでしょうが、彼のしていることはイエス様が地上でなさっていた御業そっくりの真似であります。
 福音書をひらきますと、イエス様が死者を蘇らせ病人を癒すとき、しばしば用いられた言葉が「起きよ」でありました(マルコ5:41、ルカ5:24、7:14、ヨハネ5:8)。
 ペテロがルダでアイネヤという中風の男を見たとき、まず彼は脳裏にしかとイエス様のお姿を思い出したことでしょう。あのヨハネ5:8のベテスダの池のそばで38年病気の男を癒されたときのイエス様のお姿を、です。そこで宣言しました。
 「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたを癒してくださるのだ」。
 そして直ちに、
 「起きよ、床を取りあげよ」
 と命じるのです。
 またヨッパでタビタを死からよみがえらせる所は、マルコ5:41のイエス様がヤイロの娘を生き返らせる場面そのままの再現です。
 ペテロは「タビタよ、起きなさい」と言ったと聖書にあります。
 ヤイロの娘の時は、イエス様は「タリタ、クミ」とアラム語で仰せられました。「娘よ、起きなさい」という意味です。ペテロもですから、この時、アラム語でこう言ったはずです。「タビタ、クミ!」。
 即刻、タビタは生きかえり、起きあがりました。ペテロはさぞ感動したことでしょう。ペテロは一生イエス様の真似をして生きようとしたのに違いありません。
 もっとも殉教の際は、イエス様と同じでは勿体ないと、逆さ十字架にかかって死んだのだと言われていますけれど。
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 イエス様はかつて、「わたしに学びなさい」と言われました。学ぶは、真似ることから始まります。
 聖フランシスに大変愚かな弟子がいました。何を教えても、覚えません。師匠のフランシスはいつくしんで言いました。
 「よい、よい。そなたは私の真似をするだけでいいよ」
 ところが、この愚かな弟子、この言葉だけを馬鹿の一つ覚えで覚えこみました。それからというもの、この弟子はお師匠さんを追っかけて、歩けば歩く、止まれば止まる。咳をすれば咳をする。おナラをすればおナラをする、まさかそこまではしなかったでしょうが、とにかく、しっこいほどに真似をしました。そして聖フランシスの優秀な弟子の一人になったという伝説があります。
 イエス様は言われました。
 「弟子がその師のようで……あれば、それで十分である」(マタイ10:25)。
 「弟子はその師以上のものではないが、修業をつめばみなその師のようになろう」(ルカ6:40)。
 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」(ヨハネ13:15)。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
 そうです。わたしたちは、イエス様のように生きましょう。
 「あたかも○○○のように行動すると、本当に○○○らしくなる」。これはウイリアム・ゼームス以来の心理学、ないし行動変容学の通説です。
 すでに2千年前、パウロが言っています。
 「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習って下さい」(第一コリント11:1)
 と。これこそ、クリスチャン・ライフの秘訣です。私たちはイエス様を見習い、先輩を見習いましょう。おやおや、先輩、大丈夫かな。(1989.10.8、主日礼拝メッセージ)

〔あとがき〕
右近勝吉兄を歓迎します。「もう兄弟との付合は長い付合ですよ」、と言えないこともないけれど、そう再々会っているわけでもないから、そう簡単にも言えない。でも、お互い様、最初っから他人行儀で付き合えないタイプだから、親しくさせてもらったと思う。
 明大前のお宅に訪ねた時は、兄弟はお年寄りが唯お一人の家に、終日黙って一緒に居っているだけというお仕事の日だった。これがお仕事と言えるかい、と慣れない人なら疑問を抱きそうなお仕事だが、無口な老人と終日同じ部屋で向き合って居らねばならないとしたら、これは大変。しかし無理に会話を始めるでもなく、何時までお互い黙っていても窮屈にならない、そういう人柄というものは、絶品です。
 右近さんはそれが出来るんだなあ、と私はため息をついたものです。私のようなおしゃべりが看板の人間もそれは苦手。お尻がむずむずしてきて、「それじゃもう、今日はこれで失礼……」と言いたくなりますよ。
 何時だったか、もう10年にもなろうか、「どなたでも、東京に来たら、我が家に泊まって下さい」と無料宿泊を標榜されて新築された付属の家を開放されたことがある。私が多分第一番の申込み、さっそく遠慮なく泊めさせて頂いたが、もっともっと笑いを誘う逸話の多い兄弟です。何でも頼まれたら、犯罪でない限り何でもする。まさかお見合いの代理はしないだろうけれど、結婚の挨拶の身代わりはしたことがあるとか、聞いたことがあるような気がします。
 なんでも、ある学者さんの代理で南極に行って、石を拾ってきてくれと頼まれたという話しも聞いたことがある。本当に行ったかどうか、それは今日、ご当人に聞いてください。ご昼食も、ごゆっくり、どうぞ。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-02-24 13:24 | 日岡だより
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