No.368 頂いた誕生日祝詞に感謝! 2009.1.18

頂いた誕生日祝詞に感謝!

 先生がたはじめ皆様から、私の誕生日のための御祝詞を頂きました。感謝します。特に永井明先生からは素晴らしいご祝詞をいただき、私の心は打ち震えました。左記のとおりです。紙面に公表しますこと、永井先生、お許し下さい。
           *
 ハレルヤ!
 初めであり、終わりである
 創造主の尊い御名によって
 八十七歳のお誕生日を
 心からお祝い申します。
 モーセは荒野において、現役のバリバリでした。
 戦う勇士でした。
 米寿→卒寿→白寿→百二十歳を目ざして下さい。
 そうしたら、ヨシュアのような後継者が起こされ
 ると信じます!
 そうしたら文句なく「ワハハワハハ」の世界が大
 きく開かれます。
 ここまで書いたとき、「行進」の音が
 聞こえたように感じました。
  二〇〇九年一月十四日
           *
 まさに祝詞というより祝詩でした。永井先生は本当に詩人だなあと思いました。
 私の心に岩に彫り込まれた不朽の文字のように打ち込まれました。
 先に書きましたように私の心は激しく震えました。記念という、その言葉のとおりに、私の心の碑に永久に記念され残されるに違いないと、深く思わずにおられませんでした。
  二〇〇九年一月十五日      釘宮義人


「行進」の音が聞こえる

              〔前文に引き続き〕
 私にも「行進」の音が聞こえるように思いました。私のような昔の人間には、行進とは軍隊のそれだと、瞬間に脳裏に浮かびます。永井先生がお聞きになったとおっしゃる、その行進の音も多分昔の歩兵部隊の行進の堂々たる足音でなかったでしょうか。
 そうです。軍隊も軍隊、天使たちの群れ、即ち天使軍のはずですよ。
 永井先生が私の誕生祝歌のこうした士気高き詩をお寄せ下さって、私は感動の涙で胸が一杯です。そして青年のように燃えています。
 昨年は私は「引退」と「後継者」とかいう言葉をよく、この「日岡だより」に載せましたので、先生も「クギミヤ先生、焼きが廻ったかな」と案ぜられたのかも知れません。
 もう言いません。書きません。いつ引退するかなとか、後継者が決まらんと安眠できないとか、そういう事は、今後けっして言いませんし、書きもしませんと、誓います。
 永井先生がお書きになっていましたが、モーセは120歳で死んで、後はヨシュアにゆずりました。
 現代医学でも、人間の寿命は120歳というのが定説のようです。そうすると、私はまだまだ33年生きることになります。アーメン! ハレルヤ!ハレルヤ! 《く》


打ち破ったぞ!リバイバル祈祷会

 先週の12日に行われた「打ち破れ! リバイバル祈祷会」の凄さ、これには又、驚きましたね。もともと、今回の祈祷会は「打ち破れ!」がスローガンでしたが。
 「打ち破れ!」には3つの段階があると考えました。つまり、1、個人の打ち破り。2、家庭の打ち破り。3、教会の打ち破り、です。
 元々、今回の祈祷会の企画は、どちらが言い出しっぺか、知らないけれど、橋本先生と、永野先生です。そして、お2人は当然のように私も企画に乗ってくれるだろうと決めていたようですし、そしてその会場には当教会が丁度良いというわけです。勿論、私は一言のもとに「OK、やりましょう。」これで決まったんです。
 実は申し訳なかったのは、私は同日に手束先生の高砂教会における「高砂アシュラム」に出席予定でしたし、既に常任講師としてメッセージも予定されていて案内状にも刷り込まれていました。これを今さらお断りするというのは、「言語同断」、それこそ手束先生に叱られるよと、後で気がついたのですが、後の祭です。
 しかし今さら、「先約がありましてねえ」とは、橋本先生や永野先生に到底言えません。本当に困りました。高砂アシュラムの方には全く申し訳ないけれど、私が居なくても、なんとか代役の先生をあてれば出来ないことはないだろうと、私は憶測した。
 しかし、大分のこの両先生の言われる祈祷会は私が居ないと、どうにもやりにくいだろうとは、当然推察できる。遂に私は、当教会でこの祈祷会をすることに決め、高砂アシュラムの約束をお断りすることに決めてしまったのです。
           *
 さて、その当教会におけるリバイバル待望祈祷会ですが、凄かったです。それぞれ3講師のメッセージも良かったです、私を含めて(エヘン)。ともかく、祈祷会そのものが抜群でした。
 橋本、永野先生は暴力的とまで言いたいほどに意気込んで、会衆を一人、一人、祈祷に押し込んでいる。そして皆さんは、ぶっ倒れ、祈らされるのです。橋本先生も、永野先生も、大胆不敵、掛け声をかけるようにして一人一人押し倒していたが、私もその状況に巻き込まれていました。
 私は20年前には、よくベニー・ヒン流の後倒しはよくやったものだが、私のはゆっくり、じっくり、柔らかーに、聖霊様に委ねて倒れて貰うのだった。
 ところが、両先生の祈祷打倒法は、圧倒的である。私は遠慮して両先生のやることは充分拝見させて頂き、そして倒れている信徒の皆さんのそばに行って按手祈祷をしてさしあげたことです。
 驚天動地の両先生の祈祷で倒れた信徒諸君が、魚市場に一斉にマグロが横たわっているような光景になっている有様は、正に天下の大饗宴である。証しを求めれば病気の癒された人も多かっただろうと思う。
 何と言っても、会場が当教会であるから、大会場で行われるチョウヨンギ先生や、ベニーヒン先生の聖会とは規模において比較にならないけれど、その演じられるミニストリーの現場は本当に強烈だったし、仰天した。
 何よりも私が最も驚嘆したのは、橋本先生、永野先生の、事前には些かも予想できなかった、霊的変貌である。圧倒する霊的パワーの強烈さには、私は傍観していただけだが、脱帽するばかりであった。《く》

〔あとがき〕
これまでは、東京や大阪の大きい教会や会場に行って、高名な先生がたの大技を拝見して感嘆してきたのであったが、そういう大聖会の模様を一地方の小さな教会で、地方の小教会(失礼!)の先生がたにより、こうした端倪すべからざる聖会の様子に接することが出来るとは何たる恵みであろう。
 いよいよ、日本でも地方の小さな2、3の教会が協力して、その地元の牧師たちだけで、驚くべき聖会が行われ得るという事、新しい聖霊様の働かれる時代が来つつあるという事、一新紀元を為し得た喜びに身震いがするような気持ちを味わったのである。今回は私は傍観するだけであったと言えるが、見ているだけでも、充分に与えられたものは大きかったと、改めてここに証ししたいのです。主に感謝!《く》
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by hioka-wahaha | 2009-01-20 19:02 | 日岡だより
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