No.365 2008年は行く 2008.12.28

2008年は行く

 今年は西暦2008年でした。西暦とは西洋の暦という意味ですが、西欧ではADと書いてキリスト以後を差します。「AD2008」というように。ADは Anno Domini (アンノ・ドミネ)の略語ですが、イエス様のお誕生から、2008年たっているという意味です。イエス様のお誕生は本当はBC7年だとか、8年だとかという説がありますが、とにかくイエス様のお誕生の年を第一年として暦年をきめているのです。(だから私の習慣としては、西暦とは書かないで聖暦と書きます)。
 ちなみに「紀元前」をあらわす記号BCは、Before Christ(キリスト以前)の略語です。中学校で西洋歴史を教わる頃からこの表記法を学びますね。
 ともあれ、この12月31日で、2008年は去ります。「二度と帰らぬ月日の流れ」です。
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 「月日の流れ」、これは時間ですねえ。時間というものを真剣に考えると、誰でも哲学者になるように思います。
 私は少年時代にアウグスチヌスの懺悔録を読もうとしたら、いきなり時間論が始まりますから面くらいました。とうてい歯が立たないとあって、読むのを諦めたことがあります。
 ともかく時間というものは神秘です。このアウグスチヌス先生だったか、こう言っています。神は時間の中で万物を造られたのか、それとも時間をもお造りになったのか、難問ですよ。
 実は、もう一つの似たような問題があります。それは空間です。似たようなレトリックで考えようとすると、神は空間の中で万物を造られたのか。それとも空間をも造られたのか、ということです。
 年の瀬を考えているうちに難問にはまりこんでしまいました。《く》


高山右近のこと

 大正末期だったか。昭和初年、大分市に高山保さんという市長さんが居た。私の伯父、釘宮徳太郎と無二の友人であった。
 この高山さん、家の事業としては印刷業をされていた。今もその会社は続いていて、大分市内で高山活版社として堅実にやっておられるようである。
 私は最近知ったのだが、この高山さんの直系のご先祖に高山右近がおられたのである。これには驚いた。
 右近はキリシタン大名として、歴史上有名である。細川ガラシャをキリスト教に導いたのも彼であるが、その他の大名たちも彼に導かれてキリスト教に入信している。
 しかし、その後の政治事情で徳川家康からマニラに追放され、翌年同地で客死する。その時、同地の信徒たちは殉教者としての盛大な葬儀をもって彼を葬ったという。
 この右近の直系のご子孫が今も日本にお二人生きておられることを私は最近知った。しかも、そのお一人はこの大分市に居られるというのである。
 私がその方を捜さない筈はない。調べさせてもらって辿りついた先には、なんと高山活版の看板があった。
 「あっ」と、驚いた。伯父の伝道雑誌「復活」の印刷所は高山活版社であったから。昔は高山活版社は大分市の中央通りにあった。最近、その姿を見ないので、「ああ、高山活版は廃業したんだな」と、一人合点していたのである。
 「そうではなかった、経営を続けていらっしたのか」とつぶやきながら、その会社を訪ねて社長さんに会い、確かにあのキリシタン大名高山右近の子孫さんであることを確認したのである。(尚、もう一人の子孫の方は島根県のほうにおられるということであった。)
 ともあれ、この大分市に高山右近のご子孫の方が一人居られたということに、私は感激した。後日あらためて、お宅を訪ねしてみると、かつて戦後のころ、私ども一家が一時仮住まいした家の2、3軒先であったので、これにも驚いた、なんということもなく親しみを感じたことであった。物資が不自由な頃とて、お互いに奥さん同志では親しい付合もあったかも知れないと思ったことである。
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 豊臣秀吉や徳川家康から、その人物や手腕を認められながらも、キリシタンなるが故に国外に放逐されざるを得なかった高山右近の悲運は歴史的にかなり知られていることであるが、彼の直系の子孫がその後も、今も尚、日本の国内に平和に暮らしていたということは、実に想像しにくい事実であった。(これには、徳川時代の政治体制というものが、庶民の人情が生活のすみずみに交流できる隙間の多い暖かいものであったらしいということが考えさせられて、私は妙に感動した。)
 とにかく、こうして高山右近なる人物が妙に身近に感じることになった。私の伯父は、当時の仲の良かった大分市長高山保氏を、右近の子孫と知っていたかどうか、疑問ではあるが。私はそういう話を伯父から聞いたことがない。
 伯父は伝道用として月刊個人誌を発行していたので、そうした話題を載せないはずもないし、私は亦よく伯父の集会や雑談会に大人に紛れてこっそり聞いていたので、私の耳に入らぬ訳はないのである。
 ひょっとしたら、あの厳しい戦時体制の下では、先祖が生々しいキリシタンであったことなど、話題にしにくい時代であったかも。故意に伏せていた祖先の類暦であったかもしれません。
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 私たち日本庶民生活の中にも、キリストの福音の流れが伏流水のように染み込ませられる可能性は充分にある。また、私たちは、家庭や、何げない日常の会話の中で、職場や近所のお付合の中で、福音の言葉を漏らし、投げ込み、膨らませる、会話技術を上達させたいものだと思う。
 私の父は話し好きだったそうで、お百姓さんに肥料を売る商売をしていたが、時々売掛が溜りすぎたお得意さんに厳しい取立て文句のはいった裁判所の公式文書を送った。市内でも有名なやくざ家業の男にも、それをやった。くだんの男、カンカンになってどなりこんできた。
 「野郎、ふてえ野郎だ、俺と知って、これを送りやがったのか」。
 「はい、はい、旦那のことを知らねえ奴はいませんよ」。
 あと、何を言ったか、知らないが、その男、
 「アッハッハッハ」
 と笑いながら、帰って行ったそうだ。
 父はどんな人も、神の子と信じていた。そして、どんな事も、神様のお指図で、こうなっているのだと信じていた。そして常に「神様、有り難うございます。感謝します。万事、お恵みです」。
 心でも言い、口でも言っていました。どんなひどいお客さんにも、心底からニコリと出来るのです。お客さんは一変してニヤリと笑いながら帰って行くのです。
 父は一時、あることから、兄弟を恨み、世間を恐れ、「神も仏もあるものか」と絶望のどん底に落ちて居た時です。
 そのような時に教会に行ったのです。その時の牧師さんは偉かった。あるいは、どうしてよいか分からず、せっぱつまって言ったのかも知れませんが。
 「釘宮さん。祈りなさい。祈ることだけは出来るでしょう。何もしなくてもよい。ただ、神様あ、と祈りなさい」。
 その晩、父は必死で祈りました。「神さん、あんたが本当に居るのなら、今晩出てきてください。あんたに会って文句言いたい。今晩中に出て来てください」。
 その晩、本当に神様が彼に現れたのです。そうとしか言いようがない経験でした。火事のような光に触れて、父は動転もしましたが、神様が分かったのです。生きる力が湧いたのです。
 信仰の秘訣は神様にジカに触れることです。この父のように。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-12-30 17:44 | 日岡だより
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