No.364 鹿鳴館文化?日本のクリスマス 2008.12.21

鹿鳴館文化?日本のクリスマス

 戦前、日本のデパートあたりで、クリスマス商戦が始まると、無教会の豪の者、伯父釘宮徳太郎が顔をしかめて嘆いていたものだ。
 「商売人ばかりがクリスマスを利用する」
 この伯父の家は大分市の南の丘の上、十字架形の平面図に作られた隠居屋で、近所の何処からも見える。そして大きなチコンキ(蓄音機)に賛美歌のレコードをかけて、聖書集会をするのだった。
 クリスマスには子どもたちを一杯集めてクリスマス子ども会をする。私より3歳ほど年長の従兄・釘宮大祐さんが童話の名手で、この兄貴がクリスマスの幼年向き説教をする。続いて子どもたちの待っていたクリスマス・プレゼント、おもちゃとお菓子の大盤振る舞いである。伯父の親戚の子である私も、この恩恵に預かるのが待ちどおしかった。
           *
 さて、先程の伯父の言葉、「商売人ばかりがクリスマスを利用する」、これは現在もそのまま利用できる風物詩批判であろう。
 今日、日本の新聞の広告や商店街を見る時、クリスマス広告が一杯、日本はキリスト教国になったのかと誤解する外人さんも出てくるのではなかろうか。
 これを私は鹿鳴館文化と称する。鹿鳴館とは何ぞや。百科事典を調べてみてください。日本人の明治以来の洋風文化崇拝気質の標本的建築物である。
 教会で子ども向けにクリスマス集会を開くと、近所の子どもがドンと集まる。しかし次週からは以前のまま、来てくれるのはホンの数人。しかし、
 このクリスマスだけに来てくれた少数の子どもたちを保持出来ない私たちにこそ問題がある。ここに私たちのやり直すべき問題があるに相違ない。《く》


クリスマスとは何か

 クリスマスという言葉を直訳すれば、キリスト祭でしょうが、多くの日本人の感覚ではキリスト誕生祝日です。この日が12月25日ときまったのは、一応AD354年のことらしいですが、でも本当のことを言うと、12月25日が正しくイエス様の本当の誕生日か、どうかは不明である、いや誤りであるというのが定説です。
 さて、クリスマスの定義を信仰的に述べてみたいのです。もちろん、キリスト教界の定説ではなく、小生の釘宮説です。とはいえ、教界の定説に反乱を起こそうとしているのでもありませんから、ご安心ください。また、興味深々たる好奇心を起こすほどの事ではありません。呵々。
 勿論、クリスマスとはイエス・キリスト様のご誕生を感謝、賛美する教会の礼拝儀式であります。しかし、それ以上に何かを語ろうとすれば、私たちが、それぞれ個人的確信として私たちの内にイエス様の誕生を記憶しているか、どうかということです。
 こんなことを言い出すと驚かれるでしょうが、ある意味で信仰とは記憶であります。あなたは、イエス様をあなたの救い主として受け入れた時のことを記憶していますか、この記憶がなければ、あなたには信仰が無いということになります。
 「ちょっと、ちょっと、脅かさないでください」
 という声も聞こえそうですが、いかがですか。ひょっとしたら、バプテスマを受けた時のことは、よく覚えてはいるが、いつイエス様を私の救い主として受け入れたのか、そんなことは分かりません、という方もおられようかとも思います。
 教会によってはバプテスマを受ける時になって授洗者の牧師先生から、「今、あなたの救い主としてイエス・キリスト様をあなたの心に受入れますか」と問われ、「はい、受入れます」という答えをしたら、ザブンとばかり洗礼槽の水の中に体ごと頭までも押し込まれるという勇ましい洗礼式を体験なさった方もおられるでしょうか。そういう方は幸福ですね。
 私などは「あなたはイエス様をあなたの救い主として信じますか」と問われて、「ハイ」と答えたら、さっと、「我、なんじに洗礼を施す」と一声、額に牧師の水に浸した手のひらを当てられて、多少ヒヤリとした、それで洗礼式終わりという簡素な洗礼式でした。そうした人も多かろうと思うのですが、あなたはいかがでした?
           *
 しかし、それは別として、霊的な経験として、イエス様が自分の魂に定着してくださった、その一瞬を覚えて居られる方がいましたら、感謝です。それが私に言わせれば、個人体験的クリスマスです。本物の信仰ですよ。それほどでなくても、自然に何時の間にか、信仰がそれぞれの魂に定着する方がいます。それこそ感謝なことです。
 本当は先に信仰がはっきりして、その後で洗礼、つまりバプテスマを受ける、それが本来でしょうね。そういう人もいます。
 実は何も分からずに、まわりの先輩諸君が、「信仰がはっきり分かってから洗礼を受けるなんて悠長なことをしていたら、いつ信仰に入れるか分かりゃせん。思い切って今のうちに洗礼を受けておきなさい。そうすれば、いつか信仰なんて分かる、僕もそうやった」なんて勧められて、飛込み洗礼を受ける人もいます。
 この教会では、決してそんなインチキなことはしません。「洗礼を受けたい」と言って来た方を「まだ早い」と引き止めた人さえ多数います。
 たとえば、「洗礼を受けたい」と感情に燃える人がいます時、結構なことだと感心しますが、しかし私は矢張り引き止めることが多いのです。私には、洗礼志願者の信仰が、単なる感情的なものか、確実な信仰か、分かるのです。信仰は自分の決心ではありません。
 神様から頂きもの、魂の奥底(そこが霊ですが)に、そこに霊的な信仰事実が起こっているか、どうか、私は見定めるのです。
 それでも本当は、信仰がいつ起こったのか、私にも分かりません。神秘です。分かるのは神様と本人だけです。いや、神様だけかも知れません。
 ともかく、信仰は聖霊様の働きです。本人も気がつかずに、信仰が湧いている人もあるでしょう。その神秘さに驚嘆します。朝、目が醒めたら、信仰が自分の心に湧いていて、びっくりした、などということもあるのです。
 先週の信徒メッセージで、相良姉妹が「偶像からの悔い改めと回心」について、信仰体験の証しをされたそうですが、「偶像からの悔い改め」そのものが聖霊体験です。まして、「回心」ということ、これも正に聖霊様の働きです。
 勿論、自力で信仰の決心をして、がんばって信仰の生活を送っているうちに、突然、聖霊様が働いて、回心がドカンと起こる。こういうことは中世の英雄的信仰の先輩に多かったように思います。信仰生活も豪傑タイプです。こういう方も凄いですね。
 弱さの中で、自分の弱さを自覚しつつの受け身信仰で、素晴らしい生涯を残される方も多いのですが、更に積極的に攻撃的信仰を送って、預言者や使徒たちの信仰タイプをまざまざと生きて行かれる豪傑タイプの信徒の兄姉たちもいますね。私の言う、クリスマス体験もいろいろですね。
 あなたはいかがでしょう。逆説的ですが、私が時おり、平凡タイプの聖人という、そういう人もいます。神様のお導きはいろいろであります。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-12-23 19:12 | 日岡だより
<< No.365 2008年は行く... No.363 申命記と越年 2... >>