No.363 申命記と越年 2008.12.14

申命記と越年

 申命記は旧約聖書の第五番目におかれている。この書の記者はモーセである。「申命」とは「重ねての命令」の意味、元々は漢訳聖書の訳語である。
 モーセは60万のヘブルの民衆をひきいてエジプトを脱出した。その後、40年をへてヨルダン川のほとりに立った。約束のカナンの土地は目前である。
 そこで彼はもう一度、かつてホレプの山の下で与えられた律法の説明を重ねて民にするのである。
 モーセはしっかりと民衆に語っておきたかった。何故なら彼はもうすぐ死ぬからである。モーセはここで遺言を述べようとしているのである。その真意は民全体が今、歴史的転換時点に立っているという認識のもとに、まず越しかたを回顧し、そして神の律法の基本と原則をもう一度念を入れ、かつ民の未来展望を示して希望を与え、勇ましくせよ、雄々しくあれと励ましたかったのである。
           *
 さて私どもは今、早くも12月を迎えています。2008年、最後の月です。私どもが今、あのモーセのように此処に立っていたら、私たちは何を「申命(重ねて命令)」するでしょうか。
 私は今年の目標を、毎週の日曜礼拝出席が40名を越えると、掲げて来ました。ところが、残念! 最近ずっと20名の数字を越えた事がありません。
 さてそこで、この12月最後の週に来年の日曜礼拝出席を書く時、何と書きますか。私は腹を決めています。やはり「40名」です。
 重ねて、40名と書きますよ。決して気落ちしません。勇気を奮い起こして40名と書きますよ。そして、私のやり方ですが、自分に命令するんです。来年もやはり、勇気を出して、日曜礼拝、毎週の出席は40名を越すんだぞ、と命令するんです。《く》


主に喜ばれる信仰

 私は新聞の囲碁や将棋の解説欄を読むのが好きである。私は囲碁や将棋をたしなまない。だから専門の用語はさっぱり分からない。しかし全体の雰囲気がなんとなく分かる。勝負師の勝負師らしい秘密が伺えて面白い。
 ところで、ゴルフの紙上教室といった記事もこれまた同様に面白い。専門のカタカナ用語も出てきて、それがどんなことなのか、さっぱり分からないのだが、分からないままに、なんだかよく分かる、その上、信仰上にも為になる。先日の大分合同新聞にこんな記事が出ていた。

 「もしもスライスしなかったら、左にOBしてしまいそうだな」。
 スライスを持ち球にしてから1年ばかり、私の頭の中には、常にそんな不安があったものです。「もしもスライスしなかったら……」
 事実、そう思ったままで打った時、フックはしないまでもストレートに飛んでいってしまうことがしばしばありました。「あ…、やっぱり…」
 こうなるともう駄目です。アドレスに入った途端に、不安ばかり頭に浮んでミスの連続です。そんな時、プロにズバリと言われました。
 「駄目ですよ。初めから悪い結果ばかり考えていたんじゃ、よいショットなんて出ませんよ」。
 相談したわけでもないのに、私のゴルフを見て一目で見抜いたのです。
 「悪い結果なんか考えずに、よいことだけ考えなくちゃね。例えば、あの辺からフェードして、ボールの止まるのはフェアウエーの中央っていうふうに…」
 そう言って、その言葉通りのボールを打って見せてくれたのです。(こういう専門語は私にはサッパリ分からないですが、新聞そのまま、載せました)。
 プロの指導者は、こういう。「こう打つと決めてかからなければ、ボールだって言うことを聞いてくれませんよ」
 もちろんプロだから言える言葉ですが、その一言がきっかけとなって、私はアドレスに入る時、悪い結果は一切頭に置かないように努力し始めたのです。
 初めのうちは、どうしても悪い結果が頭にチラチラ浮くので困りましたが、慣れるに従って、ずうずうしくなり、よい結果ばかり考えられるようになりました。するとどうでしょう。ミスショットの数も信じられないほど減ってきたではありませんか。
 ・・・以上は新聞記事の転載である。
         *
 ヨブは言った。「私の恐れるものが私に臨み、私の恐れおののくものが我が身に及ぶ」(ヨブ記3:25)これは旧約聖書に出てくる恐怖吸引悪の原理である。
 イエスは盲人の乞食バルテマイに言われた。「私に何をしてほしいのか」(マルコ10:51)と。私たちのしてほしいと願うことが、私たちの身に成就するという法則を前提にしてイエス様は語られているのである。
 そうすると、あなたは言う。「本当だろうか。私はたくさん願ったけれども少しもかなえられなかった」。そこで、
 私は言う。それではイエス様のバルテマイに言った言葉は虚言だったろうか。イエス様は別のところでこう言っておられるのだ。「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と。
 上例でゴルファーがアドレスに入る時、ずうずうしくもよい結果ばかりを考えた。同じように私たちもずうずうしく、また厚かましく私たちの願うところはみなかなえられると信じようではないか。そういう信仰を主は喜ばれるのではないだろうか。あたかも子供が親に信じきって親の顔を仰いでなにものかを求めるように……。
 イエスは言われた。「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」と。然り、主よ、感謝します。その通りです。アーメン!(旧稿06.6.12)


〔図書紹介〕

        「天国は本当にある!」

 良い本が出ました。「天国は本当にある!」。私はこの言葉をキャッチフレーズにして、教会の門口に立てようかと思ったくらいです。
 天国のイメージについては私も実はこれまでかなり、いい加減な点があったことが分かり反省しました。天国という所は霊界であるからして、地面があるわけでもなく、家と言っても木造の家でもあるまいし、鉄筋コンクリートのビルでもあるまい。何かフワフワした掴みどころのないような世界、はるか向こうには透き通って見えるような家々、天使たち、童画みたいな柔らかな雰囲気、自由に思うままに想像はしていた、そんなところが霊界だろうと思っていた。
 しかし、この本を読むと、天国には天国の土地や川や山がある。川には魚が泳いでいる、そして天国の人はその川の魚を捕って食べるのだそうだから、これには私は「えっ」とばかり、たじろいで信じられなかった。
 いささか驚いて信じられないのは本当だったが、しかしこの本は私に天国を非常に即物的なものに教えてくれた。空中都市か夢幻村落のような天国ではない。真にまともに大地にどっしり造られている天国国家が紹介されているので、私は驚嘆した。ともかく、私にとっては天国のイメージが一変した。
 (「天国は本当にある!」447頁、かなり厚い本です。チョー・ヨンギ先生推薦、定価1600円。頁数に比して、安いです。著者・トマス・チュナム 小牧者出版社)

〔あとがき〕
この14日は東京に行っています。まず秋川集会を問安します。(問安という言葉は聖書に出てくる「安否を問う」という言葉から援用したものです。文語訳では新約聖書でもパウロ書簡の末尾のほうによく出ていました。口語訳になってからは創世記などにしか出てきません。現代の通用語では「ご無事ですか」というような、挨拶のことですね。)▼今回は東京に出かけましても、あきる野市の秋川集会以外の皆さんには、お訪ねする余裕がないかもしれません。その点、お赦しください。また例年の12月には各地の皆さんをお伺いしたこともありましたが、本年は日程が難しくなりました。来春になりましたら、お伺い致したく存じます。ご無沙汰している先生がた、兄姉がた、来年は是非そのお詫びを果たしたいです。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-12-16 13:21 | 日岡だより
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