No.362 大東亜戦争について 2008.12.7

大東亜戦争について

 もうすぐ、12月8日です。この日は大東亜戦争勃発の日、日本が口火を切った戦争であったから、責任は日本にあると、アメリカさんは言うだろう。言われても仕方はないが、当時を振り返ると、それほど簡単ではない。
 アメリカはアメリカ国内にある日本資産を凍結した。加えて日本向け石油の輸出を停止した。日本政府には、これが最後通牒に見えた。事実、そういう通牒も来たのだが、そこを一押しして交渉に持ってゆく外交感覚が、日本にはなかった。
 日本はバカ正直にアメリカの威し文句に乗って、いきなり真珠湾攻撃と慌てたのである。もっとも日本は、明治の日清戦争、日露戦争等、すべて宣戦布告抜きに不意打ちの攻撃をしかけて成功してきた前歴がある。これが日本の軍部の悪い癖でもある。
 しかし、こうした事はアメリカさんは先刻ご承知、待ってましたとばかり、これを逆手に取って「日本は卑怯なだまし打ちをかけてきた」とてアメリカ国民の戦意を昂揚させた。前述したように、実は資産凍結や石油の輸出停止等、厳しい先手を取ってきたのは、本当はアメリカなのである。
 更に、実はその次に、更に厳しい通牒がアメリカから送られていた。日本のある将軍、「こうなればもう、一か八か、やるほかないと思ったんだ」と述懐していたが、それほど計算抜きに、血が頭に昇った日本の参謀本部だったらしい。
 そして一時は大成功に見えた。真珠湾攻撃で大戦艦群沈没等で、まさに日本中「勝った、勝った」と興奮しましたね。しばらくしてフィリピンのマニラを落し、マレー半島のシンガポールまでも陥落させる。日本中が湧き返りました。しかし、これが大東亜戦争敗北の序曲となりました。《く》


平和論を考える(下)

  一、戦時下における非戦論者の実際的困難

 一国が軍事行動に入ったときその国にある非戦論者は何をなすべきだろうか。彼は可能な限り力を尽くして戦争の非なることを政府にも人民にも訴え続け、かつ自らはその戦争に協力しないことである。
 しかしながら現代戦は「総力戦」である。中国の竹林の七賢人のように完全に社会から脱離することは出来ない。非戦主義で刑務所に行っても、そこでの仕事は軍需品であることは前述したとおりである。戦時下においては、国民すべてはなんらかの形で戦争に協力せざるを得ない。どの個人も戦争体制に組み込まれる。徹底して戦争に加担しまいとすればその国内に生きておれない。それは甚だしく原罪論的である。私があの時、自殺をはからざるを得なかった理由の一つなのであった。
 昭和20年代の映画だったが、非戦主義のクェーカー教徒に当時の人気俳優ゲーリー・クーパーが扮した。彼の家族が敵軍に襲われる。それまでは絶対に武器を取らなかった彼が、決然としてライフルを手に持って家族救出のために前線に出て行く(カッコ良かったです)。要するにいざというとき、生易しい平和論では現実の事態には通用しないという事である。
 よくある、お母さんの平和論。「かわいい子供たちを戦争にやるな」。これが簡単に「子供達よ、戦争に行け」に変りやすい。一旦、戦争が始まると戦争に行かないのは非国民、よその子供が戦争にいっているのに、なぜお前のところの子供は戦争に行かないのか。クリスチャンというのは人が戦場で死ぬのを知らぬ顔で自分だけ命を助かればいいと言うのか。「人その友のために死ぬ、これより大いなる愛はなし」と聖書にあるではないかなどと言われる。
 すると真面目なお母さんが一番に「息子よ、お国のために戦争に行け」などとスパルタの母なみに子供を励ますようになる。労働組合の平和論も同じようなもの。労働組合が大政翼賛組合に一変するのは目に見えている。組合長は政府から勲章を貰って軍需産業生産拡大のため組合員督励に一生懸命になるだろう。時代が一転すると人間の主義・思想は簡単に変る。私は人間とは弱いものと知っているからそれを非難する気にはなれない。しかし、大衆は主義・思想に於いて一貫性に欠ける、そういう意味で大衆は信頼出来ないという痛切な認識が私にはあるのだ。
 戦争は狂気である。その狂気をあらゆる宣伝と教育機関をとおしてお上が国民に浸透させる。日本人はお上の煽動に弱い。日本人は農耕民族らしく一列右へならえ、自分で考えて自分で行動するということが無い。一般国民のほうが戦争熱に自らを煽って政府や軍部をたじたじとさせるということにすらなる。太平洋戦争末期、政府や軍部は戦争をやめたくてもそれを言いだしかねるほど国民のがわに戦争遂行の熱気があったと思う。だから戦争の責任はまさに国民すべてのものにあったとさえ言える。そんなときの国を挙げての圧力は大変なものである。それに耐え得るほどに、精神力、体力、機智、団結力をまだわが国の平和陣営は鍛練していないと思う。

   二、核軍備は地球全生命の敵

 さて、私は現代の平和論というものを詳しく知らない。素人の私にはどうも核の問題は平和論をとびこえた所、少なくともその最前衛にあるのだと思う。無理に平和でなくてもよい。ともかくまず核を無くすこと。これが先決問題だと思う。核軍備は万国人民共通の敵である。地球に住む全生命の敵である。「平和論はあとまわしでよい」と、こういうと叱られるかもしれない。それは戦争屋には都合のよい言い逃れ道を与えることになるかも知れない。それでも核を平和論の枠のなかに閉じ込めないで、「核武装廃絶」一本で目標をまとめるべきだという思いを私は捨てることができない。
 よく軍拡論者は敵国侵略の可能性の現実性を説く。しかし私は現代最も現実的な問題は既に配置されてある核武装そのものだと思う。どこかの国で現に戦争が行われているということ以上に、核武装は地球規模で危険である。ボタンひとつで地球上の生命は(人類のみではない)滅びてしまう。これは「未必の故意」の犯罪行為ではないか。
 たとえ共産党反対の人でも共産党の原潜反対の署名運動には参加したらよろしかろう。自民党の北方領土返還要求は大分筋道の立った話と思うがそれでもそんなことはあとまわしで良い。それほど自民党嫌いの人でももし自民党がソビエトの核ミサイル反対ののろしをあげたなら、これには協力しようではないか。いや、それが暴力団まがいの右翼だったとしても賛成しよう。たとえば人は火事を消している人が悪人だからといって、その消火作業に加勢することをためらうだろうか。だから右翼だって暴力団だって、それが核軍備反対ならその看板だけは賛成としよう。

   三、絶対に平和をあきらめない

 シュバイツァーが言ったことがある。「私は世界の将来に対して認識としては悲観的である。しかし希望としては楽天的である」。また「私は生命を畏敬する。どんな小さい生命をも殺すまいと努力する(つまり蚊だの蝿だのを殺さざるを得ないときにはやむを得ず殺します、とシュバイツァーは言うわけだ)」と。前者は逆説的で後者は不徹底に聞こえるが、しかし彼の言い分は正しいし、そして苦渋に満ちている。
 真の平和論者もこれに似た感懐を持つであろう。彼は現代に対しても未来に対しても認識としては悲観的であるかもしれない。しかし希望としてはあくまでも人類に対し世界に対し楽観的でありたい。いかに自分が非平和的な人間であり愛の乏しい人間であったとしても、また自分の弱さの故に、さまざまの事由で大なり小なりの戦争を黙過せざるを得ないような残念無念の時でも、なおかつ出来るだけ平和をきたらせるよう努力する、そういう人でありたい。
 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書5:9)と聖書は言う。しかり、絶対平和をあきらめない。常に聖書的平和の本質に立ちつつ、様々の平和論と出来るだけ「平和」でありたい、誤解を恐れず協力したい、かつ福音伝道と牧会からは手をぬかないということ。これが現在の私の結論である。(旧稿1984.10.21)
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by hioka-wahaha | 2008-12-09 00:00 | 日岡だより
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