No.359 霊錆びた祈り 2008.11.16

霊錆びた祈り

 先師手島郁郎先生が時々、弟子たちに励まして言われた言葉に、「霊錆びるまで祈れよ」というのがありました。私たちの祈りの声に聖霊様が錆び附くまでに祈れよということでした。
 事実、手島先生のお祈りなさる祈りには、そばでお聞きしている私たちに神秘な共鳴震動を与えるような深みがありました。
 あの、共に祈っている私たちに体にビリビリ震える震動のようなものが移ってくる、あのことでしょうか。
 いえ、いえ、一緒に祈りの友と祈っているとき、そういう現象がよくありますが、それとは違うんです。
 もっと何か物質的重みをもって迫って来るようなものがあったのです。私だけかも知れませんが、忘れがたい経験であります。
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 それとは違いますが、先日、県下の先生がたと一緒に祈っていましたら、そばに居られたH先生の祈りの声が響いて来ました。
 なんと言うか、前記に書いたような重みのある声です。これはもう、誰にでもすぐ分かる、非常に祈り込んだ声です。
 この先生はどんなにか、長い間、祈って来たことであろうか、長い間どころではない、熱意をもって、涙をもって、いわゆる雄叫びの祈りを天の父上に捧げてきたことであろうか、その祈りの歴史が伺い知られるような祈りでありました。
 もちろん、沈黙の静かな、イエス様に喜ばれる尊い祈りも多くの兄姉がたの中にあるでしょう。私たちも更に更に祈り抜きたいと思います。《く》


自制心について

 クリスチャンの徳目のなかで案外見落されやすいが、しかもとても大事なものだと思うのが自制心です。この徳という言葉は、聖書の中では新約聖書にだけ出てくる「アレテー」という言葉です。希和辞典には「卓絶した道徳的力」とあり、W・バークレーは「神と人間とにたいする奉仕の実際的力、またそれを行う勇気」と説明しています。
 聖書では、これを聖霊の実の一つとしてあげています。ガラテヤ5:23にその徳、つまりクリスチャンの品性の一つとしています。その最後にありますが、実はもっとも基礎的な重要な徳目だと思います。
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 ある高名な聖書事典を開いて、その事典で「自制」という所を開きましたら、→印で「禁欲を見よ」とあります。つまり、自制と禁欲とは同意義と認めているようです。私はがっかりしました。本当にそうなのでしょうか。私は禁欲は自制の一部ではあるが、自制そのものではない、自制は禁欲をはるかに超えた徳だと思うのです。
 しかし、この事典では、自制とは、タバコを止め、酒を止め、ダンスをしない、テレビを見ない、美食をつつしむ、性欲もつつしむ、そういう修道院の生活のように思っているのだろうと思います。たしかに、自制にはそのような消極的な面もあります。暴走しやすい肉的な思いや言葉や行動を制御することは大切なことです。しかし、それだけでは自制とは単なる行為的律法の一つにすぎないということになります。
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 自制とはもっと積極的な英雄的徳です。人間の本能的な欲望、感情の動き、行動の一切を、自己の思うとおりに支配して、その向かう方向を自在に自己の意志できめる力です。
 外面的行動や行為を自分の思うままに制御することは、あるいは強固な意志力なら可能でしょう。しかし感情の受動的即時発現性や、本能的食欲や性欲の勃発性など、これは私たちの単なる意志力では、その外面な言葉や行為を覆い隠すことはできても、その内面的心の動きを「抑える」ことはできないのです。
 「抑える」ということは、明らかに「禁欲」的意志力です。「自制」というのはそれと違うのです。「自制」というのは「禁じ、束縛する」のではなく、本能や感情が自発的に働いて、それがおのずから正しい方向に動き、悪いほうに働かないようにする力です。
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 説明します。たとえば、タバコを止めようとします。それは、それぞれ本人の嗜好ですから、無理に止めようとするのは、大いに困難です。そこで決心した本人が、厳しく厳しく自己抑制して、禁煙を忍耐して持続し、やっと成功する、そういう人はごく少数です。その方々は本当に称賛すべき英雄的な人たちですが、多くの人たちにとっては不可能なのです。それでも、まあ少数の人は成功します。
 以上のような場合、別の信仰的方法ですが、多くの場合、神様に祈って、具体的にタバコを止める力を神様に求めた上、思い切ってそれを実行してみると案外にうまくゆきます。これには言葉の力を使うことが有効です。
 ところが、非常にいじめられたり、非道な仕打ちを受けたような相手にたいする深い憎しみや復讐の心を愛に変えること、これはいわゆる努力や忍耐や抑制では不可能です。その憎しみを忘れたことにして、そっと放っておいても、ある時ふと思い出したり、当の相手が目のまえに現われたりすると、もう内心おだやかでありません。それを悪いことだと思って、その心を覆い隠すことは出来ますが、それは偽善にすぎないのです。
 本当に、マグマが地殻の下から噴きあげてくるような本能的悪徳の思いがあるものです。特に青年期の男性の性欲の働きなどの場合、特に強力です。抑制が困難です。こうした性的誘惑にたいしては普通「戦うな、逃げよ」と言うほかはないのです。こういう時、本当に聖霊の実としての自制(ガラテヤ5:23)、もしくは神様よりの賜物としての独身の霊性を必要とします(第一コリント7:7参考)。
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 自制心とはこういうことです。たとえばイエス様を見ていると、愛に富んで居られるけれども、弟子やパリサイ人たちに怒るときは何のこだわりもなく怒っているようです。愛のお方ではあるけれど、怒るべきことがあるから表面だけ芝居で怒っているというのではありません。イエス様は本気で怒っているのです。そうです。いつも嘘いつわりなく、偽善でもなく、正直に本気で泣いたり、怒ったり、笑ったり、しているのです。
 つまり、本心の意志で嬉しい時に喜び、悲しい時に泣き、腹がたつ時に憤るのです。いつも自由です。本心ありのままに、本心のままの意志による統制力で感情を動かしています。意志が感情の上位に立ちます。これは普通の心理学の否定するところですが。
 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦婬したのです」(マタイ5:28)と仰せられたイエス様は、世の男性の性欲の在りようを、よく知っておられることに驚きます。イエス様自身に性欲がおありだったからです。しかもイエス様はそれをしっかりと自在に統制なさって罪の心を微塵も抱かれなかったのです。私たちには見当もつかないイエス様の心的内容です。しかし、自制心というのは、そういうことです。
 私たちに、イエス様ほど完全にそのような自制心を持ち得るとは言いません。しかし、もし私たちが聖霊様にそのことを求め、聖霊様に完全に支配され、また自ずから自分の意志に命令し、言い聞かせるとき、そのことは成就すると私は信じています。(旧稿、1996.6.9記 《く》)
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by hioka-wahaha | 2008-11-18 11:42 | 日岡だより
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