No.352 「幸運な人」になりましょう! 2008.9.28

「幸運な人」になりましょう!

 あのナショナル電器の松下幸之助さんに、ある人が聞いたことがあります。
 「松下さん、あなたはどのようにして有能な人物を見極めるのですか」
 松下さんは答えました。
 「愛嬌のいい人と、運のいい人だな」
 「愛嬌のいい人というのは分かりますが、運のいい人というのはどうして見分けるのですか」
 「わしが見れば分かる」
 なんとも不可解な言葉です。松下さんに何か神秘な力でもあるのでしょうか。なおも食い下がって聞くと、
 「実に簡単。自分は運が良いと思っている人が運がいいんだ」
 ははーん、なるほど! 分かるような気がしますね。
           *
 「運が良い人」と言えば私は聖書の中のヨセフという人物を思い出します。この話を持ち出そうとすると、実は私も、私の刑務所経験も話したくなります。
 これは、私のよく繰り返す思い出噺で申し訳ありませんが、私は22歳、福岡の刑務所の独房にいました。キリスト教思想による兵役法違反などという、いわば国家反逆罪です。キリスト教関係の本は上からの意向か、読ませてくれない。図書係から貸して貰える本は月に2冊です。毎月、「聖書」と申込書に書きましたが、ボツになって1冊しか貸してくれないのです。
 しかし、図書係の囚人はやさしい人で、間違ったふりをして1か月だけ聖書をニヤッと笑って私の監房に入れてくれました。(この人は細君を殺して無期懲役になっている男だと聞きました。信じられません!)。
 ところで、私はこの聖書を一か月間むさぼるように読みました。その時、旧約聖書の創世記を読んでいて思わず目をこすった個所があります。それがヨセフの物語です。ヨセフは少年時代に、親や兄弟たちが自分をかこんで最敬礼する夢を見ました。それは彼に印象深く残りました。それをまあ彼は坊っちゃんらしく、無邪気に兄たちに言ってしまう。
 なんと言っても、これはヨセフの若さの故の足らない点です。この時の彼はまだ人の心を察することができません。しかしとにかく、この少年時代の夢が、心に燃える幻となって、その後の彼の人生がどんなに過酷な状態になった時にも、ヨセフの人生を支えたのだと、私は思います。
 ヨセフの一つの特質は誠実さにあるでしょう。欠点は人を疑うことを知らず、無邪気すぎて世間の醜さを知らない。でも、その世間知らずも、長い苦難の生活で鍛えられ、賢明な人に変えられて行くのです。それこそ、苦難を与えられる神様の摂理でしょうか。
 ある日、ヨセフは父の命令で遠くに羊の放牧にいっている兄たちの様子を見に行きます。ところが例の夢のおかげで彼を妬み、怒り、憎んでいる兄たちは、やってきたヨセフを掴まえて野の空井戸に放り込みます。
 そこへ、ちょうどイシマエル人の隊商が通りかかって、兄たちの気が変わり急にイシマエル人たちに弟を売るのです。命だけは助かります。さてイシマエル人たちはヨセフを見て何か感じたのでしょう。エジプト政府の高級官僚の家の奴隷に売ります。そして、そこで「幸運な者」となり、非常に信用され、すべてを任されたと聖書にあります。
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 しかし、更に悪魔は働きます。その高級官僚の妻が好色、ヨセフは彼女に言いよられて拒絶します。すると、さあ可愛いさ余って憎さ百倍、無実の罪を言い立てられて、牢獄に投げ込まれる。古代の牢獄は、どんなに暗い、悲惨な世界であったことでしょう。しかしそこでもヨセフは「栄える者(原語では先の[幸運な者]という言葉と同じ)」となったのです。彼は看守長から一切を任され自由に仕事をした」と聖書にあります。
 私は刑務所のなかで、「雑役」と呼ばれる囚人がいて、相当の権限を与えられ、結構自由に、又いばって所内を歩き回っているのを見ていましたので、「ああ、ヨセフもあの雑役だったんやな」と、少々シニカルに読んで、鼻の先で笑いたくなりました。「いくら、栄える者となったといっても、奴隷は奴隷。その状況から逃れられた訳ではない。牢屋のなかで栄える者になったと言っても、牢屋のなかでのことだ。その中で、いささか自由も得、囚人仲間で得意な思いをしたというだけのことでないか。…なんだ、つまらない」と思いました。
 しかし、聖書の文章は「主がヨセフと共におられたので彼は栄える者となった」と、客観的な文体ですが、よく考えると、ヨセフ自身その悪しき環境のなかで喜々として働いている様子がうかがえます。自ら喜んで「自分は幸運な人間だ」と立ち働いていた様子が伺えます。看守にペコペコして囚人たちには威張っている、そういうんじゃないんです。
 だから、今の私たちの教会の雰囲気のように、いつも何かと機嫌よく「ワッハッハ」と笑っているヨセフではなかったでしょうか。そういう彼に目をとめて、高級官僚の主人も、牢獄の看守長も喜んで仕事を任せてしまう気になったのではないでしょうか。
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 前文でカッコ書きのなかにちょっと挿入しましたが、この「栄える」という言葉を戦後の口語訳や新改訳の創世記39:2では「幸運な」と訳しています。原語を直訳すれば「成功する」と訳すべきでしょうが、同じ言葉が同じ章の3節や23節ではやはり「栄えさせる」と訳されています。私はこの「幸運な」という訳が好きです。
 聖書に従えば、その後、ヨセフはあることから、牢獄から引き上げられて、ついにエジプト王に信頼され、そして遂には宰相となるのです。
 どこの馬の骨かもわからぬポッと出のヨセフがいきなり並みいる諸大臣を飛び越えて総理大臣になるわけですから、前任者たちから妬まれ、怨まれ、足を引っ張られ、仕事を妨害され、陰険な仕打ちにあっても当然だろうと思われますのに、そういう気配が少しもありませんね。ヨセフは、尊敬され愛されて死の日まで安定した生涯を送っています。
 この成功人生の基礎は彼を導かれた神様にあります。しかし、彼のがわに限って言えば、彼自身がしっかりと「私は幸運な男なのだ」と信じていたことにあると言っても言い過ぎではないでしょう。
 彼自身、どんな時にも自分にむかって「自分は幸運な男なんだ」と言いつづけたに相違ありません。あの少年時代に見た夢が、彼をそうさせたのでしょう。彼の一生は夢、(それも確かな形も色も重さも宝石のように輝いて、しかもあたかも軍隊の行進のように響きをたてて迫ってくる「幸運」「成功」「栄光」の)、その実体的夢と幻の実現でした。彼は、たしかに、松下幸之助さんが言ったような「自分は運が良いと思っている人」であったに相違ない。
 私は牢獄の中で、このヨセフ物語にふれた時、どんなに励まされたか知れない。そして今も思う。このヨセフに倣いたいと。さあ私も……、「私は幸運な人間である」と口に出して言おう。「主が私を栄えさせる」と声をあげて叫ぼう。どんな逆境にあっても「主によって成功を与えられる」ことを信じよう。そして、朗らかに笑おう。「ワッハッハ」と笑おう。私の人生のすべてが主によって幸運に運ぶのです。(週報1997・11・8号より再掲載)《く》

〔あとがき〕
先週23日は中津扇城教会にてリバイバル2008 CAN'TSTOP PRAISING! 講師はわれらの永井信義先生、私の日記では「信義先生は午前、午後とも、ユーモラスに、且つ正確に語ってくださり、特に午後はルカ5:1~11を用いて説いてくださった。信義先生、演技力も充分、ますます説教者として円熟してゆかれるであろう」。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-09-30 12:03 | 日岡だより
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