No.351 「感動する」ということ 2008.9.21

「感動する」ということ

 「感動する」という言葉は、聖書の中に7回も出てきます。原語では五種類あります。特に異色な言葉は、イエス様が「激しく感動された」という個所(ヨハネ11:33)の言葉です。ラザロが死んで墓に納められた時のことです。
 イエス様が墓の前に行かれる前、ラザロの姉マリヤが他のユダヤ人たちと共に墓に行こうとしている途中、イエス様にお会いしたのです。その時、マりヤが言いました。
 「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの弟は死ななかったでしょうに」。

 その時、マリヤも連れのユダヤ人たちも一緒に泣いていました。イエス様はそれを見て、「激しく感動し、また心を騒がせた」と、聖書にあるのです。
 こういう情景は日本人には、よく分かりません。お隣の韓国に行ってお葬儀の場所などにぶっつかると分かります。日本人は感情を押さえますが、韓国の方々は、こういう時、感情表現が激しい、葬儀が終わってからでさえも、そうです、幾日かたった時でも、お墓に行くと、ぐっと悲しみが込み上げるのでしょう。思わずお墓の前で、それこそ号泣です。私は、こうして無理に感情を押さえることをしない韓国の方々をうらやましくさえ思います。
 もう戦前ですが、私の親友荒巻君が自殺して、その葬儀の後です。一般の会葬の人たちが立ち去って、少数の近親者たちと私と安部君だけが残りました。すると、それまでじっとこらえていたのでしょう、お父さんが「ワッ」と号泣し始めたのです。
 私たちを初め、近親の人々はなんと慰めていいか分かりません。声をあげて泣いているお父さんを黙って見守るだけです。あとで安部君としみじみ話しあったものです。
 「おい、俺たちは親友だ、親友だ、と言っているけれど、あのお父さんの子供を慕う思いにはかなわんなあ」

 先日、荒巻君の実の弟さんが、彼が荒巻君から貰っていた若い時の書簡集をまとめて持って来てくれました。その時の書簡集に弟さんが付け加えてあった感想の言葉があって、あの時のお父さんの激しい号泣のことが書いてありました。
 聖書のラザロの個所を読むと、マリヤや友人たちが一緒に泣いているのを見て、イエス様が激しく感動した云々という記事に、2千年後の日本の私たちも、深く感じさせられるものがあります。
 イエス様ですから、「辺りが泣いているから、私も泣いて見せよう」、そんな事であるはずはない。他の所で、マルコ6:38、39を開くと、会堂司の家の娘が死んだというので、人々が家の中で泣いて叫んで騒いでいたという情景が出てきます。そこへイエス様が這入ってこられて、「なぜ、泣き騒いでいるのか」とたしなめて、群衆を外へ追い出したとあります。
 察するに、これは実は職業的な泣き屋なんです。アジア各地に今でも泣き屋さんという職業が残っているらしく、死人が出た家に泣き屋さんが葬儀の場にやって来て、如何にも悲しげに、淋しげに、泣き喚きます。そのようにして葬儀の場ができあがります。葬儀が終わると、その上手な雰囲気作りに答えて応分の謝礼を葬儀の家から、はずむことになります。昔のイスラエルには、これと同様の職業的泣き屋さんがいたのだろうと思います。
 ところで、ここでイエス様が感動したというのは良い意味での感動ではないのです。ここの文章は原語では「嫌気がさした」というような苦々しい感じの感動という言葉を使っています。
 そしてイエス様は少々乱暴に、その家に這入って来るなり、「なぜ、泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われた。すると、人々はイエス様をあざ笑ったと聖書にありますが、本当はもっと反感を持ったのではないかと思います。
 イエス様は何時も優しい方でもない。時には、怒られたという表現も聖書にはあります。イエス様は泣いても笑っても、怒っても、自由自在です。天真爛漫、感情の表現も、意志の使い方も、自由闊達です。
 ですから、感動が溢れ出る姿が些少荒々しいのです。実は、よく考えてみると、感動という意志表現には一大特徴があります。感情とは違うのです。うっかりすると気がつかないことですが、感動というのは意志の発現です。
 相撲の力士がヤッと四股(しこ)を踏む時、意志の発現です。「力を出すぞ」、「勝ったるぞ」、という意気込みです。
 マリヤがイエス様に言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの弟は死ななかったでしょうに」。マリヤも連れのユダヤ人たちも一緒に泣いていました。イエス様はそれを見て、激しく感動し、また心を騒がせたと、聖書にあると既に前述しました。
 イエス様は「激しく感動し、また心を騒がせた」(ヨハネ11:33)。この「心を騒がせた」という訳は甚だ良くない。「心を騒がせた」ではイエス様はラザロが死んだことでマリヤやユダヤ人たちが泣いているのを見て、「不安に思った」のか。あるい「逆上した」とさえ読むことが出来る訳です。
 そうではない。「こんなことで泣いてたまるか、私はキリストではないか、お前たちに私が附いていることを忘れたのか。天の父は死人を起こして命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう者たちに命を与えることができるのだ」。イエス様は興奮しているのです。
 イエス様は、この感動と興奮をもって、命を墓の中のラザロにぶっつけるのです。死人を活かし、死から命に呼び覚ますのです。
 このイエス様を2千年前のイエス様とは思わないで、2008年、今日の日本で、生きて働かれるイエス様だと認識する。いいえ、認識ではない。信じるのです。信じると言っても多くの人は「信じていることにする」だけです。そうではない。
 今、この私の胸にイエス様が生きておられるのです。だから、このイエス様のおられる胸を叩いて言いましょう。
 「イエス様、あなたの力を借りて言います。私の夢よ、立ち上がれ。私の夢は強大な墓の中に閉じ込められて中々出てきません。もう待ちきれません。墓よ、開け。私の夢よ。出て来い」。

 あなたの夢は車ですか。ならば、車の夢を見ましょう。その絵が見えますか。キラキラ輝くフォルクスワーゲンが見えますか。そうです。家でも、土地でも、東大合格でも、牧師なら、アルゼンチン伝道でも。あなたの夢を主に語りましょう。いいですか。主に語りましょう。
 ある人は、大好きな人に直接ラブレターを送って、「失礼な」と怒られました。よい、よい。待ちなさい。主にお願いするんです。イエス様に申し上げなさい。「あの人が好きです。交際したい、結婚したい」とイエス様に申し上げなさい。
 病気が治らん。お医者に行ってもなおらん。行き先が間違っています。病気になったら、まずイエス様に祈るんです。それから、ちょっとイエス様にお願いして「お医者さんに行ってよいでしょうか」と、お断わりするんです。「私は主であってあなたがたを癒す者である」と仰せられたイエス様を後廻しにして、すぐ慌ててお医者にゆく。それでは、何よりもイエス様に対して失礼千万です、ハハハハ。
 さて、今回のお話はこれでおしまいにします。みなさん、イエス様を信じましょう、イエス様に祈りましょう。みなさん、さようなら。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-09-23 17:40 | 日岡だより
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