No.350 今、世界は果たして平和か 2008.9.14

今、世界は果たして平和か

 本紙の前号の本欄を見て、不審に思った方も多かっただろうと思う。なんとなく立論がインチキ臭いと思ったかもしれない。
 「世界から戦争が無くなる時が来ている」という標題をつけたが、もっと分かりやすく言えば、「今、世界に平和な時がきている」ということである。
 もっとはっきり言えば、「今、世界は平和である」ということである。これは、「今、日本は平和である」というのと同じことなのである。
 けっして、世界の人心が完全に平和であるとか、理想的人類平和の時代が来た、というような完全主義で語っているのでは無い。
 日本の多くの家庭において、「まずまず、平和です」と言っても差し支えあるまい。破産もせず、家族に難病者もなく、そこそこ生活していれば、まず平和です」と言ってもウソではない。
 
 世界情勢で言うなら、「地球上、どこもまずまず平和のようですね。グルジアなどの狭い地域での若干の紛争はあるにしても」ということです。
 情報や経済流通や、ともかく文明というものが地球を一丸に覆うてしまった。こういうことは世界史上初めてのことです。
 貨幣や旅行がもっと自由になってくると、民衆の要求はもっともっと果てしなく広がって行きます。
 日本ではかつての徳川時代が終わり、封建時代がいきなり民権時代に移行した。あの時の日本の急変ぶりには日本人も驚いたが、世界の国際政治家たちも口をあんぐりさせたのではないか。
 今はそれ以上に、民衆の情報取得速度が異常に上がっているのではないかと思う。電子通信機能が民衆を扇動する時代である。
 先だっての北京オリンピックの際に見え隠れしたのもそれである。あの強力な統制国家がテロの心配を隠さなかった。人民内部の較差がテロを生むのである。
 他国との戦争の心配が無くなって、自国内のテロを恐れる、これが今後の問題かも知れない。多分にこれは発展途上国の問題であると思うが、それでは我々日本など、先進国ではどうか。
 他の国はともかくとして、日本はどうか。国民の道徳的自制力の減退が第一の問題ではないか。意味も無く行きずりの他人を殺そうとする。例の秋葉原事件。
 もっとも、人を殺さないが自分自身を何の意味も無く生きる意志を失って自殺する。そのうちに集団自殺でも起こって、それが流行になって行く。
 そうなったら、民族の自立も危ない。改めて日の丸の旗でも振らないと日本はつぶれるぞということになる。
 日の丸の旗は、多くのクリスチャンが反対するから、釘宮センセも言いづらいけれども、一席ぶちたいところです。

 多くの日本人クリスチャンは無国籍みたいな顔をする。国歌は歌わないと言う。そういう信念を持った先生は、学校の儀式の時、伴奏のピアノは弾かないという。その意気には敬意を表します。
 あの戦争中に日本の殆どの教会では礼拝中に君が代を歌った。私の教会では牧師はさすがに君が代は歌わなかったが、多少妥協して礼拝が終わってから、東方(大分では天皇のおられる皇居の方角)に向かって最敬礼を信徒にさせた。
 私はそれでも頑なに一人つっ立って顔をあげていた。もし、その時、警察でも来ていたなら、私は捕らえられ、牧師は責任を問われたでろう。私は今では多少頑固過ぎたかなと思ってはいるが、ああいう社会の空気が国家統制の下で氷のように冷えきっている恐怖政治の緊張感は今の人には伝えにくい。ああいう時代の二度と来ても、へこたれないよう信仰を強めておきたいものである。(未完)


手島先生を憶う

 何度か書いたが、手島郁郎先生は私の唯一の恩師である。私が先生の悪口を言ったという流言があったらしく、ある筋から厳しく批判されたこともあるが、私にはそういう記憶は一切ない。私は心の底から先生を尊敬しているので、そういう言葉が私から出る筈はないのである。
 ただ一つ、前号にも書いたように、先生は義認信仰については冷笑ぎみに語られることがある。それについては、遠慮しつつも私は先生とちょっと違うというような言い方をする。
 先生には強烈な聖霊体験があるので、義認信仰などというものは知性的言葉の言い替えに過ぎないように思われるのだと思う。事実、多くの信徒、いや学者さんの中に義認信仰を説明して、単に知的に言語操作しているのに過ぎないなあ、と思われる方々も多いようである。
 知的に納得して、それで義認信仰を卒業したように思っているらしい人に時々遇う。どうして私の立場を訴えようかと苦慮することがよくある。
 知的に納得して安心していた時と、はっきり聖霊の働きでキリストの御血潮で私の罪は消えゆき、私は義と認められた(又は進んで義人とさえされた)、という信仰の恵みを与えられる場合とは、格段の相違がある。
 似た問題ですが、例えば広島の植竹先生は「聖められた」という潔めの信仰について、はっきりその経験を語っておられる。こういう信仰経験の証しは貴重です。
 正直に告白すると、私はこの「聖潔」の教えについては、今一つはっきりしない。カリスマ的な「力」の信仰が前面にあるので、聖潔派の先生がたには扱いにくい牧師だと思われるでしょうが、先生がたにもっともっとご指導いただきたいものだと思っています。

 さて、昨夜は手島先生の記録を映画で見せて頂きました。大分幕屋の方々のご奉仕による映写会ですが、編集がちょっとしろうとっぽいところも新鮮な感じで良かったです。先生の前半生を辿ってくれましたが、後の出っ歯の先生が青年時代はなかなかハンサムで驚きました。
 伝道に乗り出すときも、恐る恐るの様子で、本当だろうかと思いました。かつての私よりも弱いような格好です、でもこれは世的な知恵ももち過ぎるほど持っていた先生ですから、却って恐る恐るということになるのでしょうね。そういう先生が祈りによって聖霊の取り扱いを受けると一挙に変わるのですね。これが先生の秘密です。(私は世的に無知だったから、案外無鉄砲にやれたのだと言えます。)
 ところで、この映画は折角だが、先生の偉かったところが余り、出ていません。それから先生は怖い方だった。あの怖さが出ていない。先生の、あの怖さといったらたまらなかった。しかも又、愛の方だった。愛して下さる、その先生の愛は身に沁みるような愛。そう言えば、この映画の中で、ご長男の寛郎さんが先生を思い出して涙を流すところがあったが、ああいうところは先生と親子だなあと思ったことです。先生はよく、講義の中で本当に涙を流して泣くことがあった。感情一杯に語ってくださる、力強く愛してくださる、ああいう先生の姿をもっと表現して欲しかったです。
 私たちも弱い愚かなキリストの弟子ですが、イエス様の霊が私たちの内に臨めば、手島先生と同様、一挙に変わる筈です。
 昨夜は手島先生の遺影(映画)に接して感慨無量、私は先生のもとを逃げ出した不肖の弟子ですが、やはり先生の弟子です。「今天界に居られる先生、先生の弟子として、私を認めてください」、と願ったことです。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-09-16 12:04 | 日岡だより
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