No.179 私は日本人に失望した 2005.6.5

私は日本人に失望した

 先日、中国の呉儀副首相が小泉首相との会議を突然断わりもなく中止して帰国した。当時、日本政府首脳部は不快感を表明していたが、中国側に言わせれば、せっかく日本を訪問して友好的会議を開きかけている最中に、小泉首相が靖国参拝継続の意向を明らかにした。我々に対する嫌がらせであるということでしょう。
 中国の言い分が分からないではないが、何よりもこの靖国問題をいくら繰り返し取り上げても、外交問題として中国のトクにはならないことを私は中国側に忠告したいのである。これは日本人民の普遍的宗教意識に関することだからである、と私は思ったのである。
 私はクリスチャンだから私自身が靖国神社に参詣することは絶対に無い。しかしこれは日本人としてはごく少数派であろう。とは言え、私は同胞の日本人の多くが靖国神社に参拝したい気持ちはよく分かっているつもりだ。
 もし小泉さんが、中国側の牽制に従って「ハイ、承知しました」と靖国参拝をとりやめたら、日本中の総スカンを食うに違いない。日本は中国と違って独裁国家ではない。日本人民の人気を気にしながら首相の座についている小泉さんだ。簡単に靖国問題で妥協はできないことを中国は冷静に認識すべきである。
 外交とは最終的には互いの国民の同意を取り付けておかなくては、いつかは逆転の結果を生むであろう。もしこの問題を中国が執拗に言いつのるのであれば、日本人民のほとんどが中国離れする。長い将来のためには、これは中国のためにならない、と私は思っている(本当は思っていた)のである。
            *
 ところでその後(数日前のことです)、某新聞の世論調査で「小泉首相靖国参拝中止を賛成する」が53%とか出ていた。昨日あたりの別の記事では30%余ともあったようだが、私にとっては30%でも吃驚仰天である。そして本日(6月4日)の新聞では、あの右派的に見える中曽根前首相まで「小泉さんは靖国参拝を中止したほうがよい」と言っているという。私は唖然とした。
 私はここで、現代の日本人をまったく誤解していたことを悟った。私は大正人間。クリスチャンらしい顔はしていても、マインドは旧日本人。現代人を理解していなかったことに気がついた。
 靖国神社は明治の初頭に明治政府が作り上げた天皇国家造形のための装置と言えようか。戦死者を一様に祀り、そこに天皇陛下も参拝なさり、そこに祀られた人々は神武天皇でも聖徳太子でも豊臣秀吉でも東郷元帥でも乃木大将でもない、一般市民の父親や兄貴や近所のオッサンたち、明治以来のいわばご先祖さんたち、戦争に倒れた国家の恩人である。こういう靖国神社だから、日露戦争以来のニッポン・バンザイで昂揚された気分と祖先崇拝の国民感情が合成されて、私は全国民いっせいに小泉靖国参拝賛成するかと思っていたのである。たとえ10名そこそこのA級戦犯が合祀されていようと、殆どの祭神たちは身近な、この百年以降の戦争で亡くなった国民先輩たちの祀りの場所ではないか。
 中国の人たちはあの靖国神社をA級戦犯たちだけの神社と思っているのではないか。たとえ日本人たち自身にうとまれている戦犯たちだったとしても、日本人は死んだ人をすべてホトケさんだと思う民衆だ。これはクリスチャンの私としては褒めるわけにはいかないが、これが平均的日本人。日本では凶悪な殺人事件の犯人であっても彼が死体となって発見されれば、警察の刑事さんたちはホトケさんと呼んで手を合わせて拝んでいる、こうした国民感情を考慮に入れて、靖国問題は慎重に扱いなさいよ。これが中国の政治家たちに私は言いたかったことです。
 ところが以上のような世論調査の結果です。私は日本人に失望したと言ってよい。もう日本人擁護論はやめようと思った。過激に言えば、こんな腰抜け日本人、クリスチャンに改宗させて叩きなおしてやりたい。いや待て待て、いくら叩き直しても日本人は骨太なクリスチャンにはなるまいなあ。「この国には失望した」とか、たしか内村先生だったか、藤井先生だったか、言ってたなあ、「先生、私も全く同感です。」とうなずいているのです。《く》


信仰の心理学(一)

 私は旧制の商業学校の卒業生。この出身学校を懐かしく思ったことなど一度も無い。当時の戦時色一色の画一教育で、しかもソロバンはじいて利息計算ばかりさせられた教育にはなじむはずもなかった。卒業と同時に戦時国民教育におさらば、一生独学者として終わったと言えば聞こえがよいが、所詮は、しろうとです。
 私は心理学者でも神学者でもない。公式の資格で言えば、伝道者ですらない。一時は「もぐり伝道者」と自称していたが、これは万代先生に「あんまりだ」と言って止められた。今は永井先生が「名誉牧師」の名称を下さった。これはたいへんな栄誉である。こうした言い方はもう今後、一切書かないつもりです。
 さて、信仰の心理学とは何か、しろうとなりに考えてみたい。まず入信の心理、回心の心理です。私の小冊子に「信仰の確かさ」という本がある。内村先生の弟子の石原兵永先生の「回心記」が一番よい参考本ですが、私の父のように、光を見たりする。ぶっ倒れたり、ペンテコステ派でいう異言を伴う事もあるが、単に心の内側だけで起こる鋭角的転換であることが普通だ。
 ともあれ確実なことは心が明確にグルリと回転する聖霊充満の経験である。私は若い伝道者の時代、この経験がなければ洗礼を承知しなかった。
 Y兄など、年末から正月にかけての5日間、私の作っていた印刷会社の工場のインクと油の匂いのこめる真中で座りづくめの特訓のなかで回心した。彼は私の家の玄関の踊り場に踊り上がって喜びの声を上げ、笑って、笑っていたものだ。
 これが本当の「悔い改め」だ、と一部の人は言う。もともと「悔い改め」という言葉はギリシャ語の「メタノイア」で、マルコ1:15のイエス様のお言葉です。直訳すると「心の転回」です。これはヘブル語の「シューブ」(立ち帰れ)のギリシャ語訳だとも言われる。「メタノイア」を「悔い改め」と訳したのは、誤訳と言ってもよい。めそめそと懺悔し悔い改めるのではない。心の底から転回する聖霊経験なのです。
 ところが、現実の伝道の現場では言葉で「悔い改める」だけで、信仰が起こることがある。次の項をお読み下さい。
             *
 前述した「心がグルリと回転する」経験、これはまさしく聖霊による内面の奇蹟です。心理学的にいうと(私のしろうと心理学だが)、潜在意識のその底にある深層意識、ユングの共通無意識といってもよい(私は更に深い神層意識などと言っていますが)、そこで「グルリと転回する」のです。だから人間の心の真の底から変えられるという感じです。(エペソ4:24の「心の深みまで新たにされ」は正確に訳すと「心の霊において新しくされ」です。深層意識の場を言い表わしているかと思います。このエペソの手紙の場合は、既に義認信仰を得ている人の、その後の信仰の成長、一段と高い信仰への形成は如何にして行われるか、それを語っているのだと私は思っています。)
 初歩的信仰から次第に霊的に成長する信仰の経過は、前項で書いた瞬間的鋭角的奇蹟的入信と違って、徐々に信仰が固まって行くタイプです。先に書いたとおり、こうした漸進的信仰を私はかつて信用しませんでした。ですから伝道用トラクトで言葉巧みに求道者を信仰に誘い込む方法を嫌いました。しかし、実績的に、その方法で信者さんがどんどん出来てゆくのを見て、私は驚いたのです。そこで、それこそ私は悔い改めて、その伝道法を取り入れました。その優秀な小道具がトラクトの「四つの法則」ですし、また西田国雄先生の「太陽と闇」です。
 ここからが、大事な文章です。よく読んで下さい。テキストはローマ10:9、10です。
 まず9節、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」という言葉を学びましょう。
 まず「自分の口」で、信仰の言葉をはっきりと「告白する」ことが肝要です。この「告白する」という動詞は原語では、一回限りというか、きっぱりと、断固として、口を開いて言うという感じの言葉の文法で書かれています。その口ではっきり言った口の言葉のお蔭で、信仰が「心」の中で決然として(一回限りの生起文法)起こると、言うのです。口で言う(告白する)と、それが信仰に変わるという原則があるというのです。
 つまり信仰の言葉を口で決然と言い表しなさい、すると、心の中に信仰もピッタシ生まれるよと言っているのです。事実、前述の「四つの法則」や「太陽と闇」の伝道トラクトで初めての方をお導きするとき、最後の信仰を決心にする場で、しっかりと口で「はい、イエス様を信じます」と言ってもらう、そこがコツなのですね。
 次の10節は口と心の順が反対になります。「人は心に信じて義とされ、口に告白して救われる」とあります。これは初めに心で信じた人のことです。この人は「イエス様を信じます、イエス様を信じます」と何度も心の中で思うけれども、どうしても信仰が湧かない。こういう人も、諦めないで何度も、繰り返し「イエス様を信じる、イエス様を信じる」と繰り返し心の中で思い、あるいは、もっとくわしく「このキリスト教の信仰こそ正しい。この信仰を得たい」と期待して、少々の躊躇逡巡が起こっても、口で何度も「イエス様を信じます、神様はイエス様を死人の中からよみがえさせられた方です。この方のおかげで私の罪は赦されます」と繰り返し言うのです。そうすると、次第に心に信仰がはっきりしてくるのです。
 この個所での「信じる」という言葉は文法的に何度も繰り返す言葉です。同じく「告白する」という言葉も何度も何度も口で言い表わすという文法です。つまり、心の内で信仰をなんども繰り返しているうち、イエス様によって「義とされた」ということがしっかり悟れる、そして「義とされたという信仰」を更に口での告白を何度も繰り返していると、本当に人生の生活ぶりも完全に救われ、永遠の救いの信仰もしっかりしてきて、遂に救いが完成するのです。
 パウロ先生の「救い」という言葉には、(1)キリストの血潮によって神の前に義人と認められるという救いと、(2)天的な完全な救い、霊の完全な体を着せられて、天国人として栄光の体に化せられることを指す場合とあるのです(ローマ8:23参照)。
 心理的に言うと、(1)最初心の底から聖霊により回心させられる場合と、(2)初めは口で告白し続け、信仰が心のうちに発酵して、全き信仰に成長する場合と2つあるのです。(信仰を成長させる心理的過程を次回に書きたいと思います)。《く》

〔あとがき〕
先週のこの欄の終わりの個所で妻の病気の事を書きました。「釘宮トミ、少々脳梗塞を生じたらしく入院中です。障碍は軽微……」などと書きましたが、その後、梗塞の影響が広がったらしいので少々心配な兆候でした。今やっと落ちつきかけています。話しかけるとニッコリしたり、そばで賛美を歌うと手で拍子をとったりするようになりました。医師の意見では、「ぼつぼつリハビリの段階です。専門のリハビリ病院に転院しましょう」とのことで、今週10日、湯布院厚生年金病院に転院することになりました。言語意識はまだ微弱ですし、体も右半身不随ですが、全能の主を信じています。先生方、諸兄姉のご加祷をお願い致します。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2005-06-05 23:00 | 日岡だより
<< No.180 我、日本の柱とな... No.178 国家の理想 20... >>