No.349 世界から戦争が無くなる時が来ている 2008.9.7

世界から戦争が無くなる時が来ている

 「戦争は人類の本能だよ。世界から戦争は無くなる時はないよ」と、言う人は多いです。でも私は言います。「昔はそうだったでしょう。しかし、今は違う」と。先日、親しい仲間に「今の世界の模様では、戦争なんて起こりっこないよ」とふれてまわりましたら、みんな「えっ?」といぶかしげに反応しました。
 「どうしてえ?」と聞くのです。私は答えました。「戦争とは一応、大か中程度の国と国が向かい合って戦うのが戦争でしょ。ところで、今現在の地球上の世界で、大や中とも言える国々の間で戦争の起こりそうな気配のある国はありますか?
 とんでもない。みんな仲良さそうでしょ。かつての冷戦同士のアメリカとソ連でも、今は仲良くやってますよ。今、世界中の国々で戦争したがるのは、小さな国々同士の国境付近でのつばせり合いだけです。まとも(?)な戦争なんて、どこもやってません。今の世界は非常に平和なんです」。
 こう言うと、みんな疑わしげに、「へえ?」と私の顔を見る。そんなことを言う人が今世界に一人でもいるのか、というような顔をなさる。
 しかし、よく見てください。前述のアメリカとソ連にせよ、われわれ日本と韓国や中国との間でも、かつての犬猿の仲のフランスとドイツ、または現在のイスラエルとアラブ、どこにも問題がないとは言えないが、しかし戦争までして片をつけようとは思っていないこと、明らかです。
 今、世界はどこの国も、戦争までして領土や権益を獲得しようとか、またこれを守ろうとあくせくしている国はないのです。この様子を見ると、実は今まで一度もなかった平和の時代が、この世界に来ているのだと言えるのではないでしょうか。《く》


世界名文句集より

 ある本を見ていたら、世界名文句集というのがありました。その中で私の心をひいた言葉を2つ。

「一人の敵をも作らない人は、一人の友をも持たない」テニスン
「善い生き方をすればするほど、敵は多くなる」トルストイ

 一応もっともな言葉であるし、思わせ振りな言葉でもある。
 テニスンと言い、トルストイと言い、近世一流の文人である。
 滅多なことには批評しにくいが、これらは果たして真実の言葉であろうか。

 実は私はこの2つの言葉を私に当てはめてみたのである。そして私は狼狽した。どうも困ったのである。正直に、言おう。
 私には目下のところ、敵はない。結構、だれとも平和である。しかも、私にちゃんと友がいるのである。そうすると、以上の2つの定式が私にはあてはまらない。私に敵がいないのなら、友もいないはずである、という事になる。しかし、
 冗談でない。私には友はいる。少数であっても親しい友がいる。特に主にある友なる人が多々いる。
 いろいろ考えてみると、神学的にサタンを数え上げれば、それこそ相応に敵はいるが、一応この世において、私に敵はない。私が意識し、また見る限り私に敵はない。そこで、前述の言葉を援用すると、
 私には友はいない筈という結論が出る。問いつめれば「今、あなたが友と思っているのは、本当の友ではない。あなたが自分に敵がいないと言っているかぎり、それはあなたには真実の友はいないということだ」と、いうことになる。私にとり、この言葉は実に理不尽である。《く》


夢!、ユメですが…

 かつて、頭脳明晰であったはずの当の釘宮センセ、最近は頭脳混乱で辟易しています。一度、神経内科の診察を受けようかと思っていますが、脳髄の中で様々な思いの固まりが右往左往していて、そのまとまりがつかない。これはノイローゼなのだろうか、そういう感じです。
 先々月だったか、まさにウツ病か、と思ったことがあります。これも軽かったのですが、少しでもウツの方の気分が味わえて、牧師としては良い経験だったと思ったです、ヤセ我慢でしょうが。
 病気は、特に精神科の病気は実際に経験したことがなければ、その気持ちは他人には分かりません。私が本格的にかかったのは強迫観念でした。体の中で血液の回流が滝のように流れるという妄想です。
 しかも妄想だと自分では分かっていても、その妄想の度合いがひどくなると、事実、血の流れが激しくなって脳溢血で倒れるのではないかという恐怖心が起こってくるのです。まさに不安神経症です。
 私は少年期から、青年前期にかけて、ひどい吃音(どもり)でした。これも言わば、一種の神経症です。いつも吃る訳ではありませんが、吃ってならない時に吃りそうになるのです。
 しかし、神様の力を信じる信仰は、こうしたことのすべてを解決します。最近のことです。
 雨の日の夕刻でした。車で教会に帰ろうとしていました。運転しにくい、「イヤだな」と思いました。「イヤだ」と思えば思うほど、運転がぎこちなくなる。「86歳の運転技術、大丈夫かい」とサタンが耳元でささやく。そんな感じです。私は思わず、声を上げました。
 「神様あっ、私を守って下さい」。
 一瞬、肩のあたりが楽になりました。
 「神様あ、感謝します」。
 私は喜びの声を上げて意気揚々、帰途を急ぎました。運転免許は今年の2月に切り替えたばかりで、次の更新は3年先、私は89歳になっていますから、もうその時点で運転免許は放棄するつもりです。
 実は、白状しますと、私にとって、この「日岡だより」もぼつぼつ重荷になって来ています。文章書きは苦にならないほうですが、それでもまとめての作文作業は楽でないです。
 もっとも、本業の牧師の仕事、これはまだまだ大丈夫、元気でやれますよ。「もう、先生、迷惑です。やめてください」と信徒の皆さんからお申し出が出て来る日も近いかもしれませんが。
 その日、喜んでか、しぶしぶか、ともかく引退する日も案外近いでしょうが、それまでに後任牧師の候補者、皆さんの中から、沢山出て欲しいのです。
 先日、夢を見ました、夢!ですよ。皆さんの中から、20人の牧師さんが出てきて、それぞれ50人の信者さんをかかえて、大分県中に、いや九州中に分かれて行きました。(いや、日本中に、と言いたい。世界中に、とも言いたいですね。それにしても各50人とは少ないなあ、せめて百人と行かなかったのですか。スミマセン、夢が小さくて……)。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-09-09 16:35 | 日岡だより
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