No.346 初代教会の回復 2008.8.17

初代教会の回復

 この8月13日から15日まで、宮崎福音キリスト教会において催されたイエス・キリスト福音の群れ主催の九州リバイバル聖会に出席して参りました。甲斐兄姉夫妻も私を同乗させてくれ、一緒に参加したことです。
 最近は豊後大野を抜け、宇目の歌げんかの橋を渡って延岡に出るのが、標準コースになってしまいました。延岡で甲斐夫妻のそれぞれの里のお宅にお寄りできたのも感謝でした。(帰途はJRで10号線に沿って北上しました。市棚、宗太郎峠、重岡と私には懐かしい名の駅を幾つか通り越して行きますが、津久見駅で突然に夕立、激しい雨が列車のガラス窓に叩きつける、びっくりでした)。
 宮崎市では、なんと言っても標準型の南国天気。暑さもさることながら、明るい青空が一杯ですが、西空に大きな積乱雲、つまり入道雲が浮かんでいるじゃないですか。張り切って写真を撮ろうとしましたが、古林先生と違ってカメラは鈍で下手。特に携帯の写真装置ではうまく撮れません、残念。
 宮崎での宿泊は、いつもリッチモンドホテル。ここは宮崎駅に近くて、しかも植物園が目の前にあるかのようなロケーション、ゆっくり休めます。
 ところで、大切な聖会は勿論、高森先生の宮崎福音キリスト教会。私はまだ、一度しか行ってませんでしたので、道は慣れていませんでしたが、甲斐兄のカーナビで難なく到着。時間ぎりぎりでした。
 私が開会の挨拶のお約束でしたので、高森先生は玄関で待っていてくださいました。さっそく私を抱えるようにして迎えてくれました。
 第一回の聖会は午後7時開会。聖歌隊の広やかな賛美と、姉妹たちのハレルヤ・ダンス。ああ、これは、うちの教会の皆さんに見せたかったなあ、無理にでも連れて来ればよかったなあ、などと後悔したことです。帰ってから皆さんに話して上げても、ピンとは来ないでしょう。「百聞一見にしかず」です。実際に来て見るほかは無いですからね。少々金も時間も使うけれども、次回は一緒に来てほしいなあ、と思いました。(それに、高森先生が祈って気合を入れて建築された見事な新会堂も見てほしいです。大分の教会もいつか新会堂が必要になる時が来ますからね。必ず来ますよ!)。
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 今回の聖会の主賓講師はレオ・ケーラー先生です。主賓講師というよりも、講師はケーラー先生お一人です。背は高いし、声は大きいし、日本語は日本人より明快で面白い。(誰かがなんとも返事をしない、というお話しをされた時、その表現が「ウンともスンとも言わない」なーんて、ですよ)。
 さて、今回の中心テーマは「回復」でした。この言葉は英語でレストレイション、一時日本のキリスト教界でよく使われた言葉です。
 さて、ケーラー先生のおっしゃるのは、「回復」と言っても、単に元にあった姿や、規模、数字に戻ると言うのではない。元の規模を越えて、もっと大きいものに立ち返るのでなければ、本当の回復ではない、と言うのです。
 このことが、今回の先生の講演タイトルの真意でした。そのタイトルは、「世の終わりに輝く教会」という題でありました。
 私どもの教会の礼拝堂の背後にアダムからノア、アブラハム、モーセからイエス様……、と聖書の歴史年表をかかげてありますが、立派な印刷ですね。伊藤兄弟が買って来て、貼ってくれました。
 歴史というものは、過去を振り返って懐かしんだり、反省したりする道具になってはいますが、本当は未来を見る道具です。時間の流れを過去から未来へ流れる川のように見立てて、孔子ですと「川のほとりに立ちて言わく『逝くものは斯くの如きか』」と言うことになりますが、これが孔子の限界です。
 時間を傍観しているだけでは大したものは発見できません。聖書では「時間は、神のみ前から流れ来る慰めの備えである」というように示してくれていますね(使徒行伝3:20)。
 私たちは神の時間のただ中に立っているというのです。そして源流に向かって立つと、時間を泡立てている神様の手裁きが見えるし、そこに未来が見えてくるというわけです。そこに立つ人が聖書の預言者なのです。
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 未来を見据える神学、それが終末論でしょうか。終末というと、聖書では「ヨハネの黙示録」、封印が解け、ラッパが鳴り、第一のわざわい、第二のわざわいと、次々わざわいが起こる。なんだか、恐ろしい預言の固まりです。未来にはそんな怖いことが次々と起こるのか。人生、また世界の未来は暗い暗い恐怖劇の展開であるのか。……でも、その先々を見てみましょう。最終を見届けましょう。
 ヨハネの黙示録第21章、使徒ヨハネは告げます。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。(中略)『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。」
 これが、本当の「回復」である。聖書でいう回復とは単に元に戻すのではない。元の状態より、もっと大きく、沢山で、強く頑丈で、美しく、清められた状態へと「回復」するのであると、これがケーラー先生の言われたことです。
 私たちはしばしば初代教会の健全さ、麗しさ、見事さに目をとめます。そしてそこへ回復したいと期待します。しかし、実は単なる回帰ではない。新しい天の教会の創造である。神の創作である、とケーラー先生は言われるのです。
 神は初め、天と地とを造られ、万物を造られ、人をも造られ、そして「すべては良し」とされた。当然、アダムも「すべては良し」の中にはいります。しかるに、このアダムは罪を犯した。こうして罪は世に入り、死もまた、世に入ったのです。
 しかし、神はそのままになさらない。神は御子を第二のアダムとされた。第二のアダムは第一のアダムの回復である。しかし、単なる回復ではない。第一のアダム以上の、崇高にして健全、何一つしみも汚れも無い、唯一の神の子なのです。
 初代教会は最初は、全くの無所有共産社会、マルクスなどでも全く想像出来ないような理想社会でありました。しかし、すぐにアナニヤ、サッピラのような不徳の人物があらわれ、また続いて配給ものの不公平で苦情が出てくるような始末になります。
 現代の教会も、その引き続きです。完成されていません。だからと言って、初代教会に帰りましょう、などとも到底言えません。そうです。回復では駄目。新創造されるべきなのです。
 使徒ヨハネは驚きの目を見張りました。「われ、新しき天と地とを見たり」と。第一の天と地との回復ではありません。新天新地の発見です。しかり、信仰とは日々、新天新地の発見です。あなた自身のただ中に。あなたがた自身の教会のただ中に。新しい自己を、新しい教会を、再発見しましょう。こうして神の創造のみわざの「すべては良かった」というところへまで、回復するのです。そのみわざを成し遂げたもう方は、ただお一人、イエス様です。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-08-19 10:29 | 日岡だより
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