No.344 感謝と喜びを言い表そう 2008.8.3

感謝と喜びを言い表そう

 毎日あなたが何を考えているかということが、あなたが何を信じているかということなんです。
 だから「救いの恵みを、いつも考えなさい」と聖書はいうんです。つまり、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」と聖書にあるでしょう。
 なぜか。それはいつも考えていることがその人の信仰であるからです。だから「イエス様に救われて感謝だなぁ」と毎日お祈りをし、聖書を読んでありがたいなぁと毎日考える。
 のみならず、それを口にする。そのことによって、その考えは強くなり、信仰が強固になるんです。
 いつも思っていることがあなたの信仰です。そして、その思いをいつも口にして語りつづけることにより小さな信仰も大なる信仰、確信になるのです。
 確信は力を産み出します。そしてその力はあなたの人生を変えるのです。
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 みなさんは多分これまでなさったことはないかもしれませんが、今日から1か月間でも、いや本当を言えば3か月間だとさらに良いのです。3か月間やると万事、習慣化されるのは人間心理の法則です。
 ですから、毎日神様に感謝してご覧なさい。天気の悪い日も、体に元気のない日も、お金のない日も。そんな毎日でも、ふくれたり機嫌悪くなったりしないんです。
 何があろうとも、イエス様に救われているというこの信仰の事実は変らないのですから。
 「そうだ、私は神様の子だ。永遠の生命を持っているんだ。私の為にはすべての事が相働いて益となるんだ。感謝だなぁ、本当に神様ありがとうございます」。
 と毎日祈り、朝に夕に口に出して告白し、そして人にも言うんです。
 「幸いですよ。信仰するっていうことは。イエス・キリストは救いですよ。教会に行き始めて聖書を読み、お話を聞いているうちに、こんなに毎日喜んでいる人間になってしまいましたよ」と、どこででも、誰にでも言い続けてごらんなさい。
 人が聞いてくれなくてもいいのです。人が聞いてくれても、聞いてくれなくても、語りつづけてごらんなさい。1か月たったら何が起こるか。
 まず、あなたのまわりに良いことが起こり始めます。これは絶対に経験して頂きたいことです。
 人に言ってあげても聞いてくれない、そんなことは多いものです。正直いって腹もたちます。しかし腹を立てちゃいけません。まわりの人に言っているうちに恵みはあなたに返ってくるんです。
 そのようにして1か月もたつと、あなたのまわりに何かしら、すばらしいことがポッポッ、ポッポッとおこってくるんです。
 そしてあなたの心には喜びが溢れてくるんです。これは単なる理論ではありません。実験ずみの事実であります。あなたも、これを実験してみて下さい。(ここで「実験」と言うのは、試しのテストではなくて、実際に経験することを指します)。
 あなたが神様の恵みを人の前に言い表わすとき、イエス様はあなたに神様の恵みを豊かに注がれます。感謝と喜びを言い表わす時、さらに感謝と喜びが倍加するんです。
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 「喜びを言い表しましょう」ということを、最も簡単に、そして最も実践しやすいこととして、私が提唱したのが「さあ、笑いましょう」でした。「笑えば必ず幸福になる」という小冊子を作ったのは10年前のことですが、たしかにその頃から「笑いましょう」という声があちこちから起こり始めました。
 「笑えば病気が治る」と言い始めたのはノーマン・カズンズだというのが定説かも知れませんが、日本では、既にその前に「生長の家」の谷口先生が言い始めたのではなかったかと思います。
 聖書の中で、イエス様は一度も笑っていないという説もありますが、どうしてどうして、福音書を読むと、イエス様は随分、笑ったんじゃないかと思います。それにイエス様は、どうも宴会好きのようですね。お酒も飲んだようですよ。パリサイ人たちのイエス様への非難の言葉が、それを語っています。
 「見よ、あれは大飯喰らいの大酒飲みだ」。まるで、愉快に楽しく、庶民と一緒に宴席にいて、ワッハッハハとやっているイエス様が目に見えるようじゃありませんか。
 72人の弟子たちが各地への伝道に派遣され、帰ってきてイエス様にその報告した時の、イエス様の喜びのご様子がルカ10:21に書き残されています。こうです。
 「その時、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、云々」。この「喜びあふれて」という言葉は原語では アガリオー となっています。驚喜乱舞せんばかりの喜びをさす言葉です。
 イエス様は決して踏み外すことはないが、喜びにも怒りにも、その感情を隠す事はありません。イエス様は感情を押し隠して行い済ました聖人君子のような振舞をしていたわけではありません。全くの自由人、天真爛漫です。
 イエス様がパリサイ人たちに対して不愉快の思いを抱かれた時のご様子を、「聖書では馬がヒヒヒーンと歯を剥いて怒っている動詞で書かれてある」と、塚本虎二先生の文章で読んだことがありますが、もしイエス伝の映画を作るとしたら、こういう時の俳優さんの演技には監督もご当人も頭を悩ますでしょうねえ。
 イエス様は決して虫も殺さぬような柔和一辺倒の方ではない。イエス様は泣いても笑っても怒っても純心無比である。
 ともあれ、私たちは決してイエス様のようには、純心無比、豪快な感情放出は出来もしないでしょうが、でも、こういう点も、トマス・ア・ケンピスの本の題名でないが、「キリストのまねび」でもって、イエス様の跡をお慕いしたいのです。
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 それにしても、「人は悲しい時に泣くが、泣いていると悲しくなる」と言った人が、明治時代にすでにいたように思う。ひょっとしたら夏目漱石かも知れない。
 私も真似して言いたい。「人は嬉しい時、愉快な時に笑う。だから又、笑っていると嬉しくなるし、また愉快になる。だから、さあ、皆さん、笑おうじゃありませんか」と。
 こういう時に実は、良い意味で扇動者がいる。私は実はこれを、小学校の時に知った。私が習ったのは当時のわが親友・安部勝美である。彼は無類のアジテーターだった。あの頃、学校で時おり映画を映してくれる時があった。彼は、そういう時、画面に日章旗がはためいたり、軍艦が波を蹴たてて行く時、すかさずパチパチと拍手する、すると他の生徒たちはつられてパチパチとやる。彼は得たり賢しと、鼻をうごめかして満足している。彼を見て私は子どもながらに、やや不愉快で、しかし感心しながら見ていたものである。
 戦時下、彼は福岡空港から単独で平服を着てフィリピンに行った。そして一般市民への宣伝活動をやったらしいのだが、戦後彼の戦死情報を聞いた。
 ともあれ、不愉快な扇動者もいるが、良い意味での扇動者、みんなの心を鼓舞し、「ワッハッハ」と笑わせる力量はあって良い。私は招かれて、ごく常識的な一般講演の時でも、壇上に上がるや否や、一発「ワッハッハ」とやる。聴衆は気を呑まれて思わず「ワッハッハ」と追随する。こうなれば、しめたもので、もうこっちのものである。聴衆は次は何が出るかと、固唾を飲んで待っている。
 「祈りましょう、伝道しましょう。路傍伝道に行きましょう。嬉しいですよ、元気が出ますよ。誰もできます。あなたも出来ますよ」。こういう誘導的激励、称賛をもって、誘い込む、皆の熱気はワッと高揚するのです。《く》
 *連載中の「救の確信」は休載します。
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by hioka-wahaha | 2008-08-05 17:19 | 日岡だより
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