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No.343 救いの確かさ(四) 2008.7.27

救いの確かさ(四)

 小説家の五木寛之さんの「他力」という本を読みました。なかなか面白い。日本人の宗教意識がよく出ています。「他力」とは、法然や親鸞が発見した浄土信仰の極致です。この信仰はつまり阿弥陀仏信仰です。
 阿弥陀仏とはもともと法蔵菩薩と言う方、この方が衆生を救済しようとの願をたてる。その四十八願の中の第十八番目、「世の人々が南無阿弥陀仏と私の名を心から信じて口に唱えるなら必ず救われて浄土に生まれるように」(意訳)との願をたて、長い長い修業をされ その願を成就します。そしてついに阿弥陀仏という仏さんになられたというのです。
 この名前を説明しますと阿弥陀は原語で無量寿もしくは無量光、つまり、キリスト教式に読むならば、「永遠の命、無限の光」と読めますね、これはヨハネの福音書特愛の熟語です。仏という言葉は原語でブッダでして「悟った者」という意味です。ちなみに釈尊は特に尊ばれて、その悟った者の代表者のようにほとけ様と呼ばれるのです。
 南無阿弥陀仏の「南無」とは、帰依する、委ねる、命をかけて従うという意味。「そのとおりです」と言って全托する言葉です。キリスト教のアーメンと同じと言ってもよい。だから、クリスチャンなら「南無キリスト」と称名しても可笑しくはない。称名の信仰は「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」という私たちの信仰と実によく似ています。真宗の信仰を神学者カール・バルトが東洋における宗教改革者の福音に並行的に最もよく似た宗教と称賛したそうですが、さもありなんと思います。
 しかし、イエス様は修業して救いを成就されたのではない。イエス様はもともと天におられ、天地の創造以前からキリストであられたのである。そのキリストが人類を罪より救うため地上にくだり、人の形を取って身代わりの死を遂げてくださったのである。イエス様はご自分で堂々と「私は道であり、真理であり、命である」と言われる。また「私は世の光である」とも言われた。イエス様は「永遠の命、無限の光」を悟った方ではなくて、「永遠の命、無限の光」そのものであったのです。
 この真理(永遠の命、無限の光)なるイエス・キリストというお方が私たちに人格として現われ、迫ってき、そして私たちの中に入って来、更に居続けてくださる、これがキリスト教です。キリスト教は単なる宇宙の意識や宇宙の法則を悟って、それで良しとする宗教ではないのです。
 日本における仏教は真宗、禅宗、日蓮宗、真言宗など、東洋において集大成されたすぐれた宗教です。そして究極的には自然のなかに隠れた法の世界、つまり「自然法爾」を尊び、「自然髄順」に生きることを目標とするように思えます。冒頭に紹介した五木寛之さんの「他力」という本にもそのように書いてあります。するどい視点だと思います。
 しかし、これは神を時間の支配者、歴史の支配者と信じるキリスト教の信仰とは随分と違います。とは言うものの仏教的悟りというものはやはり大変に凄いものなのです。
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 代表的仏教者の悟りについて、二、三、紹介してみたい。
 白隠という人は今の静岡県を歩いて旅行した時、富士山は一度も目にはいらなかったというほど熱意をもって悟りを求めた人です。彼が越後高田の路上で夕暮れの鐘の音を聞いて遂に卒然として悟りを得た時、欣喜雀躍して路上で旅の荷物を放り出して踊ったという。
 また中国の香厳和尚は旧師から「お前の生まれる以前、お前はどこに居たのか」と意地悪な質問をつきつけられて答えられずに泣く泣く師の前を去って山寺に逃れて修業していた。ある日、瓦のかけらが落ちて手水鉢に当たり、その音を聞いた瞬間、長い間苦しみ求めていた悟りを得た。彼はガバと地上に打ち伏して遠くにいる先師を礼拝したという。
 親鸞は「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」との法然上人の一句を聞いて、アッと信じただけなのである。「ほかになんの子細もありません」と親鸞は言う。禅語にいう、「一句通ずれば千句万句通ず」と。ただの一句が分かったとき、経典全部が分かるのである。
 無教会の雄、塚本虎二先生が言った「聖書は数学の教科書とは違う。数学の教科書だったら、第一頁から勉強を始めて最後の頁まで進めば、それでよい。完全にマスターしてしまえば二度とその教科書をひらく必要もない。しかし聖書は違う。何回読んでも分からなければ、みな分からない。ところが一つの言葉が分かる時がくる。すると聖書の全部がみな分かる。そこで、もう二度読む必要がないかと言うと、そうではない。何度も何度も読めば読むほど、新しい光が差し込んできて、読むのを止められないようになる」と。
 日蓮が法華経の神髄にふれたのは、きっとそういう触れかたをしたはずだ。そうでなければあんな熱烈な宗教を生み出すはずはない。法華経の中心命題は久遠の成就者、久遠の存在者ということであろうか。日蓮は限り無く永遠者に近づいた人だということができる。内村鑑三が「代表的日本人」の一人に日蓮を選び、矢内原忠雄が「余の尊敬する人物」の一人に選んだ訳は分かるように思う。
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 「自己実現」という言葉を精神訓練の本などでよく見かけます。この言葉の創唱者はマズローだと思いますが、よく使われる言葉です。たしかに自己を励まし、自己を訓練するには良いガイドワードです。仏教は、この言葉でカバーできるかもしれません。しかしキリスト教は違います。キリスト教は「キリスト実現」を目標とするのです。
 キリスト教は、永遠の生命であり無限の光である救済者ご自身が、私たちの霊の中に乗り込んでくるという教えです。
 16世紀の宗教改革者マルティン・ルターという人を見ましょう。彼は、友人が落雷によって死んだ、そのそばに彼は居たそうです。その経験から彼は信仰を求めるようになったという伝説があります。
 それはともかく、彼が修道院にはいって深い罪意識に苦しみ、ついには気を失って床のうえに倒れるまでに苦行に励んだと言われます。しかしそういう肉体の修業を如何に努力しても、心に真の平安を得ません。こういうところは法然や親鸞によく似ています。
 ある時、ルターはシュタウビッツというすぐれた上長の神父に会います。シュタウビッツはルターを一見して彼の深刻な苦悩と彼の誠実な霊性を見ぬきます。そこで忠告するのです。「キリストは威嚇する方ではない。慰めてくださる方です」。この一句は強い矢のようにルターの胸を貫いたと言います。そして更にシュタウビッツ師は言うのです。
 「イエスの傷を見るが良い。君のために流されたイエスの血を見るがよい。そこに神の憐れみが見えるであろう。贖い主の腕に君自身を投げかけ、彼の義の生涯と犠牲の死により頼むがよい。彼が先に君を愛したのだ。それ故、君も彼を愛するがよい。そして君の難行苦行はすっかり棄ててしまいなさい」と。これを聞いてルターは自分のへそばかり見ていた自分から解放され、ただキリストだけを見上げる人になりました。
 ルターはあらためて聖書を開きました。そして、あの一句が彼の霊を捉えるのです。「義人は信仰によりて生くべし」(ローマ1:17)、この一句によって宗教改革は始まるのです。(自著「信仰の確かさ」より抜粋)《く》
by hioka-wahaha | 2008-07-29 18:54 | 日岡だより
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