No.341 救いの確かさ(二) 2008.7.13

救いの確かさ(二)

 「あなたはクリスチャンですか」と聞かれて、「はい、そうです。私はクリスチャンです」と答えられる人は幸いです。日本人は遠慮深いというか、恥ずかしがり屋というか、こういう時、はっきり「はい、私はクリスチャンです」と答えられる人が少ないのです。
 「ええ、まあ、クリスチャンのような者です。教会には行っていますがね、エヘヘヘヘ」と笑う。こういう笑いはいけない。
 「はい、僕はクリスチャンです。3年前に救われました。救い主イエス様を私の心に受け入れました。しかも、それからしばらくして聖霊様、神様の聖霊を受けました。それまで泣き虫だった僕が、こんなにすっかり変わりました、ワハハハハハ。僕の行っている教会はすぐそこです。さあ、ご一緒にいらっしゃいませんか」、こういう風にありたい。
 しかし、信仰の確信が無ければこうは行きません。自分に確信が無いのに、無理して右に書いたような愉快なクリスチャンぶりを発揮しなさいと言っているのではありません。まず必要なのは確信、つまり「救いの確かさ」を握っているかどうかということです。
 「あなたはクリスチャンですか」、こう問われて「ええ、だいぶ前、若いときに洗礼は受けましたしね、今も教会に時々行っています。クリスマスやイースターには献金も持ってゆきますよ。別に盗みもせず、姦淫もせず、時おり酒ぐらいは飲みますけれど、イエス様は愛の神様ですから赦して下さるんではないでしょうか。死んで、天国と地獄があるにしても、どうにか天国の門に入れてもらえるのではないでしょうか」。
 これほどではないにしても、こういう程度の人は案外多いかもしれませんね。いわゆるキリスト教国にはこういうクリスチャンが多いかもしれません。日本人の多くが信仰が無くても仏教信者のような顔をするのと同様でしょうか。
           *
 私の母も長い間、まったくその通りだったのです。私がまだ、小学校4、5年生のころです。その頃、母は急におかしくなりました。一日中「神様、神様」とつぶやきながら、家の中を家事をしながら歩いているのです。もちろん座って居るときも同様です。そして朝は早くからどこかへ行って居なくなります。
 「変だなあ」と子供心に思っているうちに、半年もしたでしょうか、ある朝、顔を輝かして帰ってきました。私をつかまえて言います。
 「義人、分かったよ。イエス様が私を救ってくださった。イエス様の十字架を信じるだけで私たちの罪は赦されるんだよ、イエス様は私たちの身代わりに死んで下さったんだよ」
 涙を流している母を見て私はびっくりしました。そして「信仰」とはこのように確実なもの、現実的なものである。本当に人を変える。あの愚痴の多い、おろおろしやすい母をすっかり変えてしまった「信仰」というものに私はびっくりしたのでした。
 母はそれまで洗礼を受けて20年近く教会に通っていました。クリスチャンの父と結婚してから尚更、教会生活に励みました。教会の婦人会の会長もしていました。悪いことは何もしません。時々、愚痴は言うし、人の批判もする、心に嫉妬をいだきました。しかし、そのくらいは誰もしていること。神様は赦してくれると思っていました。
 そういう信仰を牧師も先輩も誰も注意してくれませんでした。いや、ただ一人、夫である私の父だけが「あんたは私にとって良い奥さんだけれど、たった一つ困るのはイエス様の十字架が、よく分かっていないことだよ」とこぼすことがあったそうです。
 母は、「夫は理想主義過ぎるのよ」と思ってさして気にとめず、また父を責めもしませんでした。しかし母は父の信仰を理解していませんでした。父には深い信仰体験がありました。それは劇的な光の体験です。この事はよく、あちこちで書きますから省略します。
 ところで、母は幸いにもあるアマチュアの信仰団体からのパンフレットを受け取ったのです。今も私の机の引出にあります。
 「あなたは本当に救われていますか。あなたの救われているという保証はどこにありますか。あなたは教会の信者を30年続けていますか。しかし、信仰がなければ、その教会生活はあなたの救いの保証にはなりません。あなたは献金をずっと続けていますか。それどころか忠実に什一献金さえ怠らずに続けていますか。すばらしいことです。しかし残念ながら、それでも信仰がなければその献金の継続もあなたの救いの保証にはなりません。あなたは確かに30年前、ちゃんと洗礼をうけて居られますね。そして毎月聖餐式に預かりました。それでも、あなたに信仰がなければ、その洗礼も聖餐式もあなたの救いを保証はしません。あなたはイエス・キリスト様の十字架を信じていますか。十字架の上のイエス・キリスト様があなたをまったく救い、その血潮があなたを全く清めてくださることを自覚していますか」
 これらの言葉は、実は毎週、教会の講壇から聞いてきた言葉です。私の父である夫もしょっちゅう祈りの中で言っている言葉でした。しかし、そうした言葉はどこか遠い世界の言葉だったのでしょう。いわば聞き飽きている言葉でした。天国に行ったら、よくわかるように教えてくださるだろう、とぼんやり考えていました。
 しかし、今や、この言葉が剣のように彼女の心を刺したのです。この確信がなければ、私の死んで行く先は地獄であると分かったのです。それから、彼女の祈りの日々が始まったのです。そして半年もしたころでしたろうか。はじめに書いた母の喜びの体験が訪れたのです。
           *
 アウグスチヌス(AD354~430)は 古代キリスト教会の代表的教父、最大の神学者です。彼がキリスト様を信じた時のあかしが彼の有名な「告白録」に載っています。彼は当時の新興宗教マニ教にも、真摯な哲学新プラトニズムにも傾倒できず、最後に聖書に来ますが、頭で分かるが信じられません。その時、隣家の子どもが歌う「取って読め、取って読め」の言葉に思わずうながされて、聖書を開いてある個所を読みます。その瞬間、「たちまち平安の光とも言うべきものが私の心の中に満ち溢れて、疑惑の暗黒は全く消えうせました」ということが彼に起ったのです。
 これが「救いの確かさ」です。平凡な日本の女にも、古代の知識人アウグスチヌスにとっても、信仰とは体験すべきものです。こう言うと、「えっ?」といぶかる方もおられるかもしれません。
 それは「四つの法則」などで、最後に必ず「信仰とは感情ではありません。信仰とは聖書の言葉に堅く立ち、イエス様の救いの事実に信頼することです。ですから、まず事実、そして信仰、そして感情が最後についてきます」と教えられるからです。
 そのとおりです。信仰を感情体験と取り違えてはなりません。とは言え、しかし、その心に起こる心情的確信はやはり体験すべきだと言わねばならない。このこと、説明が難しいが、言わねばならない。こうした体験のない信仰など考えられません。
 私は言う。でも、感情ではないのだ。光を見たり神秘な声を聞くことでもない。体が倒れたり異言のような霊言現象も、無くてもよい。ただイエス様を信じたという魂の事実。あるいはイエス様が私のうちに入ってくださったという魂の体験が大切なのです。現象的体験は何一つ無くても、「しかし私は信じている」という魂の現実、この「救いの確かさ」を、強調したいのです。《く》(自著「信仰の確かさ」より抜粋)

《私の日記》
7月12日、この日が近づくと、数日前から思い出して、いろいろと感懷が湧く。わが友、荒巻保行の自死の日である。彼の死は私に深刻な人生の目覚めを与えた。それまでは、少女小説みたいな甘っちょろい小説を書いて、数人の友人たちとチッポケな同人雑誌を出して悦に入っていたに過ぎない。その同人誌だが、当時としては大分市で一番大きな書店の店頭に出したところ、(荒巻君の父親と、その書店の主人とが同じ商店街の仲間同士で無理がきいたのである)、4、5冊でも売れたと聞いて喜んだことを覚えている。ともあれ、彼の文章はみずみずしく、しかも歯切れがよい。彼のヴァイオリンの音と全く同じだった。「かなわん」と思ったものである。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-07-15 12:41 | 日岡だより
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