No.340 救いの確かさ(一) 2008.7.6

救いの確かさ(一)

 世には自己催眠的な「信仰」というものがあります。日本人は昔からそれを知っているようです。
 「いわしの頭も信心から」などと言うのがそれです。こうして世間一般からも、ホンモノでない「信仰」というものが見抜かれ揶揄されているのだと思います。それかと言って、彼らが本当の信仰というものを知っているわけではない。
 たとえば、精神統一したり、空中浮揚したりして、霊能力を誇示する、かつてのオウム真理教のような宗教の危険さを世人は初めて知りました。
 「なんでもよい、何を拝んでもよい。信仰しさえすればよいのだ」などと言うのは、ずいぶん無責任な言葉なのです。
 ご利益を追及するばかりの宗教があります。石の地蔵さんや蛇を祭って祖先の呪いを払うなどという原始宗教、あるいは衒学的高度な言辞を弄して地球がすぐにも滅びるなどと言って恐怖心をあおる宗教、このように間違った宗教も様々です。
 しかし、質のよい宗教もあります。たとえば道徳的に高い目標を掲げます。自制して高品位の人生を歩めと言います。そうした経典や、創始者のおっしゃる言葉は尤もなことです。
 しかし、その指導要領に従おうとすると如何に努力しても理想どおりには行きません。人間の心はきたないものです。人の前に自分を偽り、義人らしく生きる事は出来ます。
 しかし、心の深いところで平安がありません。すき間風がはいるように心の中を冷たい自己否認か自己懐疑の風が吹き抜けます。
 私は戦前にダイヤモンド社の出版だったか、ナポレオン・ヒルの成功哲学の本を読んでたいへん感銘を受けたことがあります。あの頃はまだそういった本はまったく無かったのです。こうした傾向の本は戦後も人気があり、今日も盛んです。潜在意識を用いて「考え方を変えよ」というタイプです。「信念の魔術」「積極的考え方の力」「眠りながら成功する」「セルフイメージを変える」「意識は現実を変える」等々です。
 軽快な宗教があります。それは社会、人生を上手に渡って行ける方法、そのコツを教えてくれます。家庭や近所付き合い、会社等での人間関係に成功する方法、自分自身の心がけを変えるテクニック、その実践マニュアル。これはけっして悪くはありません。案外古い新興宗教でも、たとえば天理教、PLや倫理研究などに見受けられます。
 このタイプの指導手法は注意して用いれば教会でも有効です。夫のパチンコ癖が直るようにとか、登校拒否の中学生が学校へ喜んで行けるようにとか、家庭学習の下手な高校生に時間管理の仕方を教えたら早速その日から勉強が楽しくなりました。そして志望校に合格しましたとか、こういう実例はたくさんあります。日々の生活の心構えの転換です。しかしこれは宗教とは言えません。「生き方の講習会」に過ぎません。
 それらは生活に関する一種の「救い」かは知れませんが、本当の人生苦の深渕からは救い出してくれません。「人間はどこから来て、どこへ行くのか」、そういう人生最深の悩みを救ってくれません。
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 私の青年時代、親友が厭世自殺をしました。それは彼の哲学から来る結論でした。ある古代ペルシャの詩人が、「人の最大の幸福は生まれなかったことである。次に幸福なことは一刻もはやく死ぬことである」と歌っていた、そのような哲学です。
 私も共感しました。そして私も深刻に悩み始めました。「人間が40年、50年苦労して生きている価値がどこにあるのか」、どう考えても私には「40年、50年苦労して生きている価値は人生のどこにも無い」ように思えました。私はその親友の死に釣りこまれて私も死んで行きそうな感じがして、恐れ、また苦しみました。
 そうした中で、問題は自分自身のエゴイズムにある、どんなに人にたいして真実と愛をもって接しようとしても結局は私はエゴイスト、人を信じ抜けず、けっして愛し通せない、却って人をだまし裏切りさえする、そうした自分の醜い不真実さ、それが罪だと分かって来ました。
 親鸞のいうように、私の心も「蛇蠍」のごとし、「地獄ぞ一定棲みかぞかし」ということです。人間がまじめになればなるほど、善い人間になるかというと、さにあらず、人間は心底まじめになればなるほど、自分の罪や醜さ、卑しさ弱さに苦しみます。
 そうした人間の内面的良心的苦悩の行く結末は永遠の死です。この結論から人は逃げることはできません。もちろん自分をごまかして、そういう問題を考えない事にする事は出来ます、多くの人が「死」を考えない事にしているように……。
 「人間は死と太陽はまともに見つめることが出来ない」とは、古来からの言葉です。同様に人は自分の罪をまともに見ることはむつかしいのです。絶対的不安が見え隠れついてきます。
 アウグスチヌスは言いました、「人は神に造られたので、神に帰るまでは平安を得ない」。人の魂は根本から罪に歪んでいるとは言え、創造者なる神の霊性は人の内奥に隠れています。
 人はこの内なる罪と神的霊性の2つの間の相剋に悩むのです。不安を生じます。そして強力な罪の力により神の霊性の影響下にある折角の良心はその働きを封じられるのです。「ああ、われ悩める者なるかな」(ローマ7:24)ということです。
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 聖書は、人間の力でいくらあせって、がんばっても罪と悪の勢力との戦いには、到底勝つことはできないと、私たちに告げます。
 しかし、ここに罪と死に勝利され、私たちのために身代わりとなって罪の代価を死をもって支払ってくださった方がある。この方に信頼するなら、この方が既に永遠の生命への道を私たちに備えて下さっているというのです。
 イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。釈尊といえども「私は生命である」とは言いませんでした。釈尊は「私は法ではない、法を悟った者である」とは言いました。それだけです。
 しかし、イエス様は「私は法(真理)である」と言うのです。イエス様を信じるとは、イエス様のお言葉を実行して善い人、清い人になるというのではありません。
 イエス様を私の心に迎え入れ、私の心の中でイエス様に生きて頂き、もはや私が自分を生きることを止める、これがキリスト信仰です。
 どうぞ、今あなたの眼前にイエス様が居られると信じて、次の言葉をイエス様に語りかけてください。
 「イエス様、私の内に入ってきてください。私の
 中に居て私を支配して下さい。私を占領して下さ
 い」。
 必ず、イエス様があなたの魂の中に入って、お住みになってくれます。
 また、聖書を読むとイエス様が「私に従って来なさい」とおっしゃっておられる個所があります。あなたもその聖書の個所を読んで、「ハイ」と返事して下さい。その時から、あなたはイエス様に従う人になります。
 安心してください。イエス様はあなたを一生離すまいと捉えて下さるのです。聖書に「聖霊によらなければ『イエスは主なり』と言えない」とありますが、そうです。
 あなたが、イエス様に呼びかけ、イエス様に答える時、その時、神の聖霊はあなたに働きかけているのです。すでに、あなたはイエス様のものです。イエス様に捉えられているのです。
 この「主イエス様に捉えられている」ということに、あなたの信仰の基礎を置きましょう。潜在意識でもなく、あなたの考え方でもなく、生き方の法則でもない。あなたの魂の真中にイエス様が居られ、あなたを捉えて離さない、このことに気づく、そこに「救いの確かさ」があります。(自著「信仰の確かさ」より抜粋)《く》
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by hioka-wahaha | 2008-07-08 14:49 | 日岡だより
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