No.177 祈りと恵み 2005.5.22

祈りと恵み

 本日は私は愛媛県北條市の府中集会に招かれて礼拝に奉仕させていただいています。数日前、礼拝司会の秋山姉から、「『祈りと恵み』について説教してほしい」と要望がありました。私はそのご要望を心にして、聖書個所と説教題をルカ11章1~13節により「聖霊を求めよ」と説教題をきめて、ご通知したことです。それは本紙の最後に書きました手束先生の新著から受けた感動からでもあったのです。
 この先生の新著では聖霊様を受けるには、切なる求めと、単純な信仰が秘訣であるとあります。つまり「祈りと恵み」です。
 祈りは信者の側からの努力です。恵みは神様からの一方的恩寵であります。理屈から言えば、矛盾します。しかし私は「信仰とは神と人との協力作用である」と言われた旧師の言葉を思い出すのです。
 当時、「信仰とは全く自力を排して、ひたすら神様の恩寵にすがることだ」とする絶対義認信仰に生きていた私には驚天動地の神学でした。
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 さて、たまたまノーマン・V・ピールの50年前の名著、「積極的考え方の力」を書棚の隅から引っ張り出して拾い読みしていました。そこにこんな言葉がありました。「力の出し惜しみをするな。多くの人は力を出し切っていない」というのです。
 力を出し切らないで失敗した時の誰でも味わう後悔の念は想像できますが、たとえ成功したとしても一種言うに言えない不快感、後味の悪さが残ります。これでは颯爽とした幸福な人生は望めません。
 さあ、自分を励まそう。「うん、力を出し切るまでやるぞ」。力を出し尽くした場合、たとえ失敗しても爽快な気分を保てます。力の限り祈ろう! 《く》

   
実行的信仰の秘訣

 ブラック・ボックスという言葉があります。たとえばビデオです。一方で入力すると一方から音や映像が出てきます。器械の中身がどうなっているのか、さっぱり分かりません。しかし、ビデオという器械を通して入れたものは何度でも再演されますね。この時このビデオをブラック・ボックスといいます。
 かつてわが家のビデオが故障しました。専門の技術屋さんが来て、中を開きました。そして、一個所の部品をそっくり取りかえました。それでもう修理は終りでした。
 さて人間の心もブラック・ボックスに似ています。一つの刺戟が入ると一つの反応が出て来ます。日本人の子供は大人から頭をなでられると喜びます。しかし頭をなでられると怒ったり、しょげたりする国の子供もいるでしょう。国民によって心のブラック・ボックスが違うのです。
 いや、厳密に言えば人によって違うのです。同じ音楽を聞いて、「やかましい」と顔をしかめる人がいますし、目をほそめて心安らぐ人もいるのです。
 同じように、苦難や痛みに会うと、「なぜ俺だけこんな目に会うのか、神様は不公平だ」と神様をうらむ人は多いでしょう。しかるに、「これは試煉だ、神様が私を強い人間にしようとして私を鍛えて下さっているのだ」、あるいは「これは明らかに私のかつての不誠実の結果だ。私を更に清める為に神様が懲らしめてくださっているのだ」と思う人もいるものです。人はさまざま、それぞれの心のブラック・ボックスが違うのです。
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 クリスチャンを分けて第一次、第二次、第三次のクリスチャンとしてみましょう。
 第一次のクリスチャンは「救い」の確かさを握っています。しかしその救いを実生活に活かしきれないでいます。生活面では非クリスチャンと殆ど変りません。
 もし、この第一次のクリスチャンが、実にすばらしい生活態度や能力を持っていたとしたら、それは信仰に直結した霊的賜物によるというよりは、儒教、修身教科書、教育勅語、親の家庭訓、偉人英雄の伝記類に啓発され習得した徳力なのであります。もちろんそれは大いに称賛されてよいことです。しかしそのように立派な人であるにもかかわらず、なおも第一次的クリスチャンにとどまっているということがよくあります。
 この点、信仰的偉人であって、もともと人間として傑出した長所や魅力を持っている人であって、信仰的な偉人と呼ばれている人々は後世の人をある意味で誤らせることが多いのです。
 例えば内村鑑三先生。先生は青年時代、生物学者としてもすでに優秀であつたとか。字をカイ書で丁寧に書いたとか。それは先生の信仰以前の能力や性質です。信仰によってそれらの特質が倍加増幅されたという事実はもちろんです、しかし生来の先生の特質の方が、のちの信仰体験よりもこのことに関しては大きい影響力を持っていたと思えるのです。
 似た話はインド伝道のウイリアム・ケーリーにもあります。少年時代から努力家であった、語学の大家であった、などというのです。私はかつてこの実話に腹立たしい思いを抱いたものです。本来のなまけもの、語学ダメ男、それが信仰のおかげで努力家、語学の大家になったという話なら、われわれ愚者、小物にとり福音です。
 信者がその人間的能力で努力して出世する、能力が倍増する、道徳的になる、もちろん、善いことです。しかしその人は相変らず第一次的クリスチャンにとどまっているということはよくあるのです。その証拠に成功したら、つい心の中で人を見くだす。能力の無いものをバカにする。不倫な人間を心で許せない。もちろんクリスチャンだから、そのような素振りは決して見せません。しかしそれは(!)、イエス様が最もお嫌いになった偽善者の姿ではありませんか。
 もっとも、この第一次的信仰にとどまりながら、その中で生きつづけて行く信仰の在りかたで割目すべき心境が一つあります。前述で言えば、この「偽善者」なる我をそのままに主の前に持って出て、主の許しを信じて、その許しの中で憩うのです。
 この信仰には一種の崇高さが伴い、多くの人の感動を呼びます。日本人には浄土真宗の下地があるから尚更よく、この信仰の境地が分かるのです。一種の自在感さえあります。プロテスタントの人は信仰的訓練ということを認めたくないので、この信仰路線を甚だ喜ぶのです。
 さて第一次的クリスチャンの問題点は、自分が身分的に神の国の国籍を持っているとは信じていますが、その民籍の権利を使徒パウロがローマ市民の権利を遠慮なく利用したように、この世で利用しようとしない処にあります。天国においての祝福を信じ、現在の個人的内面生活における祝福を体験してはいるが、しかし地上の実行生活において矛盾と無力を覚えるという人々です。
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 第一次のクリスチャンは霊においては救われ、第二次のクリスチャンは精神(心、魂)において救われ、第三次のクリスチャンは肉体においても救われている(ローマ8:23)……肉体のあがない、これがパウロの究極の願いでした。
 実は、もともと第二次の精神(心、魂)の救いのことについて書きたいのでした。これはローマ人への手紙第七章後半から第八章前半にかけての主要テーマです。多くの人が「心」をサタンに食い荒されています。霊は主にあって救われているのですが、心はサタンにあって呪縛され自由を失っているのです。この心の自由をサタンより奪還するのが聖霊の法則です。心の中で各部品がメタメタに故障しているのです。この心というブラック・ボックスの中の小部品を丹念に聖霊の法則によって入れかえていく、その過程を聖化というのです。冒頭の例でいうならビデオの修理です。器械の外側を開いて故障の症状に対応する故障箇所の部品を入れかえるように、われわれの汚れた態度、しぐさ、言葉、習慣、の心の部位に聖霊のメスを入れるのです。聖霊のメスとは神のみ言葉(ヘブル4:12)だ、とも言えます。み言葉には人の魂を救う力(ヤコブ1:21)があるのですから。
 人格改造の秘訣はここにあります。聖霊抜きでも、ある程度やれます。教育の必要な所以です。ローマのエピクテトス等の先達者、日本の吉田松蔭等の偉人、すべて尊敬すべき模範です。しかし聖霊はそれ以上のことをします。
 教育とは梅干を作るのに似ています。梅の実を塩とシソの葉っぱの中につけこむ。すると塩とシソの色素が梅の実にしみこんで梅干ができ上がります。聖霊は教育とは違う、聖霊は活きた土壌に似ています。この中に梅の実を埋めると、すると活きた梅の木となります。そして遂には何千倍の実を結ぶことになるのです。
 キリスト教の歴史を見よ。殆どは名も無き小さき愚かな男女の群像です。その人々の気高さと清さと歓喜とを見よ。その秘訣は聖霊による心の変革であります。
 心が変ると行動が変わります。霊的信仰だけで心の法則を手中に納めないと、実行ができません。実行の無い信仰は死んだものであります(ヤコブ2:26)。死んだ信仰とは活動力の無い信仰のことです。
 実行的信仰を求めていくら努力しても肉の力によるならば必ず失敗するでしょう。ご聖霊様を勧請しよう。ご聖霊様を歓迎しよう。ご聖霊様に聞こう。ご聖霊様に従おう。(1984年旧稿 《く》)

〔図書推薦〕
「聖霊の新しい時代の到来」手束先生の新著である。ちょうど、先週のペンテコステ主日の朝、早天のため、家を出ようとして玄関脇にポストを見ると宅配のメールが届いていた。手束先生からのご恵送である。ぱらりと開いて見た。▼86頁のルーマニアの自由の革命の発端の個所、民衆の「神は生きておられる」という叫び声が澎湃として起こり、銃を持った軍隊がたじたじとなって銃を捨てる場面である。私は感動した。▼早天祈祷と、朝食を終わり、礼拝を控えているけれども、心は手束先生のこの新著に取り付かれて離れない。急いであちこち頁を開いて読む。最も心を打たれるのは、クリスチャンの最初の信仰を与えられるのは信仰によるのだが、聖霊を受けるのも信仰によるのだというくだりである。▼信仰が強くなり、清くならなければ聖霊は下らないと思うのは誤解である、ただ信仰だけで聖霊はいただける。だから、求めなさい。熱心に求めなさい。というのが、今回の先生の骨太い主張、お読み下さい。▼〔付言〕この5月15日号のリバイバル新聞の第1頁にも全面、永井信義先生の論文が出ていた。大見出しは「聖霊よ、来てください」とある。まさに、今こそ、聖霊待望の時代。▼日本列島、JR脱線からグライダー墜落等、全島運輸関係事故だらけ。それのみか、各地地震頻発。世界はキナくさい報道、小国から核軍備の欲求の声も聞こえる。ご再臨近し! 《く》
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by hioka-wahaha | 2005-05-22 22:00 | 日岡だより
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