No.176 ペンテコステの力 2005.5.15

ペンテコステの力

 当教会の礼拝室の背後の棚に「祈祷テーマ・リスト」を置いてあります。その中の第2項に挙げてあるのが以下の文章です。
 「私は、父なる神、御子なるイエス・キリストと使徒たち、並びに天使たちとの交わりの中に(第一ヨハネ1:3下参照)私をも入れてくださるご恩寵を感謝します。これは又、聖霊様によって組織された聖なる神の軍団であると信じます。この軍団の力を信じます。この軍団の司令長官はイエス様であります。イエス様の御名によって敵なる悪魔に向かって勝利を宣言できる恵みを感謝します」。
 このことについて、先週の午後の聖会の最後の時、私は少し説明を加えました。この第一ヨハネ1:3下の聖句に注意なさるかたは少ないと思いますが、これは地上の教会が戦闘の教会として機能を果たすエネルギーはどこにあるかという秘密を書いてあると思います。
 ここで聖書は、「父なる神と御子イエス様と使徒たちの結束堅固なる軍団」に触れているのです。この一連の文章の中で隠れて現われない存在があります。それは聖霊様です。聖霊様こそ交わりのエネルギーです。ペンテコステは聖霊様降臨の日です。
 この日に教会が始まったと言われるのですが、その意味が、よく理解されない傾向があります。父と子と聖霊は三位一体と言われて、結束固き一体です。そこに主の弟子たちが加わって更に大きな一体となる。それが教会です。
 私たちは初代教会の使徒たちの群に伍(ご)して福音の戦線に参加します。この軍団こそキリストのからだなる教会です。その司令官は主イエス・キリスト。私たちは十字架の軍旗を押し立て、主に従ってサタンと戦って勝利するのです。《く》

 
祈りのコツ(一)

 ある方からの手紙に「祈りの仕方を教えてください」とあったので、私なりのご返事を書き始めたのがこれです。
 私の父は切羽つまって、初めて教会に行って「キリスト教の神さんに会わせてくれ」と言ったそうだ。初心者も初心者、まったくキリスト教を知らなかったのである。
 牧師は「あのう、釘宮さんとおっしゃるか。キリスト教では神主さんやお坊さんのように御祈祷料を頂いて、代わって祈ってあげる。そういうことは致しません。でも当のあなたが天と地を造られた真の神様に祈ることが出来るんですよ。さあ、こうして祈りましょう」と、まず父なる神様の名を呼んで、最後に「イエス様のお名前によって祈ります」という言葉まで教えて父を帰らせたそうだ。
 牧師も素朴で無知な必死な求めの父の願いに、さぞ困っただろうと思う。それにしても最善の答えをしたのであった。父は「へい、そうですかい。やってみますわ」と感心して、腕を組み組み家に帰ったことだろうと思う。父は家に帰ると、早速、納屋に這入って先ほど牧師に教えてもらったとおり祈り始めた。
 「天のお父さま。私は正直に、誠心誠意、一所懸命、家を捨てて放蕩している本家の兄貴のやり残した商売の始末を引き受けてやっていましたが、その兄貴が突然帰って来て、私のやってきた商売に難癖をつけ、私が財産を横領したかのようにふれまわり、私を泥棒猫のように、この町中に評判をたてています。私は恥ずかしくて、この町に歩けもしません。天道是か非か、神も仏もあるものか、と思います。キリスト教の神様は本物の神さんと聞きました。私はこの恥辱を払いのけたい。本当の神さんに会って疑いを取り払ってほしい。ついては、今夜、キリストの神さん、私に現われてください。私を安心させてください。そうでなければ、明日の一番列車に跳び込んで死にます」
 とゴミだらけの床を叩いて祈った。大分の町に日豊線がやっと届いて、町に汽笛の音を響かせていた時です。
 父は本気でした。今夜中にキリストの神さんに出て来てほしかった。繰り返し前記のように祈ってオラビ(叫び)あげた。30分もして突然、暗い納屋の中が火事になったかと思った。明るくなったのである。「オヤ」と思って辺りを見回すと、やはり暗い。しかし、祈りかけると明るくなる。「ヘエッ?」と首をかしげたとたん、体がギューッと締め付けられ、ガタガタ震え始め、何よりも「神様」が分かった。神様が来てくださった。恐ろしくなって「神さまーッ、すみまッせん」と、平伏してあやまった。見えない神様だが、そこに居られるという感じがしたからである。
 父に言わせると、清くて、おごそかで、温かい、神秘な方の臨在に囲まれてしまったのである。それっきり、父は謙遜でやさしく雄々しいクリスチャンになった。そういう父に何より驚いたのは、それまで父を迫害していた兄である。この兄が後に地方に名士として知られた無教会の豪の者、釘宮徳太郎である。私の伯父である。この伯父の影響で、私は非戦論者となり、戦時中、牢屋に繋がれることになるが、そのことは今回には関係ない。
 この父を見る時、祈りの「コツ」と言うのは軽すぎます。祈りの「秘訣」と言いましょうか、死をも賭した祈祷です。父はまさに命をかけて祈ったのでした。(この父の経験はインドのサンダー・シングそっくりですが、サンダー・シングについては、又別の機会にふれます)。
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 とは言え、上記の場合は特殊すぎます。一人ではなかなか、こういう熱心さでは祈れないものです。しかし、多数が思わず声を限りに叫び出し、涙をぼうだと流し、あるいは意味のない言葉や歌が飛び出す、集団の場があるものです。時にはその集団が去ったあとの会場に一人が遅れて来て、その部屋に首を突っ込んだとたん「ワッハッハハハ」と思わず笑い始めたという例もあります。
 そこには、はじけるような霊的磁場が出来ているのだ、と私は称していますが、なんと言うにしろ、それこそ初代教会で見られたペンテコステ現象ではないでしょうか。そういう場に入りさえすれば、誰でも熱狂的祈りに溶かされざるを得ない。ペンテコステ的集団祈祷のすばらしさです。
 ところで場合により一人で祈らざるを得ない場合も多いわけ、次回はそういう方々のために「神と共なる孤独」を守りつつ、爽快なる祈りに這入れるコツを述べることにしましょう。《く》

〔図書推薦〕
「父なる神に抱かれて」
            ジャック・フロスト著
 この本の著者ジャック・フロスト先生は長い間、自分は奥さんに対して良い夫だと思っていたそうです。しかし、本当は思いやりのない冷たい旦那だったと気がつく時がきました。
 フロスト先生の問題の所在の第一は幼い時に、先生のお父さんに厳しく育てられたことにあるようです。ともあれ、結婚した男性がしばしば一人合点で圧政的で、そのくせ自分は良い夫だと思っている例は、特に日本ではほとんどの家庭に見られます。
 私(釘宮)は妻を「トミさん」などとやさしく呼びますから、よほど愛妻家に見えましょうが、それでもどうしてどうして仲々そんなものではなかった。男性は自惚れの強いものです。妻が涙をこらえてそっと我慢していることに決して気づこうとしません。私もその一人でした。
 フロスト先生が変わったのは、ある聖会でこういう祈りを聞いた時からでした。ある牧師が祈りました。「父なる神様、父親から抱きしめられたことのないこの部屋の男性を、すべて受け入れてください。彼らをしっかりと抱きしめてください」。
 その時、熱湯のような愛がフロスト先生の心にそそぎこまれ、先生は赤ん坊のように泣きはじめたそうです。子どもの時から飢えていた父親の暖かい愛情が満たされたのです。そして奥さんをホンマの愛情で抱き締めることが出来はじめたのです。
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 愛されたことのある人だけが他を愛することができると言います。ところで、これまで愛されたことのなかった男も、女も、いま改めて愛されることを経験できる時がきました。どなたも神様の前に来ると良いのです。
 「皆さん、神様の愛を知っていますか」。こう質問すると、多くの方々が「ハイ、知っています」と答えます。「私はイエス様の十字架の血潮で罪を赦されました。イエス様による父なる神様のアガペーの愛で愛されました」と模範的回答が返ってきます。
 ところが、このフロスト先生の説明は違うのです。これには私も驚きました。神様の愛はアガペーだけではないというのです。
 フロスト先生が赤ん坊のように泣いたあの時、先生は神様のフィレオーの愛に抱き締められたと思う、その感動で一杯になった、それゆえ泣いたのだというのです。
 すこし説明しましょう。これまでの種々の本が見逃し勝ちだった神様の愛について、これまで聞いたことのなかった愛について語ってくれます。よく「父なる神」と言いますね。それなら「母なる神」とは言っていけないのでしょうか。「母なる神」と言うべき特質をも神様はお持ちのはずです。
 神様はご自身の形に似せて人を作りました。まずアダムです。それなら、なぜアダムからエバを作ったのでしょうか。神が持っておられる女性の性質が、アダムに欠けていたからに違いありません。神は私たちの父であり、母でもあります。その点を理解しないとイエス様の母マリヤを神様同様に崇拝しようとする衝動が起こるのは、無理もないことです。
 だから更に、この本では珍しい指摘をするわけです。神様が私たちを愛する愛は、アガペーの愛であるのはもちろん、先ほどふれたとおり、またフィレオーの愛でも愛するのです。フィレオーの愛は友情の愛です。又、神様はストロゲーの愛でも私たちを愛するというのです。ストロゲーの愛とは肉親の愛のことですが、こうしたことは滅多に聞かれない説です。私は驚きを隠せませんでした。この本をお奨めします。《く》 (「生ける水の川」発行、売価2000円)

〔あとがき〕
先週の5月8日は昔からよくやりました「母の聖会」でした。午前の主日礼拝では「信仰の土台」について。午後の特別集会では「父と御子と使徒たちとの交わりに入れ」と題して(本紙巻頭文参照)語らせて頂きました。この聖会の終結章、聖霊様の息吹きもかくやと、祈りの熱気あふれ、泣き崩れる人、あるいはハレルヤと叫んで大歓喜の人、霊的に磁場の沸騰点に達したかと思いました。本日は教会暦でペンテコステの日、先週の聖会に引き続き主の恵みの大驟雨来たらんことを。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-05-15 22:00 | 日岡だより
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