No.175 この時代を問う 2005.5.8

この時代を問う

 4月25日の尼崎脱線の大事故より旬日、日本列島は交通事故だらけ。まず、あの事故より2、3日して、JR各所にオーバーランが発生した。バスが運転手のわき見運転で横転したという。「日本中浮足たっているのではないか」という新聞記事もあったが、私は運輸関係全般に「だらけ」の悪魔が働いているのでないかと思った。
 更に続いて、羽田空港。管制塔が閉鎖している滑走路のことを10数人の管制官全員がウッカリ忘れていたという。降下しようとする日航機の操縦士のほうが念を押しているのに「間違いなし」と答えたというから、度を越している。管制塔室内に例の悪霊がニタニタ笑っていたであろう。
 次は韓国釜山から博多に向かう連絡船が鯨にぶっつかって沈みかけたという。乗客の半分以上が日本人だった。もう一つ、これも海、五島列島の防波堤にフェリーが衝突したという。県警のヘリコプターが民家をかすめて墜落。もうホドホドにしてくれと言いたい、事故ラッシュだ。
           *
 私はイエス様のお言葉を思い出した。弟子たちがてんかん症状の少年の癒しに失敗した時のお言葉である。「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう」。日頃寛容なイエス様のお言葉としては、なんとも過剰反応に見える。
 しかし、イエス様は弟子たちの不手際を責めるよりも、その時代を責めている。イエス様は決して大げさなのではない。時代を憂えているのである。
 この1週間の運輸関係の異常な混乱を見る時、「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう」。私もイエス様の真似をして時代を問いたくなるのであった。《く》


 
小預言者とならざるを得ず

 先日、私の古い大学ノートの日記が出てきたので、ふと読んでいたら、こんな大時代な短歌が出て来た。
  「義を知りてこの世にあれば我もまた
   一小預言者とならざるを得ず」
 短歌というよりは、明治・大正の市井のおっさんの筆すさびの和歌のようなものだ。
 ずいぶん独り合点で、気負い込んだ青くさい歌だから、ここに拾いあげるのは恐縮なのだが、私としては感慨深い戦前の一首である。
 前頁に書いた、「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう」という気分が出ている。当時の大東亜戦争に躍起になっていた日本の趨勢に対して「蟷螂(とうろう)の斧に向かう」ような不敵な言葉であるが、結構、私は恐怖心を抱いていた。
 その頃、「日本を衝く」という小論を書いたことがあるが、その一文をA君に送った。ところが、その手紙が憲兵に見つかってA君が睨まれた。彼はやむなくスパイ教育を受けてフィリピンの山下将軍直轄の宣撫将校に送られる。終戦後、かの地で遂に行方不明死になってしまった。後悔しても、しきれない。剛毅だった彼を私は今も惜しむ。
 彼は私服を着て単身、軍用機に乗って板付空港から飛び立ったという。その時、福岡の刑務所に入れられていた私に面会に来たらしい。しかし、いくら軍人の威光を振り回してもそれは無理だった。私たちは遂に生きて会えなかった。
 ここで「預言者」というのは、予言者ではない。ただ神様の代理として国家社会を糾弾するタイプである。旧約聖書でいうとエレミヤである。奇蹟一つしない、時代を慨嘆する涙の預言者である。舞台を日本に移せば、日蓮か、内村鑑三か。
 でも私は内にこもって、一人悲憤慷慨していただけで、世間に向かって何も言えなかった。「家のなかで聞いたことを屋根の上で語れ」とイエス様はおっしゃるが、そんな勇気は私には無かった。
 戦時中の暗い時代に比べれば、今はなんと言ってもありがたい。日本が戦争して、負けたお陰であるというのは辛いが。
 今、日本は道徳的頽廃時代。少年や青年たち、大人たちの自制心が全然無い。向こう見ずな犯罪や、無軌道な殺人事件。かつてのオウム真理教や、最近のなんとキリスト教会の牧師の性犯罪、批判する言葉にも窮する。
 サタンの息吹が霧のように日本全土を覆うているのではないか。そうした不穏な息吹が先々週の交通事故に噴出しているのだと私は思ったのである。
 良い悪いは別として戦時中の日本人には一種の緊張感があった。終戦後の日本人にはなんとか生き抜きたいという必死の意気込みがあった。経済成長期、新幹線やオリンピックの頃、繁栄の夢で元気だった。石油ショックでちょっとはヒヤリとしたが、
 その後も、なんとかやって来た。しかし、明治のあとの大正のダダイズムではないが、次第に弛んで来たのか。国の外交も対米追従、土下座外交で、一向にキリッとしない。皇室だってピリッとしない。ケロリとした人に見えた雅子さんがどうも心が病んでいる模様。いたわしいが、残念である。
 今、日蓮やイザヤ、エレミヤ、内村鑑三のように「喝」を入れる人、この国に居ないのか! 《く》

 
ヱホバ嗤い給わん

 私は最近、「笑いの達人」とも綽名される。「ワッハッハ牧師」と言ってくださる方もある。日曜の礼拝説教では冒頭でかならず信徒諸君に「ワッハッハ」と笑いの練習をして貰う。「いつも練習をしていると、どんな時にも自然に笑い顔をみせる微笑の人になるよ」、と言うのです。
 ベルグソンをはじめ哲学者の諸説もあまり笑いを褒めないが、でも、私はもっと笑いを評価したいと思う。
 ところで、笑いにもいろいろあって、冷笑、蔑笑、皮肉の笑い、これはいけませんね。しかし実は、こうした笑いも時にはイエス様に見られるのです。
 イエス様はパリサイ人を「まむしの子」と呼び、ヘロデ王を「きつね」と呼んだ。その口元にはかすかな笑いが見えたであろうと思う。
 詩篇第2篇を開くと、神様が天から地上を見おろして、神にさからう王や大臣たちにむかって笑う場面がある。「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」と。
 人間が持っている感情や性格で、神様の持っていないものは無いように私は思う。これは危険な神学かもしれないが、愛、喜び、勇気、悲しみ、加えて妬み、驚き、怒り、これらすべてを神様はお持ちである。
 それらを神様は一切聖別される。例えば、神は妬むほどに人を愛し給う、と聖書にある。イエス様は愛の方かと思えば,結構お怒りになる。又、イエス様は気丈な方かと思うと、時に涙を流される。
 十字架上では「わが神、わが神、どうして私を捨てられるのですか」と女々しい言葉も吐かれた。
 ともあれ、言いたいことはこれである。イエス様は今の日本を見下ろされて、慨嘆されるか。お怒りになるか、嗤いたもうか、どうだろう。
 私は祈る。「主よ、日本列島を覆い日本民族をたぶらかすサタンを、一喝し、嗤い、追い払ってください。この日本民族を全く救い給え」と。《く》
 
 〔あとがき〕
先週5月3日、チャペル延岡の開所式に参加しました。上木兄も一緒してくれました。午前、午後の2回の集会でしたが、驚いたこと、感動したことが、一杯ありました。まず、2回とも1時間以上、延々とフォーク調で賛美歌ではない語りぶしの歌を聞かされたことです。▼歌い手さんはノンクリスチャンの若者、中年、さまざまで、喜んでやっている。なるほど田崎先生から、そういう案内は受けていたが、これほどとは覚悟していなかったから驚いてしまった。▼なんと言っても新機軸、私はこうした音楽は分からない方で困ったが、でも、こうしてオープンするチャペル延岡、今後のキリスト教界を瞠目させる勢いになろう。期待したことです。▼さて、それでも説教は高森先生、すばらしい伝道説教で、牧師の私も心から感動しました。「みなさん、信仰とは喜びです」と先生はご自身の信仰を与えられた時の口に言うに言われないほどの大きな喜びについて語る。その又、先生のお話しを聞いて同じように大歓喜を受けて信徒の人々の証し。すばらしかったです。▼最後の特番、どういうことか私の畏友、傑僧、田口学法和尚が法衣のままやって来て、堂々と挨拶された。田崎先生とネット同士でお互いに私(釘宮センセ)との付き合いがあるということで結びついた仲と言う。和尚さんが法衣姿で祝辞のある教会なんて……、ほかにあるかなあ?《く》
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by hioka-wahaha | 2005-05-08 22:00 | 日岡だより
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